夜の魚
うたた寝からさめると、窓はもう真暗で、夕刻ともした蛍光灯がつけ放しになっていた。真夜中らしい。妙な夢をいくつもみたようで、頭の中がもやもやとはっきりしない。寝台に横になったまま、煙草に火をつけた。
灰を落とそうとして首をもたげると、反対側の壁の角が本を積み上げて高く囲ってあり、覚えがない。内に何かあるのかと寝台に立ち上がると、ひどい眩暈がした。
貧血のようだ。吸いさしを皿に押し潰し、真白い蛍光灯を見上げて、暫らくは大人しく横になる。とそのうち何か奇妙な物音に気づいた。
はじめは階下で誰かが湯をつかっているのだろうと納得したが、ぽたり、ぽたりと水音が変に差し迫っているのでおかしく思い、首をもたげて見まわすと、先程の本で囲んだ隅奥に魚がはねているのだった。どうやら金魚のようだが、鯔でもあるまいし金魚があれほど派手な横跳びをするとは聞いたことがない。しかし見ていると、膝ほどまでありそうな囲いを高く越えてはまたその中に真直ぐ落ちて、赤いのや黄色いのや、丸いのや細長いのが、間をおいてぴんぴんとはねているのである。本で囲んで、角に小さな池が設えてあるらしい。
私は可笑しくなって、枕元にあった小石のようなものを拾ってそちらへ投げてみた。すると金魚は、私が石を放るに合わせてまたぴんぴんとはね出した。ひとつ投げれば一尾はね、投げればまたはね、私は調子にのって、金魚の疲れも思わずに小石を投げつづけた。放り込まれた礫に驚いて一尾づつはねる健気さが、何ともかわいらしい。
小石がきれたようなので、私は薬壜から胃ぐすりを一錠取り出して、投げた。
すると突然、腕ほどもあろうかという巨大な魚が飛沫を散らし飛び出してきて、本の囲いを手前に越えて大変な力で床をびちびちと転げまわった。脊椎と頭蓋の歪んだような飯櫃な貌をして躰に無闇に棘や突起があり、極彩色の鱗に粘液が濡れて光っている。あまりのことに私は色を失い、心臓の皮が引攀れるほどに吃驚した。
しかし落ち着いてよく見ると、それはただの石斑魚で、さほどに大きいわけでもない。へんな魚にみえたのは私の錯覚のようである。夜にはこんなことも起こるものだ。 とにかくこのままでは魚が死んでしまうので、私は寝台を下りて捕えようと手を伸ばした。
魚の躰がこんなに冷たいものだとは思わなかった。その上いやにぬるぬるして正体が掴み難く、胴体を無理に握ると長い腹が掌の中でびくびくと顫えた。気味が悪くてうまく捕まえられない。
悪いとは思ったが、薄紙を使ってなんとか押さえつけた。が、池がない。先程まで魚のはねていた本の囲いの内側には他と変わらぬ床板が見えるばかりである。水が涸れてしまったのかもしれない。
私は慌てて階下に走り、風呂桶に水をはってやろうとした。しかしすぐに呼び鈴が鳴って、どうやら来客のようである。私は玄関へ飛んで走り、急いで扉を開けた。 私の古い友人である。久しぶりなので私は感激して、挨拶もそこそこに彼を客間へ通した。じきに私の父と母も現われて、私の旧友を喜んでもてなしてくれた。父が静かに笑っている。母は友人に渡された何だかわからない四角い包みを抱いて、頻りに礼を言っている。近くを通ったので、寄ってみた、という。皆さんおそろいだから、これから食事にでも出ませんか、という。父と母がいそいそと仕度を始めたので、私は友人に私の部屋を見てくれと申し出た。昔はよくその部屋で二人遊んだものである。
一緒に階段を上ろうとすると、すっかり盛装した父と母がいつのまにか横にいて私を引き止めた。
友人はずんずん階段を上ってゆく。私は友人に珍しいことを聞かせてやろうと、階段の冥い薄明りの中、急な速度で遠ざかってゆく彼の後ろ姿に向かって、絶叫した。 「ぼくの部屋には池があってね」
「魚がはねるんだよ」
「でも見たらその池はなくて」
しかしどうもうまく説明できない。何を言っているのか自分でもよく理解できず、身体もどこか妙な具合で勝手が利かない。何かが頬を擽った、と思ったら私は涙を流していたようである。両親は両脇から私の腕を抑えて、小声で頻りに私を制している。振り切ろうと身体を強く捩るとその途端、水を落とすような急激の悲痛が、こぼれるように私の胸を打った。
私は本当に泣き出してしまった。友人は階段を上りつめると、薄明りに黄色く照らし出された横顔を私に向けたまま何度も頷いてみせた。私はもっと説明したいことが沢山あるのに、友人は頷くばかりでこちらを見てもくれない。私には変な言葉が頭のなかでちらちらと明滅して、無闇に泣いてばかりいるのである。両腕を掴む手に力がこもって、母の「やめなさい」という声が右に聞こえた。
友人はさっさと歩み去って、私の部屋に入っていったようである。扉の閉まる気配があった。
空気が少し動いたようである。不意に寒気を覚えそのまま頭の奥が痺れるようにぼやけてきて、脚からさきに宙に浮くような心地になると、眼鏡をかけた友人の顔がゆらいで、辺りのものが暗く沈んでゆくようであった。