Language : Japanese
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First upload : January 16, 1998
Last update : February 29, 2004
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はじめに

社会表象(社交表象)のデザイン工房へようこそ。ここは、“社会球の眺望台”と題する表象デザインのための電 子 ウェブ上のノートブックで す。ここでは、社会、文化、人間、自然、生活などとして自明視されている諸表象を、あらかじめ現前する事物の世界や実存と して無媒介に観察ないし分 析の認識対象 に据えるのでなく、これらの諸表象における対象化、つまりその視角による眼差しの主体化をさまざまな表象のデザインという観点から反省的に捉え直していく ことがで きれ ば と思います。
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ノートは随時、誤字、脱字、誤変換等をふくめた学習上、文章表現上の細かい 訂正および改訂を繰り返し ています。こ れらの文はすべて未完成、不十分なままアップロードしつづけているものです。また、失礼ながらも、著名な方の人物名の敬称を慣例として省略させていただい ている場合があります。どうかご容赦ください。

主題ノート

このホームページの題名になっている「社会球(社界球)の眺望台」とは、ちょうど展望台から天界の星空を眺め るように、社会を見渡すた めの視界(社 界)であり、その視線の台座(観察点)とでもいったところでしょうか。ただしここで注記しておかなくてはならないのは、社会球が「私」の領有する主体のど こか外側にあって、それを遠くから眺める図像のように考えられてしまう点でしょうか。
社会球とはひとつの主体球の編制とその鏡像化でもあるということを、ここでは再三にわたって強調する設定に なっています。したがいまし て、社会の主 体化による表象世界のプラクティス(習慣/実践)が、社会的な現実として、常に問題になってくるはずです。いうまでもなく主体球と社会球(社界球)とは別 べ つのものではありません。
とはいえ、「私」という現実が主体、と同時に客体でもある現実との狭間で微妙にすれちがっていると感じられる こともまた事実でありま しょう。社会的 個人としての主体性は社会の中の「私」とは必ずしも一致しません。そう思われます。
「私」の領有する主体と、主体の領有する「私」とをめぐる自己に対する自己の関係性、またはその再帰性に、社 会球(社界球)という表象 様式とがいか に関わり合っているのでしょうか。既成概念システムである社会像と主体像への問い返しの可能性を、このウェブ・ノート全般のなかで強く示唆することになる のではと考えています。


社会の分水嶺もしくは分水嶺の社会とは、社会という視界の地平または地相が、そこを境に異なる地平(地相)へ と分岐してゆくような、そ んな視界の磁 場であり位相にある境界線をあらわしています。
近代化という歴史線の位相は、社会という新たな視界の地盤を生産し、世間に隆起させるとともに、しだいに過剰 で過密なまでに肥大させて いきました。 世の人びとは、「社会的個人/社会人」なるものの人間化もしくは人格化(身体化)の開発へむけた対象設定に、資本‐市場システムの主体として組み込まれて いきます。すなわち近代的主体性(アイデンティティ)の編制です。
しかしながら、歴史的意味における主体性は、重層的または多元的に現実という諸関係性を構成しています。ある ひとつの市場化ないし合理 化システム が、歴史に横たわる重層性をすべて制御してしまうわけではおそらくないでしょう。
社会の分水嶺という副題には、こうした重層的で多相的な社会球(社界球)の波動と変容とに注意をはらい、それ らの相関し矛盾しあった多義現実とその社会的な表象線(社会線)について、わずかながらでも考察できたらと いう意図がふくまれています。


いささか大袈裟な表現になるかもしれませんが、超社会の社会学という言葉には、現代人にとってはもはや自明で あるところの世界像、さら には対人観に までなってしまっている現代の過剰な社会性に対し、それらを超える/越える視野ならびに視座から、社会的な関係性につい て改めて考えてみたいという意思が込めてあるつもりです。
社会性や社会化といったまさしく現代的な主体の同一性の形成なるものを支えて いる概念定式は、ここへき ていよいよひ とつの臨界点にまで達してきているように思われます。とともに、社会学や社会論的な視界や視線にも臨界点を設定する必要があるのかもしれません。
社会という名の観念的表象に、ある種の先験性と経験性、そして普遍性、全体性、中心性、通時性と共時性、さら に大文字の連続性と合理性 とを系統的に 与えてきた広義の社会科学的および人類科学的な思想ならびに思考モデルと、それらの構造化された様式に支えられてきた仮想現実メディアとしての社会化シス テムとは、ともに反省的に組み替えられてゆくことになりましょう。
近代化(現代化)と社会化とは同じふたつの等価な意味の言い換えなのであったと想定されます。たしかに近現代 化とは、近現代諸システム の上で生産さ れる社会化というディスコース・プラクディスの編制過程であり、それらに依拠した社会的主体の制度表象であったといえます。
社会化のためのシステムとされた組織または制度によるかつてないほどの巨大な画一様式にしたがって、その規格 化である社会的な個体性、 さらには、社 会的な超越体としてのマス=リアリティーを開発し大量生産していく人間像と世界像とに適った社会なる世界像のイデアまたはイコン、いうなれば「社会球(社 界球)」がおもいえがかれました。
社会科学的な思考ならびに思想における視線の磁場、そしてその地平や地盤は、おそらくこうした社会球(社界 球)による世界像のメディア に立脚、ない しは連動しながら隆起し派生してきたと考えられます。しかも、社会的個体性への発達形成とその階層的で線状的な統合モデルとを視線の焦 点とする人間化‐諸科学が、社会化システムという近現代の主体性ならびに客体性にもとづく暗黙の哲学理念と共鳴しあうことで、すでに抬頭してきていまし た。知のシステムはそこにひとつの生産規格を見出していたわけです。
人間諸科学や社会諸科学(行動諸科学)は、それらのシステムに準拠すべく、客観コードを社会制度の仮想現実に たいし、さらに上塗りする ことで、みず からを再認しかつ補完してきたのでした。
社会科学、または社会思想という名の近代化の哲学にとって、こうした社会的パラダイム(範型)のなかでの諸行 為や諸主体の合理性、もし くはその整合 性を、いかに保証し、証明するのかが問題になっていたのです。近代社会システムにおける近代と社会との結びつきは、歴史と構造との二 相間の関係というより、そのまま相互の分身であり、同一主体の鏡像ですらあったのではないでしょうか。
このノートでは、近代化もしくはその仮想現実化されたメディアの言い換えである社会化のシステムと、その「主 体=客体」生成にたいする ディスコース 上のプラクティスへの分析を加味し、たんなるシステムの批評に終わるのでも、修正案や代行案といった実効性や利便性の追求一辺倒にはしるのでもな く、したがって客観的な枠組みを「社会」主義的に実践コード化するためでなく、社会という近現代の仮想現実メディアの直中にある私たちの存在とその視界に ついて、あらためて基本的な視座から問い直していくことができればと思います。


社会科学や人間諸科学(行動諸科学)とここで称している知の領域は、学術的な特定の枠組みや地位をもっぱら指 し示しているのではありま せん。そうし たものへと正統化、いわば学校化されている在り方までふくめ、私たちがみずからの社会化、要するに社会化する主体性ないし合理化にもとづいて、現実界や想 像界を構造化するさいの暗黙的な(非ディスコース的な)知の秩序や認識慣用にかかわるもの、すなわち、日常的な現実与件の生成概念や概念規制・規整となっ ているようなプラティクな関係世界まで念頭においているつもりです。
社会的な日常の認識様式と学術的な生産様式とは相互に自律しあっているようにみえ、実際には社会性の主体化に もとづく、ディスコースとプラクティスの うえでの連続的な相関関係をコード構築しているともいえるのです。
近代の科学的啓蒙というものは、自然諸科学や技術諸科学までもふくめ、こうした社会化コードの分配における象 徴的な編制によって、なか ば自動機械的 に、もしくは予期生産的なシステムとしてなりたち得るものであったに過ぎないとさえ考えることができましょう。
科学的な生産様式は社会的世界から独立して真理の装置ないし真理のメディアたりうるわけではありません。実験 室ないし研究室とは、社会 や世界から隔 絶した場でも、偉人の孤独な作業場でもなく、社会的に極めて集約されたディスコースの編制空間になっているといえるのではないでしょうか。
情報産業社会では、現実という構成がさらにメタ現実性として再構成化してゆく社会線を幾重にも有しています。 メタ現実が二次的であると いうのではな く、むしろメタ現実が現実関係を可能にし有効にする力のテクノロジーであり、関係表象的なものの磁場となっている構造化について、あらかじめ考慮していな くてはならないでしょう。
おそらく、現実とメタ現実とのふたつは相互に分離しているのでなく、どちらが先か後かでもない、社会的現実と いう修飾された現実の関係 表象をコード 構築する主体化技術にとっての知の分身です。社会的な世界とは、現実という意味構築の戦略的な主体知をめぐる表象的闘争(権力関係)の磁場であり、象徴的 なメディアでもあったのです。


社会線の表象分析では、物、情報、コミュニケーションがさまざまな系列や経路にて交差しつつ、いくつか の線形装置や屈折回路をつ くっているよ うにみえる社会線について、感じ考えたままをメモ帳のように記すための場にしておきたいと思っています。
ここでとりあげられる題材はたいてい恣意的であり、既存の社会的な表象のなかに組み込まれており、ゆえに多く は社会性の既存の情報化さ れたディスコースにまみれた姿で表出していることでしょう。しかし、時事問題や社会問題といったふうな所定の問題設定上の視線にできるだけとらわれずに、 別様の枠組 みに切り替えてゆける視点や技巧を不十分ながら少しでも学習しつつ模索してみたいと考えます。
ちなみに、このウェブ敷地の全体はテキストというよりノートというべきであり、特定の完成された分析、論、文 章、方法を模索するという より、あるひ とつの表現や省察のための過渡的な学びと読みの場であるにすぎません。ノートの内容については掲載の新しいもの古いものにかかわりなく、明確な更新にかぎ らずとも常に細かい加筆や訂正が施されることになると思います。

ノートは随時、誤字、脱字、誤変換等をふくめた文の訂正を繰 り返しています。これらの文 はすべて不十分なままアッ プロードしつづけているものです。また、失礼ながらも慣例として、著名な方の人物名の敬称を省略させていただいている場合があります。


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