藤崎彩子はアルバイト先の古本屋の名を誰にも言わなかった

藤崎彩子はアルバイト先の古本屋の名を誰にも言わなかった。
その本屋は神保町にあり、市ヶ谷にある彩子のアパートからは都営線に乗り15分ほどで着く。岩波ホール向かいの出口から古本屋の並ぶ裏を歩き、喫茶「古瀬戸」に面した脇道を入る。古めかしい木枠に硝子のはめ込まれた入口に、「厳梢堂」の金文字が捺されていた。
店の親父は40すぎで、勤め人のように髪を七三に分け、左の眉の横に大きなほくろがあった。少し色が黒い。店内は蛍光灯で照らされ、灰色の絨毯の敷かれた清潔な佇まいであったが、そこここに無造作に詰まれた本の山や、天井に届くほどの本棚の高さが古本屋らしい趣を与えていた。
彩子の仕事は実際には殆どない。革鞄いっぱいに詰め込まれた蔵書を売りに来る老人を慇懃に断るのも、どこかで仕入れてきた大量の本をあらためるのもすべて店の主人が一人でやった。彩子は棚の整理の片手間に目に留まった本を開いてみたり、主人の不在に殆ど訪れることもない客を待ってカウンターに座っているだけだった。
月火水と週3日午後だけ通って、バイト代は月末に銀行に振り込まれる。毎月彩子の通帳に、僅かな額の数字と「ガンショウドウ」の文字とが刻まれていった。
毎週必ず神保町に足を運ぶことにはなるので、自分の勉強のための本を探すのもアルバイトの序でで事足りた。しかしその日大学の帰り、先日買い損ねた高価な全集を手に入れる目処がついたので、早速のつもりで銀行に行ってお金をおろし、金曜日に本屋街に寄った。
神保町の改札を出て通りへの出口を抜け、喫茶店の前を過ぎたところで彩子は立ち止まった。一昨日の水曜に通った筈の脇道はなく、喫茶店の向かいには古びた印刷屋の倉庫が建ち、長い間閉じたままのシャッターの貼紙は風雨に晒されて何が書いてあるのか殆ど分からなかった。 彩子は俯いたまま暫く立ち尽くしていたが、急に鞄の中を探りはじめ、やがて銀行の預金通帳を取り出した。通帳には数ページにわたり、何だか分からない文字か記号のようなものが一面に書きなぐってあった。
あの建物の裏にあの古本屋が、蛍光灯に照らされた本棚の並ぶ出入口のないあの店があるのだろうか? あのカウンターに店の主人が座って、私が本棚の間に立って、ある筈もない外の通りを眺めているのだろうか?
彩子はアパートに帰り、ワンルームの床に一人座って窓の外を見る。外はもう暗闇で、窓硝子に彩子の面影が暗く映し出される。
「わたし古本屋なんて知らない」
「お姉ちゃん」
台所の流しに、粘土作りの胎児が金盥の水に浸かって崩れる。

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