第三章:使徒15章と「使徒の布告」

はじめに

 ここまでの章では、旧約聖書に書かれた血に関する掟を見て来ました。前の章にも述べたように、ものみの塔協会は、われわれがもはやモーセの律法には縛られてはいないことを認めています。それなのにあくまでこの血の掟を絶対の掟として現代のエホバの証人に守らせている理由は、それが新約聖書の中にも繰り返し出てくるからであると主張します。彼らが新約聖書の血の掟を述べたところとして引用するのは使徒15章であり、この内容は21章で繰り返し述べられています。ここでは、この使徒15章の血に関する記載が、本当にエホバの証人の主張するように、人類が永遠に守らなければならない絶対的な掟として書かれているのかどうかを、聖書の全体の文脈の中で詳しく検討してみましょう。

 もし新約聖書に余りなじみがなく、使徒(使徒行伝、使徒言行録、使徒の活動、等の訳が日本語の聖書では使われている)を詳しく読んだことのない方は、この機会にこの書を第一章から一気に通して終わりまで読み、その中で15章がどのような意味を持つかを自分で考えてみてください。なお、聖書はものみの塔の新世界訳だけでなく、口語訳、新共同訳、新改訳、また英語訳なども参照し、微妙な訳語の違いにも注目して下さい。

ものみの塔の解釈の仕方

 まず、聖書の記述を詳細に辿る前に、ものみの塔協会はこの使徒15章に関してどのように教えているかを『血はあなたの命をどのように救うことができますか』5頁の引用から見てみましょう。
 イエスの死後,幾年かが経過し,クリスチャンになった者がイスラエルの律法すべてを守る必要があるかどうかについて問題が起きた時どんな事柄が生じたかに注目してください。その問題は,使徒たちを含むクリスチャンの統治体の会議で討議きれました。イエスの異父兄弟であったヤコブは,ノアとイスラエル国民に対して語られた血に関する命令を含む書き物に言及しました。その命令はクリスチャンに対しても拘束力があるのでしょうか。−使徒15:1−21。

 その会議は下した決定をすへての会衆に送り出しました。クリスチャンはモーセに与えられた律法を守る必要はなく,「偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたもの[血を抜いていない肉]と淫行を避けていること」が「必要」なのです。(使徒15:22−29)使徒たちは単なる儀式的もしくは食事に関する法令を提出していたのではありません。この布告は,倫理に関する基本的な規範を定めたもので,初期クリスチャンはこれに従いました。それから約10年後,彼らは,「偶像に犠牲としてささげられた物,ならびに血……また淫行から身を守っている」べきであることを認めました。−使徒21:25。

 あなたは,非常に大勢の人々が教会に通っていることをご存じでしょう。彼らの大半は,クリスチャンの倫理の中に,偶像に崇拝をささげないこと,ゆゆしい不道徳行為に携わらないことなどが含まれていることにきっと同意するでしょう。しかし注目に値するのは,使徒たちが,血を避けることをそれらの悪を避けることと同じ道徳的な高いレベルに置いていることです。その布告の結びには,「これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」と述へられています。−使徒15:29。(『血はあなたの命をどのように救うことができますか』1990年5頁)

 このものみの塔の論理は、聖書に余りなじみの無い人々にとって、もっともらしく聞こえます。しかしその裏には、ものみの塔の出版物が決してエホバの証人たちに注目させない、多くの聖書の記述があり、それらを意図的に無視してこのような議論を展開します。上の第三段落では、「彼ら(クリスチャン)の大半は,クリスチャンの倫理の中に,偶像に崇拝をささげないこと,ゆゆしい不道徳行為に携わらないことなどが含まれていることにきっと同意するでしょう。しかし注目に値するのは,使徒たちが,血を避けることをそれらの悪を避けることと同じ道徳的な高いレベルに置いていることです」と述べています。しかしそれでは何故エホバの証人以外の全てのクリスチャン、またモーセの律法を今でも堅く守っている正統派のユダヤ教徒でさえ、輸血を受けることが聖書の掟に反することでないと結論しているのか、を明らかにしていません。恐らく、彼らはエホバの証人のみが聖書の真理を理解できるので、彼らのみがこの掟を聖書の中から読み取れると主張するかも知れません。

 この使徒15章を読んで、エホバの証人だけが輸血禁止を読みとり、他のクリスチャンも聖書学者も決してそのようには読みとらない真の理由は何なのでしょう。もし、ものみの塔が、ほとんど大部分の聖書を素直に読みとる人ができないような、とんでも無い曲解を行っているとしたら、それがもっと可能性の高い説明ではないでしょうか。もちろん、ものみの塔はそのような可能性などは、決して信者に提起しません。ここではその可能性を、聖書に基づいて検討してみましょう。

使徒15章の背景

 イエス・キリストの死後、初期のキリスト教会の最大の問題は、ユダヤ教系のキリスト教徒と、非ユダヤ教系の信者との統合問題でした。この非ユダヤ系の信者たちは、大部分の聖書のなかでは「異邦人」(Gentile)と訳されていますが、ものみの塔の新世界訳では「諸国民」(nations)と訳されており(例えば使徒15:23)、ユダヤ人とそれ以外の「異邦人」とが対立していた初期のキリスト教会の問題点が、エホバの証人の訳ではわかりにくくなっています。キリスト教はユダヤ教の中に生まれた新しい宗教であり、イエスもパウロも使徒たちもみな、ユダヤ人でした。しかし、その普遍的な愛の教えはユダヤ人以外のギリシャ人やローマ人たちの「異邦人」の間に急速に広まりました。またパウロも精力的に「異邦人」の間にイエスの教えを広めた結果、初期のキリスト教会にはパリサイ人を含むユダヤ教を信奉していたユダヤ人からキリスト教に転向した人たちと、異邦人のキリスト教徒が混在していたのでした。

 これらのユダヤ人のキリスト教徒は、彼らのユダヤ教徒としての宗教的慣習をすぐに捨て去ることは出来ませんでした。このような人々にとって、全くユダヤ教の宗教的慣習に慣れていない異邦人と、クリスチャンとしての兄弟姉妹としての交わりをもっていくことは、容易ではありませんでした。この問題はパウロの多くの書簡の中に繰り返し取り上げられています。このような背景の中で15章は始まります。

使徒15章の解釈

 15章の中心となるテーマは、異邦人のキリスト教徒がモーセの律法に定められた割礼を受ける必要があるかどうかの議論です。

さて,ある人たちがユダヤから下って来て,「モーセの慣例どおり割礼を受けないかぎり,あなた方は救われない」と兄弟たちに教えはじめた。2しかし彼らを相手に,パウロとバルナバによって少なからぬ争論と議論が起きた時,人々は,パウロとバルナバおよび自分たちのうちのほかの幾人かが,この論争のことでエルサレムにいる使徒や年長者たちのもとに上ることを取り決めた。(使徒15:1,2)
 パウロたちのアンティオキアの会衆にユダヤから下ってきた人たちは、明らかにユダヤ人のクリスチャンで、異邦人のクリスチャンもモーセの律法を引き続き遵法して、割礼を受けなければ救われないと教え始めました。パウロとバルナバ及び他の人々はこれに対し、キリストの教えと異なるものであると異議を唱え、異邦人のクリスチャンはユダヤ人の宗教慣習を守る必要はないと唱えたのでした。エルサレムには当時まだ使徒たちがおり、ユダヤ人のキリスト教徒の中心地でした。この異なる教えを広めに来た人々がユダヤから下って来たことが、エルサレムに行って真相を解明することの直接の理由でした。
3こうして,これらの人たちは途中まで会衆に見送られた後,ずっと進んでフェニキアやサマリアを通り,諸国の人たちの転向のことを詳しく話しては,すべての兄弟たちを大いに喜ばせるのであった。4エルサレムに着くと,彼らは会衆および使徒や年長者たちに親切に迎えられ,神が自分たちを通して行なわれた多くの事柄について細かに話した。5しかし,信者となっていたパリサイ派の人たち幾人かが席から立ち,「彼らに割礼を施し,モーセの律法を守り行なうように言い渡すことが必要だ」と言った。(使徒15:3-5)
 パウロとバルナバは旅の途中で、大勢の異邦人がいかにキリスト教に転向したか(上の新世界訳では「諸国の人たちの転向」と訳されている)を伝えていきました。エルサレムに着くと、彼らは当地のキリスト教徒に温かく迎えられました。しかし、戒律に最も厳密なパリサイ派のユダヤ人からキリスト教徒になった人々は、アンティオキアに下ってきたユダヤ人と異口同音に、異邦人に割礼を受けさせることが必要だ、と言いました。
6そこで使徒や年長者たちは,この件について調べるために集まった。7さて,多くの議論が出てから,ペテロが立って彼らにこう言った。「皆さん,兄弟たち,あなた方がよく知っているとおり,神は早いころからあなた方の間で選びを行ない,わたしの口を通して諸国の人たちが良いたよりの言葉を聞いて信じるようにされました。8そして,[人の]心を知っておられる神は,わたしたちに行なわれたと同じように,彼らにも聖霊を与えて証しをされました。9また,わたしたちと彼らとの間に何の差別も設けず,彼らの心を信仰によって浄められたのです。10それですから,どうして今,父祖もわたしたちも負うことのできなかったくびきを弟子たちの首に課して,神を試したりするのですか。11それどころか,わたしたちも,その人たちと同じように,主イエスの過分のご親切によって救われることを頼みとしているのです」。12すると,一同は沈黙してしまった。そして,バルナバとパウロが,自分たちを通して神が諸国民の間で行なわれた多くのしるしや異兆について話すのを聴くのであった。(使徒15:6-12)
 このパリサイ派キリスト教徒の、異邦人も割礼が必要であるとの主張に対して、使徒ペテロは、神が異邦人(「諸国の人たち」)に伝道するように使徒たちに命じたこと、神は異邦人とユダヤ人をもはや差別しないこと、そして全てのキリスト教徒は、異邦人もユダヤ人も、掟を守ることではなく、「主イエスの過分のご親切」によって救われることを訴えました。この中でペテロはこのユダヤ教の掟を「父祖もわたしたちも負うことのできなかったくびき」と表現していることです。そこにはこの古い掟にもはや本質的な価値を認めていない態度がはっきりと示されています。そしてキリスト教徒の救いは、掟を守る人の努力によって得ることではなく、「主イエスの過分のご親切」、あるいは「主イエスの恵み」(新共同訳)により与えられるのでした。

 次に話したのが、ヤコブでした。ここでシメオンと言っているのはペテロのことです。

13彼らが話し終えてから,ヤコブが答えて言った,「皆さん,兄弟たち,聞いてください。14 シメオンは,神が初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された次第を十分に話してくれました。15 そして,預言者たちの言葉はこのことと一致しています。こう書いてあります。16『これらの事の後,わたしは戻って,倒れたダビデの仮小屋を建て直すであろう。その荒れ跡を建て直してそれを再び立てるであろう。17残っている人たちが,すべての国の民,わたしの名によって呼ばれる民と共に,切にエホバを求めるためであると,18昔から知られたこれらの事を行なっておられるエホバが言われる』。(使徒15:13-18)
 このヤコブの言葉を上の『血はあなたの命をどのように救うことができますか』5頁の引用と比較して見て下さい。ものみの塔は「イエスの異父兄弟であったヤコブは,ノアとイスラエル国民に対して語られた血に関する命令を含む書き物に言及しました」と書いていますが、ここにはどこにも「ノアとイスラエル国民に対して語られた血に関する命令を含む書き物」は言及されていません。ヤコブが言及しているのはアモス9章11、12であって、ノアに与えられた血の命令は言及されていないのです。ここでも、ものみの塔の出版物に特有の、聖書に実際には書かれていないことを、あたかも聖書に書いてあるがごとくに表現し、聖書になじみのない人々を信じ込ませる手法が使われています。
19ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,20ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。21モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」。(使徒15:19-21)
 ヤコブもまたパウロやペテロと同じように「諸国民から神に転じて来る人々」すなわち異邦人を、ユダヤ教の掟によって拘束すべきではないという考えでした。しかし、異邦人とユダヤ人との当面の緊張関係を緩和するために、彼は最低限の妥協案を提示したのでした。そこでは割礼は必要としない代わりに、最低限として(「ただ」という言葉、英語では instead (NIV), but(NWT, KJV, ASV)、に注目)「偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避ける」ことが提案されました。何故、この四つの事柄だけを取り上げて守らせるようにヤコブは提案したのでしょうか。

 ものみの塔は、上で引用した『血はあなたの命をどのように救うことができますか』の5頁で、「この布告は,倫理に関する基本的な規範を定めたもので,初期クリスチャンはこれに従いました」と述べています。この見方は本当に聖書の記述を正しく反映しているでしょうか。この四つの項目は本当に初期クリスチャンの倫理に関する基本的な規範を定めたものでしょうか。もしそうであれば、なぜ、もっともっと基本的な倫理の規範である、人を殺すな、盗むな、嘘をつくな、というような命令がないのでしょうか。少し注意深く考えてみると、この一見奇妙な取り合わせの四項目には何かそれらを選んだ特別な理由があることに気がつきます。

 その答は次の21節にはっきりと書かれています。この四つの項目が取り上げられた理由は他でもない、「モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」ということでした。この節は、ものみの塔の新世界訳も含め、全ての英語訳で「for」という、直接前の文の理由を示す言葉で始まっています。モーセの律法のこの部分は、古来からユダヤ人の伝統として、安息日ごとに会堂で読み上げられる慣習になっていたのでした。ここでヤコブは、「倫理に関する基本的な規範」などという本質的な理由ではなく、ユダヤ人の古来からの伝統を尊重することにより、ユダヤ人の信者の神経を逆なでしないようにする配慮が理由であることを示しています。このことは、以下の使徒たちが実際に書き送ったこの布告をよく調べて見れば更に確定的に明らかになります。

22そこで,使徒や年長者たち,また全会衆は,自分たちの中から選んだ人々を,パウロおよびバルナバと共にアンティオキアに遣わすことがよいと考えた。すなわち,バルサバと呼ばれるユダとシラスで,兄弟たちの中で指導的な人たちであった。23そして,彼らの手によってこう書き送った。「使徒や年長者の兄弟たちから,アンティオキア,またシリア,キリキアにいる,諸国民からの兄弟たちへ:あいさつを送ります。24わたしたちの中から行ったある人たちが,わたしたちが何の指示も与えなかったにもかかわらず,いろいろなことを言ってあなた方を煩わせ,あなた方の魂をかく乱しようとしていることを聞きましたので,25わたしたちは全員一致のもとに,人を選んで,わたしたちの愛するバルナバおよびパウロ,26わたしたちの主イエス・キリストの名のために自分の魂を引き渡した人たちと共に,あなた方のもとに遣わすことがよいと考えました。27このようなわけで,わたしたちはユダとシラスを派遣しますが,それはまた彼らが同じことを言葉で伝えるためでもあります。28というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。29すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。(使徒15:22-29)
 ここで注目して頂きたいのは29節です、そこでは1)偶像に犠牲としてささげられた物、2)血、3)絞め殺されたもの、4)淫行、の四項目を避けることを「必要」としています。一体この四項目はどこから出てきたのでしょう。それは上にヤコブが述べたように、安息日ごとに会堂で朗読されるモーセの律法から出ているのです。ここで、読者の方は前の「モーセの律法と食事の掟」の章を簡単に復習して下さい。その章の一番最後で、レビ記の17、18章に記されている掟を順番に箇条書きにしました。
  1. 供与の犠牲(食物の捧げ物)はエホバ神にのみ捧げられなければならない。(レビ記17:1-9)

  2. 意図的に血液を食べてはならない。(レビ記17:10-14)

  3. すでに死んでいたり切り裂かれたりして、正しく血液を処理していない動物は、緊急事態を除いては(申命14:21,28,29)食べてはならない。(レビ記17:15,16)

  4. 性的不品行や近親相姦を行ってはならない。(レビ記18:1-27)
 前の「モーセの律法と食事の掟」の章に書きましたように、これらの四つの掟はレビ記の17、18章で、異邦人(外国人居留者)もユダヤ人(イスラエル人)も共に拘束される掟としてはっきりと書かれており、これは安息日ごとに会堂で朗読されたのでした。これに対して割礼は異邦人には必要とされておらず、従って割礼の代わりとして、モーセの律法の中で異邦人が守らなければならないこれらの四つの掟が取り上げられたのです。この使徒たちの布告の手紙が、このレビ記のこの部分に言及していることは、1)偶像に犠牲としてささげられた物、2)血、3)絞め殺されたもの、4)淫行、の四項目の順番を正確に守っているところからも明らかです。(絞め殺された動物は、ユダヤ教徒の間では瀉血が行われていないため、すでに死んで瀉血の処理がされていない動物の典型として避けられていました)。

 使徒たちがその布告のなかで言及したのは、レビ記で異邦人も守ることを要求されている、四項目を取り上げたのに過ぎませんでした。そこには、ものみの塔の主張するような「倫理に関する基本的な規範を定めた」ような普遍的な教えは意図されていません。むしろ、そこにあるのは「古来どの都市でも行われている、安息日ごとの習慣」に則って、異邦人として最低限要求されていることを守っていれば、ユダヤ人の信者たちとうまくつき合っていけるでしょう、という妥協の態度でしかありません。

使徒21章

 上記の使徒15章の「使徒の布告」は一見すべてを円満に解決できるように見えましたが、このユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との対立問題は、そう簡単には解決しませんでした。この15章の後、約十年後に再びエルサレムに戻ったパウロを待っていたのは、相も変わらずの、律法に対して熱心なユダヤ人強硬派のキリスト教徒の、パウロに対する根強い反感でした。ヤコブはパウロにこう説明しています。

20それを聞くと,彼らは神の栄光をたたえはじめ,それから[パウロ]にこう言った。「兄弟,あなたが見るとおり,ユダヤ人の中には幾万もの信者がいます。そして彼らはみな律法に対して熱心です。21しかし,彼らはあなたについて,あなたが諸国民の中にいるすべてのユダヤ人に対してモーセからの背教を説き,子供に割礼を施すことも,[厳粛な]習慣にしたがって歩むこともしないように告げている,とのうわさを聞いています。(使徒21:20,21)
 ここでは、15章の「使徒の布告」では直接触れられていない、異邦人の間に住むユダヤ人が割礼をすることが必要かが問題にされています。パウロもヤコブも、クリスチャンが肉の割礼がもはや意味のないことは知っています(ガラテヤ5:2−3)。しかし、ヤコブはここでも、パウロがユダヤ人の宗教的慣習を無視することで、それ以上の軋轢を深めることがないように考慮しています。そして、ヤコブはそのために二つの事柄をパウロに述べています。
22それで,この点をどうすべきでしょうか。いずれにしても彼らは,あなたが到着したことを聞くでしょう。23ですから,わたしたちが告げるこのことをしてください。わたしたちのところには誓約を立てた四人の人がいます。24この人たちを連れて行って一緒に儀式上の清めをし,その費用の世話を見て,彼らが頭をそってもらえるようにしてやりなさい。こうすればだれもが,あなたについて聞かされているうわさには何の[根拠]もなく,あなたが秩序正しく歩んで自らも律法を守っていることを知るでしょう。(使徒21:22-24)
 第一は、パウロがユダヤ人の宗教慣習であった、ナジル人としての誓約(民数6:2−21)を立てた四人の人を助けてやることにより、パウロがユダヤ人の宗教慣習を忠実に守る人間であることを示すことでした。ここでは、パウロもヤコブもこの宗教儀式の本質が大事なのでなく、ユダヤ人の信者の反感を緩和することを目的としていることは、この言葉づかいから明らかです。
25諸国民の信者たちについては,偶像に犠牲としてささげられた物,ならびに血と絞め殺されたもの,また淫行から身を守っているべきであるとの決定を下して,使いの者を送ってあるのです」。(使徒21:25)
 そして第二は、その十年前にすでに出されていた「使徒の布告」でした。ここで、例の四項目の避けるべき事柄が繰り返して言及されています。ヤコブがこのように、ナジル人としての誓約を立てる儀式と並列して、この四項目を取り上げているところからも、彼がこの四項目をユダヤ人の信者の反感を緩和することを目的として使っていることがわかるのです。
26そこでパウロは,次の日にその人たちを連れて行って一緒に儀式上の清めをし,それから神殿に入った。彼らひとりひとりのために捧げ物をささげるべき[日]までに満たすべき,儀式上の清めの期間を通知するためであった。(使徒21:26)
 パウロはこのヤコブの忠告に従って、翌日、ユダヤ教の宗教儀式に参加したのでした。ここでのパウロの態度もまた、これらの儀式や布告が、律法に従うことが必要であったから行われたのではなく、異邦人とユダヤ人との間の軋轢の緩和が一貫したパウロの目標であったことを如実に示しているのです。

「使徒の布告」は絶対的な拘束力を持つ規範だったでしょうか。

 以上見てきたように、「使徒の布告」の四項目の避けなければならない事柄は、確かにユダヤ人の異邦人に対する反感の緩和の対策として出されたことを見てきました。それでは、これらの四項目はたとえそのような状況で出されたものにせよ、それでも、ものみの塔の主張するように「絶対的な拘束力を持つ規範」だったのでしょうか。必ずしもそうではないことが、他の聖書の記述を見てみるとわかります。

 先ず、偶像に犠牲としてささげられた物は絶対に食べてはいけなかったのでしょうか。これに関してパウロはコリント第一8章で次のように教えています。

4さて、偶像にささげられた食物を食べることについてですが、わたしたちは、偶像が世にあって無きに等しいものであること、また、神はただひとりのほかにはいないことを知っています。5多くの「神」や多くの「主」がいるとおり、天にであれ地にであれ「神」と呼ばれる者たちがいるとしても、6わたしたちには父なるただひとりの神がおられ、この方からすべてのものが出ており、わたしたちはこの方のためにあるのです。また、ひとりの主、イエス・キリストがおられ、この方を通してすべてのものがあり、わたしたちもこの方を通してあるのです。7しかしながら、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人々にはこれまで偶像に慣れてきたので、偶像に対する犠牲の捧げ物として食物を食べ、こうして彼らの良心は弱いために汚されます。8しかし、食物がわたしたちを神に推奨するのではありません。食べなくても後れをとるわけではなく、食べたからといって誉れになるわけでもありません。(コリント第一8:4-8)
 またローマの14章でパウロは、食べるか食べないかの行為が重要なのではなく、食べる者も食べない者もその行為によって裁いたり、躓きになってはならないと書いています。
1信仰に弱いところのある人を迎え入れなさい。しかしそれは、[人の]内心の疑問にっついて決定するためではありません。2ある人は何でも食べてよいとの信仰を持っているのに対し、弱い人は野菜を食べます。食べる者は食べない者を見下げてはならず、食べない者は食べる者を裁いてはなりません。神がその人を迎え入れられたのです。(ローマ14:1,2)
 さらにコリント第一10章にも、肉市場で売られている肉は、何でも食べてもよいし、不信者が出した食べ物、それは当然ユダヤ人の肉の処理法に則って処理されていませんから、血液が含まれる可能性があるわけですが、それでもパウロは「何でも自分の前に出される物を食べなさい」と教えています。
25何でも肉市場で売っているものは、あなた方の良心のために、何も尋ねないで今後も食べなさい。26「地とそれに満ちるものとはエホバのもの」だからです。27不信者のだれかがあなた方を招き、あなた方が行きたいと思った場合、自分の良心のために、何も尋ねることなく、何でも自分の前に出される物を食べなさい。28しかし、もしもだれかが、「これは犠牲としてささげられたものです」とあなた方に言うなら、そのことを明かした人のために、また良心のために、それを食べてはなりません。(コリント第一10:25-28)
 ここでも28節で明らかに述べられているように、食べていけない状況は、それがそのことを気にする人(それはユダヤ人を指していますが)の気持ちを害する場合であることがわかります。

 素直にこれらのパウロの言葉を読むものは誰でも、パウロが偶像に捧げられた物や、血を含む肉を何が何でも食べてはいけないと主張してはいないことを明らかに読みとることができます。ものみの塔も、この明らかな矛盾、(それは聖書の中の矛盾でなく、彼らの教義と聖書のパウロの言葉の矛盾ですが)を無視し続けるわけには行かなかったようです。1978年10月15日(英文版)のものみの塔の「読者からの質問」の欄で、この問題をとりあげています。(以下の引用は英文版のものみの塔からの筆者による和訳です。)

読者からの質問

ある人たちが使徒15:28、29とコリント第一8章を比較して結論しているように、使徒パウロは偶像に捧げられた物を食べることに関して、一世紀当時の統治体と一致していなかったのでしょうか。

 もちろん、ものみの塔は「一致していない」と答えるわけにはいきませんが、他方でこの疑問を放置しておいて、一般のエホバの証人に自発的に聖書を深く考えることを誘導する結果になっても困ります。そこで、彼らはこの読者からの質問の欄を使って、何とかつじつまをあわせる工夫をしました。彼らの答は次のように始まります。
いいえ、証拠はパウロが使徒や年長者の布告に完全に一致していたことを証明しています。
 この欄では、パウロが必ずしも使徒の布告を絶対的に守らなければならないとは考えていなかったという、他の聖書注解者の見方を「危険で、霊感を受けた神の言葉に反する」と真っ向から否定した上で、次のような不可解な説明を与えています。
使徒15:28、29の使徒の布告が禁止しているのは、クリスチャンが正式な宗教儀式にその一部として参加したり、偶像崇拝の行為を行うことです。偶像に動物を犠牲として捧げた者はその肉の一部を食べました。そのような行為は明らかに宗教行為で、異教の神と食事を共にすることであると考えられていました(出エジプト34:15;申命32:17;コリント第一10:18−21)。クリスチャンは絶対にそのようなことはできませんでした。クリスチャンの統治体の布告はこのことを禁止したのであり、これはパウロと完全に一致していました。パウロは「ですから、わたしの愛する人たち、偶像崇拝から逃げ去りなさい」と書いています。−コリント第一10:14;テサロニケ第一1:9。

ですから、パウロはコリント第一8章、10章、やローマ14章を書いている中で、イスラエル人が昔行って神の怒りをかった偶像崇拝の行為や偶像をたたえる宴会に参加して食べることを許しているのではありません(民数25:1−4;啓示2:14)。そうではなくて、彼は偶像の神殿から持ってきて一般の公の場で売られている肉を、ただ単に普通の食事として食べることを扱っているのです。

 これは非常に不可解な解釈です。というのも聖書のこれらのどこの箇所を読んでも、使徒15:28、29の使徒の布告が「クリスチャンが正式な宗教儀式にその一部として参加したり、偶像崇拝の行為を行うこと」を禁止しているという、ものみの塔の説明を直接示す記述はどこにもないからです。「偶像に動物を犠牲として捧げた者はその肉の一部を食べました」と述べ、犠牲として捧げたものは宗教儀式に参加したことになるが、コリント第一8:4で言われるただ捧げられたものを食べることは許されるという解釈です。しかしこれは、本当に聖書に基づいた解釈でしょうか。ギリシャ語の原典を「王国行間逐語訳聖書」で使徒15:28、29の「偶像に犠牲としてささげられた物」とコリント第一8:4の「偶像にささげられた食物」のギリシャ語を見てみましょう。これらの箇所では全く同一のギリシャ語「eidolothuton」という言葉が使われており、これらの二つの表現が同一のギリシャ語で表わされていることをしめしています。「eidolothuton」というギリシャ語はストロング番号1494の単語で、ストロングによる単語の定義は「(meat, thing that is) offered (in sacrifice, sacrificed) to (unto) idols」です。ちなみに、英語圏で広く使われているNIV訳聖書では使徒15:29もコリント第一8:4も共に「food sacrificed to idol」と訳してこの二つを全く区別していません。

 上に引用したものみの塔の説明は、自分たちの元々聖書に基づかない使徒15:29の解釈を何とか正当化し、それと矛盾する聖書の箇所を彼らの使徒15:29の曲解にあわせるために、全く同じ聖書の単語を、自分たちの都合にあわせた異なった意味に勝手に解釈を変えているのです。このことは、ものみの塔の常套手段である、明らかに聖書には書かれていないことを憶測に基づいて作り上げる手口の、一つの良い例でしょう。

 もう一つのエホバの証人が避けて通る使徒15:29の言葉の解釈に「避けている」という言葉があります。この血を「避けている」という表現が本当に、ものみの塔が主張するように絶対的に、永久に全ての人類が守らなければならない命令を表現しているのでしょうか。この「避けている」のギリシャ語は「apechomai」という言葉で、ストロング番号567の単語で、ストロングの定義は「to hold oneself off」となっています。この言葉がどのような意味で使われているかを他の聖書の箇所で見てみると、その本当の意味合いが明らかになるでしょう。例えば次のペテロ第一2:11の表現を見てみましょう。

11愛する者たちよ、外国人また一時的居留者であるあなた方に勧めますが、つねに肉の欲望を避けなさい。そうした[欲望]こそ、魂に対して闘いつづけるものなのです。(ペテロ第一2:11)
 この「避けなさい」は使徒15:29と同じ「apechomai」が使われています。それではここでペテロは肉の欲望を絶対的に、永久的に禁じる命令を述べているのでしょうか。聖書全体を見ればこの解釈は聖書のメッセージとあわないことは明らかでしょう。肉の欲望には寝ることも、食べることも、飲むことも、全てが含まれますが、聖書はそのような絶対的な禁欲主義を教えてはいません。ペテロが全ての肉の欲望を網羅的、絶対的に禁じてはいないことは明らかでしょう。この「apechomai」という言葉は強い勧告の言葉であり、その実施には柔軟性がふくまれており、絶対的な命令を意味してはいないのです。

ものみの塔以外の聖書注解者の見方

 上に述べた、ものみの塔の使徒15章の解釈、すなわち、「この四つの禁則は倫理に関する基本的な規範を定めたものである」、という解釈は他の聖書注解者たちによって支持されているでしょうか。ここでは幾つかの著名な聖書注解者の見解を紹介しましょう。しかし、最も興味あるのは、ものみの塔の宗教の創始者であるラッセルがこの部分をどう解釈していたかです。ラッセルの時代には、まだ今の血の教義はできていませんでしたので、ラッセルは今のような血の教義に辻つまを合わせてこの部分を読む必要はありませんでした。そのような先入観のないラッセルがこの部分をどう解釈しているかを1887年のものみの塔誌の記事から見てみましょう。

この答は、四つの項目を除いてその律法を無視するものでした。そしてこれらの四つのうち最初の三つまでが、それまでユダヤ人であった人たちと、それまで異邦人であった人たちとの共通の交わりの基礎となるように述べられていることは明らかです。その三つとは、(1)偶像に犠牲として捧げられた肉から避けること、(2)ユダヤ人の方法によって殺されていない動物を食べることを避けること、(3)血を食べることを避けること、でした。ユダヤ人として育てられた人々にとってこれらの三項目を無視することは不可能に近いことだったでしょう。そして異邦人の改宗者がこれらを守らなければ、そのことは常に彼らの社会的な障壁となったことでしょう。ここに推奨されている事柄は、ユダヤ人から構成される(統治)「体」と、異なった教育と感情を持つ異邦人とが交わりを続けて行く上で必要だったのです。同じ考えは血の使用の禁止にもありました。ユダヤ人にとってはこれは禁じられたものであり、彼の契約によればそれは生命の象徴でした。それに与ることは、奪った生命に対する責任を負うことを意味するのでした。異邦人は律法の契約の元にいなかったために、このような禁令は異邦人には全く当てはまりませんでした。しかしこの事柄に関する限り、それはユダヤ人の考えに余りにも深く根付いていたために、異邦人がこの事柄を守ることは教会の平和にとって必要なことだったのです。(「ものみの塔」誌1887年5月15日、復刻版2158頁、英文よりの筆者訳)
 このラッセルの使徒15章の解釈の仕方は、まさしく現在の大部分の聖書注解者のとる見方と同じであり、現在のものみの塔が真っ向から否定する解釈なのです。次に幾つかの、英文のよく読まれている聖書注解書がこの部分をどのように解説しているかを見てみましょう。
この使徒の布告の出された状況は、キリスト教への異邦人転向者が割礼の儀式に服し、その他のモーセの律法に合わせることが必要とされるかという疑問を解決することであった、ということを認識すべきです。この会議はそのような律法を守ることは、救いに必要とはされないと決めました。しかし同時に、ユダヤ人のクリスチャンや、クリスチャンに転向することを考えているユダヤ人に不必要な侮辱を与えないために、会議は異邦人の改宗者に対し、一定の思慮深い譲歩を要請したのでした。それは厳格なユダヤ人たちを侮辱することになり、主の晩餐に共に参加するような社会的交流の妨げとなるような幾つかの行為から避けることだったのです。(ブルース・M・メツガー:A Textual Commentary on the Greek New Testament, 1971/75, London: United Bible Societies, p. 430、筆者の日本語訳)

しかしここに一つの問題が残りました。大部分の教会では異邦人の信者はユダヤ人の信者と並んで生活していかなければなりませんでしたが、ユダヤ人の信者は異邦人との交際をできるだけ避けて様々な食物の律法を守るように育てられてきたからです。異邦人が儀式的な掟に従わなくてもよいということに関してはすでに疑問の余地はありませんでしたが、生まれながらのユダヤ人の「弱い兄弟」たちのことを考慮して行動することが異邦人が無難にやっていく上に必要でした。これらのユダヤ人は、全てが食事の掟に関してペテロやパウロのような解放的な見方をとることは期待できなかったのでした。そこでヤコブは異邦人クリスチャンの自由を損なうことなく、ユダヤ人兄弟の掟を尊重するために、偶像との関係ある肉と血を適切に抜いていない肉を避けること、そして異邦人が慣れている異教の低い性道徳の代わりにユダヤ教の高い性道徳に従うことを、異邦人に要請する思慮深い提案をしたのでした。この提案は、生まれながらのユダヤ人と生まれながらの異邦人のクリスチャンたちの間の、社会的、食事的な交際関係を円滑にする進路だったのです。(F.F.ブルース: Commentary on the Book of the Acts, 1962, Grand Rapids, Mi: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., p. 311、筆者の日本語訳)

[20節]「ただ...書き送ることです」:この節が19節の「煩わす」と対照させていること、10−11節の内容が19節で繰り返されていることは、この「布告」が命令ではなく、むしろ妥協であることを示している。これは新参者たちに特別の重荷を負わせることなく、共通の生活と食卓とを可能にするものであった。この四つの条項(28節、21章25節も参照)はレビ記17、18章でイスラエルに住む外国人に規定されている四つの事柄と一致しているようである。すなわち偶像に捧げられた肉、血と、絞め殺された動物(儀式に則って屠殺されていない)を食べること、そして近親者との性関係であった。(リチャードJ.ディロン:The New Jerome Biblical Commentary, 1990, Englewood Cliffs, NJ: Prentice Hall, p. 752 )

結論

 以上の聖書に基づいた使徒15章の解釈から、次の結論が出せるでしょう。確かに、エルサレムの会衆は1)偶像に犠牲としてささげられた物、2)血、3)絞め殺されたもの、4)淫行、の四項目を避けるように勧めましたが、それはエホバの証人が主張するような、倫理に関する基本的な規範を定める目的ではありませんでした。それらの行為がユダヤ人にとって伝統的に忌み嫌われる事柄であったために、異邦人とユダヤ人との間のそれ以上の軋轢を避け、全く異なる宗教・文化背景を持った二つのクリスチャンのグループが、円滑な兄弟の交わりを持てるようになることが目的であったのです。

 この勧告が絶対的な命令ではなかった証拠として、パウロは後に、偶像に捧げられた肉も、不信者が調理した血の含まれる肉も、場合によっては良心の呵責なく食べて構わないと言っているのです。



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