私の乗っている自転車がどこかおかしい。サドルはアメリカ製のバイクの様に長い背もたれがあり、そのすぐ下に大きな後輪がついているが、前輪は補助輪程度の大きさしかなく、前輪と後輪の間は三十センチほどしかない。
しかし乗り心地は悪くない。サドルの背に凭れて、やや前方についたペダルを蹴り出すようにこぐ。ハンドルは腰の両脇に突き出る形になっている。市ヶ谷に向かって坂を登ってゆく途中、信号を待っていたところ、学生らしい数人の男女がかたまって談笑していた。私のすぐ前にはやくざ風の男が一人いて、彼らが道をふさいでいることに苛立っているようで、頻りに方を揺らす。信号が変わって皆歩き出すと、男は刃物を取り出して、すぐ前の学生の青い上着の裾を歩きながら切り刻み始めたが、誰もそれに気付いていない様子だった。
映画館の前で道は二つに分かれている。右は急な上り坂だが左は平坦で、その映画館はこの地形を利用して建てられている。左側の道に面して入口があり、入口脇の白い壁には上映中の映画の一シーンがペンキで描いてある。黒革のライダースを着て、目のつりあがった黄色い髪の女。私は坂道の方を登って行った。
ホテルの駐車場に出ると、さきほどの平坦な道の続きは十メートルも下になっていて、路上で何か工事をしているのが見えた。それでも下る道らしいものが続いてはいるのだが殆ど断崖に近い。這うように降りていると、上から声をかけてくる者があった。
声に従って駐車場に戻るともう日暮れで、切り立ったホテルの白い壁が真赤に照らし出されていた。そこには大きなテーブルが出してあり、十二、三人が席について酒を飲んでいたが、食事からそのまま宴会になったという風だ。食べ散らかした料理が片づけもせずいくつも出し放しになっている。その内の一人の女に気付いて、私は突然に思いだした。
私はこのホテルを知っていたのだ。私は恋人を交際を認めない彼女の両親から強奪し、車を飛ばしてこのホテルにやって来たのだった。フロントで鍵を受け取ったが、差し出されたカードに自分の名前を書いたことが不安でならなかった。部屋の番号も覚えている、二六〇三だ。しかしホテルの構造がおそろしく複雑で、エレベータを何度乗り継いでも客室のあるフロアにはたどり着けない。ロビーに戻ろうとしても今来た通路が分からなくなっていた。暗い廊下の途中のクロークで、彼女の両親が私たちを追って既にフロントに来ていることを知らされた。薄桃色の制服を着た若い女が差し出したノートには私の名が十回続けて書いてあった。
何故忘れていたのだろう、それほど昔のことでもないのに。
彼女は私に気付くとすぐに目をそらした。沈みかけの陽に照らされた横顔、白いノースリーブを着て、緑の石のピアスだ。宴席から一人の男が私を振り返って彼女を指差し、
「まさかこの子に会いにここまで来たんじゃないでしょうね」
「とんでもないですよ」男は笑った。
私は不愉快でならずいたたまれない気持ちになる。男が続いて何か言ったが、道路工事の酷く場違いな騒音に掻き消された(それは工事の騒音といっても周波の干渉で起こる堪え難い電気的なノイズに似ていた)。
彼女は席を立って建物の中に入って行ったが、テーブルの端で他の者に気付かれぬよう私の腕に触れて、「後で」と言った。
彼女は私の知人の妹だった。初めて会ったのは、私が個展にその彼を招待した時、連れて来た妹が彼女だった。その知人というのは脆弱そうな美しい顔立ちの男だったが、彼女はそれに増して華奢で、肌も透けるように白い。目尻が少し下がり気味で控えめに無口のように見えるけれど、翳るように俯きながらよく喋った。喋りながらその合間に、考え込むように目を閉じる癖があった。よく動く唇が小さな魚のようだと私はいつも思っていた。
一行はホテルの部屋に戻ることになった。私もそれについて行ったが、途中壁についた奇妙な木製の扉に気付いた。五十センチ四方の正方形の扉が胸の高さほどのところについていて、その上には
*Gentlemen*
と書いた金属板が貼ってある。開けてみると、業務用空調機の吹き出し口のような羽板が何枚か縦に並び、間に汚らしい濡れた布が内側から詰め込まれていた。
宴席の一行は階段を上って行って見えなくなった。手摺に凭れて段に座った彼女のむき出しの腕、そして頬に触れ、私は目を閉じた彼女に顔を近づけながら、彼女の唇の端に僅かなくぼみがあることに気を取られて、どうしても口づけすることが出来なかった。
そうだ、思い出しかけて忘れていた、私は憶えている。雷雨はあがったばかり、大きな白い建物が二棟並んだ谷間のベンチで、彼女が黒いカルトンの紙挟みを脇に抱えて歩いてゆくのを見ていた。彼女は彫金の仕事をしている。向うの御苑の森の上に晴れきらない暗い雲が残り、木々の緑の濃い陰影が強く浮かびあがる。
あれはいつのことだったろう、落としたカルトンから路上に舞い広がるデッサンを拾い集めていた彼女は確かにそこにいたのだ、思い出しているのに出て来ない彼女の名、陽のさす石畳にかがむその姿がやがて消えてゆくことを知りながら、目を閉じて、その頬に触れようと私は両手を差し出すのだろうか、折りにふれ浮かびあがる記憶の断片を手繰るように、夜明けにその名を呟くのだろうか。白妙の袖返して消える昔の恋人の幻影のように?