6.『知識』を学ぶ研究生の方々に |
1.はじめに |
この小冊子は、『知識』をとおしてものみの塔の信仰を学ぼうとする人々のために用意しました。一つの冊子で、『知識』の書物の3〜4章分を扱いましたので、全部で7冊になります。研究生が『知識』を学ぶ際、司会者に尋ねたらよい質問を載せています。それに、各章のはじめには、『知識』がその章で扱っているテーマに関し、聖書の教えを掲げておきました。それによって、『知識』が聖書と違ったことを教えていることを理解していただくだけでなく、聖書の教えそのものを理解していただきたいからです。
エホバの証人は、現在、『知識』という書物によって、ものみの塔の信仰を広めています。『知識』は、19章に分かれた200頁足らずの小さな書物です。
はじめてこの『知識』を手にしたのは、昨年(95年)の夏、地域大会でのことでした。すぐに、さっと目を通してみました。ものみの塔の教えが簡単に要約されている本だなあ、でも、今、なぜ、こんな書物を地域大会で配布したのだろうか、そんな思いがよぎりました。しかし、その時は、この書物が、今後、エホバの証人が研究生を教えるためのテキストになる、などとは、想像もしませんでした。
エホバの証人はこれまで、『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』という書物によって、研究生を教えてきました。30章より成り、250頁以上の、挿絵がたくさん入った、赤い表紙の書物です。その本は、1982年以来、使われてきましたが、それ以前は、『とこしえの命に導く真理』という書物でした。その本によってエホバの証人になった人が爆発的に増えたことから、その書物は「青い爆弾」と呼ばれました。表紙が青かったからです。それに対し、『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の方は「赤い爆弾」と言われます。
『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』という書物に比べ、『知識』はハンディすぎ、「研究生を教えるために用いる」には、簡便すぎるのではないか、と思いました。ですから、「研究生用のテキストになる」と聞いたとき、別の本格的な書物を用意するまでの、一時的なものだろう、と考えました。しかし、実際はそうではなかったのです。
『知識』は、全部で19章に分かれています。前半の11章までは、教理を中心に記述しています。後半の12章からは、実際生活を扱っています。はじめの方では、ものみの塔の教義をしっかり教え、後半では、エホバの証人の生き方について触れ、最後はバプテスマを受けるよう、決断を迫っています。
ということは、一時的な間に合わせ的書物として用意したということではなく、今後、かなりの長期にわたって使うものとして用意した、ということに他なりません。『ものみの塔』誌1996年1月15日号は、この『知識』を学び終えたなら、バプテスマを授ける準備をするよう指示しています。それまでは、バプテスマを受ける前に、少なくとも二冊の書物を学ぶ必要がありました。しかし、今後は、『知識』一冊でよくなったのです。これは、組織が伝道方針を大きく変更した、ということです。
私は、しばらく前から、『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』に対する手引き書(反論書)を出版しようと、準備してきました。完成までもう一歩、というところまで来たのですが、その本は、もはや無用の長物となった、ということです。
むしろ、『知識』の手引き書こそ、必要になりました。そこで、このような小冊子を出版することにしました。聖書を真剣に学びたい、と思っておられる研究生が、この『知識』によって聖書を学ぼうとしておられると思うと、居ても立ってもいられないほどです。なぜなら、『知識』が教えている教えは、聖書のメッセージではなく、ものみの塔の組織が教える教義だからです。
もし、あなたが、『知識』を学ぼうとしておられるのでしたら、必ず、この小冊子もお読みください。『知識』が引用している聖句に目をとめ、聖書(できれば、新世界訳だけでなく、新改訳や新共同訳なども)でその聖句を確認し、その上で、この小冊子の解説をじっくり読んでください。そして、聖書が述べていることが、『知識』の主張と合致しているかどうか、チェックしてください。
私としては、できるだけ正確に記述したつもりです。しかし、なお、不十分なところもあるかも知れません。ご指摘いただければ、版を改めるときに、反映させていただきます。エホバの証人の方々の反論をも、大いに期待しています。どんな情報でも、お知らせいただければ感謝です。
エホバの証人は、これまで15年間にわたり、『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』を用いて研究生を教えてきました。しかし、この度、『知識』に変更しました。どうしてでしょうか。
昨年11月1日号の『ものみの塔』誌において、「マタイの書24章34節の『この世代』は、文字どおりの意味ではなく、『邪悪な世代』という霊的な意味だ」と、解釈を変更しました。実は、その結果、『楽園』の書物は使えなくなってしまったのです。その書物の154頁に、「1914年の出来事を見た世代が終わるまでにハルマゲドンが来る」と、述べられているからです。
昨年の11月1日号の『ものみの塔』誌の次の文章をよくお読みください。
「これまでにエホバの民は、このよこしまな体制の終わりを見たいと切に願うあまり、『大患難』の始まる時を推測することがあり、1914年の以降の世代の長さを算定しようとしたこともあります。」
あなたは、この文章をお読みになってどう思いますか。私は、ほんとうに腹立たしさを覚えます。従来の「1914年の世代」の理解は、統治体が、『ものみの塔』誌、『目ざめよ!』誌、組織の出版物によって、50年間以上にわたって、繰り返し、繰り返し教えてきたことです。でも、この文章は、そのことを教え続けてきた統治体に責任はなく、責任は一部のある熱心なエホバの証人にあるかのように書いています。私は、これほど無責任な発言を見たことはありません。無責任どころか、一般の信者を欺き、バカにしています。私は、「1914年の世代」について、これまで組織がどのように教えてきたかを調べてみました(興味のある方には、その資料をお送りいたします。ご連絡ください。2冊の小冊子と180頁の資料集です。コピー代実費500円)。
3年前、1993年の春、友人の草刈定雄牧師は、まもなく「この世代」の解釈は変更される、と断言しました。私は、その言葉を半信半疑で聞いていました。当時私は、ものみの塔の研究生として学んでおりましたので、私の司会者だった村野兄(相模大野会衆の主催監督)と片岡兄(奉仕のしもべ)に、そのことを尋ねてみました。すると、お二人とも「組織がそのような変更をすることはない」というお返事でした。私は、どちらを信ずべきか迷いました。
94年の夏、ものみの塔聖書冊子協会が出版している書物をじっくり調べる機会をもちました。特に、協会が71年に出版した『聖書研究のための手助け』という書物と『洞察』とを読み比べていたとき、私自身も、ものみの塔聖書冊子協会が「この世代」の解釈を変更する準備をしていることは間違いない、と確信しました。
昨年95年の春、かつては正規開拓者で、今はクリスチャンになった平洋子姉妹(麻溝台会衆、エホバの証人とかかわりをもってから20年、バプテスマを受けてから13年)に、「組織は、一般のエホバの証人には知らせていないけれど、長老たちには『この世代』の解釈の変更を知らせ、準備していると思うのだけれど」と、聞いてみました。それに対し、「ものみの塔の組織は、しばしば教理を変更してきましたが、その場合は『ものみの塔』誌にのるはずです。また、もしその教理を変更したなら、『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』という書物は、今までの教理が載っていますので、その本も書き改められるはずです。あるいは、他の本を使うようになるかも知れません」という答えが返ってきました。
ものみの塔という組織の実情に疎い私は、そのときは、そんなものかなあ、という思いで聞いていました。
そして、結局、草刈牧師、平姉妹の言ったことは、そのとおりになりました。
組織は、昨年の夏の地域大会において、『知識』という書物を配布しました。そして、この書物がいかにすばらしい書物であるかを、成員に教えました。
そして、11月に、「1914年の世代」の解釈を変更しました。
教理を変更しますと、組織は、各研究司会者に、『楽園』から『知識』に、テキストを変更するよう指示しました。そのとき、組織は、「1914年の世代が終わるまでにハルマゲドンが来るという従来の教理が変更になった結果、『楽園』は、もう古くなりましので、新しい書物『知識』に変えます」とは言いませんでした。どのように説明したかご存じですか。
昨年暮れ、一人の研究生が、ものみの塔の信仰に疑問があるということで、相談に来られました。その方は、研究をはじめてから半年になるのですが、半年ほど学んでいた『楽園』の書物が、突然、『知識』に変えられました。その研究生が、司会者に理由を尋ねますと、「ハルマゲドンが近づいており、もう『楽園』のような本を学んでいるほどの時間がないので、必要で大切なことがコンパクトにまとめられている、もっとすばらしい『知識』という書物を使うように、との指示が組織からあった」というのです。
驚いたことに、その後、このような説明を数人の研究生から聞きました。判を押したように同じ表現でしたから、組織が公式に通達したことは間違いないと思います。この点に関し、不正確な憶測をしてはいけないと思い、日本支部の代表者織田正太郎さんにお尋ねしてみました。織田さんには、昨年暮れからこれまで、3通の手紙を出していますが、未だ一通のお返事もいただけない状態です。『知識』に変更した理由を確認できるかどうか分かりませんが、もし、織田さんからお返事をいただけましたら、改定版を出版し、紹介させていただきます(織田さんに宛てた3通のお手紙をお読みになりたい方には、コピー代実費で、お送りできます。ご連絡ください)。
ところで、一つの聖句の解釈を変更したなら、それまで使っていたテキストを変えてしまう、否、変えなければならない、ということがどうして起こるのでしょうか。それは、ものみの塔聖書冊子協会が、自らの組織の絶対性を主張していることに起因します。ものみの塔は、統治体をはじめとする「思慮深い忠実なしもべ」を、神と人間との間の「唯一の伝達経路」と教えています。このグループが述べることはエホバ神の教えであり、エホバの証人は、絶対的な服従を要求されるのです。当然、組織は、このグループの権威を保たねばなりません。それには、従来教えてきたことを変更した、などということは隠さねばなりません。
実際、これまで50年以上にわたって、繰り返し教えてきた「1914年の世代」の解釈でさえ、組織が教えてきたのではなく、「一部の熱心なエホバの民」がしたことにすぎないと弁明したのです(『ものみの塔』誌1995年11月1日号)。組織はこれまで、ハルマゲドンの預言、聖書の解釈、組織の教義を何度も何度も変更してきました。しかし、そのような間違いに対し、謝罪したことは一度もありません。箴言4:18を引用して、「新しい光が与えられた」と言い逃れをするだけです。そんなわけですから、『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』という従来のテキストを使うことなどできないわけです。
ある集会で、私は、1971年から81年まで統治体の成員だったレイモンド・フランズについて、次のような話をしました。
「フランズは、統治体の知恵袋とまで言われた、ほんとうに聖書に精通した方でした。このフランズは、当時のものみの塔の会長だった、叔父のフレデリック・フランズから、さまざまな課題についてレポートしたり、書物を執筆するよう命じられるのですが、聖書を本格的に研究していく過程で、ものみの塔の教えは聖書が説いていることではない、正統的なキリスト教が説いていることこそ聖書の教えである、と確信するようになりました。その結果、組織は、フランズを排斥してしまい、彼が著した書物を、廃棄してしまいました。ものみの塔聖書冊子協会より出版された書物であるにもかかわらず、です(これらのことは、フランズが著した『良心の危機』および『キリスト者の自由を求めて』という書物において明らかにされています)」。
その話を聞いていた、かつてエホバの証人だった方が、次のような経験を話してくださいました。
「1980年のはじめの頃、書籍研究において、『ヤコブの手紙』という書物を学んでいました。ところが、その書物が終わりまでいかないうちに、突然、その書物の学びは中止になりました。そして、他の本の学びに切り変えられました。そのとき、何の説明もありませんでしたので、おかしいな、とは思いましたが、そのままになっていました。でも、今、その理由が分かりました。あの『ヤコブの手紙』は、フランズのもとで活躍していたダンロップによって書かれたので(ダンロップもまた、ものみの塔の教えが聖書とは違うことを表明したため、排斥されてしまいました)、レイモンド・フランズによって推薦されていました。」
あなたは、このような話をお聞きになって、どう思われますか。
新しく研究用に用意された『知識』は、これまで用いられてきた『楽園』の本とはかなり違います。そのことは、『楽園』と『知識』の両方の目次を比べてみるなら、一目瞭然です。『楽園』は、キリスト教の教えと対立する点を明確にし、論争的でした。しかし、『知識』の方は、ものみの塔とキリスト教の対立点を浮き彫りにするより、ものみの塔の主張を一方的に陳述しています。従って、参照聖句としてあげられている聖句をひとつひとつ厳密にチェックしないと、『知識』が主張していることが、あたかも聖書が説いているかのような錯覚に陷るでしょう。
むろん、このことは、ものみの塔の教えが聖書の真理に近づいたとか、キリスト教に近づいた、ということを意味しません。『知識』が、ものみの塔の信仰の従来の「思考の枠組」(パラダイム)を変えたわけでもありません。ただ、キリスト教との対立点を前面に押し出すのをやめ、キリスト教を否定するより、「自分たちこそほんとうのキリスト教である」との印象を研究生に与えようと、方針転換をしたのです。
このことは、組織から出される最近の出版物において、ものみの塔のことを「キリスト教」と呼んだり、エホバの証人のことを、従来以上に頻繁に、「クリスチャン」と言及していることからも明らかです。
これまでのものみの塔の教育方針は、まず、組織が用意した出版物によって、ものみの塔の信仰の「思考の枠組」をガッチリ教え、その「思考の枠組」から聖書を読ませ、一人前のエホバの証人に仕立てていく、というものでした。ところが、協会は、ものみの塔の教えを、受け入れやすい形で研究生に提供し、より早く、その研究生をものみの塔の共同体の中に入れてしまう(バプテスマを授けてしまう)、そして、受け入れにくい教理は、エホバの証人になってから徐々に教育していく、というスタンスに切り変えました。『知識』という書物こそ、そのための尖兵となる武器に他なりません。
組織は、司会者になる人々に対し、『知識』を用いるとき、余分なことを教えたり、脇道にそれたりしないよう、指導しています。この『知識』の流れに沿って、早いテンポで研究を進め、細かな議論には関わらないよう強調しています。そして、研究生がバプテスマを早く受けるよう励ましなさい、と教えています。まずは、ものみの塔という組織の中に研究生を入れること、つまずきやすい教理やライフスタイルはそれから後で、という魂胆です。
エホバの証人といっしょに、この『知識』の書物を学ぼうとする人は、決していいかげんな態度ではじめないでください。この書物が教えていることと、聖書の教えとが似て非なることを見破るのは、それほど難しいことではありません。しかし、そのためには、ものみの塔の出版物から離れて、聖書それ自体を読み続ける努力をしなければなりません。これまで聖書を読んだことのない方々にとっては、それは容易なことではないでしょう。
ですから、もし、聖書に興味をおもちで、未だエホバの証人との研究をはじめていないのでしたら、『知識』による学びにはのらないでください。聖書の教えではなく、ものみの塔の組織の教えを学ぶことになるからです。
もし、聖書を学びたいのでしたら、ものみの塔の新世界訳ではなく、一般に公認されている聖書(新改訳、新共同訳、口語訳)をお求めください。これらの聖書は、聖書が記された言語(ギリシャ語やヘブル語)の専門家たちが構成する委員会(通常、40-50人ぐらいの翻訳者とおよそ同数の編集者たちによって構成されている)によって、10年以上の歳月が費やされて翻訳されたものです。それに対して、ものみの塔聖書冊子協会が出版している「新世界訳」は、わずか5人の人たちによって(その中で、聖書言語の知識があったのは、フレデリック・フランズただ一人でした)訳されたものであり、ものみの塔の教理に合わせて改竄されています。
エホバの証人は、一般に市販されている聖書は、三位一体を信じる人によって翻訳されているので、正しい訳ではない、新世界訳のみが原文に忠実である、と主張します。彼らは、自分で調べた結果そのように言っているわけではありません。王国会館でそう教わり、そう信じ込まされ、そう言うように訓練を受けているにすぎません。
しかし、事実は逆です。公認聖書は、翻訳者たちが個人的にどのような教理を信じているかにかかわりなく、原文に忠実に翻訳することを義務づけられています。自分たちが標榜する教理に合わせて翻訳することは、翻訳者として絶対に避けなければならない、必要最低限のことです。公認聖書の翻訳者たちに関しては、この点に関してはきわめて厳しいチェックを受けています。それは、組織の教理に合わせて、原文にはない訳語を挿入したり、原文に出てくる言葉をカットしている新世界訳の訳者たちとは、まったく異なります。
新世界訳が、原文に忠実でないことを本格的に取り上げようとすれば、一冊の書物が必要です。しかし、ここでは、ほんの数例をあげておきましょう。これから『知識』によってものみの塔の教理を学ぶ方々にとって、新世界訳のいいかげんさを知っておくことは必要だからです。
ヨハネ14:9は、イエスと父とが同じ存在でないことを教えるため、「も」を挿入しています。
ヨハネ14:14は、イエスに祈ることは正しくないと考え、「わたしに」を省略しています。
コロサイ1:16-17は、イエスを最初の被造物と理解させたいために、4回[他の]という言葉を挿入しています。
ギリシャ語プロスキュネオーは、新約聖書においては、「礼拝する」という意味ですが、イエスに対する礼拝は被造物礼拝になると考えて、イエスに対して使われる場合のみ、「敬意を表する」と訳し変えています。
新世界訳の最大の特色は、「エホバ」という神のみ名が出てくることです。世界中に、新約聖書の写本は、5,000以上現存していますが(中には、一世紀後半の写本も発見されています)、実は、それらの写本のどこにも、「エホバ」という言葉は出てきません。にもかかわらず、新世界訳を翻訳した人々は、エホバという言葉を、237箇所において挿入してしまいました。どのようにしてでしょうか。1385年以降から、ごく最近出版された20数冊の書物(そのほとんどは、ヘブル語に訳された新約聖書)を参考にして、勝手に入れてしまったのです。エホバの証人にとっては、新約聖書に「エホバ」が出てこないのでは都合が悪いからです。
多くの方々は、聖書を学びたい、という潜在的願望をもっています。ですから、エホバの証人の訪問を受けると、その誘いに簡単にのってしまいます。聖書を学べると思うからです。しかし、このようないいかげんな「新世界訳聖書」を、しかも「ものみの塔の教理を解説した教科書」(『知識』のこと)に基づいて学ぶのは、聖書を学んでいることにはなりません。ものみの塔という組織が教える「考え」を学ぶにすぎないのです。もし、聖書を学びたいのでしたら、書店に行って、普通の聖書を求め、ご自分でじっくり読んでください。文脈に沿って、自然に読んでいかれますなら、細かなことや専門的なことを別にすれば、大抵のことは分かるはずです。もし、自分一人では分からない、もっと深く学びたい、ということでしたら、近くのキリスト教会を尋ねてみてください。多くの助けが与えられるでしょう。もし、近くに教会が見つからないようでしたら、私たちの方にご連絡ください。紹介させていただきます。
しかし、何等かの理由で、エホバの証人の司会のもとで、『知識』を学ぶことになった方々、あるいは学ぼうと決心された方々もおられると思います。そのような方々は、次の点に注意しながら、学びを進めてください。
1)まず、『知識』という書物の性格をよく知ってからはじめてください。
司会者であるエホバの証人は、ものみの塔の組織が教えていることは、聖書の言うことであり、聖書をほんとうに分かっているグループは、ものみの塔以外にはない、と信じています。従って、この『知識』に書いてあることは聖書の教えであると確信して、あなたを教えようとするはずです。確かに、エホバの証人自身は、本気でそう信じているのですが、あなた自身は、これから研究するのです。『知識』が述べていることが、聖書の教えていることかどうかを、一つ一つチェックしてしていただきたいのです。
『知識』は、聖書の教えを正しく解き明かしてはいません。むしろ、ものみの塔の教えを植え付けるために用意された教科書です。各頁の下に質問があります。その質問は、ものみの塔の教えをあなたの脳裏にたたき込むための誘導尋問です。それに答えているうちに、いつのまにか、あなたの知性の中に、ものみの塔の思考の枠組ができあがってきます。
『知識』の本文には、ものみの塔が教えたい言葉や概念がそれとなく散りばめられ、読者の脳裏に自然にたたき込まれて入るように意図されています。例えば、「エホバの正当な支配権に対する認識」などという表現を繰り返すことによって(6章9節、17章2節参照)、ものみの塔の独自の「主権論争」という概念を聖書的な教えであるかのように錯覚させます。「完全な人間であったイエス・キリスト」という表現や(11章19節、18章4節など参照)、「神についての知識」(18章5節)、「地上の楽園」(19章5節)なども同様です。
このような表現が出てきますと、はじめは、文章がおかしいな、無関係なことが述べられているな、唐突だな、論旨が通っていないな、などと変に思うでしょう。ところが、そのうち、翻訳が悪いのだろう、自分の頭が悪いのかな、聖書は難しいはずだから、自分には分からないけれど、きっと何か意味があるに違いない、などと思うようになり、違和感も薄れてきます。次第に慣れてきますと、考えるのも面倒になり、『知識』に書いてあることが聖書の教えていることなのだろう、と受け入れてしまいます。いわゆる、マインド・コントロールの中に入って行ってしまうのです。研究生の皆さん、自分を過信しないでください。
人は、自分が専門とする分野(世界)以外のことでは、専門家を信頼する以外にありません。手にしうる情報は限られていますし、批判能力も育てられているわけではありませんので。ですから、信頼できる専門家に聞くことは重要なことです。しかし、エホバの証人は、ものみの塔の教えに関しては専門家ですが、聖書に関してはそうではありません。驚くほど無知です。組織が教えていることについて、そのまま鵜呑みにし、信じているにすぎません。ものみの塔の教えにどれほど精通していたとしても、聖書を知っていると勘違いしないでください。
2)学びの前に、『知識』をよく読んでから、研究に参加してください。
準備をしないで、研究の場に臨んではいけません。もし予習をしないで学びに参加しますと、司会者からの質問に対し、本文の中からその答えを捜す以外にありません。自分でよく考え、自分の意見をまとめる余裕がないからです。
大抵の司会者は、『知識』の本文の中から応答するなら、大変喜ぶはずです。素直である、謙遜である、進歩が早い、などと言って、研究生を誉めるでしょう。ものみの塔の社会は、自分の考えを「独立的思考」と呼び、自分の意見を述べる人を極端に嫌います。正当な批判をする人であっても、「高慢な人」、「霊的に弱い人」というレッテルを張ります。ものみの塔は、組織に従順な人をつくろうとします。従順は、最大の美徳なのです。
あるエホバの証人は、子どもさんが大学に進学したことを、白い目で見られるようになりました。そのことがきっかけで、長老を降りるはめにまでなりました。ものごとを考えることを教える大学教育など、百害あって一利なし、なのです。にもかかわらず、日本支部の織田代表は東大出である、弟の方は、東大を中退した、日本支部の誰々兄弟は阪大出身だ、などという会話がエホバの証人の間では幅をきかしているのです。マインド・コントロールとは、自分の考えがなくなり、他の人の言うことが、あたかも自分の意見であるかのようになってしまうことです。『知識』は、そのような人間をつくるためのテキストなのです。
予習するときは、まず『知識』に書かれていることをよく読みとってください。その上で、『知識』が主張していることは、聖書が述べていることかどうか、ご自分で調べてください。ベレヤの人たちは、かの使徒パウロが語ったメッセージでさえ、聖書によってチェックしました。「きわめて意欲的な態度でみ言葉を受け入れ、それがそのとおりかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べた」(使徒17:11)と言われています。どうぞ、『知識』に書かれていることを鵜呑みにしないでください。疑ってかかり、聖書と照らし合わせてください。「すべての人が偽り者であったとしても、神は真実であることが知られるように」(ローマ3:4)。
3)研究の際には、司会者によく思われようとしないでください。
通常、エホバの証人は、研究生には、親切で、すばらしい人であるという印象を与えようとします。「ある人を受け入れるなら、その人の信じているものを受け入れることはたやすくなる」という真理を、組織から教えられているからです。
もし、研究生が司会者に好意をもつなら、その研究生は司会者から好かれたい、と思うようになります。もし、研究生が司会者によく思われたいという気持ちになるなら、司会者が嫌がるようなことは言わなくなります。研究生が司会者を尊敬しはじめますと、『知識』の質問に対する正しい答えより、無意識のうちにですが、司会者を喜ばせるような答えを捜しはじめるようになります。これこそ、マインド・コントロールの罠です。ほとんどの人は、そんなところにマインド・コントロールがかかわってくることなど、気づきません。使徒パウロもこう言っています。「わたしは人間を喜ばせようと努めているのでしょうか。もしいまだに人間を喜ばせているとすれば、わたしはキリストの奴隷ではありません」(ガラテヤ1:10)。
4)会話の主導権を自分が取るようにしてください。
組織は、『知識』を一日一章の割合で進むよう、司会者に指導しています。余分な質問をさせないで、半年間で『知識』全部を教えるように訓練しているのです。研究生は、その相手のペースに合わせないことが重要です。些細なことでもいいかげんにしないで、きちんと学びたいと、司会者に告げ、自分のペースで学びを進めるよう努力してください。
司会者は、はじめのうちは、研究生の状況に合わせ、研究を進めようとするポーズを見せるでしょう。ですから、研究をスタートさせるときに、自分はたくさんの質問をもっているので、簡単には信じられないと思う、でも、もし、一つ一つの疑問に答えてくださるのであれば、最後まで研究していきたいと思う、とお断りしておくことです。あるいは、「あなたはエホバの証人になるのに何年かかりましたか。私は、あなたのような理解力はありませんので、その倍ぐらい時間がかかると思いますが、それでもよろしいでしょうか」と聞いてみることです。組織が、早いスピードで『知識』を終わらせるよう司会者に指示しているのは、その方が、考えない人間をつくる早道だからです。その歯車に乗ってはいけません。
司会者は、回を重ねていくうちに、研究の主導権を握ろうとするはずです。最初、研究生になってください、と低姿勢なのですが、そのうち、教えに来てあげている、という意識が見えてくるはずです。そのとき、忙しいのに来ていただいて、と遠慮してはいけません。司会者に来ていただいているのは、聖書を学ぶためです。もし、司会者から聖書を正しく十分に学ぶことができないのであれば、来ていただく必要はないのです。司会者が組織の教えを宣伝しはじめたら、聖書の教えはどうなのですか、と問うことを習慣にしてください。それは、あなたの聖書の学びのためであるばかりか、司会者が聖書のほんとうのメッセージを聞く助けをしてあげているのです。
小冊子の各章の初めに、『知識』がその章で扱っている主題について、聖書がどのように教えているか記してあります。それから、『知識』の予習に入ってください。多くの疑問が出てくるはずです。その疑問をノートに書き留めておき、遠慮なく、司会者にぶつけてください。自分で納得するまで、聞き続けることです。そうするなら、あなたが研究の主導権を握ることができるでしょう。
5)『知識』に反対する人々の背後にサタンがいると思わないでください。
ものみの塔は、『知識』の本を学びはじめると、やがて、「親しい家族や友人から反対が起こるでしょう。サタンがその人たちを動かし、反対させてます。ですから、そのような声に耳を傾けてはいけません」、と教えます。研究生は、あらかじめそう教わっていますと、実際反対が起こったとき、次のような思いにかられます。回りの人は、ものみの塔に反対しているのではなく、真理に反対しているのだ。サタンが真理を知らせまいとして妨害しているので、それらの人々を用いているのだ。そのような霊的な世界を見抜いて、あらかじめ警告を与えることのできるものみの塔という組織は神の組織だ。この研究には、自分と自分の家族や友人の命がかかっているのだ。自分がまずサタンに向かって立ち上がらなければならない、と。
そのような思いになりますと、ものみの塔の組織が教えること以外は、すべて受け付けなくなってきます。どうぞ、組織が仕組んだマインド・コントロールの罠にはまらないでください。家族や友人の方々が、正常なバランス感覚をもち、あなたも耳を傾けるべき意見を述べることは少なくありません。また、エホバの証人以外にも、ほんとうに真理を求め、聖書を愛し、命がけで聖書の神に従おうとしている人々はたくさんいます。そのような人々は、生涯かけて聖書を学び続け、聖書の神を体験し続けています。ものみの塔やエホバの証人だけを信じる、という姿勢から距離を置いてください。他の人の意見にも、謙虚に耳を傾けてください。むろん、ものみの塔に反対している人々の意見に盲従する必要はありません。どんな意見に対しても、あなたご自身が、ご自分で考え、ご自分で確かめる努力を捨てないでください。
6)その章で扱われている主題に関し、聖書の教えを確認しておいてください。
もし、『知識』の書物によって聖書を研究するなら、『知識』が解釈している聖書の教えを学ぶことになります。エホバの証人は、ものみの塔の教え、イコール聖書の教え、と信じています。しかし、これは、まったくの誤解です。
聖書を用いながら、聖書から離れていくことは、残念ながら、いつの時代にも起こりました。中世のカトリックもそうでしたし、プロテスタントの神秘主義や自由主義もその間違いに陥りました。使徒パウロが一世紀のクリスチャンのために発した警告は、今でも、変わりません。「人々が健全な教えに堪えられなくなり、自分たちの欲望にしたがって、耳をくすぐるような話をしてもらうため、自分たちのために教え手を寄せ集める時期が来るからです。彼らは耳を真理から背け、一方では作り話にそれて行くでしょう」(Uテモテ4:3-4)。
『知識』が説いていることは、聖書そのものの教えでしょうか。それとも「作り話」でしょうか。それは、あなたご自身が判断しなければなりません。と言っても、研究生は、通常、『知識』が述べていることに関し、聖書の知識をもち合わせているわけではありません。ですから、『知識』の教えていることが聖書的であるのかどうかを判断できません。その判断をするためには、聖書のノーマルな読み方を教わり、それと比較して考える以外にありません。そこで、この小冊子は、『知識』の教えが聖書に基づくものではないことを明らかにするために、各章のはじめに、その章で学ぶ主題に関する聖書の教えを掲げておきました。どうぞ、偏見をもたないで、お読みください。そこに紹介されている聖句の一つ一つを開き、前後の文脈をつかみながら、できるだけ厳密にチェックしてください。もし、そのような努力をなさるなら、『知識』がその章で提供している情報が、聖書からは外れた一方的なもの、片寄ったもの、独特に解釈されたもの、自分たちに都合よく当てはめたもの、であることを見破ることができるでしょう。
人間は、一方的な情報を与えられ続けますと、「その情報だけで構成される全体像」が脳裏に焼き付けられてしまいます。そして、その全体像は、「わずかな情報によって想像された虚像」にすぎないとは思えず、「実際の世界の全体像」であると確信するようになります。そのようなことは、情報の受け取り手の知的能力とは関係なく起こります。むしろ、知的な人ほど陥りやすい、と言わねばなりません。知的な人は、一方的な情報の中で不足している部分を、自らの想像力で補い、完全な全体像にしてしまうからです。しかも、そのような人は、「自分は、情報を完全に調べており(手にしている情報が解釈された片寄ったものであることには気づかないで)、自分の知性もフルに使って理解しているのだから間違いない」、と強い確信を抱きます。マインド・コントロールされている、などとは夢にも思わないのです。
7)司会者に質問することを自分の言葉で用意してください。
研究とは、あくまでも研究です。司会者が一方的に教える、というようなものであってはなりません。司会者といっしょに調べるのが研究です。『知識』の本文を各頁の下にある質問に答えながら学ぶのは、研究ではありません。誘導尋問による典型的な「洗脳教育」です。研究の名を借りたマインド・コントロールの犠牲者になってはなりません。
この小冊子は、『知識』の文章の中で、聖書をごく自然に解釈した場合に生じる質問を載せてあります。それらの質問の中には、かなり専門的なものもあります。しかし、どの質問であっても、前後の文脈に沿って聖句を読むなら、誰でも抱く疑問です。『知識』の本文をよく理解し、『知識』が参照聖句としてあげている聖句の意味をよく考え、そして、この小冊子の質問と取り組んでください。一つ一つの質問が妥当なものかどうか、よく判断してください。
この小冊子に掲げてある質問をすべて、司会者にする必要はありません。あなたが、ほんとうにそうだ、と思うものだけを選び出し、ノートを用意して、ご自分の言葉で書き留めておいてください。司会者と学ぶとき、そのノートを見ながら質問してください。司会者は、それが研究生自身の質問であれば、答える責任を感じ、何とか答えようとするはずです。
司会者と学ぶとき、この小冊子を見せてはいけません。もし、研究生がこのような書物を用いて準備していることが分かりますと、司会者は、研究を中断してくるかも知れません。あるいは、司会者は、研究生の状況をたえず長老に報告していますので、その長老がストップをかけてくるかも知れません。従って、この小冊子はあくまでも、『知識』を予習するためのあなたの参考資料としてお用いください。
この小冊子の質問はサンプルにすぎません。ここに記されている質問以外の質問をご自分で考え、エホバの証人にぶつけてみてください。変だと思うことは遠慮せず、どんなことでも尋ねてみてください。正直で素朴な質問こそ、司会者も考えざるを得なくなります。エホバの証人は、疑問が起こっても、表面には出しませんので、研究生には分からないでしょうが、元エホバの証人であった人々は、聖書から真正面に論じてくる人々がこわかった、と告白しています。
8)的確な質問をしてください。
司会者と議論をしてはなりません。質問をするのです。イエスがパリサイ人たちと論争されたとき、多くの質問をされました。議論をしますと、人は弁明することを余儀なくさせられますが、質問をしますと、自分の主張を考えなければならなくなります。
研究生が、この小冊子を用いて質問するとき、必ず、ご自分の言葉で質問してください。受けうりはいけません。何が問題なのか、どうしてそれが問題なのかをよく理解して質問してください。ほとんどの司会者は、その質問に即答できないはずです。無視される場合もあります。いろいろ詭弁を使ってくることもあります。しかし、納得するまで、司会者に聞くようにしてください。もし、納得できなかったなら、次の研究のときまでに、調べてくるようお願いすることです。その場合は、何が問題なのかをはっきりさせ、お互いにノートに書き留めておいてください。
多くの司会者は、質問を軽く受け流し、先に進もうとするはずです。そのようなことはマイナーな問題だ、というような顔をするでしょう。しかし、そうさせないでください。「そのうちに分かります」とか、「後半になれば分かります」とか、「ものみの塔の教えの全体がつかめれば分かります」、と逃げることも多いのです。そのようなときは、一歩一歩、一つ一つが大切だ、と話し、納得いく説明を求めてください。一つ一つの教えは聖書に基づいていなくても、全体としては聖書の教えになる、などという理屈はどこの世界でも通じません。ところが、エホバの証人は別です。一つ一つは聖書的でなくても、全体としては聖書の教えになるのです。どうしてでしょうか。答えは簡単です。統治体がそう教えているからです。結局、エホバの証人は、聖書を信じているのではなく、統治体を信じているのです。
司会者は、ある聖句に対する質問に答えられなくなると、他の聖句をもち出して弁明するはずです。ものみの塔の教理は、不確かな聖句をいくつか寄せ集めて、あたかもそれが聖書の真理であるかのように装わせているからです。蝶が次から次へと花の間を飛んで回るように、エホバの証人もまた、教わった聖句を、次から次へと跳んでいきます。できるだけそうさせないようにしてください。一つ一つの聖句を厳密に解釈し、確認してから進んでください。
もし、司会者が質問にすぐに答えず、「先にいってからその問題を扱います」と解答を引き延ばそうとする場合には、「どの章においてその問題を扱っていただけますか」と尋ねてください。そして問題の要点を書き留めておき、その箇所に来ましたら、必ず、先の質問を繰り返してください。真理の探求においては、小さなことでも、曖昧にしてはいけません。
一度にたくさんの質問をしない方が賢明です。人は、答えられない質問を多く受けますと、パニック状態に陥ります。すると、ものを考えるのをやめ、自分がもっているものを防御しようとします。あなたが『知識』を研究する目的は、エホバの証人との議論に勝つことではありません。人は、議論に負けますと、自分の面子がつぶれたと感じ、相手の言うことを真剣に考えません。それでは、研究の目的から逸脱します。質問する目的は、あくまでも司会者がものみの塔の信仰を正常な感覚で見直すことができるようになることにあります。
9)返答のために用意された資料は、十分にチェックしてください。
司会者は、研究の際に即答できなかった問題について、その次のときに、その問題に触れている(と思われる)ものみの塔の出版物からのコピーをもってくるでしょう。司会者がどのような印刷物をもってきたとしても、それを受け取ることでよしとしてはなりません。そのコピーを司会者といっしょに読み、そこで言われていることをよく理解してください。その上で、先回の問題点に対して解答を示しているかどうか、必ずチェックしてください。
研究生時代、私も、たくさんのコピーを司会者からいただきました。しかし、そのほとんどは、話し合った質問の論点に触れてはいませんでした。私はその印刷物を読みながら、はたして司会者は、このコピーを読んでから持ってきたのだろうか、とさえ思わされることがしばしばでした。そのコピーは、前回の質問とは関係なく、それを持ってきた理由がつかめないことも少なくありませんでした。
司会者の答えに納得できないときには、曖昧にしないで、再び質問してください。司会者が答えにつまっても、同情する必要はありません。もし司会者が質問に答えようとして、聖書の言葉を捜しはじめたなら、じっと待ってください。10分でも、20分でも。研究生の方から自分の意見を言って、助け舟を出すようなことをしていけません。あなたは、質問に対するものみの塔の公式の解答を必要としているのです。どうしても答えが出ない場合には、次回までに調べてくるよう、お願いしてください。
10)新世界訳以外の聖書を用いてください。
司会者は、新世界訳聖書を使います。しかし、研究生は、一般に市販されている公認聖書(新改訳、口語訳、新共同訳など)を使うのがよいでしょう。研究をスタートさせる前に、自分が使いたい聖書を司会者に伝え、了解をとっておく方が賢明です。
『知識』の8頁には、「ご自分の聖書を大いに活用してください」というタイトルが出てきます。著者の意図は、「ご自分が持っている新世界訳聖書」という意味なのか、それとも、「それが何訳であれ、普段あなたが使っている聖書」という意味なのかは、定かではありません。8頁のコラムを読んでも、どちらとも言えないのですから、後者の意味にとって、新世界訳以外の聖書を使ってください。
新世界訳と研究生が使っている聖書との間に違いを発見した場合、新世界訳を評価するよいチャンスになります。どうしてそのような違いが生じたかを話し合ってみてください。大抵の場合、新世界訳が逐語訳あるいは直訳をしていることに基づきます。翻訳の世界では、逐語訳や直訳はもっとも貧しい訳です。コンピュータに訳させるなら、その典型的なものができあがるでしょう。エホバの証人が誇りに思っている字義訳、逐語訳、直訳なるものが、実際にはどれほど幼稚なものにすぎないかを知らせるよいチャンスです。組織に絶対の信頼を置いているエホバの証人は、そのような現実を直視しないでしょう。しかし、それでも、組織が教えることを鵜呑みにしてはいけないかも知れない、と感じるかも知れません。
新世界訳は、ものみの塔の教理を裏付けるため、あるいはその教理に影響されて、改竄されています。この事実を示すのに一番よい方法は、ものみの塔の組織が出版している『ギリシャ語聖書王国行間逐語訳』を用いることです。そこには、ギリシャ語、そのギリシャ語の単語の意味、そして英語の新世界訳が載せられています。その三つを比べるなら、新世界訳がギリシヤ語に忠実でないことは一目瞭然です。『ギリシャ語聖書王国行間逐語訳』は、なかなか手に入りにくいのですが、司会者に尋ねて、求めてください。
新世界訳と他の翻訳との間の違いの原因が分からない場合には、聖書の専門的知識をもっている人に尋ねる以外にないでしょう。あなたのお住いの近くにはキリスト教の教会はありませんか。そこの牧師は、普通、牧師になるための学校で、ギリシャ語やヘブル語を学んでおられ、大抵の質問に答えることができるはずです。ぜひ、お尋ねになってください。もし、そのような牧師を見つけることができなければ、当方にご連絡ください。できる限りのお手伝いをいたします。司会者は、多分、ご自分の会衆の長老に聞いてくるでしょう。両者がそれぞれ調べたことをもちより、どちらの説明が納得いくものか、じっくり話し合ってみてください。
『知識』の書物を学ぶときは、最初が肝心です。研究をはじめてから研究方法を考えるのでは、遅すぎます。研究に入る前に、以上のことをよく心に留め、研究をスタートさせてください。
もう一度繰り返します。エホバの証人は、プロの伝道者です。この『知識』という書物を効果的に用いるにはどうしたらよいか、徹底した訓練を受けた人々です。いったん司会者のペースにはまるなら、そこから抜け出すには、大変な努力を要します。安易に『知識』の書物を学びはじめないよう気をつけてください。
エホバの証人やクリスチャンの中には、『知識』を学びつつ、エホバの証人に聖書の真理を知っていただくことはできないだろうか、と考えておられるクリスチャンも多いと思います。それは、簡単なことではありませんが、やってみる価値はあります。ぜひチャレンジしてみてください。
エホバの証人に聖書の福音を伝える道は、現実には、誰かが研究生になってエホバの証人と接する以外にありません。幸い、エホバの証人は、あなたと聖書を学びたい、と訪問してくるのです。それを利用して福音を証詞する機会とすることは、神様が求めていることではないでしょうか。
と言っても、不用意にはじめてはなりません。自分の会社の製品を売りにきた人に、反対に、自分が持っている製品を売ろうというのですから、簡単なことではありません。しかし、こちらの製品の方がよいと分かれば、買ってくれる可能性はあります。十分に準備し、忍耐深く試みてください。一度や二度失敗してもあきらめないで、やってみてください。
もし、あなたが、『知識』を用いて、エホバの証人に証詞をしたいと願っておられるなら、次のようなことを、司会者と約束してから、研究をはじめてください。
1)一人で来ていただくこと
もし、あなたが『知識』を研究したいと言うなら、エホバの証人は、通常、二人で来るでしょう。もし、あなたが二人のエホバの証人と対応しなければならないとすれば、一人のときより数倍のエネルギーを必要とします。それは、大変なことです。あなたも一人なのですから、一人で来るようお願いしてください。
一人で来ていただく理由は、他にもあります。エホバの証人は、表面的には、愛ある家族のように振舞っていますが、内面は違います。お互いの信仰に対して疑心暗鬼で、仲間には、自分のほんとうの姿を見せようとはしません。もし、エホバの証人が二人で来ますと、仲間を気にし合って、あなたの意見に同意したり、『知識』に対する疑いや批判を披瀝できません。それでは、マインド・コントロールを解くことはできません。二人ではなく、一人で来ていただくようにしてください。
2)学びを途中でやめないで、終わりまで来ていただくこと
エホバの証人は、研究状態を長老に報告する義務があります。もし、長老が、あなたの司会者では手に負えない、そのまま続けると司会者自身の信仰が危険になる、と考えますと、他の人を司会者に変えるか、研究を打ち切るように指示します。そのようなことを避けるため、あなたが証詞したいエホバの証人と、「『知識』が終わるまで、あなたと二人で研究をしたい」と、はじめに約束をしておくのです。
13年間正規開拓者だった平洋子さん(エホバの証人と関わって20年)は、背山藤枝さんという一人のクリスチャンを訪問して、聖書を学び合うようになりました。平さんがものみの塔の間違いに気づき、聖書の真理を知るようになるのに、一年半の時が必要でした。最初半年間、彼女は背山さんとの研究状態を長老に報告していました。しかし、それ以降は、報告をしませんでした。もし報告するなら、長老がストップをかけてくることは明らかだったからです。
信頼関係を築くことができ、やっとこれから証詞ができる、と思った途端、エホバの証人が来なくなってしまった、という話を聞いたことがあるでしょう。長老が差しとめてしまったわけです。このことを何とか食いとめるため、はじめに約束しておく必要があります。
3)たくさんの質問があるので、それに答えていただきたいと、断わっておくこと
あなたが証詞をしようとしているエホバの証人は、できるだけ早いペースで『知識』を教えようとしてくるはずです。組織がそのような指示を出していることは既に述べました。従って、あなたが多くの疑問をぶつけて、相手のエホバの証人に考えてもらいたいと思っても、相手は、余分な質問をさせまいとするでしょう。もし、いろいろな質問をすると、どのような動機で研究をしようとしているのか、とエホバの証人からしつっこく問われることになるでしょう。
そこで、研究をはじめる前に、相手のエホバの証人に「あなたはエホバの証人になるのに何年かかりましたか」と聞いてみてください。「2年」という返事がありましたら、「私はたくさんの疑問をもっています。理解力もあまりよくないので、私は、倍の4年ぐらいはかかるかも知れません。忍耐をもって私の質問に答えていただけますでしょうか」と尋ねてみてください。そうすることによって、質問が真面目で真剣なものであることを知らせておかねばなりません。
4)聖書が教えていることを学びたいので、聖書を土台に話し合いたいと言うこと
『知識』が説いていることと、聖書そのものが教えていることとは違います。エホバの証人は、聖書を使いますが、結局、組織の教えを信じているのです。エホバの証人と研究をはじめようとする人は、自分たちは、聖書を信じるべきであって、組織の教えではない、ということを確認してください。
研究をはじめる前に、「もし、組織が教えることと聖書が教えることとが違った場合、あなたはどちらを選びますか」という質問をエホバの証人に投げかけてください。そのエホバの証人は、「聖書を取ります」と言うはずです。むろん、彼らは、聖書が教えていることと組織が説いていることとに矛盾がある、などとは思ってもいませんので、あなたの質問を理解できないでしょう。しかし、あなたがこれからしようとしていることは、その両者の間に矛盾があることを指摘することです。そこで、エホバの証人と研究をしているときは、絶えず、「聖書を取りますね。組織ではありませんね。」と問い続けて、進めねばなりません。
5)一つ一つの聖句を前後の文脈から確認して進めたい、と言うこと
エホバの証人は、聖書を使います。しかし、前後の文脈を無視し、自分たちに都合がよいように利用しているだけです。自分の意見を自分の責任で言うことは、たとえそれが間違っていたとしても、尊重すべきです。しかし、自分の主張をあたかも聖書が教えているかのように語って人を欺くのは、卑劣な行為です。個々のエホバの証人は、組織のこのような偽瞞に気づいていません。『知識』によって、エホバの証人と対話しようというのは、エホバの証人にその欺きを気づかせようとすることです。
もう二十年以上も前のことです。私は、結婚詐欺の男性を愛してしまった女性に、彼が詐欺師であることを説得しなければなりませんでした。彼女は、何を言っても私の言葉を信ぜず、その男性の言うことを信じました。第三者から見れば、嘘に嘘を重ねていることは明らかであっても、彼女は、彼の言うことを信じ続けました。やがて、その男性のことが新聞にのり、同じような手口で何十人もの女性をだましていたことを知りました。それでも彼女は、自分に対する愛だけは本物だった、と主張していました。私は、信じることの恐ろしさを知らされました。
『知識』の主張が聖書の教えと違うことを明らかにする方法は二つしかありません。一つは、『知識』が参照聖句としてあげている聖句が、聖書の当該箇所の前後の文脈から、『知識』が教えているようなことは言っていないことを明らかにすることです。もう一つは、『知識』が主張していることに反することを教えている聖書箇所を示すことです。
『知識』が引用している聖句の意味を明らかにするため、その聖書箇所を開き、前後の文脈をじっくり読みながら、エホバの証人と話し合ってください。大抵の場合、エホバの証人は、その聖句が『知識』の教えていることと同じでないことを認めざるを得ないでしょう。しかし、エホバの証人はそれで引き下がるわけではありません。いろいろな説明をして、聖句と『知識』の間にあるギャップを埋めようとするでしょう。あるいは、他の聖句をもち出して、組織の教えを弁明しようとするでしょう。次から次へと聖句を飛び歩こうとするでしょう。そうされたなら、聖書をよく知っているなあ、などと感動してはいけません。組織から教えられている聖句を鵜呑みにして、開いているにすぎません。しかし、あなたもエホバの証人に証詞しようとしているのです。面倒でも、ひとつひとつの聖句に答えねばなりません。
むろん、エホバの証人が引用してくる聖句に、即答できないことが多いでしょう。あるいは、反論できると思う聖句を投げ返したくなるでしょう。それでは、ピンポンゲームになって、疲れるだけです。エホバの証人が引用した聖句をメモし、次週までに調べてきます、と約束をしてください。そして、あなたもそれに反論していると思う聖句を紹介し、次週までにその聖句にどう答えるかを調べてくるよう、約束を取り付けてください。あなたは、プロの伝道者に証詞しているのです。片手間で対応できるなどと思わないでください。
エホバの証人は、一つ一つの聖句がすべて否定されても、なお、全体として組織の教えは正しい、と主張するでしょう。腹を立てないでください。彼らは、聖書を信じているのではなく、組織が教えていることを信じているのです。『ものみの塔』誌1981年12月15日号は、次のように述べています。「一人であるいは小さなグループに分かれて家庭で聖書だけを読んでいれば、十分だ、と彼らは言います。ところが不思議なことに、彼らはそのような”聖書通読”を通してキリスト教世界の僧職者が著わした100年前の聖書注釈書に教えられている背教した教理に逆戻りし...」。ものみの塔の指導者は、聖書だけを読めば、キリスト教になってしまうことをよく知っているのです。
なお、エホバの証人も、よく「文脈を大切にして聖書を読む」と言います。ところが、それは、普通の人々が考える「その箇所の前後の文脈を大切にして聖書本文を読む」という意味ではなく、「聖書全体が教えていることを念頭において聖句を解釈する」という意味で、まったく違います。むろん、「聖書全体が教えている」とは、「ものみの塔の教理に基づいて」ということと同義語です。その結果、エホバの証人にとっては、普通の聖書の読み方は、「小さなことにこだわる近視眼的な読み方」にしか見えません。マインド・コントロールを受けている結果、そうとしか見えなくなっている現実を受け入れて対応する以外にありません。
以上のような約束を、エホバの証人は、あなたとするでしょうか。もしあなたが、研究をはじめる前に、最初のときに申し入れるなら、約束するはずです。というのは、エホバの証人にとっては、研究生をもつことは大きな喜びだからです。もし、あなたが研究生になるという見込みがあれば、できる限りあなたの希望を受け入れようとします。
最初が肝心です。もし、エホバの証人と約束ができましたら、約束したことをメモに書いてください。そして、書いたメモを読み上げながら、両者の間で、一つ一つの約束を確認してください。通常、エホバの証人は、メモをよく取りますし、また約束を守ります。ですから、メモをとって、約束するという行動は、エホバの証人に違和感を与えるものではありません。もし、このような約束をはっきりさせないで、研究をはじめるなら、聖書の真理を証詞したいという期待は途中で挫折するでしょう。
エホバの証人と、たとえはっきり約束したとしても、そのエホバの証人があなたとの約束をどこまで守ることができるかは、保証できません。でもとにかく、約束するのです。そして、司会者が約束を守らなかった場合には、相手にルール違反があったことを明確にしてください。そして、相手を責めるのではなく、エホバの証人の行動パターンが異常なのだということを気づかせるよう仕向けてください。
エホバの証人は、通常の出来事においては、約束を守ります。ところが、あなたが証詞をしようとしてした約束については、反古にされる事態をも覚悟しておいてください。というのは、エホバの証人は、あなたとの研究の状況を長老に報告しています。長老は、エホバの証人がうまくあなたをリードしている限り、何も言いません。しかし、あなたの質問などで司会者が窮地に陷っている状態を耳にしますと、警戒心を強め、研究をやめさせるか、他の人を送り込んできます。あなたが聖書をよく学んでいるクリスチャンだと分かりますと、長老自らが出て来ることも多いようです。エホバの証人は、そのような長老の指示には、従わねばならないのです。従って、司会者が疑問をもちはじめたら、そのことを長老に話さないようにアドバイスしておくことも必要になってきます。難しいことですが、長老から切られないよう、お祈りしながら対応してください。
もし、上記の約束が反古にされたときは、次のような決断をしなければならないでしょう。その司会者との研究を打ち切るか、開き直って、別の人(長老の場合が多い)に証詞をするかです。もし、あなたがこの小冊子をじっくり学ぶ時間を取ることができ、あなたの研究を援助してくださる方(あなたが所属する教会など)がいらっしゃるなら、後者を選択するようお勧めします。新しく送られてくる人を神様が遣わしてくださった人として信じて。なぜなら、その人もまた、聖書の真理を知る必要があるからです。
その場合、はじめにあなたが研究した相手とは、ずいぶん雰囲気が違うものになるでしょう。ものみの塔側も、それなりのベテランを送り込んでくるわけですから、それは仕方がないことです。しかし、恐れることはありません。たとえ長老であっても、組織が出版物で教えているマニュアル以外のことは、ほとんど何も知らない、と断言できます。そうでなければ、ものみの塔の組織には留まっていられないのです。どうそ、キリストにある愛をもって、聖書のすばらしいメッセージを証詞続けてくださるようお願いします。そのメッセージこそ、すべてのエホバの証人が必要としているものなのですから。
『知識』は、聖書の言葉をたくさん使って、ものみの塔の教えを説いています。しかし、その聖句の引用の仕方は、一般のルールに照らしても、まったく逸脱したものです。恐らく、これほどいいかげんな引用をしている書物は他にないでしょう。
聖書は、誰が読んでも理解できるものではないでしょうか。ものみの塔は、そうは考えません。聖書を解釈する特別な人が必要だと言います。ものみの塔の統治体です。はたしてそうでしょうか。パウロの手紙は、手紙を受け取ったすべての人が読んで分かったのではないでしょうか。それとも、特別な人しか理解できず、他の人々は、理解できる一部の人々の解説を必要とした、とでも言うのでしょうか。決して、そんなはずはありません。パウロ自身がこう述べているではありませんか。
「実際わたしたちは、あなた方がよく知っていること、または悟りうること以外には、何もあなた方に書いていないからです。またそれは、終わりまであなた方が引き続き悟れるようであって欲しいと思う事柄なのです。」(Uコリント1:13)
しかし、残念ながら、パウロの手紙がいつでも十分に、正しく受けとめられたわけではない、ということも事実です。ペテロはパウロの手紙を曲解している人々について、次のように述べなければなりませんでした。
「わたしたちの愛する兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがってあなた方に書いたとおりです。彼は[その]すべての手紙の中でしているように、これらのことについて述べているのです。しかし、[彼の手紙]の中には理解しにくいところもあって、教えを受けていない不安定な者たちは、聖書の残りの部分についても[している]ように、これを曲解して自らの滅びを招いています。」(Uペテロ3:15-16)
ものみの塔は、このような曲解をしている人々をキリスト教世界にあてはめるでしょう。誰が正しく解釈し、誰が曲解しているのかを明らかにする方法は一つしかありません。聖書とそれに基づいて書いたと主張する書物とを読み比べ、ご自分でチェックしなければなりません。
以下に、『知識』の書物に見られる聖句の引用法がどのようにおかしいか、タイプに分けて紹介しておきます。詳しくは、実例を紹介した小冊子を用意してありますので、お求めください。
ュタイプA=聖句をあげる必要があるのに、あげていないケース
(タイプA1=聖書の真理を否定しているので)
(タイプA2=ものみの塔の教義を教えているので)
(タイプA3=ものみの塔の教義を前提にしているので)
ュタイプB=聖句をあげる意味がないのに、あげているケース
(タイプB1=ある言葉がたまたま出てくるだけである)
(タイプB2=副文章に関係があるが、主文章を確証してはいない)
(タイプB3=なぜ引用されているのか分からない)
ュタイプC=解釈を間違えて引用しているケース
(タイプC1=原語の意味を無視した結果、間違えている)
(タイプC2=語られている状況を無視した結果、間違えている)
(タイプC3=言及されている対象を間違えている)
(タイプC4=言明されている内容を正確につかんでいない結果、間違えている)
(タイプC5=前後の文章をよく読んでいないので間違えている)
(タイプC6=勝手な解釈を読み込んで間違えている)
ュタイプD=ものみの塔の教義を盛り込んで、解説しているケース
(タイプD1=地上の楽園に関して)
(タイプD2=キリストに関して)
(タイプD3=主権論争に関して)
(タイプD4=魂の滅亡に関して)
(タイプD5=人間の復活に関して)
(タイプD6=油注がれた人々に関して)
(タイプD7=統治体に関して)
(タイプD8=大群衆に関して)
(タイプD9=輸血に関して)
ュタイプE=聖書の正しい解釈を無視しているケース
(タイプE1=聖書の概念を無視し、組織の主張を盛り込む)
(タイプE2=一般の辞書にはない意味から論じる)
(タイプE3=一般に認められている選択枝を無視する)
(タイプE4=ある言葉を加えて、ものみの塔の教義を印象づける)
(タイプE5=聖書が述べていないことまで推測を加える)
(タイプE6=聖書の言葉に違った意味を込める)
(タイプE7=聖書の流れを無視して解釈する)
(タイプE8=象徴的に取るべきところを文字どおりに解釈する)
(タイプE9=訳文を変えた新世界訳に基づいて解釈する)
ュタイプF=適用の仕方が正しくないケース
(タイプF1=エホバの証人のことを述べているかのように適用する)
(タイプF2=組織で教えていないことは、内容を変えて適用する)
(タイプF3=千年王国時代に適用する)
(タイプF4=聖句が述べていないことを発展させて適用する)
(タイプF5=論理的に一貫しない適用)
ュタイプG=引用のルールに合っていないケース
(タイプG1=主題は合っているが、中味を変えて引用する)
(タイプG2=都合の悪い所はカットして引用する)
(タイプG3=一般的な表現に対し、特殊なことをあてはめて引用する)
(タイプG4=ニュアンスを微妙に違えて引用する)
(タイプG5=聖書の流れに沿って引用しない)
(タイプG6=他で言われていることを無視して引用する)
(タイプG7=内容をすり替えて引用する)
(タイプG8=余分なことを付け加えて引用する)
(タイプG9=聖句を自分の言いたい文脈の中に入れ変えて引用する)
(タイプG10=無関係な聖句を結び付け、組織の主張を展開する)
(タイプG11=独特な論理を用いながら、組織の主張を説明する)
ものみの塔がマインド・コントロールをかけている組織であることは、誰の目にも明らかです。現役のエホバの証人の中にも、このことに気づき、組織から脱会する人は急激に増えています。エホバの証人と対話しようとする人は、このマインド・コントロールということをよく知らなければ、空を打つ拳闘をしてしまう(Tコリント9:26)ことになるでしょう。
多くの人はマインド・コントロールの本質を心理学的なものに求めています。確かに、マインド・コントロールは、多くの心理学的な罠を伴っています。しかし、マインド・コントロールの中心は、知的なもの、「体系的な世界観」にあります。
あなたは、カルト集団と言われる宗教を信じている人と話し合ったことがありますか。私はこれまで、オウム真理教、統一教会、モルモン教、幸福の科学、といったグループの相当数の人々と話し合いました。エホバの証人の方々とは、200人以上の方々と話したと思います。どのような宗教団体に属しているにしても、カルト教団に所属する人々の間に明確な共通点があります。自分たちの宗教組織が教えている「教義体系」を100パーセント確信している、ということです。これには、例外はありませんでした。
信じている「教義体系」の中味は、宗教団体によって、それぞれ異なります。しかし、どのグループの人たちも、その「体系」が、世界に起こるどんな現象をも、あるいは、歴史の中に起こってくるどんな出来事をも、説明し得る、と信じ込んでいます。しかも、この知的確信は、他人から強制された結果ではなく、十分な情報に基づき、自分自身で判断した結果である、と確信しています。
部外者から見れば、その教義体系は、単純な論理であり、現実のすべてを包含するようなものではありません。それに当てはまるような状況を、文字どおり勝手に解釈し、こじつけてつくった空想話にすぎません。それでも、それぞれの信者は、大真面目なのです。宗教的命題は、もともと検証不可能な世界です。ですから、どんなに外部から批判されようと、信者たちの確信は揺らぎません。反対者たちは、その教えのすばらしさを理解できない、哀れな人々にすぎないのです。
ものみの塔のマインド・コントロールもまた、カルト集団のそれと同じです。ものみの塔の「聖書は神の言葉」、「エホバ神の概念」、「統治体の権威」、「主権論争」、「地上の楽園」、「終わりの日」などという教えは、信者の知的好奇心を満足させ、納得させるものです。ものみの塔の信仰は、聖書主義というより、主知主義であって、理性中心主義です。
マインド・コントロールの本質が知的なものにあるとしても、人々がそれにかかっていく過程は、心理学的な要因が大きいということもまた、真実です。カルトの入口は、感情的なものですが、カルトの出口は、知的なもの、という事実を覚えておいてください。
例えば、研究のはじめのうちは、エホバの証人は、あなたのお宅に来させていただいている、という態度をとるでしょう。ところが、何回か研究を重ねるうちに、あなたの研究を手助けするために、来てあげている、という態度に変わるでしょう。そうなりますと、司会者は忙しい中を自分のためにわざわざ来てくださっているのだ、とあなたは感じはじめます。そう感じはじめますと、その司会者が不快に思うようなことは言うまい、良い関係を保ちたい、という感情が沸き上がり、相手が喜ぶようなことを言うようになります。これこそ、マインド・コントロールの第一歩なのです。
ある人が、エホバの証人と『知識』を学びはじめました。あるときまでは、彼女は、『知識』の教えにことごとく反発していました。ところが研究をはじめて数週間後、彼女は病気になり、入院しました。そのことを知った司会者は、すぐに病院にかけつけました。しかも、その司会者は、その夜、留守のお宅に、ご主人とお子さんのための夕飯を届けました。そんな状態が一週間続きました。彼女は退院しました。そして、『知識』の研究が再開されました。退院後の彼女が、司会者のエホバの証人に対してとった態度は、それまでとは、全く違うものとなりました。『知識』の教えることに対して反発しなくなったのです。彼女が、エホバの証人の巧みなマインド・コントロールにかかってしまったことがお分かりになりますか。
エホバの証人は、研究のはじめの頃、サタンは、家族や友人たちを用いて、あなたの研究を反対させる、とあらかじめ警告しておきます。しばらくしますと、家族(あるいは友人)がものみの塔の信仰の危険性に気づき、反対しはじめます。すると、あなたは、先の司会者の言葉を思いだすでしょう。そして、次のように考えます。@家族からの反対が起こった、Aこれは、サタンが背後にいて画策していることだ、Bこんなことまで予言できるものみの塔の信仰は本物に違いない、と。これもまた、ものみの塔が使うマインド・コントロールの手口なのです。
あなたの研究が進んでくると、司会者は、盛んに集会に誘います。その誘いにのって王国会館を訪れるなら、今までどこに行っても経験しなかったような大歓迎(ラブ・シャワー)を受けます。王国会館で会う人々は、あなたの周囲にいる人たち、これまで会った人たちとは、どこか違うという印象を受けます。男性は皆、スーツ姿、子供たちまでネクタイをしています。人々はにこやかで、笑顔を絶やしません。話し方は柔らかく、さわやかな印象をもつでしょう。そして、このような人々と友だちになりたい、そう感じはじめるかも知れません。気をつけてください。そう思ったあなたは、既に、ものみの塔のマインド・コントロールの餌食となりつつあります。
王国会館では、立派な行ないを要求されます。人々は、正しく生きたいと願うだけでなく、正しく生きていないことに自責の念をももっています。従って、王国会館で組織から高い倫理基準を要求されますと、それは、神からの要求であると見えてきます。そのような高い倫理を要求する組織は、神が建てた組織に違いない、と思うようになります。組織が要求する義の基準を満たさなければ、あなたが、そう感じはじめるなら、組織の奴隷になるのは、時間の問題です。ここまで来ますと、ものみの塔のマインド・コントロールも半分ぐらいは仕上がった、と言わねばなりません。
組織は、訪問伝道をしなければ、ハルマゲドンを生き延びることはできない、と教えます。その頃になりますと、戸別訪問が唯一の聖書的な伝道方法だろうか、などと問う余裕はなくなっています。むしろ、他の人たちはあんなに一生懸命やっているのに、自分の奉仕時間はあまりに少ないのではないか、と自責の念にかられるようになります。集会や大会に行きますと、困難な中で伝道に励んでいる人々の話を聞かされます。周囲のエホバの証人は、「励まされた」、「励まされた」と感動しています。その度に、伝道に苦痛を感じていたり、健康に不安を覚える自分に対し、罪責感を抱きます。周囲の雰囲気から、脅迫観念を感じ、もっともっと頑張らなければ、と自分を鞭打つようになります。そのように感じれば感じるほど、自分は惨めな存在となるのですが、組織の権威は大きくなります。この辺になりますと、マインド・コントロールの中心的精神状態「恐怖」が、あなたの心を支配するようになってきます。
もうこの辺でやめておきます。ただ、ものみの塔のマインド・コントロールの手法は、100年以上の歴史の中で培われてきたものです。他のカルト教団とは違う、きわめて巧妙なものです。よく観察しなければ、外部の人さえ、ものみの塔がマインド・コントロールをかけているとは、見えないでしょう。それだけに、ものみの塔のマインド・コントロールは、エホバの証人の人格形成に、想像以上に働いていることを知ってください。
あなたは、エホバの証人と聖書の話をしたことがありますか。もし、そういう経験があれば、エホバの証人と話をしても、結局、徒労に終わる、とおっしゃるでしょう。あるいは、ものみの塔の信仰を「キリスト教の異端」と規定し、聖書から論争するなら、その間違いを認めさせることができる、と考えている方もいらっしゃるでしょう。とすれば、エホバの証人の信仰に対する認識は不十分だと言わねばなりません。
エホバの証人は、聖書の読み方、宗教的な教義に関し、正常な判断力、情報の処理能力をもっている、と考えてはいけないのです。彼らは、組織が教えるままを信じます。組織が教えを変えれば、変えたものを盲目的に信じます。そうです。エホバの証人の信仰は、結局、聖書を信じているのではなく、組織が教えることを信じているのです。エホバの証人がバプテスマを受けた、ということは、組織の奴隷になることを誓った、という意味です。従って、極端に言えば、聖書がどう教えていようと問題ではないのです。組織がどう教えているか、それだけが問題なのです。
むろん、エホバの証人自身は、自分たちは聖書を信じている、と堅く確信しています。組織に欺かれている、などと夢にも思っていません。なぜなら、組織はそう思わせるために、非常に巧妙な手段を用いているからです。そのからくりを説明しましょう。
1)まず、統治体(現在は、12人で構成されています)は、何を信ずべきかを決めます。教義を変更するには、統治体の三分の二以上の賛成が必要です。
このようにして、1914年の世代、羊と山羊を分ける業、兵役拒否に対する代官措置の承認など、この数カ月の間にも、次々と重要な教理を変更しています。
2)次に、その決めたこと(教義Aとしておきましょう)が聖書の教えであるかのように見せる必要があります。そこで、教義Aと関係がありそうな聖書の言葉を捜し出します。
3)そして、教義Aにその捜し当てた聖句を着せ、教義Aが聖書の教えであるかのように装わせます。
組織は、関連ありそうな聖句を、三つぐらいは捜すよう努力しています。例えば、イエスが最初の被造物であると主張するためには、コロサイ1:15、黙示録3:14、箴言8:22をあげました。イエスがエホバのみ名を使った証拠としては、マタイ6:9、ヨハネ17:6、ヨハネ17:26。統治体については、マタイ24:45-47、使徒8:30-31、使徒15:6-21。144,000人については、黙示録7:4、14:1、ルカ12:31。地上の楽園については、詩篇37:29、マタイ5:5、黙示録5:10。地上の大群衆は、ヨハネ10:16、黙示録7:9、マタイ25:31。戸別訪問伝道は、マタイ10:11-14、使徒5:42、使徒20:20。輸血禁止は、創世記9:4-6、レビ記17:11-12、使徒15:28-29、などなどです。
4)その装わせた教義Aを、エホバ神からの「時機にかなった食物」として、出版物によって提供します。通常は、夏の地域大会に発表し、その後に出版される『ものみの塔』誌に掲載します。
5)信者たちには、ものみの塔の出版物、および『ものみの塔』誌は、油注がれた人たちによる「霊的食物」であると、あらかじめ教えておきます。
その結果、ものみの塔の組織だけが聖書の真理をもつことになり、他のグループは、聖書をどれだけ研究しても、ほんとうの意味は分からない、とエホバの証人たちに確信させます。
6)そう教わっている信者たちは、『ものみの塔』誌に掲載された教義Aを、エホバ神からの教えとして受けとめます。
ものみの塔の世界では、謙遜が強調されます。しかし、それは、聖書がいう神の前における謙遜ではなく、組織に対する従順という意味です。組織の見解に反する考えを、「独立的思考」と言い、そのような考えが起こってきたなら、戦うようにと教えています。
7)教義Aは、もともと聖書から出てきた教えではありませんから、衣として用いられた聖句との間にギャップがあります。エホバの証人であっても、聖書を読んでいますから、ギャップがあることぐらいは気づきます。
8)組織は、5つの集会の中に、『ものみの塔』誌を研究する時間を設けています。そして、教義Aが掲載されている文章を「研究記事」として扱うように指示します。
『ものみの塔』誌の研究の時間は、エホバの証人の組織にとっては、組織の信仰を徹底するためのもっとも有効な時間です。組織が教理を変更した場合、この時間を利用して、成員たちに周知徹底させます。
9)エホバの証人は皆、教義Aはエホバ神が示された教えだと信じていますので、その研究記事に紹介されている聖句と教義Aとは深い関係があるはずだ、という前提に立って、予習をします。
教義Aと聖句との間にギャップを感じるのは、自分に十分な聖書の知識がないからである、エホバ神が統治体をとおして、教義Aを示した以上、そこで紹介されている聖句には、その教義を支持する理由が必ずあるはずだ、そうエホバの証人は考え、そのギャップを埋めようと、宝捜しをはじめるのです。
10)王国会館における『ものみの塔』誌研究の時間に、教義Aと聖句との間にあるギャップをどのように埋めることができるか、エホバの証人たちに発表させます。
ギャップを埋めるために自分が考えてきたことを発表することを、エホバの証人の間では「注解」と言います。「聖書の注解」という言葉は、一般には、「聖書本文の厳密な意味を明らかにする作業」を指します。ところが、エホバの証人は、まったく違う意味でこの言葉を使っています。彼らにとっては、注解とは、「司会者の質問に対し自分の意見を発表すること」に他なりません。
11)エホバの証人たちは、教義Aと聖句との間にあるギャップを埋め合わせるため、いろいろな説明を発表します。皆、大抵、もっともらしい説明をします。そのことによって、教義Aと聖句との間にあるギャップをどのように埋めることができるか、ヘリクツを言う方法を身に付けていきます。
このように自分の意見を発表する機会は、エホバの証人にとっては、組織はマインド・コントロールするような団体ではない、と思わせる効果があります。自分の意見を自由に言えるのですから。しかし、それは偽りです。実は、この場合、教義Aと聖句の間には何の関連もないのではないか、教義Aはおかしいのではないか、などと考えたり、発表したりする自由はありません。あくまでも、教義Aは、信ずべき真理であり、あげられた聖句は、その教義を支持しているという立場を否定することは許されていないのです。マインド・コントロールとは、その人の意見を完全に無視するのではなく、一定の方向でのみ、許容する、ということなのです。
12)他の人が発表するいろいろな説明を聞きながら、この次は自分もあのような注解ができるようになろう、と決心するのです。
外部の人から見ますと、変なこじつけにすぎないなあ、と思われることも、エホバの証人たちは、その聖句には、そのような隠された真理があったのか、という思いで聞きます。そのようなことを毎週毎週繰り返していますと、正常な判断力がなくなってしまうのです。
これでお分かりになったでしょうか。結局、教義Aと聖句との間にあったギャップが、次のようなことに利用されているのです。
@教義Aが聖書的な真理であると確信させるため
A統治体の権威を高めるため
Bものみの塔の信仰を周知徹底させるため
Cエホバの証人を謙遜にさせるため
Dエホバの証人の知的好奇心を満足させるため
Eエホバの証人の仲間意識を育てるため
そのギャップは、ものみの塔の組織への不信にならず、むしろ組織への信頼を増幅させているのです。組織は、聖書を正しく教えていないだけではなく、聖書と教義の間にあるギャップを悪用しているのです。もし、読者の中に、エホバの証人の方、研究生の方がいらっしゃったら、ぜひ、このからくりに気づいてください。どのようにしたら、気づくことができるのでしょうか。それは、簡単です。ここに書いてあるとおりかどうか、自分のしていること、周囲のエホバの証人たちがしていること、王国会館でなされていることを、よく観察してください。そこで、扱われている教義と聖句の関係、教育の仕方、司会者の振舞い、会衆の反応、プログラム全体の運び方、一つ一つをジックリ調べてみてください。これまで気づかなかったたくさんのことに気づくはずです。決して、悪魔に惑わされているわけではありません。事実に直面しようとしているだけです。恐れないで、勇気を出してください。
エホバの証人と話をしたことのあるクリスチャンは、彼らと話をしても結局無駄に終わる、という苦い経験を思い出すでしょう。
例えば、こんな具合いです。
エホバの証人は、もし、相手がクリスチャンだと分かると、三位一体についての議論をもち出します。まず、エホバの証人は、三位一体がいかに非論理的なことかを主張します。それに対し、クリスチャンは、そのようなことは分かっている、という顔をして、三位一体を指示している聖句を提示します。エホバの証人は、三位一体など絶対にありえないことだ、という前提に立っていますから、再び、三位一体だとおかしいと思う聖句をぶつけてきます。クリスチャンもまた、負けじとばかり、他の三位一体を指示する聖句をあげて、防戦に務めます。大抵、この繰り返しが延々と続きます。
これは、聖句を互いにぶっつけあう「ピンポンゲーム」です。このような議論の結果、エホバの証人は、クリスチャンとは何と理屈にあわないことを信じている人々だろう、とあきれかえります。クリスチャンはクリスチャンで、エホバの証人とは、聖書を自分の考えで勝手に解釈する、都合の悪い箇所は見ようとしない、ほんとうにしょうがない人々だ、と改めて確信します。両者の議論は、結局、平行線で、喧嘩別れに終わるのです。エホバの証人は、クリスチャンは理性的ではないし、聖書をよく知らない人々だと、勝利感を味わいます。クリスチャンの方は、ただ、疲れた、無駄なときをすごした、という挫折感だけが残ります。
神は三位一体である、キリストは肉体で復活された、キリストは天使ミカエルなどではありえない、天国に行くのは14万4千人だけというのは高騰無形である、1914年から終わりの日がはじまったという考えは間違った預言をしてしまったつけを払っているに過ぎない、などなど。もし、クリスチャンが少々の学びをするなら、このような問題に関し、エホバの証人と論じることは難しくありません。
そのとき、多くのクリスチャンは、こう考えはじめます。ものみの塔の教えが間違っていることは、聖書を読めば明らかだ。エホバの証人も聖書を信じる以上、彼らに聖書の言葉を示せば、必ずや納得してもらえるはずだ、と。でも、残念ながら、それは全くの誤解です。これらの問題に関して、エホバの証人と聖書からいくら議論しても、エホバの証人は、聖書の教えに立ち戻ろうとはしません。
実は、エホバの証人にとって、そのような教理の一つ一つは、枝のようなものです。枝をいくら切り落としたとしても、木は倒れません。幹を切り落とさない限り、枝はまた伸びてきます。では、ものみの塔にとって、幹とは何でしょうか。それは、聖書を解釈する「統治体」という組織です。統治体が聖書を解釈するなら、それがどのような教えであれ、エホバの証人にとっては、絶対なのです。枝を切り落とそうとする議論は、結局徒労に終わります。
エホバの証人に証詞するとは、結局、マインド・コントロールを解くことに他なりません。ときにそれは、不可能に見えることもあるでしょう。しかし、エホバの証人と対話を試みている皆さん、決して諦めないでください。このマインド・コントロールに、ご自分で気づいたエホバの証人もたくさんいます。家族の方々の忍耐深い努力によって気づかされた人々も出てきました。専門家の説得を受けて気づいた方々も少なくありません。人間的に不可能に見えるときにも、聖霊が働いてくださることを信じてください。また、聖書には、どんなかたくなな心をも打ち壊すことのできる力があります。あきらめないで、働きかけ続けましょう。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:12〜13)。