註釈ノートロラン・バルト氏の『モードの体系』の訳者である佐藤信夫氏は、「翻訳についてのまえがき」で次のように記し
ておられた。
ことばについて語る文章はつねにアクロバティックである。それは、言語活動が認識にかかわる行為であり、したがって 言語学は認識 の認識の認識………といった一種の循環を強いられているからだ。(モードの体系 ロラン・バルト著 佐藤信夫訳 みすず書房) おそらくこれは、言語学または翻訳業のみならず、さらには社会学ばかりか、社会や文化について語るあらゆる言
説もしくは記述、そしてそ
もそも、人が
みずからの知覚によって得た世界としての対象を認識しようとする観察行為すべてにおいて、同様にいえることであると思われる。
近代社会諸関係はたしかに機能分化の複雑に進んだ社交諸システムにより成り立つが、その一方でナショナルに統
一された国家諸装置(国政
システム、公
共システム、マスメディアなど)、または一望監視装置を出現させ、発達させてもいる。つまり、ミクロな機能分化とマクロな機能統合との複雑な関係をつかま
なければならない。
これはいうなれば権力論に関わる問いでもある。近代社会システムの機能的分化と機能的統合との諸関係を、国家
諸装置から相対的に独立し
た諸々のコ
ミュニケーション・システムにおいて散在する点に発し、さまざまな矛盾や抵抗の局面をうみだしながらも社会的な線の束を相互につくりあげているミクロな力
の諸関係性の分析と、そして同時に、それらの権力網の点と線とを相互に接合し、増幅させ、流通させ、さらに統合するようにはたらく行政諸システムのマクロ
な権力技術の分析とによってつかむ理論が必要である。
ここでとりあげるのは、メディアと情報(このふたつは一体である)とが織りなす多義的で重層的な権力網の社会
線である。
いわゆるシステム論のパラダイム転換は、ルーマン(Niklas
Luhmann)よりも、さらにパーソンズ(Talcott
Parsons)以前に、構造主義(学派)の祖系ともみなされてきたスイスの言語‐記号論者であるソシュール(Ferdinand de
Saussure)の文献において見いだされるという。ギデンズ(Anthony Giddens)や丸山らが指摘するように※1、
ソシュールは構造でなくシステム(諸記号の体系 systeme de signes)という概念を用いた。
※1 丸山圭三郎 『ソシュールの思想』 岩波書店、アンソニー・ギデンズ 『社会理論と現代社会学』
青木書店
丸山によれば、ふたつの構造主義の流れがあったという。ひとつは、コミュニケーションにもとづく機能モデルを
要素間もしくはシステム間
の関係におい
て分析する(主にアメリカ系の)構造主義(機能構造主義ないし機能システム主義)。もうひとつは、ソシュール(の記号学的転回)に思想的影響をうけたとさ
れる(主にヨーロッパ系の)構造主義、そしてポスト構造主義といわれるものである。
むろんこの分類は便宜的なものである。
社交・社会・交際を意味するsocietyは、ラテン語では親交、絆、友愛を意味するsocietasであ
り、仲
間、友、分かち合ってい
る、結びついて
いるを意味するsociusという語に由来する。英語のsocietyが今日の意味で一般的に語として定着するのは比較的新しく17~18世紀ごろである
と思われる。
社会はその字のごとく社(やしろ=土地の神を宿す場所)で行われる会合を意味し、神社、祭壇に人びと(氏子、
村人)が寄り集まる習俗に
もとづく。社
を中心に集落が形成され、村の自治が行われたことから、中国において社は行政区の単位としても用いられた。※1
※1 日本でも江戸時代、社(しゃ)とよばれるムラの自治会の存在する地域があった。
現代(の日本の)工業化(産業化)した社会(industrial
society)では、日用語、日常語にいう「社会」は、産業経済活動の主体である同じく日用語、日常語にいう「会社」とほぼ同義に用いられており※2、
学校制度を通過し(学生は社会人とは呼ばれない)、会社組織(産業経済諸主体)の正式なメンバー(正社員、賃労働者)として組み込まれることをもって「社
会人になる」と考えられている。その意味では病院や学校や家庭は社会の外部ないし周縁部と理解されている※3。
※2
英語にいうsociety、ドイツ語にいうGesellschaft、Soziusなどの訳語として、明治期以降に、社会、社交、交際、人間、会社などの
単語が当てられたが、これらの意味が近代化(産業社会化)のディスコースによる生産とともに現在に至る過程において一般化したと考えられる。
※3 イリイチ氏が「シャドウ・ワーカー」
と名づけた学生、患者、主婦は、社会的な周縁部に閉じられた階層と認識される。また、しばしば、学校教師という職業階層が現実社会を知らない人たちと解さ
れる傾向にもそれはみてとれる。
工業化は、第一次産業からの第二、第三次産業への移動を促し、賃金労働者(サラリーマン)という新たな階層を
世俗化
(secularization)した。第一次産業中心の生業によってそれなりの経済的自立性をもっていたイエやムラから、産業経済(サービス)諸制度に
ほぼ全面的に依存した「社会的個人(社会人)」と「ファミリー」という社会主体が構成される。こうしてかつてのイエやムラは衰退し、それにとってかわるよ
うに社会、したがって「社会的なるもの」(ジャック・ドンズロ氏)が台頭するのである。イヴァン・イリイチ氏はこれらの主体化様式を「エコノミック・セッ
クス」と名づけ、「バナキュラー・ジェンダー」にもとづく生活文化様式と識別した。
この場合の構造(structure)は、文化の諸コード(記号)を媒体(メディア)にした諸々の関係(のシ
ステム)である。実践ない
し習慣(プラ
クティス)と構造とは文化的コードを媒体に関係のシステムとして結びついているが、この媒体は単純に反映や伝達を意味する場ではなく、社交的なプラクティ
スを通じたさまざまな意味(の争奪と正統化)をめぐる象徴的闘争または権力ゲームの場、そして広義の政治的なコントロールが実現される場にもなっている。
この構造概念、あるいは構造主義的なシステム概念は、その行為者にとってごく自然に感じられる、いわば身体化
された暗黙的な知として、
誤認(再認)
された意識(意味)のもとに行為されていることを意味している。その実際のモデルがいわば言語(言葉)なのである。
社会記号学的に※1ここで意味する「社会」という表象、象徴、記号を構成する単位(要
素ではない)とは、個人や
集団ではな
く、広義の関係を、狭義にはコミュニケーションを表している。社会化とは関係化を意味する。
「意味する」という点が特に重要である。社会(社交)とは、関係の意味もしくは関係する意味である。ないしは
意味する関係である。この
場合の意味と
関係とは分離不可能である。関係する意味としての表象(関係表象)が、ウェーバーのいうところの他者に向かった意味ある行動(=行為)を構造的に形成す
る。社交的実体(実態)といえるのは、個人や集団を指す場合においても、関係(の表象)として意味されているところの行為であり現象である。
つまり社会の単位は、意味として関係化(構造化)されたところの表象であり視線でありネットワークであるが、
これは人と人との関係にか
ぎらず、人と
モノ、人と道具(メディア)、人と自然、人と動物とが関わり合う際の意味の表象活動全般を含んでいる。
動物一般のもつ表象世界(知覚の世界)にも、その本能※2または習性と環境とに応じた
関係的意味(象徴化)が見
いだされる。
この関係的な意味の表象または象徴世界は、生物の種がその生理と形態とを秩序づける構造的な変化・変異・変身(Metamorphose)――あえて「進
化」という表現を避けよう――を通じて環境※3との関わりを創造的に形成――あえて「適応※4」
という表現を避けよう――してきた痕跡である。
※1 semiotic sociology, or, socio-semiology, social
semiology.
A.シュッツの現象学的社会学、ないしP.L.バーガー/T.ルックマンのいう知識社会学。
※2
本能という観念は、しばしば、生物を目的論的に、機械論的に解釈する道具として用いられてきた。人間にとっては、皮肉なことに、自然な本能という観念は、
科学的なディスクールの上でさえ倫理的かつ法律的な響き(すなわち社会的に技術化された機能)をすら帯びているのである。
※3
ここでの環境という概念は、生命システムそれ自身による境界画定の運動を指し示す。環境は生命活動によって疎外(表象)された意味の象徴世界を表してい
る。
※4
適応概念による説明図式は、一般に、生命や個人と環境や現実とを一義的に主体と客体とに分離し、固定化し、単純に外部と内部との関係に二元化してしまう傾
向が強い。
「社会」という概念を拡張すれば、社会は生物の世界全般にも、さらには天体間にも、よって宇宙にも、けっきょ
くは物質の世界全般にすら
意味として見
いだされる。といっても、むろん、その意味を見いだすのは我々人間の形而上学的な認識活動である。
人の知覚能力は、知覚に対する知覚を認識として象徴的に生産しつづける。認識という形而上学的な知覚は、それ
がたとえ科学的な実践であ
ろうとも、本
質的に倫理的で政治的な、すなわち自己産出的なディスクールを構成する営み(プラクティス)である。
古典主義的な社会思想史においては、しばしば、秩序(規範)と闘争(「万人の万人による闘争状態」)とはそれ
ぞれに対立する意味として
概念化されて
きた傾向にあった。特にそれは社会契約論者の思想において顕著でもある。
他方でマルクス主義は「階級闘争」という概念によって社会秩序を記述したが、社会科学全般の研究までふくめ、
それはどちらかといえば
「階級」という
主題化のほうに静態論的にとどまる傾向が強かったといえなくもない。
一般に、秩序ある状態は、闘争・戦争・犯罪とは対立する意味として考えられてしまっている。法律主義的な解釈
論にもとづけば、無秩序ま
たは秩序に反
する無法状態とされている。
しかしながら、戦争状態を無秩序な状態と考えるわけにはいかない。いやむしろ反対に、秩序の過剰で動的な形態
として戦争状態を分析する
必要すらある
のだ。
わたしたち日本人にとって、日用語、常用語としての「社会」という言葉とその表象観念(言語使用)が庶民生活
の水準において定着(一般
化)しはじめ
たのは、比較的近年の新しい出来事である※1。その代わりに「せけん」や「よのなか」という表象観念が存在したわけであるが、それ
らの言葉の用いられ方は「社
会」という言葉のそれとはいくらかその意味合いが異なっていたと考えられる。
「セケンといふ名詞を弘く人間社会という心持に解することは、さう古くからの風で
は無かった」 と柳
田国男もいう
ように※2、こうした見解は、いわゆる民俗学や「世間」論のなかですでに指摘されていたことではあった。※1
societyの訳語として様々な語(人間、世間、交際など)が当てられたが、現在では「社会」という語が一般に定着している。英単語としての
societyの語源は、一六世紀中頃に遡り、当時は「社交」または「社交界」を意味した。本来は「仲間」を意味するsociusにその語源があり、「親
交」を意味するラテン語のsocietatまたはsocietas、さらにフランス語のsocieteを経由して外来した語であるとされている。
※2 『定本柳田国男集』 第6巻 筑摩書房 P478
阿部謹也氏による文化史研究における世間論では、(西欧的な)個人主義にもとづくそれとは異なる世界観とし
て、この言葉が(日本的
な?)村落共同体
モデル(ムラ社会観念)とほぼ同義に解されてしまっている節もある※3。しかしながら、先の柳田国男の説によれば、(田舎では)世
間はただ「外部」という意味を表していたにすぎない。身内(自分自身を含めた親族共同体)の外部、または村(自分自身を含めた村落共同体)の外部というの
がその意味するところであった。
この場合の外部とは、その人(自己)が実存的な意味で身内(仲間、家族、親族、共同体)の外へ対象化・外相化
している大文字の他者(大
文字の主体)
を指していたと同時に、彼自身(または同じ価値観を共有する者どうし)が知り得ない「異世界」をも指していたと思われる。
※3
阿部謹也氏の世間論はまだ、従来の「共同体」という観念に引きずられてしまっているように思われる。従来の共同体論の延長上で、日本的共同体といえば済む
ことを世間論という名でやっているとすれば、なぜに世間なる言葉を持ち出す必要があるのか。とはいえ、兼好や西鶴や漱石らの文学を参照した阿部氏の研究
(例えば『「世間」とは何か』講談社)からは、共同体という意味には還元しえない「世間」の語意を読みとることはできる。
太宰治の作品※4のなかで、「世間は・・・」と口にする者自身(語る主体)のその対人
関係の動機そのもののなかに、主人公が世間の主観的な意味を見いだす場面がある。そこでは、世間を大文字の他者として語る主体の(対他)関係そのものが、
個人において問われている。この作品の主人公が世間
を個人に見出すことはあながち間違ってはいないのではないだろうか。
※4 太宰治 『人間失格』 新潮文庫 「世間とは個人じゃないか」 P82
◆ 「自己疎外」体としての世間像については別項にて。
権力とは、物事の正否や合否(意味や価値)をはかるさいに働く(影響する)関係上の力作用であり、その関係を
コントロールするためのな
んらかの権威※1の
行使権限または政治技術を表す。社会科学的な基本概念の一つであり、厳密には物理暴力的な実力行使などと識別され※2、人びとによ
る行為の指向や意思の決定、またはその意味や価値や秩序を、象徴的(記号的)かつ予期的に(期待されるように)コントロールし得るような関係上の可能性も
しくは動機づけと定義できる。
コミュニケーションのプラティクな意味関係の対立と闘争(象徴闘争)を通じて、意図的に、あるいは暗黙のうち
に権力関係は演じられる
が、その関係自
体が主体化(個人化または集団化)、または物象化(制象化※3)されることによって、社交的(社会的)に領有された形式や形象、す
なわち法、制度、秩序、言語、王、神、国家、宗教、貨幣、資本、階級、家族、メディア、常識、知識、イデオロギー等といった諸表象の下で、象徴的に機能す
るようになる。
権力論の詳細については別項にて。
※1
権威と権力とは相互依存関係にある。権威(正統化)を失った権力は単なる暴力になり、もはや権力としての意味の実力を持ち得なくなる。権力はその意味の実
力行使をもって社交関係のプラティク(習慣、実践)を象徴的‐記号的にコントロール(儀式化、制度化、法制化など)することによって、みずからの権威(正
統化)を再生産しようとする。
※2
この場合の物理的という形容に対置されるのは、象徴的(記号的)という形容である。この意味で、権力の機能の仕方は象徴的(記号的)なプラクティスであ
る。
※3 山本哲士氏による概念。
その対象の性格からして、社会学は人為的(文化的)な事象を中心に扱う研究分野であるため、人為的(文化的)
な事象の外部に、純粋無垢
な自然対象と
しての「社会体」なる与件(data)を前提に据えることはできない。社交の世界、すなわち社会とは、もろもろの主体間における行為や意味の関係によっ
て、常に生成され、表象されている仮想の秩序であり、そのための情報の系であるとみなしうる。
人間関係の媒体になる情報の系、いわゆるヴァーチュアルなリアリティを、社会学は事実上の対象として研究しな
くてはならないのである。
社交(社会)という関係的な秩序(あるいはシステム)において、実践と現実、または理念と現実とを切り離して
論じることはできない。一
方に客観的な
現実として所与の「社会」があり、他方に主観的な実践ないし理念としての(個人や集団の)行為があるかのように静態的に記述するのでは、社交関係であると
ころの「社会」を論じ切れないのである。
いうまでもなく社交的な現実とは、人間の日々の実践やそれにともなう予期的で、かつ相関的な創造と生産とを介
してはじめて実現する関係
的な世界の表
象であり、それは、プラクティカルなイデオロギーとしての力をもつ、本質的なメディアであるランガージュ(言語使用、言語能力)に基いている。
集合的な表象としての「社会」秩序なるものは、プラクティカルな理念型、いわば一種のユートピアである。現実
の社会とユートピアとして
の社会秩序と
をそれぞれ独立した対象として分割することはできない。ユートピアと現実とは、「社会」として表象された秩序(あるいはシステム)のもつ相対的な二側面を
あらわすだけである。ユートピアとは虚構の世界にあるのではなく、貨幣と同じく、現実の秩序を生成すべく事実上の価値としてこの世の中に(唯物論的に)存
在するのである。
◆ユートピア・イデオロギーが社会的現実の秩序を構成する点については別項で・・・。
制度化された関係性の秩序のうちに「社会」なるものを表象しているディスクール的な主体(経験)の形成が、ま
ずもって問われなくてはな
らない。社会
学とは、社会システムについての科学ではなく、社会システムという表象について科学、言い換えると、客観(対象)と主観(自己)との静態的な対立を超えた
「社会」という表象システムについてのそれ自体が社会的な実践(知識=技術)なのである。※1
※1
こうした自己言及的な立場は必ずしも矛盾というわけではない。真理(存在)とは古典的(かつ本質的?)にいって倫理的――この表現は誤解されやすいかもし
れないが――であり、自己とその言及とが重なりかつ飛躍する循環と変動の場であるのだから。換言すれば、動的なシステムまたは構造には論理的かつ実存的
な、すなわち実際的(プラティク、プラクティス)な矛盾が内在しており、
仏語ではディスクール(discours)、英語ではディスコース(discourse)、独語ではディスク
ルス(Diskurs)、
伊語ではディ
スコールソ(discorso)、西語ではディスクルソ(discurso)は、談話、会談、論述、演説、言議、論弁、論説、弁証、言説などと訳されてい
る。
発話行為の連続体として、秩序立てられた言葉と表現による思想や意見のやりとりを意味する。それぞれの異なる
論者によるタームとして用
いられるた
め、注意が必要。
この概念をめぐっては、ラカン(J. Lacan)、フーコー(M. Foucault)、ペシュー(M.
Pecheux)などの代表的な論者を
はじめ、その他、多
岐にわたる研究があるようである。※
仏語ではプラティク(pratique)、英語ではプラクティス(practice)、独語ではプラクティク
(Praktik)、伊語
ではプラー
ティカ(pratica)、西語ではプラクティカ(pra'ctica)である。
思想史では、理論に対する実践を意味する語としてプラクシス(Praxis)を用いるのが一般的であるが、こ
れらの語彙はその思想的な
いし理論的な
脈絡のなかで微妙に使い分けられることがあるため、しばしば注意を要する。
この概念をめぐる思想的な検証は幾多かなされているようであるが、なかでも、Praxis(実践)と
pratiqueとを理論的に識別
し、マルクス
主義、実存主義、構造主義にたいし批判的に論じた『プラチック理論への招待 暗黙の思考領域をどうとらえるか』(山本哲士・柳和樹・滝本住人
三交社)が重要。
エノンシアシオン、エノンセ( e'nonciation,
e'nonce')は、喋ることと喋られたこと、言うことと言われたこと、述べることと述べられたこと。言表(言語行為)などと訳される。
生産行為とみされている労働行為とは、そのこと自体がそもそも根本的に自然物(対象物)の消費行為でもあり、
労働過程とはつまり消費過
程とみなすこ
とができる。さらに、高度に発展した産業化社会または資本主義社会においても、消費行為そのものが影の仕事(shadow
works)として、資本の再生産構造のなかでの有形無形の付加価値を産み出す重要な「剰余価値生産」を担っている。
またこの意味で、消費論の角度からみれば、労働を一次的消費過程あるいは本源的消費とし、その労働によってつ
くられた生産物(商品=価
値形式)の消
費を二次的消費過程というように定義することもできる。と同時に、労働価値論の角度からみれば、自然物の消費という一次的労働と、その一次的労働によって
付加された価値形式(商品)の消費を二次的労働または影の労働のように定義づけることもできるだろう。
近代以降における「第三の波」としてこれを指摘するまでもなく、そもそも消費と労働とを時間的にも隔てる必要
はなかった。近代化の過程
は、産業組織
図的なイデオロギーの下で、需要と供給として消費領域を分割する生産時間の観念とともに、消費領域と労働(生産)領域との時間的で制度的な解離を組織的か
つディスクール的に編制することによって、家族や個人の生活領域(再生産領域、シャドウワーク)から分業化(離床)した意味での社会的、組織的な制度体と
しての(市場集中型の)経済領域あるいは生産領域を生成するのである。
社会や社会化として近代的に制度化された観念としてのプラクティスは、この意味での経済領域とその組織化とを
指差すことになる。これを
産業的社会化
という。
天界の星ぼしを星座という図像に見立て、ある観測点からの座標軸にもとづき天体の動きを眺望する仮想の球面と
しての宇宙像であり、かつ
また、古代
的、中世的な宇宙論(コスモロジー)でもあった「天球」になぞらえ、社会(社界)という世界像(世間像)について、その視線による眺望の図像を仮想的に表
わした言葉。
社会(社界)なる事象が、人為的に実行され史的に構造化される、人びとの諸視線による仮想的な諸表象(意味、
記号、情報など)の関係態
であるという
そのプラクティカル(実践的、実際的、現実的)な意味において、言い換えると、人びとの社交的な視界によって主観的に能動的に表象される社会球が、同時
に、社交的に構成された客観的、受動的な現実の表象でもあるという、その構造的で弁証法的な世界関係の像形を表わしたもの。
天球にもとづくバナキュラーな世界像にたいし、近代の世界観においては、インダストリアルな制度体系にもとづ
く象徴的な社会像がそれに
とってかわっ
たと、イヴァン・イリイチ氏はこの言葉によって指摘している。
ある問題設定となって構築されるχが、すでにその解答の手続き(関数、機能、構造)によって規制されている。
「社会問題」とは、すでに
その解答の手
続きが社会システムに準拠する形式で設定されたものを意味している。したがって社会学は、「社会問題」という社会化された問題設定の言説営為そのものを予
めその問題の分析対象へ組み入れなくてはならない。
このばあいの社会的主体とは、社会化もしくは社会性という言説的・弁証的プラティク※に
よるところの産業的な制
度主体のこと
である。非西欧的世界の生活様式にとって、社会化=個人化、すなわち社会人ならびに社会生活とは、産業近代的制度の主体化の表象様式をそのまま意味すると
いう事件、その歴史線において近代そのものであり、マクロな近代化に対してミクロな編制をなすものである。
※ 仏語 pratique 英語 practice 独語 Praktik
個人発達心理学のうえでの知の編制が可能となってきた社会的=歴史的な諸関係や諸表象と密接にかかわるもの
で、個人は社会的に個別化さ
れるパーソナ
リテとしての主体ならびに客体、つまりは、社会的機能の人間化・個人化によるところの「社会化」の主体として登場する。
現代の個人というものは、社会的に表象される度合いもしくは様式に応じて自立した主体性としてみいだされ、価
値づけられ、定義される二
重の「メタ個
人」である。個人そのものが社会的な概念表象に隠喩的に支えられており、この社会的な個は、社会人となるべく一定の規格化または同一化されるための社会化
(社会性資本との関連づけ)がなされるべきであるものとされ、その結果、社会的に自立=依存(適応)した個人性をそのIDによって確立すると考えられてい
る。→ところが、これは個人の誕生というより個人の消滅をも暗に示唆している。
こうした近現代における個人性(個人の主体性)とは、家族のなかの個でも世間のなかの個でもなく、社会化とい
う主体化装置のディスクー
ルそれじたい
を指している。
不足化の生産は、「近代=社会」の発達に必須な主題である欠乏性の象徴生産(必需性の生産、生産の生産)とし
ての拡張再生産である。
この拡張再生産は、人びとにとっては欠如や欠乏や不足(poverty)として言説的かつ実際的に体験されて
いることを意味する。生産
の累進的拡張
による過剰は、社会の象徴的な過程で、生活の最小限で最低限の必要水準(minimum
essentials)を構成する社会的ならびに教育的な必需性ないし必要性という諸々の観念(並み・平均・基本・本能・正常など)の言説的働きに転化す
る。
この不足化の拡大再生産を個人水準での単なる満足・不満の心理的形式に還元してはならない。社会的な個の形成
/様相もまた、この不足化
‐欠如化の生
産関係に拠っている。
◆
この点(経済学的にいう稀少性)に関しては、イヴァン・イリイチ氏とミシェル・フーコー氏がそれぞれ異なる角度から論じている。一方はモノの使用の象徴的
制度化から、他方はディスクール・プラティクの史論として。または、「経済力の拡大と稀少性(Knappheit)の増大」について言及したニクラス・
ルーマン氏の論述も参照。「欠如性の再生産における主体化の作用」については、スラヴォイ・ジジェク氏による精神分析論的考察がある。
学問的認識や専門的知識に必ずしも独立して固有の特権的地位が与えられているというわけではない。学問的な言
及に特権があるのは、つま
り、それが社
会的および文化的な資本による実践と共鳴し連動するもろもろのシステムとの対応関係をつうじてなのであり、そのかぎりで有効で合理的で権威的な、まさしく
真理の言明(言説メディア)となるのである。
極端に単純化してしまうと、学校システムの下での教育方法学的言及、医療システムの下での臨床医学的および病
理学的言及、経済システム
の下での経済
学的言及、諸諸の社会システムの下での社会統計学的言及、国家システムの下での政治学的言及、特定の宗教システムの下での教理的・神学的言及、観測・観察
システムの下での物理学的言及といったもの。
真理が真理として再認されるのは、それがその実践と構造との関係(戦略的?)においてもっているシステムの再
現ならびに表象行為を通じ
てなのであ
る。よって当面のところ、真理は、システムの自己準拠的補完にもとづく視線の主体化ということになる。真理の新たな発見といえるのは、新たなシステムの創
設においてである。※1
科学と技術とは別べつのものではない。科学技術の編制は、科学と技術との潜在的な不可分離性を物語っているの
ではないだろうか。このば
あい科学シス
テムは、客観的であればあるほど、技術の予期的な生産に対応する表象=再現技術(広義の言語・概念)になっている。知識(真理)とはすでにして技術的でか
つ予期的なのである※2。
※1
真理はシステムにおいて実在するとしたヘーゲル『精神現象学』序説。包括的システムの諸細目として統合(合理化ないし身体化)された知とそのメカニズム。
※2
したがって科学的方法が、あるシステム技術内で帰納的か演繹的であるかは根本的な相異にはならない。知ることとは認識のすでにテクノロジー過程であり、な
んらかの意味で対象を予期する暗黙知の働き(tacit knowing)である。
→予期生産秩序
ミシェル・フーコーは近代エピステーメの表徴的台座の向こうに人間ではなく人間化を読みとったが、さらにその
背後に社会化をみてとれる
だろう。人間
‐経験諸科学は、この社会化を隠匿することで構造化‐内視化するものであって、人間の存在はその媒体となるための鏡像であり、社会の身体であるべく象徴的
に投影された戦略的な知の陰影にすぎない。
人間を対象にすると公言してきた科学は、実は、社会球(社界球)の表象体制を装置原理(システム)において機
能させるエピステーメ上の
諸細目なので
ある。人間化‐経験化諸科学の詳しい構成については別項。
◆
ペルソナリテの装置、ソシアリテの装置に関しては、フーコーの論じたセクシュアリテの装置との兼ね合いで相関的に考えてみたい。
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