モーセの律法と食事の掟

ものみの塔の見方

 ものみの塔協会出版の『血はあなたの命をどのように救うことができますか』4頁では、モーセの律法の中の「血に関する重大な律法」についてこう述べています。
神は古代イスラエルに律法を与えた時,再び血に言及されました。その法典に含まれる知恵と倫理に敬意を示す人は少なくありませんが,ほとんどの人は血に関するその重大な律法に気づいていません。例えば,このような律法がありました。「イスラエルの家の者あるいは彼らの中に住んでいるよその人のだれであれ,血に幾らかでもあずかるなら,血にあずかっているその人に対してわたしは自分の顔を向け,その人を一族の中から断つであろう。肉の命は血のうちにあるからである」。(レビ記17:10,11,タナック訳)次に神は,狩りをする者が動物の死体をどのように扱うべきかを説明し,「その血は注ぎ出し,それを地で覆う。…‥あなたはいかなる肉の血にもあずかるべきではない。すべての肉の命はその血であるからである。それにあずかる者はだれであれ,断たれる」と言われました。−レビ記17:13,14,タナック訳。(『血はあなたの命をどのように救うことができますか』1990年4頁)
 出エジプト記、レビ記、申命記に書かれているモーセの律法を見るとき、「血」がエホバ神にとって非常に重要なものであったことは明らかです。どのように「血」はエホバとイスラエルの民にとって重要だったのでしょう。血液そのものに何か特別な価値や魔力があったのでしょうか。

レビ記17章

 血はやはり前章のノアの契約と同じように、人間や動物の生命を象徴していました。エホバ神にとって人も動物も、その命が聖なるものであるが故に「血」も聖なるものとされ、従ってそれを食べることが禁じられたのでした。人が動物を殺した場合、その命をエホバから奪った代わりとして、その人はその動物の血を、命の代わりとして、エホバに捧げものとして返すことが義務づけられました。ここでも血は聖なる命の象徴であり、それ故この義務を怠るものは「血の罪がその者に帰せられ」たのでした。レビ記17章3−6節にはこう書かれています。
 3「『「だれでもイスラエルの家の者で,雄牛,若い雄羊,またはやぎを宿営の中でほふり,あるいはそれを宿営の外でほふりながら,4エホバの幕屋の前でエホバへの捧げ物として差し出すためにそれを会見の天幕の入口に携えて来ない者がいれば,血の罪がその者に帰せられる。彼は血を流した。その者は民の中から断たれねばならない。5これは,イスラエルの子らが自分の犠牲を,すなわち彼らが野原で犠牲としてささげるものを携えて来るためである。彼らはそれをエホバのもとへ,会見の天幕の入口の祭司のもとへ携えて来なければならない。彼らはそれをエホバヘの共与の犠牲として犠牲にしなければならない。6そして祭司はその血を,会見の天幕の入口にあるエホバの祭壇の上に振り掛け,また脂肪をエホバヘの安らぎの香りとして焼いて煙にしなければならない。(レビ記17:3-6)
 ここで明らかなように、血は祭壇の上に振り掛け、動物の命と引き替えにエホバに捧げて返されるのでした。このことはこれに続く11節から更にはっきりと述べられています。
10「『だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,いかなるものであれ血を食へる者がいれば,わたしは必ず自分の顔を,血を食べているその魂に敵して向け,その者を民の中からまさに断つであろう。11肉の魂は血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,[その内にある]魂によって贖罪を行なうからである。12それゆえにわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方のうちのいずれの魂も血を食べてはならない。あなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者も血を食べてはいけない」。(レビ記17:10-11)
 ここで魂(命)は血にあり、血によって「魂の贖罪を行う」とはっきり書かれています。この「血による贖罪」の観念は聖書全体を流れる大きなテーマで、後に新約聖書の中のキリストの「血による贖罪」の真の意味を理解する上の鍵となるので覚えてください。さて、ここで「血を食べてはならない」という命令が出てきますが、その前後関係を見てください。何故食べてはならないのでしょう。それは血そのものに何か不思議な魔力や価値があるからではなく、ひとえに生命の神聖さへの畏敬から出ています。たとえ人が肉は食べても動物の命はエホバに属し、それを象徴的に血をエホバに返すことによって、動物の命をエホバに返すからです。もう一つの重要な点は、この食事の掟は、イスラエル人だけでなく、外国人にも適用されることでした。この点は後で新約聖書の中でのこの問題の取り扱いを見る時の鍵になりますので覚えておいて下さい。

 狩猟で捕らえた野獣はどうでしょう。この場合、祭司による祭壇の上の捧げものの儀式をする義務はありませんが、血はやはり地面に注ぎ出して塵で覆わねばなりません。これも血をエホバに返す一つの儀式なのでした。

13「『だれでもイスラエルの子らに属する者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,食べてよい野獣または鳥を狩猟で捕らえた者がいれば,その者はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。(レビ記17:13)
 14節では、先に述べた生命の畏敬の故に血を食べてはいけないことが、繰り返し強調されています。
14あらゆる肉なるものの魂はその血であり,魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。(レビ記17:14)
 それでは自然に死んだり、死んだ状態で見つかった動物を食べる場合はどうなのでしょうか。この場合は血液は正しく注ぎ出されていません。山の中で道に迷い、食糧が尽きたイスラエル人が死んだ動物を見つけその肉を食べることは充分あり得ることです。この件に関して15、16節にはこう書いてあります。
15[すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば,その地で生まれた者であれ外人居留者であれ,その者は自分の衣を洗い,水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる。そののち清くなるのである。16しかし,それを洗わず,その身に水を浴びないのであれば,その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない』」。(レビ記17:15,16)
 エホバはこのような動物を食べることは勧めてはいません。しかし、それを食べた者が死に値する罪を犯したとはどこにも書かれていません。この15、16節に見るように一定の清めの儀式を行えば、それで赦されるのです。なぜこのような違いがあるのでしょう。もし、血液を食べること自体が「血の罪」で死に値することであるなら、このような動物を食べた者は同じ様に「断たれる」はずでしょう。ここでも血液そのものが最も重要なのではなく、「命」(魂)が本当の理由であることがわかります。自分で動物を殺して命を奪ったものはエホバに対して「血」の責任があるのに対し、自然に死んだり、誰が殺したか分からない動物に関しては、それを食べるものにその命についての責任はなく、従ってその血を食べても「血の罪」にはならないのです。

 この死んで血液を正しく抜いていない肉をたべることに関しては、実はイスラエル人と外国人とでは規則が異なっています。申命記の14章21節を見てみましょう。

21「あなた方は、何にせよ死んでいるものを食べてはならない。あなたの門の内にいる外人居留者にそれを与えてもよい。その者がそれを食べるのである。あるいは、それは異国の者に売られるかもしれない。あなたは、あなたの神エホバにとって聖なる民なのである。(申命14:21)
 ここで上に解説したレビ記17章10節をもう一度見て下さい。ここでは、はっきりと外国人もイスラエル人も関係なく、全ての人間が血を食べることを禁じられていました。それなのに、すでに死んでおり血液を正しく処理していない動物は外国人が食べることを、エホバは認めています。何故でしょう。ここでも、血液そのものが神聖だからでないことは明らかです。外人はこれを食べても構いませんが、これはやはり彼らがその動物の命を奪った者ではないからです。ここでも血液そのものよりも、それに象徴される「命」が第一にされているからです。イスラエル人がこれを食べていけないのは、血液が神聖であるからではなく、イスラエルの民が「聖なる民」だからなのでした。

モーセの律法は「命を支えるために血を取り入れること」を禁じていますか

 モーセの律法に関して、ものみの塔協会が繰り返し述べることに、「命を支えるために血を取り入れること」という表現が使われます。例えば、上にあげた『血はあなたの命をどのように救うことができますか』4頁の引用のすぐ次ぎに続く段落には次のように書かれています。
 命を支えるために血を取り入れることが創造者によって禁じられていることは,律法の中で繰り返し語られました。「あなたは血を食へてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。それを食へてはならない。それは,あなたとあなたの後の子供たちに関して物事が順調に運ぶためである。あなたは正しいことを行なうことになるからである」−申命記12:23−25,新国際訳;15:23。レビ記7:26,27。エゼキエル33:25。(『血はあなたの命をどのように救うことができますか』1990年4頁)
 この「命を支えるために血を取り入れること」という表現は一体どこから来たのでしょう。聖書にはどこにもこんなことは書かれていません。それではものみの塔はどうして、聖書にないこんな奇妙な表現を使わなければならないのでしょう。その答は輸血という超現代的な行為を聖書の記述と結びつける所にあります。すなわち、現代の輸血という治療行為と、このモーセの律法の「血を食べる」という全くかけ離れた二つの行為を同じ行為であると主張するため、「食べること」イコール「命を支えるために血を取り入れること」イコール「輸血」という無理な論理を押し通す苦肉の手段なのです。

 再び上の『血はあなたの命をどのように救うことができますか』4頁の引用の最初の文章をお読み下さい。「命を支えるために血を取り入れることが創造者によって禁じられていることは,律法の中で繰り返し語られました。」律法の中には「命を支えるために血を取り入れることが創造者によって禁じられていること」はどこにも出てきません。律法の中に出てきて聖書の中に書かれていることは「血を食べる」ことを禁じていることだけです。イスラエル人や外国人が血を食べたとして、それは命を支えるためだったでしょうか。聖書にはどこにもこの血を食べる行為が命を支える行為として禁じられていたとは書かれていません。他にいくらでも食べるものがあった当時のイスラエル人にとって、血を食べることがすなわち「命をささえること」になったとは到底考えられません。このものみの塔の「食べること」イコール「命を支えるために血を取り入れること」というのは、明らかに聖書に書かれたことにものみの塔が、書かれていないことを付け足して作り上げた教義であることがここでわかるのです。

 更に次ぎの段落ではは緊急事態の命を救うために血を食べることが許されるかどうか、を提起して、サムエル第一の引用をあげています。

 今日のある人たちの論じ方とは全く異なりますが,血に関する神の律法は,緊急事態が生じたというだけの理由で無視されるべきものではありません。戦時の危機のさなか,イスラエル人の兵士の中には,動物を殺して「血のままで食べ(た)」者たちがいました。緊急事態であったことを考えると,彼らが血で自分たちの命を支えても差し支えなかったのでしょうか。そうではありません。彼らの指揮官は,兵士たちの取った行動がやはり大きな間違いであることを指摘しました。(サムエル第一14:31−35)したがって,命は貴重なものですが,わたしたちの生命授与者は 緊急事態ならご自分の規準を無視してもかまわない,とは決して言われませんでした。(『血はあなたの命をどのように救うことができますか』1990年4頁)
 ものみの塔はこれが「命を支えるために血を取り入れること」の聖書の記述だとして、これを輸血禁止に当てはめようとします。しかし、腹を空かせた兵隊が動物の肉を食べたことと、現代の輸血による治療とどれだけ平行関係があるのでしょう。これが本当に医学上の緊急事態に当たる状況でしょうか。聖書を読んでみましょう。
31そして、その日、彼らはミクリマシュからアヤロンに至るまでフィリスティア人を討ち倒していった。それで民は非常に疲れた。32そこで民は貪欲にも分捕り物に飛び掛かって、羊や牛や子牛を取り、それを地の上にほふりはじめ、民は血のままで食べだした。(サムエル第一14:31,32)
 戦争に勝って腹を空かせた兵隊が、羽目を外して暴食に走った状況を、現代の救命のために使われる輸血の状況になぞらえるというのは、どういう神経でしょうか。ここでも兵隊が貪欲に肉を食べたことを「彼らが血で自分たちの命を支え」たと表現し、聖書のどこにも書いていないことを勝手に挿入しています。「食べること」イコール「命を支えるために血を取り入れること」の議論を何がなんでも押し通そうとするために、この二つの全く異なった状況を平行させていることは、何よりもものみの塔の苦し紛れと欺瞞を現すものでしょう。

 所でこの貪欲な兵隊たちには、この罪を犯した結果どのような重大な結果が生じたでしょうか。再び聖書を見てみましょう。

33それで,人々はサウルに告げて言った,「ご覧なさい。民は血のままで食べて,エホバに対して罪をおかしています」。そこで彼は言った,「あなた方不実なことをした。何よりもまず、わたしのもとに大きな石を転がして来なさい」。34その後,サウルは言った,「民の中に散って行って,あなた方は言いなさい,『あなた方は各々,自分の牛を,また各々,自分の羊をわたしのそばに連れて来て,ここでほふって食べなさい。あなた方は血のままで食べてエホバに対して罪をおかしてはならない』」。そこで民は皆,その夜,各々自分の手にある牛をそばに連れて来て,そこでほふった。35こうしてサウルはエホバのために祭壇を築いた。これをもって彼はエホバのために祭壇を築くことを始めた。(サムエル第一14:33-35)
 兵隊たちは確かに罪を犯しましたが、その罰はお叱りと戒めの言葉の形で与えられたのでした。今日、エホバの証人が緊急事態のために輸血を受ければ、排斥処分にされます。この点でもどのような平行関係があるというのでしょうか。

わたしたちはモーセの律法のもとにいますか

 しかし、われわれクリスチャンが何よりも忘れてはならないことは、われわれはキリストが与えられた後では、もはやモーセの律法の元にはいないということです。イエス・キリストはモーセの律法の成就でした。
4キリストは律法の終わりであり、こうして、信仰を働かせる者はみな義を得るのです。(ローマ10:4)

23しかしわたしたちは、信仰が到来する前には律法のもとに警護されており、共に拘束されたまま、やかて表し示されることになっていた信仰を望み見いていました。24したがって、律法は、わたしたちをキリストに導く養育係となったのであり、それは、わたしたちが信仰によって義と宣せられるためでした。25しかし信仰が到来した今、わたしたちはもはや養育係のもとにはいません。(ガラテア3:23-25)

 そうです、モーセの律法はイエス・キリストと共に十字架の上で死んだのでした。キリストが人類に与えられた後、更にこの律法による束縛を云々するのは、聖書の教えを否定するものでしょう。
15この方は自分の肉によって敵意を、すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。(エフェソス2:14)
 実際、ものみの塔協会自体、この点は認めています。
もしイエスのユダヤ人の追随者たちが律法ののろいのもとにいなかったのなら、クリスチャンはイスラエルに与えられたすべてのおきてを守らなければならない義務がありましたか。コロサイの人々にたいしてパウロは次のように書きました。「その[神の]ご親切によってわたしたちのすべての罪過を許し、わたしたちを責める手書きの文書を塗り消してくださったのです。それは[数々の]定めから成り、わたしたちに敵対するものでした。そして[神]はそれを苦しみの杭にくぎづけにして取りのけてくださいました。(コロサイ2:13,14)まちがいなく、多くの初期のクリスチャンたちはその考え方を調整して、彼らが律法から解かれたことを認識する必要がありました。(ローマ7:6)(「ものみの塔」1989年11月15日5頁)
 しかしそれでも、ものみの塔協会は自分たちの都合でこのモーセの廃棄されたはずの律法を、目的に会わせて引っ張ってくるのです。

要約

 ここで、この章の要点をまとめてみましょう。
  1. モーセの律法は、血を食べることは禁じてはいるが、それによって「命を支える」ことを禁じている教えはどこにもない。

  2. モーセの律法の元では、人がある状況では間接的に血を食べても構わない場合があった。

  3. 血液は特別な魔力を持つとは考えられていなかった。血液は命を象徴しており、従って動物を殺した場合はその血液は地に注いでエホバに返すことにより、命の贖いになると信じられていた。

  4. モーセの律法はクリスチャンを束縛するものではない。このことは聖書に何回も繰り返されており、ものみの塔協会自体も認識している。
 このモーセの律法に関する第二章を終わる前に、次の第三章の使徒の血液に関するおきてを考慮する上で鍵となる、レビ記の禁則がどのような順番で述べられているかをここで記しておきましょう。
  1. 供与の犠牲(食物の捧げ物)はエホバ神にのみ捧げられなければならない。(レビ記17:1-9)

  2. 意図的に血液を食べてはならない。(レビ記17:10-14)

  3. すでに死んでいたり切り裂かれたりして、正しく血液を処理していない動物は、緊急事態を除いては(申命14:21,28,29)食べてはならない。(レビ記17:15,16)

  4. 性的不品行や近親相姦を行ってはならない。(レビ記18:1-27)
 次の使徒15章を考察する時に重要な意味を持ちますので、その時に参照してみます。

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