標準という価値観

私達日本人は、標準とか平均とかいった「ものさし」で物事を測る。「標準より上」、「平均以下」など、自分又は何かが、一つの系列の中で何処ら辺に位置しているのか、という認識を持つ訳である。例えば、平均身長、標準体重、そして受験の時について回る偏差値は、その最たるものだろう。 何事につけ、標準や平均に近づきたい、又は少し上にいたい日本人は、「一億総中流」という夢を見た。(いや、実際にそうだったのかもしれない。)
それにしても、これ程までに平均化し、言ってみれば規格が同じでむしろ比べ易く序列がつけ易い国民もそうは無いだろう。そして、そういう日本と対局にある国がアメリカである。

私がアメリカに来て、本当に様々な人種が入り混じっている事に強い印象を受けた後に考えたのは、「標準という価値観」についてだった。つまり、これだけ様々な人種がいる所では、「標準」なんてナンセンスだと「目に見えて」感じたのである。

例えば犬で、柴犬とか秋田犬とかの、各々の平均身長(体長というべき?)を求める事は意味がある。しかし、柴犬もセントバーナードもチワワもゴールデンレトリーバーも一緒になった「犬」という集団の中で、平均身長や標準体重を求めても、出てきた値には何の意味も無い、「ものさし」としての価値の無い数字が得られるだけである。

人間で言えば、アングロサクソンとオリエンタルが混ざった集団で平均身長なんて言っても始まらない。体格に限らず、収入(ホームレスからビル・ゲイツまでいる国である)から何から何まで、規格の違うひとたちが集まったアメリカに於いて、標準とか平均とかいったものを求めて「ものさし」にしようとするのはナンセンスなのだ。と同時に、日本人が感じる、「標準的なところにいる」、「平均よりちょっと上」などという相対的な幸せや安心感ともアメリカ人は無縁なのかもしれない。

余談だが、日本にいた頃、新聞等で日本の偏差値一辺倒の大学受験とアメリカのそれとを比べて、アメリカでは個性を重視した審査を行なうとか、ボランティア活動等テストの成績に拠らない全人的な評価が行なわれる(素晴しい、日本も見習うべきだ)とかの投書を読んで、なるほどねえ、と思っていたが、こっちに来て実情が分かった。要は、アメリカでは、受験生の成績を比べようが無いのである。勿論、アチーブメント・テストのようなものはあるのだが、日本のように文部省準拠の教科書がある訳でもなく、皆が同じ勉強をしている訳では無いアメリカでは、皆に等しくチャンスのあるボランティア活動等を評価の対象にするのが一つの手なのだ。そして、個性を重視した選考をしているというよりは、単に皆の規格が違いすぎるので、そうせざるを得ないだけなのである。

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