ルイサ・バレンスエラ『旅』をめぐって
福島朋子

コンテンツ・リード文
コンテンツ
■はじめに
■内容説明 I ルートの確認
■内容説明II 書いて消すことの意味
■作者紹介 女・政治・言葉
■旅から帰ってきた部分の記述
■問題提起
■参考文献

はじめに
 まず、はじめに『旅』というタイトルについて考えてみたいと思います。なぜ、ルイサ・バレンスエラが『旅』というタイトルをつけたのか、そして旅先のことを一切書かなかったのはなぜなのか。私なりにいろいろ考えてみましたが正直いってよくわかりませんでした。ただ、今の私が、仮に旅について何かを書いたとしても、『旅』というタイトルをつけることは絶対にできません。それは、私の旅に対する考え方が、まだまだ未熟だからです。『旅』というタイトルをつけたからには、旅の本質を書かなければ読者は納得しません。「自分は本当の旅を理解している」という自信があるからこそ、ルイサ・バレンスエラは『旅』というタイトルをつけたのではないでしょうか。彼女の自信は、この作品の中の、「この旅はいつもと違う。」という部分や、「旅。わたしの唯一の、本当の旅」といっているところからもよくおわかりいただけるのではないかと思います。

 では、"本当の旅"とは何なのでしょうか。観光、旅行、海外旅行、国内旅行、一人旅、団体旅行、海外出張、バカンスなど、さまざまな"旅"の形が存在しますが、旅をした人すべてが"本当の旅"を理解しているといえるのでしょうか。ルイサ・バレンスエラは、旅先でのことを一切書かない"旅"の描き方によって、よその土地の風光・風俗などを見て、楽しむことを最大の目的としている旅行者たちに、"旅"とは何かを問い掛けてきます。そして、"旅"とは出発なのか、経過なのか、結果なのか、そもそも"旅"とは何なのかという疑問を抱かせます。この作品で一番明らかにしたいのは、まさにそこです。"本当の旅"の姿を明らかにするために、この発表では、さまざまな視点からルイサ・バレンスエラの"旅"というものを考えていきたいと思います。


内容説明 I ルートの確認
 まず、簡単にルートを確認したいと思います。わかりやすいように、地図を用意いたしましたので、そちらをご覧ください。

 この物語の主人公である「わたし」は、「カルロス」の気を引くために旅に出ることを決意します。そして、この"旅"をいつもと違うものにするために、2つのことを自分に課します。一つは、トランジットの旅行者になること。そしてもう一つは、ノートを一冊。「カルロス」について思いついたことや、彼の言った言葉を書き留めたくなったときのために持っていき、書いたことは頭の中から削除するためにていねいに消すことです。この2つが「自分のやるべきこと」であり、このルールにのっとって彼女はこの旅をすすめていきます。

 さてルートの確認ですが、出発地はラテンアメリカにあるアルゼンチンのエセイサ空港であることをご確認ください。

 エセイサ空港からリオデジャネイロまでの最初の飛行中、彼女はカルロスの言葉を5つ思い出し、吟味して書き留めます。そして、リオデジャネイロのガレオン空港に到着してから、こうした言葉をゆっくり丁寧に注意深く消していきます。飛行中に書き、空港で地に足をつけて消す。ここからノートに書き込まれる全ての言葉を、この方法で消していくことに彼女は決めます。

 ニューヨークまでの飛行では、食事をのがさないようにするため、朝食の時起こしてくれるように、スチュワーデスに伝えます。そして、時間がたっぷりある「わたし」は、ニューヨークの街を飛行機の窓からゆっくり眺め、以前書類を届けに来たときのことを思い出します。ニューヨークのケネディー空港に到着し、乗り継ぎの待合室という誰の場所でもないところにいることで、「今回は本当に滞在していない」と彼女は実感します。また、カルロスに"伝書バト"と呼ばれた、国際ビジネス郵便請負会社のしがない社員である「自分」を思い出します。

 いよいよ大西洋横断です。飛行機の窓から偵察すれば、何かもっとパリについて知ることができるかもしれないと考え、彼女は横断中ずっと目を覚ましていますが、霧のため、街への着陸は完全な失敗におわります。彼女はパリの端っこに来ているのだからと、新しい服に着替え、カルロスからプレゼントされた香水をつけます。長時間閉じ込められているせいか、ガラスの下にいるような、水槽のなかにいるような気分になり、自分の故郷であるブエノスアイレス(新鮮な空気)という言葉について考えます。また強行軍の旅のせいで、彼女はある種の恒常的仮眠状態に陥りますが、そんな中でバリのパンフレットを上から下まで読み尽くし、バリについてからのことを考えます。

 パリからニューデリーまでは、睡眠薬経由の直行便、あるいは、配られる飲み物や食事だけ経由する直行便。すなわち、スチュワーデスに起こされて食事をとるときだけ、かろうじて起きていられたけれども、あとは寝ていたということです。

「ニューデリーではだれが飛行機を乗り換えたのだろうか。わたしだったはずだ。」とあるように、ニューデリーの空港での記述はありません。場面はニューデリーからバンコックへの飛行に移ります。ここで、ちょうど世界半周です。この旅で3番目か4番目の夜明けを見ていると、隣の男が「わたし」に微笑みかけてきます。彼は、「結婚していらっしゃるんですか、恋人はいらっしゃるんですか」とあれこれ質問しますが、「わたし」は何度も「ええ」と答えることで彼を遠ざけます。

 バンコックに到着するころには、ここがどこなのか、自分が誰なのかわからなくなってきます。「なんらかの形で自分を認識する、再認識する休息が必要だ。」と思った彼女は、パスポートを開きますが、写真を見てもほとんど自分とはわかりません。彼女は、自分の存在を証明するために、自分の名前を読んでみます。何度も何度も繰り返し読んで、彼女は自分のやるべきことを思い出します。それは最後に書いたことをすべて消すことでした。

 ついに最後の飛行区間、ガルーダの翼に乗ってバリに向かっています。「わたしは誰を愛しているのだろう。」と、彼女は考えます。しかし、睡魔が彼女に答えを出してくれません。また、彼女はこうも考えます。「見直しもせずに、考えることもなしに消す文字が、答えを出してくれるのだろうか。」と…。

 ついに、最終目的地デンパサールに到着しました。しかし、彼女にとってデンパサールは、「バリの退屈な首都」でしかありませんでした。そして、「旅もここまでくると、海岸のどこか安宿にたどりつきたいだけだ。シャワーを浴びて、ベッドに横になりたい。」と彼女は言っています。彼女の時計は5時をさしていますが、いったい午前なのか午後なのか、何日なのか、わかりません。

 ここで、普通の小説ならば旅先での記述があるところですが、この小説はすっぽりその部分が抜け落ちてしまっています。そして、旅先から帰ってきた彼女が、カルロスと再会する場面となるわけです。この再会は、主人公の思惑どおりになります。しかし、主人公は、旅のことを一切語らず、「どうでもいいのよ」と彼に答えるのです。

 何ヵ月もかかって、彼女はバリへのきわめて短い旅行についてある友人に話すことにします。ただ、それはあそこまでの旅のことであって、島で過ごした時間のことではありません。さまざまな友人の問いかけに対して、彼女は「わからないわ」、「なにも覚えていないのよ」としか答えることができません。断片的に何かを思い出した彼女は、ついにノートを読む気持ちになります。どうやって、いつ書いたかわからない、消し跡を埋めながら書いた行為を思い出すこともできないノートを。


(彼女のノート)
                                    わたしはすべて、わたしは すべての人たち、わたしは、娼婦、わたしのもっとも深い不可避の部分からすべてが。私は開く、引き裂ける、生々しく脈打つ、絶縁体も上皮組織も介さずに、わたしは相手の内臓と直接接触する脈打つ生きた内臓。
 細い細い爪で人間の肉を引き裂く、わたしの肉ではない、しかしもちろん私のもの。相手の肉は本人の肉、痛い。痛いが痛くない。引き裂き、破壊し、押しつぶし、あるいは締めつける喜びは、すべての確かな痛みとすべての投影された痛みを凌駕する。
 ランダの長い長い爪で彼のはらわたを開ける。わたしは魔女ランダ、魔女の乱れた髪と激しい牙をもつ。
 バリの魔女の長い、とても長い爪で彼を開ける、引き裂く。上から下まで開ける、野ざらしにする、内臓を引き出す、食べる、麺のような腸をしゃぶる、口のはじから彼の糞を顔に吐き出す、小腸を取り出す、もし睾丸への膝蹴りで彼が動いたら、おとなしくさせる、その粘液をわたしに思いきりなすりつけることができるように。
なんという破壊。なんという占有。
 わたしは女神カリ
          人を惑わす、水のような満月の光に照らされて、空間だけでできた寺院の道と道でないところをさまよう。火山のふもとの寺院。
 ときどき月はわたしの上にのしかかる火山の巨塊をかいま見せる。わたしは空気に晒されたはらわたの火のなかで漂っているようだ。はらわたは、あなたのものでもあるし、わたしのでもある。なぜなら、曝された内臓のなかに神託を読むために、あなたを引き裂くとき、わたしも引き裂けるから。
 恐怖はどこにあるのだろう。
 どのようにして恐怖が生まれたのだろう。恐怖は、いまわたしたちを結びつけると同時に引き離す。彼は向こう、わたしはここ、それぞれの場所に。
 火を掻きたてるのは、それを知るため。
 すべての人生は道だ。引き裂くことはすべて、人生の道の標識だ。ますます正確になっていく位置づけの試み。すべての愛は、方向の変更、地図の取り替え、宇宙の変化。すべての愛は、人を怯えさせる跳躍。すべての愛は、目をくらませる眩惑、あまりにまぶしいので、その大きな黒い穴を覗く勇気のある者は少ない。
 わたしには勇気がない。
 あるいは、勇気がある、無意識のうちに。否定しながら。


内容説明 II 書いて消すことの意味
 まず、この旅における最初の問題を提起したいと思います。それは、"書いて消すこと"にどんな意味があったのかということです。この旅の当初の目的は、カルロスのことを書き留め、それをすべて頭の中から削除することでした。すなわち、それは"書いて消す"行為そのものであったといえるわけです。しかし、主人公は最後のガルーダの翼に乗っているとき、「わたしはだれを愛しているのだろう。」「見直しもせずに、考えることもなしに消す文字が、答えを出してくれるのだろうか。」と言っています。"書いて消す"というこの旅そのものに、彼女は疑問をもち始めたのです。 おそらく彼女は、"書いて消す"ことによって、何かを自分の中から消し去ることができると思っていたのではないでしょうか。主人公がノートに書きつらねている内容は、一見カルロスのことだけのように思えますが、その影に仕事のことやブエノスアイレスのこと、女性の立場や自分自身のことなど、どうすることもできない、変えようのない"自分"というものを隠し持っています。そのような"自分"を"書く"ことで、"自分"を外の世界へ切り離し、見直すことも考えることもなしにひたすらそれを"消す"ことで、そういった"自分"を完全に消し去ろうとしたのではないでしょうか。

 しかし、実際には"書いて消す"ことで「だれを愛しているのか」という問いかけに答えることはできませんでした。所詮、書いたり消したりしたところで、何一つ問題は解決しないということに気づいてしまったわけです。その時点で、この旅は目的を失い、無意味なものになってしまったかのように思えます。しかし、それにもかかわらずルイサ・バレンスエラはこの小説を"書き"ました。それはなぜなのでしょうか。

 そこで注目したいのが、彼女が旅先から戻ってきたとき、カルロスに言った「どうでもいいのよ」という言葉です。ガルーダの翼に乗っていたときに抱えていた、カルロスへのこだわりが、なぜか旅を終えたこの部分では完全に消し去られているのです。そして、彼女は数ヶ月後、会社を辞めることを決心しています。何が彼女をそうさせたのかはわかりません。しかし、そこに"本当の旅"と"書いて消す"行為との新たな関わりが見出せるのではないかと私は考えました。なぜ、この旅の中で"書いて消すこと"が必要だったのか、再度考え直してみる必要があると思います。


作者紹介 女・政治・言葉
 ルイサ・バレンスエラが小説を書くときに絶えず関心を持っていることが三つあるといわれています。それは、"政治、言葉、女"です。ここでは、ルイサ・バレンスエラがどのような人物なのかをこの三つのテーマから探っていくことで、ルイサ・バレンスエラのいう"本当の旅"というものを考えていきたいと思います。


 ルイサ・バレンスエラのフェミニストの傾向は、第一作の『微笑まなくちゃ』からすでに見られ、しだいにそれは明確になってきています。彼女の物語に登場する女たちは、はじめは男に翻弄され、流されるままになっていますが、最後には自分の意志を行動に移していく強い女たちです。現代日本よりもはるかにずっと女性に対する社会的・道徳的拘束力の強いラテンアメリカにおいて、自立する女性というテーマや、女性が描くセックスという問題は、私たちが考える以上にインパクトが大きいということを覚えておいてください。

『旅』のなかでも「市民のくずだと感じる」「彼(カルロス)に愛情の施しを求めているような気分になる。」という部分から、ラテンアメリカの女性がどのような社会的地位に置かれているか、ということを感じとることができるのではないでしょうか。

政治
 1974年、ペロン大統領が急逝してから政治状況が悪化し、軍部によるクーデターが起こりました。バレンスエラは、翌年の1975年ブラック・ユーモア、グロテスクな描写、不条理な状況に満ちた『ここでは奇妙なことが起こる』という作品を発表しています。彼女はこの時のことを、「それでもあの頃はまだ戦う相手の姿が見えたし、言葉で戦うことができるとまだ信じることのできる時期でした。」と述べていますが、その後状況は悪化します。作家が行方不明になったり、脅迫されたり、出版社が爆破されたり、本が焼かれたりということは日常の出来事となり、言葉で戦うことは次第に困難な状況になってきます。そんな中で、彼女は、拷問や抑圧のことを書いた短編集『武器の交換』(1977年)を書きあげます。この作品は、男女の恋愛を描いていますが、それぞれ軍や警察の残虐行為に対する無言の底知れぬ"恐怖"が主題になっています。彼女の作品は軍のブラックリストに挙げられ、もはや言葉では暴力に立ち向かえないというところまで追いつめられた彼女は、1979年とうとう国を去ることを決意しました。

 7年間の軍政時代に多くの文学者がアルゼンチンを去りましたが、亡命した者は故国を思って作品を書き続けました。しかし、バレンスエラの場合、厳密な意味での亡命者ではありません。彼女は、二つの理由で自ら国を離れることを決意したのです。一つめは、書くために何らかの方法で距離を置く必要がある、外から見通す視点が必要だと彼女が考えていたからです。そして二つめは、彼女自身が「私のアルゼンチン社会はもはや存在しません。いろいろな面でこの社会は終わってしまったのです。」といっているように、彼女の愛するアルゼンチン社会が、もうどこにもないからです。そういう意味で、彼女は亡命者というより、「故郷喪失者」になってしまったのです。『旅』のなかにも、ブエノスアイレスのことについて書かれている部分がありますが、その描き方からも、彼女の故郷であるブエノスアイレスが、彼女にとってどんなものであるかを知ることができるのではないでしょうか。

言葉
 ルイサ・バレンスエラは、1969年『能ある猫』というきわめて実験的な作品を生み出しました。造語、洒落、語呂合わせ、ページ上の文字の配列による言葉遊びなどによって、小説というジャンルの枠組みと、スペイン語、あるいは言語という仕組みそのものを取り壊す試みを行ったのです。70年代に入ってから、ジャーナリストの立場を利用して政治活動に関与するようになりますが、政治的恐怖がアルゼンチン社会に蔓延し、1979年ニューヨークに発つことになります。アルゼンチンの言葉からも距離を置いた彼女は、力強く新しいスペイン語を創造していこうとしますが、英語圏のニューヨークでスペイン語の執筆を続けることは難しかったらしく、できるだけメキシコに行く機会をつくって集中して書いたといいます。彼女は、なぜ英語で書かないのかという質問に対して「小説家が外国語で文章を書くことは裏切り行為のような気がするのです。」と答えています。

 83年にアルゼンチンが民主化され、ブエノスアイレスに戻ることは可能でしたが、彼女は戻りませんでした。しかし、88年ニューヨークからブエノスアイレスへ拠点を移しています。このときの決意の経緯を彼女は、「理由は言語の問題でした。あまりにも英語に"侵略"されていたので…夢やひとり言まで英語になってきて不安を覚えました。」と述べています。

 彼女にとって、"言葉"は自分の故郷に重なるところがあります。言葉を捨てるというのは、故郷を捨てることであり、それゆえ裏切り行為のように感じるのです。しかし、「故郷喪失者」である彼女には、故郷がありません。新しい故郷を創造するためには、彼女が自分自身の手で、新しいスペイン語を生み出していく必要があったのです。故郷を探し求めて、常に旅の途上であるような生き方をしてきた彼女の人生と、新しいスペイン語を創造しようとする試みは、目的地ではなく、経過を重視する"本当の旅"と何かつながりがあるのではないでしょうか。もしそうだとすれば、彼女にとって"書く"ということは、特別な意味をもっているということにもなります。では、ルイサ・バレンスエラにとって"書く"ということは、どういう意味をもっているのでしょうか。これを二番目の問題として提起したいと思います。


旅から帰ってきた部分の記述
魔女ランダについて
 プーラダレムの守護霊である魔女ランダは、ただ恐ろしいだけでなく、たいへん魅力的な存在として性格づけられています。いろいろなものの化身になるとともに、いろいろなものに自在にとり憑き、まさに神出鬼没です。ときに、魔術を使って病気を治したりもします。魔女ランダは、死の原理を体現しているだけでなく、同時に死をとおして再生をも司っているということです。こういった性格は、シヴァの妻、女神スリの両義的な性格に対応しています。

 女神スリは、豊饒の女神であるとともに、死の女神ドゥルガでもあります。ドゥルガはスリが戦闘をする時の姿であり、〈近づきがたいもの〉を意味しています。ドゥルガは、しだいに〈大母神〉Deviの性格をそなえていきますが、それと同時に、ドゥルガのいっそうドゥルガ的なものといわれる、もう一人の恐ろしい分身、女神カリを持つようになります。女神カリは、死や破壊にかかわり、とりわけ血の儀式を好む女神として、世界中の人々によく知られています。ヒンドゥ教の死の神ドゥルガが、バリ島ではほとんどの場合、強い魔力を持った魔女ランダの姿をとってあらわれるということです。

 ランダ、ドゥルガ、カリは、はっきりとテリブル・マザーのなかに入れられています。テリブル・マザーとは、女性的なものの負の基本的要素であり、人間の暗黒で底知れぬ側面や、人間の魂がとりうる恐ろしい姿を生み出します。それは、死、破壊、危険、災い、飢餓、無力などです。大地の子宮は、生きとし生けるものを貪り食う、地下世界の恐ろしい口になります。そして、生命を生みすべての生物を地上にもたらす女性が、同時にそれらを自己の胎内に送りかえし、わなを仕掛け、獲物を追いかけ、掴まえることになるのです。つまり、テリブル・マザーは飢えた大地であり、自分の子供たちを貪り食って、その肉でおのれを太らせているのです。生や誕生は、つねに死や破壊と結びついています。ですから、テリブル・マザーは"偉大な"と形容されるのです。

忘我(トランス)と"本当の旅"との共通点
 さて、最後に、この小説で一番難解な部分の謎に迫ってみたいと思います。魔女ランダのことが書かれたこの小説の最後の部分。この部分の謎を解くことが、おそらく"本当の旅"を知る手掛かりになるのではないかと考え、これまで魔女ランダについて考えてきました。

 魔女ランダは、祭り(=死と再生の儀式)のときにパフォーマンスにおいて、村人たちをトランス状態に引き込み、また村人たちのトランス状態に支えられて、鮮烈に生き返ります。この"トランス"状態には、ルイサ・バレンスエラの描く"旅"と共通する部分が非常に多く、さらに、"トランス"には「魂の旅」と表現される"脱魂=エクスタシー"という考え方があることもわかりました。

 このような偶然の一致から、"トランス"という視点でもう一度この作品を読み直してみると、意外なほど"トランス"と"本当の旅"が重なることに気がつきます。例えば、「わたし」は、強行軍の旅のせいで恒常的な仮眠状態におちいりますが、この状態は、シャーマンがトランスにはいるときの"催眠状態"によく似ています。また主人公は、「飛行機」という閉ざされた空間の中に長時間閉じ込められ、地に足がつかない不安定な気分を味わいますが、こういったセンス(意味、方向、感覚)の濃密なトポスの中で、トランスはおこります。彼女は、天に上昇し、地に下降しながらこの旅を続けていきますが、最終目的地に着くころには、すっかり時間と方向の感覚を失ってしまいます。この"旅"における彼女の状態は、霊魂がその肉体を離脱し、天に上昇し地下に下降する神秘的な"魂の旅"(すなわち"エクスタシー")を経験する、トランス状態のシャーマンと非常によく似ているといえます。さらに、"エクスタシー"こそシャーマニズムの本質であると主張する、宗教史学者のM.エリアーデは、"エクスタシー"を人間経験のもっとも本質的で普遍的現象であると言っています。もしそうだとすれば、ルイサ・バレンスエラのいう"本当の旅"は、トランス状態の中から生み出された、"魂の旅"であるといえるのではないか、という大胆な読み方も可能ではないかと思うのです。

 仮に「わたし」が"魂の旅"、すなわち"エクスタシー"を"本当の旅"の中で感じとっていたとすれば、旅先での記述がないことや、旅先での出来事を覚えていないことの説明はつきます。そして、トランスがもたらす意識の解体によって、心的状況の正と負の両方への発展の道が開けているはずです。魔女ランダが登場することから考えると、この旅におけるトランスは「死と再生の儀式」であり、彼女は旅のなかで、一度精神的な「死」を経験しているということにもなります。

 ここで、最後の問題提起になりますが、「わたし」の中から新しく生まれたものは何か、ということを考えてみたいと思います。これまでも述べてきたように、彼女は旅先から帰ってきて、明らかに変化しています。これを私は、"再生"と読みとりました。そして、それは必ずしも正に向かうとは限らない、危険な"死"の体験を通してえられたものなのです。「わたし」はどのように再生したか、そしてどのようなものが彼女の中から生まれたのか、私の中でもまだはっきりとした答えは出ていません。さまざまな視点からこの"再生"ということについて考えていくことで、何らかの答えがでるかもしれないという望みをかけて、この問題を提起したいと思います。


問題提起
 最後に、今まで提起してきた問題をまとめたいと思います。一つめは、"書いて消すこと"にどんな意味があったのだろうか、ということ。そして二つめは、ルイサ・バレンスエラにとって"書く"ということは、どういう意味をもつのか、ということ。そして三つめは、"わたし"の中から新しく生まれたものは何か、ということです。この三つの問題を考えながら、"本当の旅"の姿を明らかにしていきたいと思います。


参考文献
・佐々木宏幹著『シャーマニズム−エクスタシーと憑霊の文化』/中央公論社/1980年
・佐々木宏幹著『憑霊とシャーマン−宗教人類学ノート』/東京大学出版会/1983年
・斎藤文子著「亡命作家の言語戦略−マヌエル・プイグとルイサ・バレンスエラ」、 現代詩手帳1997年5月号、66~71頁
・ルイサ・バレンスエラ著、斎藤文子訳『武器の交換』/現代企画室/1990年
・中村雄二郎著『魔女ランダ考』/岩波書店/1990年
・Luisa Valenzuela," The write, the crisis, and a form of representation", in Philomena Mariani(ed),Critical Fictions :The Politics of Imaginative Writing. Seattle: Bay Press, 1991.



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