「家族」※2はもはや存在しない。そこは、社会的なものとして肥大
化した学校や会社の単なる付随物とし
ての帰宅所で
あって、学校や会社の規格にもとづく補足的で補完的な機能を期待される寮かカプセルホテルか、子会社か下請工場である。他の社会諸制度や社会化した個人か
らそうある(なる)ことの効率性を測定されるべく観念化された設備にすぎない。こうして家族を構成するものの輪郭は、知らぬ間に社会のなかへと溶解しはじ
める。
家族の社会化は、家族関係の外在化でもあり、肥大する社会の機能性(社会の分化)へと還元さ
れつづけ、家族としての内在性と自
立性とを喪失
していく近代化の過程であった。これを家族のゲゼルシャフト化ともいう。
家族の社会化、すなわち近代化の第一の異変になったのは、子どもたちの教育産業化でもある学
校化である。平日の昼間のほとんど
の時間、村や
町や家庭の中から子どもたちの姿は消えていった。大人達と生活空間を完全に分離させていなかった子どもたちの存在の喪失は、家族的紐帯にもとづく精神風土
に根本的な変容をもたらしはじめる本質的な兆候になった。閉じた施設になかば隔離されて、地域から子供たちの姿は一人残らず消えていき、子供のいない社会
がつくりだされる。
学校化された子女は、その潜在的度合が高ければ高いほど、なかば必然として都会的な生活を選
びとり、家族的紐帯の世界から乖離
した抽象的な
社会的個人となってゆく。すでに彼らは、家族の落とし子たちなのではなく、学校の落とし子たちなのである。
もともと近代学校システムは、ある場所に人口を集中保管し、マスで過密な空間で機械時計に合
わせたプログラムの下での計画的な
生活をさせる
という近代都市化モデルの縮図となってきたものだ。→パノプティコン都市
家族のこうした学校化によって、教育市場家族が全面的に出現し、学校化装置としての家族表象
が、教育方法学、経済学、精神分
析、心理学、社
会統計学的なディスコースの流通経路として立ち現れてくる※3。家庭での子どものしつけの謂(子育て)とは、学校に適応するための
それであり、そのための「学校化資本」の象徴的で身体的な確保とその予期生産秩序になっている。
こうして、家族には、子育てや夫婦生活における性的ないし情緒的な役割を求める場としての意
味がかろうじて残されたかにみえる
が、家族のゲ
ゼルシャフト化は上記にとどまるものではない。そこでは、その機能性(役割)によって表象されるかぎりでの家族としての意味は、すべて、ゲゼルシャフト化
の水準へと拡張または還元される可能性を秘めている、つまり暗黙のうちにそう予期されているのだ。
※1
ヘーゲルの(?)意志論を社会契約論と社会有機体論とに導入したドイツのフェルディナンド・テンニエス(Ferdinand
Tonnies)は、地縁や血縁にもとづくゲマインシャフト(本源的‐有機的結びつきとされる)から、職能上の分業化ないし専門化にもとづくゲゼルシャフ
ト(選択的‐契約的結びつきとされる)へ移行する歴史発達過程を想定した(『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』)。また、マックス・ウェーバーは、彼の
いう社交的行為類型である目的合理的もしくは価値合理的な行為に準拠して結びついた人間関係の過程を、ゲゼルシャフト化
(Vergesellschaftung)という理念型によって定義した。
※2
ここでいう「家族」とは、遺伝的な血縁集団を指すのでも、制度としての親族構造を指すのでも、「核家族」「複合家族」などの家族諸類型を指すのでもない。
つまり、そのような家族の集合形態が問題になっているのではない。形態としての家族ではなく、主体的な形相としての家族表象がここでの主題なのである。
※3
「教育家族」という学校化した家族関係(家族表象)の出現と台頭とを意味する。教育産業とともに合目的論化された家族表象がディスコース的プラクティスと
なって爆発的に生産され、学校化資本と結びつき、子どもたちの存在が社会的に予期された「発達主体」として対象化、客体化される一連の社会線(社会化され
た視線)を物語っている。フィリップ・アリエスが家族の心的表象史(まなざしの歴史)において論じた教育的配慮の対象としての「児童期の誕生」、ドンズロ
そしてドゥルーズが論じた近代家族を包囲する「保護複合体」と「社会的なるものの上昇」、フーコーが論じた「セクシュアリテの装置」など、近代の社会主体
および人間主体が構築される場である。
◆
家族の社会化、家族の学校化の詳しい内容については「家族の社会線」にて。社会的なものの近代的形成による家族の再編制については、ジャック・ドンズロの
研究を参照。
→機能主義化された家族