Language : Japanese
Character code : UTF-8
First upload : January 16, 1998
Last update : August 18, 2004
スタイルシート使用
★Netscape NavigatorではJavaScriptも有効にする必要があります。
メイン
主 題
研 究
キーワー ド
注釈
術語メモ
資料&リ ンク
ゲストブック
表紙

キーワード・ノート


社会秩序はいかにして不可能か? How is social order impossible?
社交秩序はいかにして可能か。社会学は一般にこう問いを掲げ、それを説明しようとする前提に立つ。し か し、ここ ではむしろ次のように問いを立て直すことから出発したい。社交秩序はいかにして「不可能」であるのか、と。
エルネスト・ラクラウ氏は、

「心」の商品化社会
高度消費産業(資本主義)社会において、人の心が産業的に対象化され、労働力商品であると同時にサー ビス商品としての価値を付 与されるよう になった言説的なプラクティスおよ び社交的なプラクティスの総体を表す。いわゆる「サービス化社会」の台頭にともない、有償無償を問わず、商品の意味が有形的な価値生産から無形的な価値生 産 のほうへと顕在化していくとき、無形的な価値基準の対象になったのが心や精神といった記号の表象であった。現代社会は、この記号をサービス商品の対象とし て組み込む言説的プラクティスを新たに制度化し、大規模な「心の市場」を形成する。
伝統的には宗教団体(宗教的共同体)が担ってきた価値流通領域であったものが、近代では消滅したので はなく、ふたたび新たな形 で台頭してく るのである。
→心理学化する社会 (樫村愛子著『「心理学化する社会」の臨床社会学』世織書房)
→心理主義化社会 (森真一著『自己コントロールの檻 感情マネジメント社会の現実』講談社選書メチエ)
◆社会関係の精神医学化・臨床医学化について論じたものとしては、小沢牧子著『「心の専門家」はいら ない』(洋泉社)並びに、 滝川一広・佐 藤幹夫編『「こころ」はだれが壊すのか』 (洋泉社)、そしてミシェル・フーコーによる一連の著書等を参照。

一望監視システム、円形監獄方式 panopticon system
近代社会秩序にとって刑務所はひとつのユートピアである。なぜなら、近代社会秩序によって理想とされ る主体像または身体像が、 あるべき(矯 正されるべ き)個人ないし人間の名においてそこに投影(予期生産)されているからである。兵営、そして刑務所といった全制的諸施設※1によっ て実験されたこの管理方式は、近代社会が組織した諸制度(学校、病院など)へ応用され、しだいに至る所に拡張されていくことなるだろう。人びとは罪を犯す まえに予め(予防的に)囚人になるのである。
18世紀、イギリスの啓蒙主義哲学者ベンザム(Jeremy Bentham)によって考案されたパノプティコンという建築学的なシステム(組織、制度、方式、学説)の構造模型を引用してミシェル・フーコー氏が論じ たのは、看視(監視)する対象(客体)として諸主体の自己同一性(identity)を生産し、諸個人の自動的、自己準拠的な服従が得られることを可能に する権力工学であり、その多彩な戯れと作用(jeu)のネットワーク(網の目)であった。※2
かつては王のような支配者の側が可視的な人格のシンボルとして大衆(臣民)の前に君臨していたが、こ の権力形式の下では、むし ろ支配する側 の主体(人格)は不可視となり、被支配者のほうが一方的に可視化された臨床的主体(個人)となって表象(記号化)する。
諸個人をそのパーソナリティ(個人性、人間性、人格)の名において類型化し、プロファイリングし、ラ ベリングし、データベース 化して、その 身体(心)の内にアイデンティティを刻印(stigma)することによって、多彩な知の技術(個別科学)と結びつけ、自ら監視する主体(self- guarding subject)、自ら調教する主体(self-discipline subject)として、自他に対する自他の関係表象を組織するのが、主体の身体化した服従を得るための系統的な方法であるディシプリンの権力工学であ る。主体性、個人性、身体性、人格性を表象するその意味作用が、この知と権力の技術によってつくられるのだ。
※1 E.ゴッフマン 『アサイラム』(石黒毅 訳 誠信書房)
※2 ミシェル・フーコー 『監視と処罰 監獄の誕生』(田村俶 訳 新潮社)

象徴権力、象徴的権力 pouvoir symbolique, symbolic power
フランスの社会学者であるピエール・ブルデュー氏は、デュルケームによる象徴システムの社会学を批評 的に再評価し、社交世界の 意味編制に関 するコンセンサスもしくはヘゲモニーを、論理的コンフォーミズム、直感論理的秩序として、自然なもの、自明のものであるようかのにそれとなく構築し、主体 の否認ないし誤認(m馗onnaissance)によって再認(信仰、儀礼化)されるがゆえに見えないシ ステムとして編制され、かつ再生産されている力関係を、象徴的な秩序という命題において論じる。
諸々のイデオロギー・システムである社会(社交的プラクティス)を、すでにして自明なもの、自然なも の として現前させるのが、い うなれば象徴 的権力の問われる水準である。
→象徴暴力、象徴生産、象徴資本、象徴闘争
→ハビトゥス

救済権力、牧人的権力
salvation power, pastoral power
この権力形 式の下では、救われること、導かれることが個人の日常的な 義務となり、導きの救済者(他者)の権威に自らすすんで服従することが期待されるようになる。その権威の下に服従するのは、その主体が将来にわたって、た とえば群れから独り逸れて道に迷わぬよう正しく導かれつづけるためである、とされる。救われる主体は、この権威に向かって、自己の内面におよぶまでその評 価権の能力を譲渡しなくてはならない。
西欧文明における(キリスト教的※1)人間の主体形成史を論じたミシェル・ フーコー氏※2に よれば、この歴史的な系譜は、神や王や神職者とは人民の群れを導く羊飼いであり、そして人民はその羊の群れである、とする統治の比喩として、エジプト、ユ ダヤ、アッシュリアなど、古代のオリエント地方における政治的言表のうちにみいだされる。
※1 特にキリスト教やイスラム教に顕著だが、その他の文明宗教にも多かれ少なかれみられる傾向である。ここでいう文明宗教とは、前古代的な習俗に由来する土着 信仰とは対置され、獣神でなく人神または開祖を祀り、文字化された教典をもち、祭祀集団の専門分化(聖職者階層の誕生)とともに「宗派」として発達し、繁 栄し、ヴァナキュラーな地域性を越えて影響力をもつようになった宗教形態を表している。
※2 Foucault, Michel ; Omnes et Singulatim, Vers une Critique de la Raison Politique 邦訳 『フーコーの〈全体的なものと個的なもの〉』 三交社
なかでも特にヘブライ民族は、その歴史のなかで、この羊飼いの権力、すなわち牧人的権力※3を 継承しか つさらに発展 させることになった。神のまえで自らの罪を語り、自身をその罪から永続的に救い出さなくてはならない自己救済の義務※4と、統治の テクノロジーとを、その宗教的かつ政治的な言説と信仰の儀礼的プラクティスとの関係において、見事なまでに結合させることに成功する。
※3 自己救済の義務とは、選択の余地なしに、権威による他者の導きに従うことで、自己を救済しつづけなくてはならない個人の責任を意味する。
※4 万人にとっての自己救済のための「信仰の義務」は、教会制度から近代の学校制度などへと移り代わり、万人にとっての自己救済のための「教育の義務」へと転 化する。
牧人的権力は、西欧の政治史のなかで必ずしも一般的にはならなかったものの、宗教的な制度(教会制 度)を通じて儀礼化され、ひ ろく世俗化さ れていった。そして、近現代における社会組織化の言説や諸制度によるプラクティス(慣習、実践)の下で、教師と生徒、医師と患者などといった人間関係に暗 黙 のうちに置き換えられ、臨床諸科学を構成するディ シプリンの権力(disciplinary power)と新たに結びつくことになる。
→個人化の権力
→ポリス(police)、社会的なるもの

パラダイム、パラディグム、範列、範型 paradigm, paradigme, Paradeigma
思想史(哲学史)のなかでは、古代ギリシアの哲学者であるプラトン(Plato)によって、イデアの 形象を論ずるうえで用いら れた語※1で もあったが、後に、科学専門家集団の構造にかんしての研究※2を行っていた科学史家であるトーマス・クーン(Thomas S. Kuhn)氏が、これをディシプリン(学問、専門科目、規律、訓育)の母体、基盤、発生源(disciplinary matrix)における構成要素として論じたことから、新たに知られる概念になった。
クーン氏は、科学専門家集団の認識論的立場が構成されるための自己準拠枠ともなるこの専門的母型 (disciplinary matrix)を、記号的一般化とモデル、価値、見本例(exemplars)の四つの主な構成要素から示し、このうち、特定の科学者集団によって会得さ れ共有されるにいたる見本例(exemplars)として、科学史の構造論的研究の文脈のなかでこの概念を再定義した。
文法論における用法では、用言の活用例、語形変化表を意味し、言語学においては、語の形象 (form)が歴史的に変換するその 範例 (pattern)※3であるとされる。いわゆる構造主義が、伝統的な記号論(seiotique)ないしは言語学を批判したソ シュール以後のシステム論的な言語学、もしくは記号学(seiologie)に由来する認識論から派生したことを考え合わせると、科学専門家集団の構造 論的な歴史研究のなかで、クーン氏がおそらく構造主義の影響のもとに言語学からこの用語をぬきだし、彼自身の構造研究のなかで利用しようとしたことは、そ れなりにうなずけるところでもある。※4
現代思想の影響下にあって、この概念は多分野多方面にまたがり、より一般命題化されてきているといえ るだろう。個々の学問領域 もしくは知的 領域をかたちづくる制度的で観念的な母型となるべく標準化された命題の標本であり、さらにそれによって構成される認識(表象)体系の応用基盤をも指してひ ろく用いられることがある。
※1 paradeigma
※2 トーマス・クーン 『科学革命の構造』 中山茂訳 みすず書房
※3 顕在的な配列と結合の差異からなるシンタグム(syntagme)であり、潜在的な選択と排除の差異からなるパラディグム(paradigme)である。
※4 トーマス・クーン氏の用法をうけて丸山圭三郎氏は、これを特定共時態(idiosynchronie)としてのラング(langue)とみなした。また、 佐藤信夫氏の解説によれば、ロラン・バルト氏の『モードの体系』では、記号のシステム(体系)とほぼ同義の意味でパラディグムという語が用いられている場 合が多いという。
◆むろん、用語の厳密な意味を規定することがここでの目的ではない。
→暗黙知 Michael Pola'yi
→エピステモロジー(epistemologie)

ディスコース的プラクティスの分析 l'analyse du pratique discursive, the analysis of discoursive practice
フランスの哲学者ミシェル・フーコー氏は、言語というプラティーク(pratique)を、語る主体 によって統一 されたアイデンティティ、 すなわち、歴 史的、人格的に線状化された発達形式に準拠させず、意味論の形式的な体系にも還元せず、社交的な自律性を備えたエトゥル(l'etre et du discours)※1においてとらえ、その史的な編制に関する分析をおこなった。
言表(enonce)、主体化または経験の構成、力の多 形的技術とが、相関的に結びつくその社交的なプラティークの戦線においてディスクールの秩序は編制される。ディス クール(discours)における見えざる力関係の諸システムが、いわばラング (langue)となり、知(savoir)となり、イデアとなり、そして史的なプラ ティー クの体制(l'regime de pratique)を樹立する。まさしく、知ることの諸条件であるエピステーメ(episteme)が、在ることの諸条件である主体化と対象化とを共 に編制する力の場(champ, field)である。
ディスクールの問題地平は、社交的かつ史的な力の諸関係をめぐる主体性の形成との相関項において分析 すること、つまり、社交的 かつ史的な関 係における権力プラティークの編制をめぐる分析にあり、単なる記号のシステム分析でもテクストの解読でもない。


語る主体に内在する言語でなく、主体(=客体)をして語らせるディスクールとその力の関係に ついて、フーコー氏 は論じる。知 の技術と権力の技術とを結びつけるディスクールの諸戦略とその史的な編制とが、人間もしくは諸個人を主体であるとともに客体たらしめる経験の政治的、闘争 的、倫理的な問題構成において分析される。
言葉もしくは記号が、社交的な場において実際に行使(pratique)されているそのありさま、そ の在り方(etre エトゥル)、その出来事(evenement)が、ディスクールの問題地平である。ディスクールのプラティークを通じて、言語体系であるラングと発話 言 表行為(enonciation)である諸々のパロールとは、戦略的、政治的に結びつくことができ、システムと行為の主体とは相互に準拠し合うこと(構 造?)になる。ディスコースの権力とその秩序によって、主体と対象とが記号(意味するものと意味されるもの)とともに生産されるのである。
歴史的かつ社交的にディスクールの秩序が編制され、諸々のプラティーク(実行、慣行、行使)の体制を 成 しているありさまに、知の 力学的な存在 様式(etre)、すなわち理性と知性とを可能にする歴史的に特徴的な思考の様式であり諸条件であるエピステーメが読みとられ、ディスクールとプラティー クとの相関が、事物の秩序化とその主体化とのかかわりにおいて、彼独自の言説分析の方法である考古学(archeologie)ならびに系譜学 (genealogie)として論じられた。
→権力分析
→会話分析 (conversation analysis) Harold Garfinkel

※1 仏語 etre、英語ではbe動詞、存在詞、即ち存在様式。

過剰化する社交的現実、肥大する社交的現実
電子メディアにおけるバーチュアル・リアリティ(virtual reality)※1の 技術は、こ れまでは虚構 や仮想の体験であったものを現実体験のみならず、制度化された客観的現実に変換してしまう社交的力になるだろう。現実と虚構の境界が曖昧になり、現実(の 体験)が希薄で希少なものになるのではない。事態はむしろその逆なのである。
※1 バーチュアルは日本語には一概に訳しがたく、多義的に定義できる語であるため、ここではその詳しい検討は避ける。おそらく光学での用法に由来すると思わ れる。
こうした技術の全般的な社交化は、社交的にリアリティと見なされたものの体験を主体に限りなく強制 し、むしろ現実を過多で過剰 なものにする のである。
学校やテレビがそうなったように、インターネットも社交的不可避の現実になれば、それこそ逃れ難き現 実関係の網の目となってく るにちがいな い。インターネットや電子空間の不適応「患者」が、まさに、現実不適応「患者」として社交生産されることになるのである。→不足化のエコノミー
◆ 教育システムは、子どもの予期的社交化を企図するための仮想空間(仮に想定された現実空間)であるが、バーチュアル・リアリティの技術は、その社交的な 予期の性格からして、第一に教育技術媒体としての役割をもつものになるだろう。この点に関しては別項。
→ハイパー・リアル/リアリティ Jean Baudrillard

企業(経営)パラダイム※1の表象転換
従来からの雇用という考え方を反省せねばならない。雇用主が労働者を雇って会社の規格に適合した生産 主体・労働主体にするとい う制度化され た狭い枠組でなく、たとえば、錯綜する多様な生産‐消費線の交差点ないしメディアとして企業表象や雇用関係が考えられていかなければならない。
企業の創造する商品はモノではなく、その付加物としてのサービスでもなく、社会的・文化的な表象デザ インにおける重層的な(線 型的伝達では ない)コミュニケーションないしインターチェンジなのである。まず、働くことのデザインを商品のデザインと平行・等価次元に位置づけなくてはならない。つ まり、企業メディアのこうした表象エコノミーにとって、社員主体もまた消費者であり、消費者主体もまた社員なのである。
働いて生産することと、消費することの生産ワーク(シャドウ・ワーク)との区別をとりさり、それらを 有機的に結び付けて互換的 に考える発想 が要されてくる。雇用・仕事(生産活動)の提供と創造もまた企業表象における商品‐デザインであること、消費もまた雇用・仕事(生産活動)の提供と創造に おける企業表象のデザインであるということになる。
商品‐モノ‐サービス‐生産‐消費(社員‐顧客)という既存のタームを現実の表象から消し去ること。 少なくとも、消費や生産と いわれている 行為をメディアへの多彩なアクセス可能性としてとらえかえすこと。よって、商品‐モノ‐サービス‐生産‐消費(社員‐顧客)の関係をメディアの社交表象か ら考え直すことである。
商品やサービスの生産主体主義からでなく、生産領域と消費領域との乖離をとりさりながら、社員と顧客 の区別を超えた多彩な主体 によるアクセ ス表象によって、企業メディアそのものをマネジメントすることなのである。
→プロシューマー(prosumer)※2 アルビン・トフラー『第三の波』。→産業社会以降(post industrial society)
※1 「マーケティング・パラダイム」の変革について経営学的に論じたものとして、たとえば、山之内照夫『新・技術経営論』(日本経済新聞社)。知識資本主義に おける経営および就労のパラダイム転換を論じた文献として、 アラン・バートン=ジョーンズ氏の『知識資本主義』(野中郁次郎 監訳/有賀裕子 訳 日本経済新聞社)。消費と労働の関係をめぐるその社会学的考察は別項にて。

社会的必要の拡大再生産、必要の象徴的生産 extended reprodeuction of social needs
生活ないし社会生活とよばれている観念的、想像的、表象的なプラクティスは、日常的現実を意味づけて いるイデオロギーでもあり、 そこでは社交的文脈による生活的必要が日々生産されている。いうまでもなく産業的消費社会は、消費を社交的に生産しながら消費的必要をかぎりなく制度化す る諸様相から なりたつ。
近代化によって爆発的に興隆してきた教育市場の膨張と集中は、社交的必要の膨張と集中の形成 過程と不可分の関係にある。必要形 成が抽象的人 間化に向けて学校資本(情報資本)へと市場集中(独占資本化)し、個人の成長にとって不可欠な能力主体、そして社交性にまで記号化する。
いずれコンピュータは個人の内在的な能力に属する「社会生活」の必要になるだろう。コン ピュータを使いこなせなければ仕事がで きず、職業も 限られてくるばかりか、さらに重要なことに、そのための教育資本が新たな制度的必要の人間化と結びつくのである。
その結果として、コンピュータに適応できない諸個人は臨床的に病理学化され、過剰適応や不適 応症候群といったラベリングの下で 治療される必 要がある症例的客体へと主体みずから自己生産するようになる。モノの必要的生産を人間主体に解剖学的に埋め込むための人間テクノロジー市場(バイオ・ポリ ティクス※1)として、教育や医療はかぎりなく膨張するのである。
※1 「生命」に対するエコノミーの政治学として、ミシェル・フーコーが『セクシュアリテの歴史』のなかで論じたポリス(行政)概念。
しかし近年、この必要の累進的過剰とその人間(能力)化が、私たちの生活を便利にするなかで 不自由にし、安心による代償の脅威 となってあら われている。必要の大量生産のみを無条件によしとする経済パラダイムが問われてきている。
◆ 必要の拡大再生産におけるディスコース的生産様式に関しては、不足化のエコノミーの 詳細にて扱う。「必要は発明の母」なのではなく、「発明は必要の母」なのである。

家族のゲゼルシャフト化※1、家族の社会化・学校化
「家族」※2はもはや存在しない。そこは、社会的なものとして肥大 化した学校や会社の単なる付随物とし ての帰宅所で あって、学校や会社の規格にもとづく補足的で補完的な機能を期待される寮かカプセルホテルか、子会社か下請工場である。他の社会諸制度や社会化した個人か らそうある(なる)ことの効率性を測定されるべく観念化された設備にすぎない。こうして家族を構成するものの輪郭は、知らぬ間に社会のなかへと溶解しはじ める。
家族の社会化は、家族関係の外在化でもあり、肥大する社会の機能性(社会の分化)へと還元さ れつづけ、家族としての内在性と自 立性とを喪失 していく近代化の過程であった。これを家族のゲゼルシャフト化ともいう。
家族の社会化、すなわち近代化の第一の異変になったのは、子どもたちの教育産業化でもある学 校化である。平日の昼間のほとんど の時間、村や 町や家庭の中から子どもたちの姿は消えていった。大人達と生活空間を完全に分離させていなかった子どもたちの存在の喪失は、家族的紐帯にもとづく精神風土 に根本的な変容をもたらしはじめる本質的な兆候になった。閉じた施設になかば隔離されて、地域から子供たちの姿は一人残らず消えていき、子供のいない社会 がつくりだされる。
学校化された子女は、その潜在的度合が高ければ高いほど、なかば必然として都会的な生活を選 びとり、家族的紐帯の世界から乖離 した抽象的な 社会的個人となってゆく。すでに彼らは、家族の落とし子たちなのではなく、学校の落とし子たちなのである。
もともと近代学校システムは、ある場所に人口を集中保管し、マスで過密な空間で機械時計に合 わせたプログラムの下での計画的な 生活をさせる という近代都市化モデルの縮図となってきたものだ。→パノプティコン都市
家族のこうした学校化によって、教育市場家族が全面的に出現し、学校化装置としての家族表象 が、教育方法学、経済学、精神分 析、心理学、社 会統計学的なディスコースの流通経路として立ち現れてくる※3。家庭での子どものしつけの謂(子育て)とは、学校に適応するための それであり、そのための「学校化資本」の象徴的で身体的な確保とその予期生産秩序になっている。
こうして、家族には、子育てや夫婦生活における性的ないし情緒的な役割を求める場としての意 味がかろうじて残されたかにみえる が、家族のゲ ゼルシャフト化は上記にとどまるものではない。そこでは、その機能性(役割)によって表象されるかぎりでの家族としての意味は、すべて、ゲゼルシャフト化 の水準へと拡張または還元される可能性を秘めている、つまり暗黙のうちにそう予期されているのだ。
※1 ヘーゲルの(?)意志論を社会契約論と社会有機体論とに導入したドイツのフェルディナンド・テンニエス(Ferdinand Tonnies)は、地縁や血縁にもとづくゲマインシャフト(本源的‐有機的結びつきとされる)から、職能上の分業化ないし専門化にもとづくゲゼルシャフ ト(選択的‐契約的結びつきとされる)へ移行する歴史発達過程を想定した(『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』)。また、マックス・ウェーバーは、彼の いう社交的行為類型である目的合理的もしくは価値合理的な行為に準拠して結びついた人間関係の過程を、ゲゼルシャフト化 (Vergesellschaftung)という理念型によって定義した。
※2 ここでいう「家族」とは、遺伝的な血縁集団を指すのでも、制度としての親族構造を指すのでも、「核家族」「複合家族」などの家族諸類型を指すのでもない。 つまり、そのような家族の集合形態が問題になっているのではない。形態としての家族ではなく、主体的な形相としての家族表象がここでの主題なのである。
※3 「教育家族」という学校化した家族関係(家族表象)の出現と台頭とを意味する。教育産業とともに合目的論化された家族表象がディスコース的プラクティスと なって爆発的に生産され、学校化資本と結びつき、子どもたちの存在が社会的に予期された「発達主体」として対象化、客体化される一連の社会線(社会化され た視線)を物語っている。フィリップ・アリエスが家族の心的表象史(まなざしの歴史)において論じた教育的配慮の対象としての「児童期の誕生」、ドンズロ そしてドゥルーズが論じた近代家族を包囲する「保護複合体」と「社会的なるものの上昇」、フーコーが論じた「セクシュアリテの装置」など、近代の社会主体 および人間主体が構築される場である。
◆ 家族の社会化、家族の学校化の詳しい内容については「家族の社会線」にて。社会的なものの近代的形成による家族の再編制については、ジャック・ドンズロの 研究を参照。
→機能主義化された家族

社会的主体の創設、社会的個人の誕生
制度のマクロな水準での近代化とは、ミクロな水準では、個人の社会化というディスコース(言 い述べるこ と)における学校化とい うプラクティス の編制であった。
日常生活全般が近現代化する過程で、一般に「社会生活」や「社会人になる」と表現されて用い られるようになった一連のディスコース上のプラ ティク(述べることの上で為されること)がある。これらを「近代化=社会化」の歴史線および社会線からとらえておく必要がある。
社会諸科学のディシプリン※1が可能になったエピステーメ※2の 諸編制とはなに か? 社会的 な個人主体および集団主体の創設をめぐるディスコースの登場と繁殖、それらによる主体球すなわち社会球(社界球)の構築が問われてくる。
近代人間諸科学の中心に位置する一般経済学的なもの、そして臨床心理学、教育学、臨床医学、 社会統計学など、近代的な人間化諸 制度とのあい だに密接な関係を演じてきたもろもろのディスコース的なプラクティスおよびシステムとの関連で考慮しなくてはならない。→人間科学=社会科学(行動科学) の 形成
※1規律、訓練、鍛練、修養、教練、訓練法、修業法、しつけ、規律、統制、 戒 律、懲戒、折檻。それらの適用を合理化するために、ある特定の分割秩序をあらかじ め設けたもの。またはその(学問などの)分割体系。
※2 ある社会や時代、または特定の空間や時間の編制のなかで、ディスコース・プラクティスの出現と変遷とを可能にしている暗黙理の知の層。ディスコース、プラ ティク、システムの合理化を支える力動的な流通と節制の場になっている。

過剰の社会学 hypersociology
過剰なる剰余の眼差しとしての社会と社会学。先験的な与件、経験的な与件としての「社会」を 消し去り、「社会」なる先験的経験 を実現する主 体の史的編制を研究する。<社会集団=アイデンティティ=行為>を対象とする社会学から、<社会球(社界球)=主体球=視線>を対象とするハイパーリアル の「社交」学へ。
近代制度の世界関係モデルによる仮想現実的な範型としての社会化および社会性から離陸し、社 会線と歴史線のさまざまな系列とそ の流通を多線 形的(非連続的)に分析しつつ、社会化ならびに社会性が主体球として創設され、不断に再現=表象されている社会球(社界球)のディスコース表象関係、制度 表象関係、および歴史表象関係の戦略的なエコノミーと、その象徴的な権力ゲームに注目する。

ノートは随時、誤字、脱字、誤変換等をふくめた文の訂正を繰 り返しています。これらの文はすべて不十分なままアッ プロードしつづけているものです。また、失礼ながらも慣例として、著名な方の人物名の敬称を省略させていただいている場合があります。


戻る
Copyright (C) 1998-2004 nuttycom
All Rights Reserved.

1