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1763年原作 四六判 430ページ |
定価¥2000 送料¥340 |
造は無からではなく、神の実体的愛と、 知恵が、霊界の太陽となって、自然宇宙 世界の段階的ジャンプを誘う発展に導く。 |
[内容一部紹介]
220 人体全体は、その可能性(力量)の限界をもっていますが、それはとくに末端部でもある両腕と両手にあらわれます。したがって、〈みことば〉では「腕」とか「手」は、可能性 potentia のことで、力量において「右」のほうが優れています。可能性が発揮されていく段階にも、以上のような発展や進展がありますから、天使たちは人の手がする活動を、本人全体の相応として見ます。ですから本人の理性と意志、仁愛と信仰、精神の内的〈いのち〉と、それからくる肉体の外的〈いのち〉が、どんなふうかが分かります。 身体の活動でも、手を使うだけで、天使たちには以上のことが分かり、わたしはびっくりしたことが度々ありました。でも、生きた経験で何回か示されました。牧師職への任命で両手を置きますが、手を置くこと(すなわち按手)は、交流を意味します。その他いろいろ聞きました。 結論はこうです。仁愛も信仰も、行いのうちに宿るということです。行いの伴わない仁愛や信仰は、太陽のまわりの虹のようで、消えてしまうか、雲によってかき消されます。ですから、〈みことば〉では「行い」と言ったり、「わざ」と言ったりします。そして、人の救いはここにかかっています。行いを伴う者は、英知のある人間、行いを伴わない者は、愚かな人間です。 理解していただきたいことは、「行い」とは現実化する役立ちのことです。その役立ちの中に、またその役立ちにしたがって、仁愛と信仰のすべてが生まれます。それは、役立ちと相応関係にあるということです。すなわち霊的相応関係です。主体となるもの、つまり実体や物質を介して、その相応が成立します。 |
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