二
学校の傍に森があった。校舎の屋上から見ると東西に長くだらだらとのび広がり、中程に私鉄の線路と交わる処だけ伐り開かれて途切れていた。西のはずれに小さな祠があるという話だが私は行ったことはない。
暗くなるまで校庭で遊んでから森へ行く。線路脇からもぐり込んで、森の中を貫く道を祠へ向かうのだが、最後まで行き着いたためしがない。薄暮の森は内に入ると嫌に青黒く繁っていて、私の憶えているのはどういうわけか夏の終わり頃のことばかりなので、未練がましい蝉の声に混じって秋の虫がころころと啼いた。五人ばかりで固まってじりじりと進んで行く。懐中電灯を持っている者が少なくともひとりはいる筈なのだが、怖くて誰も点けることができない。以前誰かが明るいうちに入ったところ、ある一本の木の幹に大きく×印が刻んであって、その木の根元に何だかわからないが何かの屍体が埋めてあるのだという話を皆知っていたからだった。明かりを点けてその徴を見るのが何よりも恐ろしかった。
身を強ばらせながら、神経を外気に剥出しにされたように怯えている。暗闇の中ひとつでも沈黙を突くような動きがあれば、それだけで頭が破裂しそうであった。いつまでたっても同じ処ばかり、堂堂巡りしているのじゃないか、と思ったら、途端に動けなくなってしまった。気が付くと最早誰もこれ以上進むことができなくなっていた。私たちは森の闇のなか土くれのように固まって、最早誰も何も言わなかった。
私たちが進む森の右側はすぐ湿地になっていて、人家の集まる処までは一キロあまりも開けた平地となり、中ほどを森と平行に細い用水路が流れている。昔は水田が広がっていたのかもしれないが、その頃にはもう跡形もなく、じめじめと濡れた泥のなかに蛙が鳴くばかりである。牛蛙の太い声が夜の森に奥まで響いた。
ふいに、誰かが声をあげた。悲鳴ではなく、押し殺した叫びのようでもなく、何かものに憑かれたような、うわずって変に間伸びした声だった。その声が後から自分にのりうつって背中が膨れるように感じたその途端、暗闇で仲間の影が歪んだように何が何だかわからなくなって、私たちは弾かれたように森の外へ飛び出していった。湿地に駆け出すと忽ち泥濘に足をとられて仲間が次々に前のめりに倒れてゆく。私も緩い水溜まりに倒れ込んで顔をあげると、向こうの宅地のすぐ上に濡れたような月が懸かり、淤泥に伏した私と仲間の躰を音もなく照らし出した。
三
休みの日など、朝早くに一度目の覚めてしまうことがよくあった。夜はまだ明けきらず、私は布団を引きかぶったまま家の外に耳を澄ましている。家の北を走る大きな道路から車の噪音が間遠に聞こえてくる。その手前には林があった。
印象として、何れの季節にせよ夜明けはどこか寒々しい。薄青い中に小鳥の囀りなどきこえれば、私はいつも露に濡れそぼったその林の枝々を思い浮べた。
しかし私はそれよりもあるひとつの声を待ち受けていて、寝呆け眼を横向きに一点に据えて、寝床の中に身を固くする。夜明けに目の覚めた朝には、聞こえることもあるし、聞こえないこともあった。私はその意味を知りたくて毎度耳を澄ましている処までは憶えているが、聞こえたにせよその後すぐに再び眠りにおちてしまうためにそれが何であったか判然としない。大きな鳥の啼き声のようでもあり、犬のようでもあり、人の声のようでもあった。ともかくそこから何かの意味が汲み取れそうでいて矢張り単なるでたらめとも思われ、どこか意味ありげな長い声が、陽気な呪文のように何度も繰り返し、叫ぶように唱え続けられるのである。私の事を言っているようにも思えた。林に棲む小綬鶏の声がそんなふうに聞こえたのかもしれないが、それにしては音がはっきりしすぎるし、独特の調子もない。私は声を何かの啓示のように受け取ってその意味に思いをめぐらし続けた。書き取った記憶はないでもないが、何も残っていない処をみると夢だったかもしれない。
それが何であったのかは未だに分からない。今ではもう聞こえないばかりか、その頃感じていた早朝の漠とした空々しさは別の感慨にとってかわっている。しかしその声の響きは頭に残っていて、折りにふれ当時の溟い朝を思うことはある。
四
太陽に大きな、暗い雲の輪のような暈が懸かっているのを見たことがある。皆白い体操着を着ていたから、雨上りで校庭が使えないため体育教師が私たち生徒を屋上に上げて、適当に遊ばせていたのだと思う。校舎の屋上から太陽を眺めると黒い影が丸く陽を囲み、一緒にいた級友たちががやがやと一塊に喚きだして、何か酷く良くないことの起こる兆のように思われた。
屋上を囲う柵の隅に押し寄せて、皆同じように頚を曲げ、一心にその奇異な現象を眺め続けた。すると塊の中から一声、牡鶏のような詰まった笑いがあって、一瞬どよめいたがすぐに辺りに広がり出し、級友たちが陽を仰いだまま皆静かに笑いはじめた。
私は塊の後のはずれにいたので前で何が起こっているかは全く知らない。しかしそのうち私も何か身におぼえるところがあって、何が可笑しいのか分からぬまま、隣に立つ躰の顫えがうつるような気がし出した。曖昧な顔をして、私も笑っていた。
突然前にいた友人が振り向いて、私の被っている真白な体育帽を引きむしった。横に向き直る瞬間見た彼は猿のように顔を真赤に顰めて、そのまま屋上の柵に突進していった。私は彼が飛び降りるのに違いないと思った。しかし彼は手摺りから半身乗り出すと、何か小さく叫びながら、私の帽子を大振に空へ投げ出した。帽子は吹き上げてくる風に少し浮かされ、短く舞ってから、校舎の谷あいに滑って見えなくなった。
爾来私の帽子は、目立たなくなっているのである。