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1 歴史的キリスト教は「イエス・キリストは神である」と告白する。エホバの証人は「イエスは神である」と主張している聖書の箇所は一か所もないと断言する。すると歴史的キリスト教はキリストの神性を証拠だてる聖書の箇所を数多く指摘する。エホバの証人は「その聖句はキリストの神性を教えるものではない」と反論する。そのように論争の的になる聖句は数限りなくある。中でもヨハネの書1章1節は最も多くの議論がなされてきた。この小さなパンフレットでこの聖句についてごいっしょに考えたい。
2 最初にまず、歴史的キリスト教という言葉の説明をしておく必要がある。神の民の歴史を見ると、「聖書を神の言葉と信じ、聖書が語っていることをすべてそのまま信じる」信仰を表明したクリスチャンたちがいる。そのような聖書に絶対的な権威を置く信仰は、旧約聖書の時代から今日まで、神の民の歴史の中に続いてきた。私はこのような信仰を持つクリスチャンの群れを歴史的キリスト教と呼ばせていただきたい。
3 ヨハネ1:1の議論に入る前に、まずエホバの証人と歴史的キリスト教の双方が拒否している二つの見解を確認しておこう。一つは様態論(Modalism)である。様態論とは、神は一人で、人間イエスにおいてご自分を顕わされた、との見解である。そこでは、キリストはある意味で父なる神ご自身と見なされている。エホバの証人にとっては、神は一人であるが、神がキリストにおいて人類に顕われた、とは見なさない。一方、歴史的キリスト教は神がキリストにおいて顕われたと信じるが、神は一人格以上である。
4 もう一つはユニテリアン(Unitarianism)である。ユニテリアンにおいては、「神は一人であって、イエスは単なる人間にすぎない。」イエスは人間として生まれる以前には存在されなかったし、いかなる意味においても神的存在ではない。エホバの証人にとって、神が一人である点には問題はないが、かといってイエスは単なる人間ではない。歴史的キリスト教はイエスを神と信じているので、この見解はとうてい受け入れることはできない。
5 ヨハネ1:1に対する歴史的キリスト教の解釈に挑戦しているのはエホバの証人だけではない。過去200年の間にさまざまなグループが疑義を唱えてきた。この聖句が三位一体の議論において必ず持ち出されることを考慮するならば、それは当然のことかもしれない。以下、簡単に見ておこう。
6 まず、モルモン教の創設者ジョセフ・スミスである。彼は『聖書の霊感された版』においてヨハネ1:1を次のように訳している。
初めに福音がみ子を通して説教された。福音は言葉であり、言葉はみ子と共にあり、み子は神と共にあり、み子は神のものであった。(In the beginning was the gospel preached through the Son. And the gospel was the word, and the word was with the Son, and the Son was with God, and the Son was of God.)
7 『国際的な道』の創設者ビクトー・パウル・ウィルヴィレ(Victor Paul Wierwille)は、ヨハネ1:1を次のように訳している。
はじめに言葉(神)があった。(現された)言葉は神と共にあった(彼の予知の中に彼と共に)。言葉は神であった。(In teh beginning was the Word (God), and the (revealed) Word was with(pros) God (with Him in His foreknowledge, yet independent of Him), and the Word was God.
ここには神の別名としての『言葉』が出てくる。しかもそれとは別の『現された言葉』が登場する。それは初めから神の予知の中にのみ存在するイエス・キリストである。
8 以上のように独自の聖書翻訳を試みるまでには至らなくても、ヨハネ1:1を歴史的キリスト教とは違った解釈を主張する異端的な人々もいる。例えば、『世界的な規模の神の教会』の創設者ヘルバルト・W・アームストロング(Herbert W. Armstrong)である。彼は、イエスが神であることに賛成するだけではなく、人間もまた同様に神(あるいは『神の家族』の部分)になる、とまで主張する。
9 クリスチャン・サイエンスの創設者メアリー・ベーカー・エディ(Mary Baker Eddy)は、ヨハネ1:1を「キリストのいやしはクリスチャン時代以前から実行されている」という意味だと主張している。さらに彼は、「神が非人格的で個体者であること、人間は神のイメージに似せられたもので、人格的ではなく、個体的であるという偉大な真理こそ、クリスチャン・サイエンスの土台である」と述べている。
10 『ペンテコステ統一教会』(United Pentecostal Church)あるいは『一つのペンテコステのからだ』(Oneness Pentecostal bodies)の教師たちのヨハネ1:1の理解は次のようなものである。神がイエスにおいて人となるという『神の計画』は、はじめから神のみ旨の中に存在した。このような理解は結局、様態論的なキリスト理解である。
11 以上のようなグループはいずれも、神が三位一体であることを拒否すると標榜しているグループである。従って、ヨハネ1:1のような三位一体を支持すると思われる聖句に関わらざるを得ない。彼らの中には、『国際的な道』や『一つのペンテコステのからだ』のように、ギリシャ語本文を分析して、解釈する努力を払っている人たちもいる。しかし、エホバの証人が示している関心に比べれば、その比ではない。しかも、エホバの証人ほどの説得力をどのグループも持っていない。
12 これまで歴史的キリスト教はエホバの証人を『異端』として退けてきた。エホバの証人もまた、三位一体を信じる歴史的キリスト教は『背教者』であると断罪した。両者とも「この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば、決して家に迎え入れてはなりませんし、あいさつのことばをかけてもなりません。その人にあいさつのことばをかける者は、その邪悪な業にあずかることになるからです」(Uヨハネ9-10)という聖句を相手に対して使ってきた。そこには、対話の可能性はほとんど残されていなかった。
13 信仰者が自らの信仰に確信をもつことは重要である。もしそれが真理であるなら、曲げたり、譲ったりしてはならない。沈黙する必要もなければ、妥協をする必要もない(ガラテア2:14)。違った考えを持っている人と論争し、説得することも真理を持つ者の責任である(Uテモテ2:25)。真理は重要である。「わたしたちは真理に逆らっては何も行なえません。ただ真理のためにしか行なえないのです」(Uコリント13:8)とパウロが言うとおりである。
14 しかし私たちは、自分が確信している真理が確かに神からのものかどうか、時に振り返ってみる必要がある。「わたしは、彼らが神に対する熱心さを抱いていることを証しするのです。しかし、それは正確な知識によるものではありません」(ローマ10:2)と言われないようにしなければならない。このパウロの言葉を、エホバの証人も、歴史的キリスト教を標榜する者も、改めて考えてみる必要がある。両者とも、自分は真理に立ち、相手が間違っていると確信しているからである。正確な知識とは、理性によって確証されるものである。相手を異端者、背教者、サタンの使いなどと呼んで、聞く耳を閉ざしてはならない。真理に立とうとする者はいかなる情報も恐れない。自分に都合の悪い問いかけをサタンの惑わしだ、とごまかしてはならない。
15 対話は相手の主張に耳を傾けるところから始まる。真理を探求するには自分を低くしなければならない。相手の思考の枠に入り、その全体像を把握し、言おうとする真意を汲み取る努力を怠ってはならない。いかなる情報が提供されても、反論がなされても、耳を閉ざしてはならない。相手から投げかけられた問題には、誠実に答えねばならない。問題点をずらして、逃げてはならない。一つ一つ論点を明らかにし、一致できる点を確認すること、一致できない場合は何が原因なのかを明らかにする必要がある。しかも、もし自らが誤解していたり、誤って解釈していたなら、喜んで自らを変えていくだけの勇気を持たなければならない。これが真理を求める者の態度である。
16 対話(論争)においては中立の立場は許されない。筆者は歴史的キリスト教の立場に立つ。しかし、このパンフレットの読者はエホバの証人であることを期待している。読者にはまず、筆者がエホバの証人の主張を正しく理解しているかどうか、判断していただきたい。もし誤解しているなら遠慮なく指摘していただきたい。喜んで訂正したいと思う。次にエホバの証人の教えに対する筆者の反論は説得力があるかどうか客観的に判断していただきたい。そして最後に、歴史的キリスト教の主張を聖書に照らして真理かどうか、熟考していただきたい。何かを主張するということは責任が伴う。筆者はいかなる質問、反論であれ歓迎する。公開であれ、個人的であれ、時間が許す限り、対話(論争)には応答したいと思う。
2 すばらしいことに、エホバの証人と歴史的キリスト教の間には対話が成立する。両者とも信仰の最終基盤を聖書に置いているからである。しかも両者とも、ベレアの人たちを模範としている。「さて、[ここの人たち]はテサロニケの人たちより気持ちがおおらかであった。きわめて意欲的な態度でみ言葉を受け入れ、それがそのとおりかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べたのである」(使徒17:11)。聖書が語っていることに素直に従おう、これこそ両者が共にしている共通の基盤である。聖書に聞こう、これが私たちが対話をするときの最も重要な点である。
3 このパンフレットでごいっしょに考える聖書箇所はヨハネ1:1である。幸いなことにその箇所の本文(ギリシャ語テキスト)に関しては、エホバの証人と歴史的キリスト教の間にはいささかの相違もない。その文章は3つの文節に分けられる。
第一文節は、εν αρχη ην ο λογοσ,
(初めに言葉がおり)
第二文節は、και ο λογοσ ην προσ τον θεον,
(言葉は神と共におり)
第三文節は、και θεοσ ην ο λογοσ.
(言葉は神であった)
4 ヨハネ1:1の本文においては一致している。ところが、その中味の理解になると、エホバの証人と歴史的キリスト教の間には大きな違いがある。それは単に、言葉の解釈上の相違ではなく、それぞれの信仰の背後にある神学体系がもたらす、きわめて重大なものである。
5 まずエホバの証人の理解から見ることにしよう。ヨハネ1:1のそれぞれの文節をエホバの証人の神学体系からまとめると次のようになる。第一文節では「『ことば』は、この宇宙が創造される前に、力ある天使的存在(天使長ミカエル)として、エホバ神によって直接創造され、存在するにいたった。第二文節では、その『ことば』は、エホバ神から区別された実態として、エホバ神とともに存在した。第三文節では、『ことば』は力ある神ではあるが、それはエホバ神のように全能の神ではなく、より低く劣った神的性質をもった神である。
6 これに対して、歴史的キリスト教は次のように理解する。第一文節は、『ことば』は永遠の昔から、すなわち時間がはじまったその時以前から、存在した。第二文節は、『ことば』はその本性においては父とは同じでありながら、区別された位格として、父とともに存在した。第三文節は、『ことば』は神と全く同じ属性を有しており、神そのものである。
7 両者の違いは大きい。次章から、各文節ごとに詳細に検討することにする。その前に、双方に共通の要素があることも事実である。そのことを確認しておこう。それは次の4点に要約される。
1)キリストは人間になる以前は『ことば』として存在していた。
2)その『ことば』は単なる抽象的概念ではなく、生ける人格である。
3)『ことば』は、その方とは区別される神のかたわらに存在しておられた。
4)その先在された『ことば』は、ニュアンスの違いはあるにしても、神的な存在である。
1 エホバの証人と歴史的キリスト教の間では、通常第三文節、『ことば』はいかなる神性をもっているかをめぐって論争されることが多い。しかし、第一文節および第二文節においても考えなければならない問題がある。まず、最初の言葉「初めに」(εν αρχη)が何を意味しているかということである。この表現自体は、新約聖書において、使徒11:15、フィリピ4:15に出てくる。両方とも、使徒たちが経験したある出来事の「初め」を指している。一方ヨハネ1:1は、宇宙が造られる以前の「初め」を指しており、ニュアンスが異なっている。では、この「初めに」という言葉をエホバの証人はどのように理解しているのか。
2 エホバの証人は、「エホバ神は、この宇宙が創造される前、まずキリストを力ある天使的存在(天使長ミカエル)として直接創造された」と信じている。1985年版の参照資料付き新世界訳聖書では、ヨハネ1:1の「初め」に対する参照聖句として、箴言8:22、コロサイ1:15、啓示3:14の三箇所をあげている。一方、通常参照するようあげられる創世記1:1は言及されていない。その理由は、ヨハネ1:1の「初めに」は、歴史的キリスト教が主張するような「永遠の昔」ではなく、キリストがエホバ神によって直接創造された「時」を指しており、創世記1:1の「初めに」とは異なる、と理解しているのであろう。
3 キリストはエホバの証人が主張するように「最初に造られた」のか。この問を十分に扱うためには別のパンフレットを用意しなければならない。特に上記の3箇所は、キリストが最初に造られた被造物であるという証拠としてよく引用されところである(例えば、「あなたは三位一体を信ずるべきですか」13-14頁参照)。従って、厳密な議論を展開しなければならない。今回は、ヨハネ1:1の理解において必要な限り言及する。しかも、その結論に触れるだけであることをお許しいただきたい。
4 まず箴言8:22である。箴言8章は「知恵」について語られている。エホバの証人は、その「知恵」をキリストと解釈する。それは正しいであろうか。箴言8章では、神の内に初めから存在していた「知恵」そのものが擬人化されて語られているにすぎないのではないか。聖書はできる限り字義的に解釈し、文脈を尊重して読むべきである。字義的に理解するのが困難な場合のみ、比喩的に解釈する のがよい。箴言8章の「知恵」は神ご自身の属性でもある知恵と理解する方が自然である。まことの知恵であるキリストに適用することは差し支えないが、第一義的には神の知恵ととるべきであろう。従って、箴言8:22-31などのテキストを用いて、キリストの被造性という重要な教理を展開することは、聖書の中に自分たちの考えや神学を読み込むという誤りを犯すことになる。
5 コロサイ1:15には、キリストが「全創造物の初子」(πρωτοτοκοσ πασησ κτισεωσ)と言われている。エホバの証人は、この表現をキリストが最初に造られた証拠とする。しかしこの語には、「初めに生まれた子」という意味の他に、「長子の特権を継承する子」という意味がある。次の16-17節の内容を十分に考え、15節とは「なぜなら」という句でつながっていることを考えるなら、ここでは後者の意味にとるのが自然である。
6 なお、コロサイ1:16-17の『新世界訳』では、「他の」という言葉がカッコ付きで挿入されている。ギリシャ語原文にはないそのような言葉が、括弧付とはいえ、なぜ挿入されているのだろうか。「神が最初にキリストを造り、続いてキリストが他の被造物を造った」というエホバの証人の教理が読み込まれているのではないか。もしそうだとすれば、そのようなことは翻訳者が決して犯してはならない間違いである。エホバの証人からの責任ある回答を求めたい。
7 啓示3:14には、キリストが「神による創造の初めである者」(η αρχη τησ κτισεωσ του θεου)と言われている。この句もまた、エホバの証人にとっては、「キリストが最初の被造物であった」証拠になる。このαρχηは、「初め」という意味があるとともに、「根源」とか「支配者」などの意味もある。後者の意味に解釈すれば、キリストは万物の創造者、または支配者ということになる。言語学的には、どちらも可能である。もしキリストの被造性という教理が他の聖書箇所で明確に確証されるなら、『新世界訳』のように訳してもよい。しかし多くの意味をもつ言葉の中から、一つの意味を先取りし、さらにその意味に基づいて重要な教理を導びき出すことには慎重でなければならない。
8 普通ヨハネ1:1の「初めに」と創世記1:1の「初めに」とは深い関係があると考えられている。しかし、『新世界訳』のヨハネ1:1の参照箇所には、創世記1:1があげられていない。それは偶発的というより、意図的であろう。エホバの証人は「キリストは全被造物に先だって最初に造られ、次にキリストによって万物が創造された」と信じている。すると、ヨハネの書の「初めに」の方が、創世記の「初めに」より前になる。
9 ヨハネ1:1の「初め」と創世記1:1の「初め」には、次のような類似点がある。
1)εν αρχηという表現が両方で使われている。
2)「神」という言葉がそれぞれの書物のはじめに出てくる。
3)二つの書物とも、万物の創造について述べている。
4)ヨハネは先在のキリストを『ことば』と表現しているが、創世記は神が言葉を語ることによって万物を創造している。
5)εγενετο(存在するに至る)、φωσ(光)、σκοτοσまたはσκοτια(闇)などといった言葉が共通に出てくる。
10 以上のような類似点から、ヨハネの書の「初めに」と創世記の「初めに」とは同じ内容を指していると考えられる。すると「初めに」とは、宇宙が造られたその最初のときを指す。時間は何時生じたのか。それは哲学的・思弁的な問で、聖書的回答を求めることは無理なのかもしれない。しかし、ヘブライの手紙はあるヒントを提供してくれる。ヘブライ1:2は、「彼を通して事物の諸体制を作られました」と言われている。またヘブライ11:3は、「事物の諸体制が神の言葉によって配在された」とある。「事物の諸体制」と訳されているギリシャ語はτουσ αιωνασで、その原義は「世々−時代の複数」である。するとここでは、この宇宙の創造は時間の創造でもあったことを暗示している。別の言葉で言えば、世界が創造されたとき、時間という概念も生じたのである。
11 今日多くの人々は、「ビッグ・バン」理論によって宇宙の始まりを説明しようとする。この理論では、この物質的宇宙が創造されたときに、時間と空間は存在するに至った、ということになる(Hugh Ross, "Cosmology Confronts Christ, the Creator" Reasons to believe, 1987)。時間は被造物と結びついた概念である。ヨハネ1:1は、この宇宙が造られたその最初の時には、「『ことば』があった」と宣言しているのである。
12 「『ことば』があった」の「あった」に当たるギリシャ語はηνである。これは動詞「ある」の未完了形である。ギリシャ語の未完了形は、継続性・連続性を表す。すると、被造物が造られたことによって生じた時間の初めにおいて、『ことば』は既に存在し続けていた、ということになる。これは『ことば』が永遠の存在者であると主張したのと同じである。永遠とは何か。それは時間を単に どこまでもさか上らせた結果得られるというものではない。むしろ時間とは異質な、超越者なる神のユニークな属性と結びつけて理解した方がよい。
13 エホバの証人にとってはキリストは最初の被造物であって、永遠ではない。従って、ηνのそのような解釈は容認できない。エホバの証人の護教家ハーレ(Nelson Herle)は、ギリシャ語文法の権威者ロバートソンの書物を引合いに出しながら、彼らの考えを養護する(The Trinity Doctrine, p37)。確かにロバートソン(A. T. Robertson)は、未完了形動詞には、歴史上一回限りのことを表す場合がある(そのようなときには通常ギリシャ語では不定過去形によって表現される)と述べている(A Grammar of the Greek New Testament in the Light of Historical Research, 1934, p883)。しかし、ハーレの引用法は誤解を招きやすい。ロバートソン博士が、ヨハネ1:10のηνは不定過去形の用法であると主張しているかのように見せているからである。ロバートソン博士自身は、未完了形の中には不定過去形の用法がありうるとの可能性を認めただけで、ヨハネ1:1のケースについては本来の未完了的用法(継続を示す)であると断言している。
『ことば』があったとは、時間がはじまったその時には既に、『ことば』が存在したということに他ならない。それは『ことば』の永遠的存在の主張である。
14 ヨハネ1:1-18において、ηνという未完了形の動詞は1節に3回、2節に1回、4節に2回、9節と10節に1回づつ、15節に2回、合計10回出てくる。それに対しεγενετοという不定過去形の動詞は、3節に2回、6節、10節、14節、17節においてそれぞれ1回づつ、合計6回使われている。それぞれの言葉が使われている文脈を検討するなら、継続を表す場合には常にηνが、一回限りの出来事を示す場合には常にεγενετοが使われている。すると、ヨハネ1:1の最初のηνのみ例外的に不定過去の用法だったと解釈するのは全く不自然である。もしエホバの証人が期待するように「初めにキリストが造られ、存在するに至った」と言いたかったのであれば、ヨハネはενという前置詞の代わりにαποを、ηνという動詞の代わりにεγενετοを使ったはずである。
1 次に第二文節に進もう。ヨハネ1:1の第二文節は「言葉は神と共におり」である。この文章を前にして、エホバの証人は「ある方と共にいると同時に、その方であるということは可能ですか」(『論じる』、171頁)と問いかける。イエスが神であるなら「神は神と共にあった」ということになるからである。むろん自分自身と共にいるなどということは言語的に矛盾である。この点でエホバの証人は正しい。しかしそのような問いかけは三位一体論者にとっては意味をなさない。三位一体を信ずる者は、第二文節に出てくる『ことば』と「神」とを同じ実態(存在)とは考えていないからである。このことは第三文節において詳しく論じられる。
2 第二文節において、エホバの証人が投げかけるもう一つの質問がある。「もし三位一体が真理であるなら、ここでみ子が出てくるのに、聖霊はなぜ出て来ないのか。」これもまた当然な問いである。彼らは、聖霊が出てこない理由として、1)聖霊がその時にはいなかったか、あるいは、2)聖霊は人格ではないか、のいずれかだと主張する。聖霊を神の活動力と解するエホバの証人は、むろん2)の見解を採用する。
3 しかし三位一体を信じる人々にとっては、選択肢は2つだけではない。第3の道がある。聖霊は人格をもつお方として、永遠の昔からみ子と共にみ父といっしょにおられた。しかし、このヨハネ1:1では、聖霊は問題にされていない、という説明である。ヨハネの書の目的は、キリストを神の子救い主として提示することにあった(20:30-31)。さらにこの書物の序文(ヨハネ1:1-18)は、キリストの受肉以前の姿、受肉の目的などが中心テーマである。従って、聖霊について言及することは、この序文のテーマからはずれてしまう。ヨハネが聖霊に言及していないからといって、聖霊は存在しなかったと結論づけたり、聖霊が神の活動力であることを暗示しているととるべきではない。沈黙からの議論は常に慎重でなければならない。マタイ28:1は、二人の女性がイエスの墓を訪れたと証言している。しかしこの記録から、イエスの墓を訪れた人が二人だけだったと結論づけるなら、愚かなことである。マルコ16:1には3人が、ルカ24:10では3人以上、もっと多くの婦人がいたと報じているからである。聖霊が三位一体の神であることは、別の機会に論じる。
4 ある人たちは、神は三位一体であるということを曲げてとらえ、この第二文節を「『ことば』は三位一体と共にある。『ことば』は三位一体である」ということになるのではないか、と主張する。これは三位一体の真理を正確にとらえ、個々の聖句をどのように解釈するかということを無視した愚かな議論である。エホバの証人は、「あなたは三位一体を信ずるべきですか」というパンフレットの中で三位一体を徹底的に批判している。しかしその批判の多くは、三位一体を信じる者が主張する三位一体にではなく、自分たちがかってに造り上げた(あるいは想像したというか、期待しているというか)三位一体論に対するものである。このパンフレットに対しては別の機会に応答する。
5 この第二文節の中では、エホバの証人と歴史的キリスト教の間であまり大きな論争は展開されてこなかった。むしろ、次の第三文節とのからみの中で、この文節は問題とされた。従って、次の第三文節に進むことにしよう。
1 「『ことば』は神であった」という第三文節は、エホバの証人が最も力を入れて論じている箇所である。ヨハネ1:1のすべての文節が意味あるものとなるには、第二文節の「神」と第三文節の「神」とは同一ではありえない。エホバの証人は前者をエホバ神、後者をより低い神(a god)と考える。それに対し、歴史的キリスト教は、前者を父なる神、後者を父なる神の本性と解釈する。問題はどちらがより説得力を持っているかということにある。
2 ヨハネ1:1の第二文節の「神」には冠詞がある。しかし第三文節の「神」には、冠詞がない。この違いこそ、エホバの証人が、第三文節の「神」を第二文節の神(God、エホバ神)とは違う、より低い神(a god)と解する理由である。彼らは、名詞に冠詞が伴わず、かつ動詞の前に来る場合には、形容詞的な意味となり、主語を限定する働きをするというハーナーの研究を引用する。その引用法が間違っていることは最後の章で扱う。
3 無冠詞である名詞が動詞の前に来た場合、不定冠詞をつけて訳す必要があるかどうかは学問的に重要な課題である。1985年版の参照資料付『新世界訳』では、その正当性を養護するため、11箇所の例を新約聖書よりあげる(p1771)。エホバの証人の護教家ハーレもまた、特に5つのケース(マルコ11:32、ヨハネ6:70、8:44、10:1、12:6)を取り上げている(Nelson Herle, The Trinity Dotrine Examined in the Light of History and the Bible, unpublished manuscript, 1987, p36)。
4 しかし、不定冠詞をつけて訳すべきかどうかということはさして重要なことではない。問題は、第三文節の無冠詞の「神」を小文字のgodに変え、第二文節の冠詞つきの「神」Godとは違う、より低い、より劣った「神」を想定することにある。参照資料付『新世界訳』があげている11箇所のすべての例は、不定冠詞(a)をつけて訳出しても、その単語の意味は変らない。幻影(マルコ6:49)はあくまでも幻影であり、預言者(マルコ11:32、ヨハネ4:19、9:17)は預言者である。中傷する者(ヨハネ6:70)、人殺しおよび偽り者(ヨハネ8:44)、盗人(ヨハネ10:1、12:6)、雇われ人(ヨハネ10:13)、人間(ヨハネ10:33)、どれ一つとっても、不定冠詞をつけた結果、単語が示している内容がより低いものになるということはない。その単語のもともとの言葉通りの意味は続いている。
5 結局、ある単語に冠詞がついていない場合と、その単語に冠詞がついている場合とを比べ、より劣った意味になるということはないのである。そう考えるのは、冠詞の機能について誤解しているからである。「彼は人である」という文と、「彼がその人である」という文章を比べていただきたい。前者の人には冠詞がない。後者の人には「その」という冠詞がついている。そこで、前者の「人」は後者の「人」に比べ、より低い・劣った人を指すなどと言ったらどうであろうか。冠詞がついている場合とついていない場合とで、単語の意味が変るということはないのである。意味は変らないという前提に立つからこそ、ある言葉に限定を加えたい場合冠詞をつけるのである。
6 日本語ではもともと冠詞という概念は曖昧である。英文の例で考えてみよう。George was a kingとGeorge was the kingという文を比べていただきたい。後者の「王」は定冠詞がついているので、特定の王を指定している。前者の「王」には不定冠詞がついている(定冠詞がついていない)ので、どちらかといえば王の性質とか機能を述べている。しかし、両方の文の「王」という概念は変らない。前者の王はより低い、より劣った王を指し、後者はより強力な王を指すなどということはない。
7 1983/12/1号の『ものみの塔』誌は、第三文節の「神」を「より低い神(a god)」と訳すことの正当性を弁護するために、使徒28:6と使徒12:22を引き合いに出す。使徒28:6には、「この人は神だと言いだした」という句がある(ελεγον αυτον ειναι θεον)。ここでは「神」は確かに無冠詞である。類似点はそれだけである。もしエホバの証人がこの句を、自らの主張の裏づけに引用する場合には、次の二つの問題に答える責任がある。まず、エホバの証人がこれまで例証したのは、無定冠詞叙述名詞が動詞の前に来る場合に限定していたはずである。そのことはいったいどうなるのか。というのは、ここでは「神」は動詞の後に来ているのである。さらに、ここでの「神」は異教的な多神教の神であるが、ヨハネ1:1の『ことば』をそのように異教の神にまで下げてしまってよいのか、ということである。
8 使徒12:22はどうか。そのギリシャ語の表現は、θεου φωνη「神の声」である。ここもまた「神」は無定冠詞である。しかしヨハネ1:1と共通なことはそれぐらいである。ここでの「神」はヘロデ王を指しており、しかも叙述名詞ではなく、属格名詞(神の)である。
9 ヨハネ10:33もあげられる聖書箇所の一つである(Daniel B. Wallace, "The Semantics and Exegetical Significance of the Object-Complement Construction in the New Testament," Grace Theological Journal" 6,1(1985):91-112)。そこには、ποιεισ σεαυτον θεον「自分を神とする」というギリシャ語の表現がある。ここでは無定冠詞で、動詞の後に出てくる。この場合の神は、ユダヤ人が持っていた旧約聖書の神(エホバ神)を指しているのか、ユダヤ人から見た異教的な神を指しているのかはっきりしない。前者であれば、キリストが神性を主張したことの間接的な証拠となる。後者であれば、使徒28:6、12:22と同じように異教的な神になってしまう。いずれにしてもエホバの証人の主張を補完するテキストにはならない。
10 エホバの証人は、真の神と偽りの神の他に、第三の「神」を聖書中に見いだそうと努力する。そうすることによってキリストをより低い神(a god)に位置づけたいのである。詩篇8:5、82:1,6がその例である。はたしてそのような聖句は第三の神を教えているだろうか。詩篇8:5の「神」(ヘブル語エロヒームは複数)は、七十人訳ギリシャ語旧約聖書では「み使い」と訳されている。ヘブライ2:7は、同箇所を七十人訳をもとにみ使いと解釈し、み使いはキリストに劣るものとして引用されている。従って、キリストに適用することなど論外である。詩篇82では、地上の王が皮肉をこめられて「神々」と言われている(2-4節の文脈から明らか)。ところでキリストは、「人間でありながら自分を神とする」と批判したユダヤ人に対し、この詩篇82篇の実例(王たちでさえ神々と呼ばれたこと)を引いて自らを弁護された(ヨハネ10:33-34)。ちなみにこのギリシャ語は複数形θεοιである。いずれにしても、これらのテキストから第三の「神」の実例を探し、キリストを小さな神(a god)に解釈しようとする試みは無理である。
11 真の神とも、偽りの神とも簡単に断言できない箇所として主張されるもう一つの箇所は使徒17:23である。パウロは、アテネの人たちが造った偶像に対し、「知られない、神」と呼んだ。この表現は、パウロの視点に立って真の神を指しているとも解釈できるし、あるいはアテネの人々の視点から偽りの神を指しているととることも可能である。しかし、エホバの証人が言うような第三の神に結び付けることはできない。
12 ヨハネ1:1の「神」はギリシャ語の単数形θεοσである。単数形の神は、新約聖書全体でおよそ1,400回出てくる。そのうちの6箇所は「偽りの神」に対して使われている。使徒7:43、12:22、28:6、Uコリント4:4、フィリピ3:19、Uテサロニケ2:7である。他はすべて「真の神」を表わしており、第三の神の余地はない。エホバの証人が主張する「真の神(God)ではなく、偽りの神々(gods)でもない、第三の神(a god)を想定させる」テキストは存在しない。キリストを、全能なる偉大な神(エホバ神)に比べ、力ある・小さな神と見たて、ヨハネ1:1(そして1:18と20:28も)をその線に沿って解釈しようとする聖書的根拠はない。
13 ヨハネ1:1の正確な理解のため、新約聖書全体における「神」(単数形=θεοσ)の使用法についてもう少し詳しく検討することにしよう。それは、ヨハネ1:1の第三文節、無冠詞の「神」がより低い神を指すという解釈を支持するだろうか。まず、無定冠詞の「神」で、動詞の前に来るというケースをとりあげる。ヨハネ1:1を除くと新約聖書では他に5箇所ある。マルコ12:27、ルカ20:38、ヨハネ8:54、フィリピ2:13、ヘブライ11:16である。これら5つの例は、いずれも父なる神(エホバ神)を指しており、キリストではない。従って、ヨハネ1:1のみを例外的に扱い、小さな神(a god)と解釈すべきではない。
14 ヨハネ1:1においては、冠詞付の対格の「神」(τον θεον)が無冠詞の叙述的主格の「神」(θεοσ)へと移行している。そのような変化は、エホバの証人が主張するような、エホバ神からより低い神に移行することを案じさせるものがあるだろうか。同じ節の中で、そのような変化が起こるケースは次のとおりである。
ヨハネ3:2では、απο θεου(無冠詞の属格)からο θεοσ(定冠詞付の主格)に移っている。
ヨハネ13:3では、απο θεου(無冠詞の属格)からπροσ τον θεον(定冠詞付の対格)に移っている。
ローマ1:21では、τον θεον(定冠詞付の対格)からθεον(無冠詞の対格)に移っている。
Tテサロニケ1:9では、προσ τον θεον(定冠詞付の対格)からθεω(無冠詞の与格)に移っている。
ヘブル9:14では、τω θεω(定冠詞付の与格)からθεω(無冠詞の与格)に移っている。
Tペテロ4:11-12では、θεου(無冠詞の属格)からο θεοσ(定冠詞付の主格)に移っている。
15 以上の6箇所においては、冠詞付の「神」から無冠詞の「神」に移行しても(あるいは反対であっても)、神の概念は変らない。むろん上記の箇所はヨハネ1:1と同じ構造であるわけではない。従って、ヨハネ1:1もそうではないと断定する根拠に用いるべきではない。ただ、他に例がないことは、ヨハネ1:1においても慎重に考慮すべきことを求めている。
16 最後に、キリストが「定冠詞をつけられた神」として表現されている例は新約聖書にあるだろうか。いくつかの例が見られる。ヨハネ20:28(ο θεοσ μου「私の神」)、テトス2:13(του μεγαλου θεου και σωτηροσ ημων Ιησου Χριστου「大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト」)、Uペテロ1:1(του θεου ημων και σωτηροσ Ιησου Χριστου「私たちの神であり、救い主であるキリスト」)、Tヨハネ5:20(ο αληθινοσ θεοσ και ζωη αιωνιοσ「まことの神、永遠のいのち」)などである。もしこれらのテキストがキリストを指しているとすれば、キリストは父なる神(エホバ神)と同等の位置におかれていることになる。ただしそのいずれの場合にも、キリストが父なる神とは区別された存在であることを明らかにするため、何等かの修飾的な表現が加えられていることは興味深い。ただし、『新世界訳』ではこれらの箇所は、キリストではなく、エホバ神を指すものと解釈し、翻訳している。この問題については、別の機会に十分に論ずることにする。
17 第一文節については次のことを確認しておく。「初めに」とは、宇宙が造られた結果生じた時間の初まりを指す。そして『ことば』なるキリストは、その時には既にずっと存在し続けた。
18 第二文節では次のことを確認しておこう。『ことば』なるキリストは、神とともにおられた。従ってキリストは神とは区別されるべき存在である。この第二文節の「神」に定冠詞がついているのは、ヨハネも読者もよく知っている旧約聖書の神(エホバ神)を指しているからである。
19 では第三文節の「神」に定冠詞がないのはなぜか、それは第二文節の「神」とは異なるからである。そこでは「本性としての神」(God by nature)または「神性」(Deity)「本質的に神であること」(essencial Deity)などを表しているのである。
20 第三文節の「神」に定冠詞がないのは、神性という本性・本質が強調されているためであるが、そのことは第二文節の「神」より劣った「より低い神」(a god)を指しているわけではない。むしろ反対である。第三文節の「神」は、第二文節の「神」(エホバ神)と同じ本性を持ちながら、区別された存在である。
21 もし第三文節の神に定冠詞がついているなら、第三文節の「神」と第二文節の「神」とは同じになる。その場合、エホバの証人の「ある方と共にいると同時に、その方であるということは可能ですか」という問いかけには、沈黙する以外にない。そこでは、神がキリストにおいて現われたという『様態論』が残る。
22 ヨハネ1:1の『ことば』と「神」との関係を正確に理解するには、次のような事実をすべて満足させるものでなければならない。
1)一人の真正な神がおられる。
2)『ことば』はその神と本性において同じ神である。
3)『ことば』はその神とは人格的に区別された存在でなければならない。
23 この三つの点をすべて満足させるには、神は一人のお方で、複数の人格を持っていなければならない。これこそ、三位一体の神を理解する出発点である。三位一体の神とは異教の神概念から出たものではない。むろん、人間のかってな推論から出たものでもない。むしろ聖書をありのままに読み、ありのままに解釈するとき、必然的にそう結論づける以外にないのである。
24 もし逐語的ではなく、文意を汲んで意訳するなら、次のような訳がヨハネが伝えようとしたことであろう。
宇宙が創造されたその初めのときには、言葉は既に存在し続けておられた。
その『ことば』は通常父として知られている神との交わりを持ちながら、存在し続けておられた。
その『ことば』はその父である神と同じ本性をもっておられる神である。
1 エホバの証人は自らの聖書理解の正当性を養護するため、しばしば著名な学者の名前を引用する。むろんそれは正しいことである。しかしその多くの場合には問題がある。文脈は無視され、著者が本当に言いたい意図が汲まれておらず、エホバの証人にとって都合がよい部分だけが引用されているのである。その結果、著者が本来持っていた見解とは異なった意見(それこそエホバの証人が主張したい見解であるが)を持っているかのような印象を読者に与えてしまっている。このようなことは、学問の世界では許されないことである。エホバの証人の組織に属する人たちにとっては、引用された学者が本来主張したかったことを知るすべもないであろう。そのことを知らせるのは、エホバの証人の組織の外にいる者の責任である。ここでは、ヨハネ1:1の解釈において言及された学者たちのみ触れることにする。 戻る
2 まずヨハネス・グレーバーである。彼は1937年に『新約聖書』(The New Testament)を出版した。その聖書のヨハネ1:1は、"...the Word was a god."と訳されている。この翻訳はエホバの証人にとっては真に都合がよかった。それ故、エホバの証人の出版物ではその聖書が盛んに言及された。『ことば−ヨハネによればそれは誰か』(1962, p5)、『聖書理解の助け』(Aid to Bible Understanding, 1969, p1134,1669)、『すべてのものを確かにせよ』(1965, p489)、『ものみの塔』誌62/9/15号(p554)、『ものみの塔』誌75/10/15号(p640)、『ものみの塔』誌76/4/15号(p231)などである。実は彼は信頼することのできるギリシャ語学者ではなく、カルト的な心霊主義者だった。
3 1983/4/1号の『ものみの塔』誌は、グレーバーが心霊主義者であることが分かったので、以後、彼の書物から引用しないことを宣言した。グレーバーが、1980年版の『新約聖書』の序文において、「神の霊の世界」に頼って翻訳したことを述べている事実が判明したから、というのがその理由であった。しかしここでも彼らは、重大な偽りを暴露している。実は、1956/2/15号の『ものみの塔』誌は、ほとんど1頁を使って、グレーバーが心霊主義者(spiritist)であることを述べている。すなわち、グレーバーのCommunication with the Spirit-World:Its Laws and Its purposeという書物に触れ、「祭司出身のグレーバーが信じる霊たち(spirits)がその翻訳を助けた」と述べている。しかもその時点で既に、彼の翻訳を使用しないよう読者に警告していた。エホバの証人の組織は、そのように警告しておきながら、30年間もグレーバーの聖書を自らの見解を補強するために利用し続けた。しかも読者からの指摘されると、それまで心霊主義者であることが分からなかったと平気で偽っているのである。これは誠意ある人間のすべきことではない。
4 次に権威あるギリシャ語学者の一人マンティ博士(Julius R. Mantey)の場合を見る。彼はダナ氏とともに有名なギリシャ語文法書を出版した(H. E. Dana and Julius R. Mantey, A Manual Grammar of the Greek New Testament, 1927)。エホバの証人は、その文法書の148頁の第三項目を誤用し、あたかもヨハネ1:1をa godと訳すのを支持しているかのごとく、引用し続けた。
5 この事実に対しマンティ博士は、ものみの塔聖書冊子協会宛てに抗議の手紙を出した。その日本語訳は『ものみの塔−預言・教理の移り変わり』(1992年出版)の123-24頁に掲載されている。その中でマンティ博士は、文法書の139頁および140頁の第四項において、エホバの証人の主張と正反対の結論を主張していることを指摘している。そして、文脈を無視した引用に厳しく抗議している。
ヨハネ1:1におけるtheosの使用法がその例である。pros ton theonはキリストの父なる人格との交わりを指している。theos jn ho logosはキリストが神的な性格の本質に与っていることを強調している。前者は明確に人格に適用されており、後者は性質に関わっている。この区別は冠詞がもたらすものである。(前掲の文法書、p140)
マンティ博士はクリスチャン・リサーチ・インスティチュートのマーティン博士とのインタビューに答えて次のように述べている。「ギリシャ語を知り、聖書翻訳に携わっている世界中の学者の99パーセントはエホバの証人に賛成していない。真理を求める人々は学者の大半の人々が本当に信じているものを知る必要がある。」(Ron Rhodes, Reasoning from the Scriptures with the Jehovah's Witnesses, 1993, p104)
6 参照資料付の新世界訳聖書は、ハーナー博士(Philip B. Harner)の論文の一部を引用している。「ヨハネ1:1の場合、述語の持つ限定詞的働きは極めて顕著であるゆえに、その名詞を特定されたものと見なすことはできない」(「聖書文献ジャーナル』第92巻(1973年)の87頁から)。この文は、ハーナー博士がエホバの証人の解釈に同意しているかのような印象を与える。それは全く違う。
7 ハーナー博士によれば、ヨハネが『ことば』と神との関係を表現する際、5つの可能性がある。
1)o logos jn ho theos
2)theos jn ho logos
3)ho logos theos jn
4)ho logos jn theos
5)ho logos jn theios
である。もしヨハネ1:1が第4番目の構造であれば、the Word was a godと訳すことも可能である。しかし実際には、ヨハネは2番目の構造で記述した。その場合には、『ことば』は、初めから共にいてかつ神と呼ばれるもう一人の人格(父)同様の神である、という意味でしかありえない。これがハーナー博士の結論である。
8 エホバの証人が誤解した(むしろ読者を欺いているとしか筆者には思えない)原因は、限定詞的働き(qualitative force)という言葉の理解にある。エホバの証人はこの「限定詞的」を「あいまいで弱めたものにする」と解釈する。その結果、『ことば』は神のようなもの(Godlike)、神的な(divine)、ある神(a god)である、と読み込む。同じ論文の中で、ハーナー博士は「直前に出てくる神と同じ性質ではない意味でのdivineという言葉は、ヨハネ1:1では使用すべきではない」とまで明言している。結局、ハーナー博士の論文は、新世界訳のヨハネ1:1の翻訳を真っ向から否定したものである。
9 エホバの証人は自らの解釈を支持する学者として、他にマッケンジー博士(John L. Mckenzie)をあげている(『あなたは三位一体を信ずるべきか』p27)。マッケンジーについては次のように言われている。
また、「聖書辞典」の編集者であるイエズス会士ジョン・L・マッケンジーは、同辞典の中でこう書いています。「ヨハネ1章1節は厳密に訳せば・・・『言葉は神性を備えた存在であった』となるであろう。」(同頁)。
10 これもまた、文脈を無視した引用である。マッケンジー博士は確かに『ことば』は神性を備えた存在(divine being)と言っている。しかし、彼がdivine beingという言葉を使用したとき、エホバより劣った神的存在を考えているわけではない。エホバの証人は彼の文章を引用するとき、その前後で語られている次ぎのような文章を全く無視している。
ヨハネ1:1-18は、神とイエス・キリストとが同一であること、キリストが見える形でかつ手で触ることのできる形で現われた神であることを宣言している。イエスに対して冠詞付の「神」が使われていないのは、父なる神との混同を避けるためである。ヨハネ1:1の『ことば』は、ヨハネ20:28とテトス2:13において「神」と言われているイエスとの関係で考えられるべきである。
11 以上が、エホバの証人が引用している文章の前後で語られていることである。マッケンジー博士は、a divine beingを、直前に出てくる「神」の本性を指して使ったのである。divine beingという表現が解釈次第で自分たちに都合がよくなるので、その文脈を無視して引用するのは、学問的詐欺である。引用者たちが無知であった、などとという弁解は許されない。その書物は難解な書物ではなく、一般の人のために書かれたごく普通の文章だからである。
12 1977/5/15号の『ものみの塔』誌は、イギリスの著名な聖書学者バークレー博士の文献を引用して、ヨハネ1:1の彼らの解釈を権威づけている。それによれば、バークレー博士は次のように述べていることになっている。「神に定冠詞がついていないのは、名詞というより形容詞的で、叙述的である。従ってヨハネは、イエスが神であると言おうとしたのではない。」これはバークレー博士が主張していることではない。『ものみの塔』誌は、引用された書物の同じ頁で、バークレー博士が次のように述べていることを無視している。
問題に公平に真正面から取り組んだ現代の聖書学者はケネス・ウエストのみである。彼は「『ことば』はその本質において本質的な神である」(The Word was as to his essence essential deity)と述べている。しかしここにNEB(New English Bible)は「神であるところのものが『ことば』である」(The God was the Word was)という全く正しい翻訳をして問題を解決した。
13 バークレー博士はこのような文脈を無視した引用に抗議して、1977/8/26付けの手紙で、次のように述べている。
『ものみの塔』誌の論文は、賢くカットすることによって私が言おうとしたことと反対のことを言わせてしまった。私が言おうとしたこととは、あなた方がご存じのとおり、イエスが神と同じではないということであるが、それは、もっと荒っぽい言い方をすれば、イエスは神と同じスタッフである、神と同じ存在である、ということである。『ものみの塔』誌が印刷した私の素材は、イエスは彼らが考えるような神ではない、ということを主張しているのである。
「ヨハネは、イエスが神であるとは言わなかった」というバークレー博士の文意は、『ことば』が父なる神と同一視されることをヨハネは避けたかった、ということである。問題なのは、このようなバークレー博士による陳述の後も、エホバの証人はバークレー博士のこの文章をソックリそのまま(ウエストにも、NEBにも言及することなく)、引用し続けていることである(『論じる』p171)。これは学問的に真に不誠実な態度である。
14 モファット博士(James Moffatt)についても同様である。エホバの証人出版の『論じる』は、モファット博士が「ロゴスは神性を備えていた」と訳した点を指摘し、彼があたかもエホバの証人の解釈を支持しているかのような印象を与えている(p172)。しかし次の言葉はそのモファット博士の言葉である(Jesus Christ the Same, 1945, p61)。
「『ことば』は神であった。そして『ことば』は肉体となった。」とは単に、「『ことば』は神性を備えており、人間となった」という意味である。カルケドン会議におけるニケア信条は、イエスが真の神であり、かつ人であることを認めない理論に対抗して、この両方の真理を伝えるのが意図だった。
15 エホバの証人の書物を出版している人々は、真摯な学者たちの見解を引用するに当たり、文脈を無視し、ある場合には執筆者の直接の抗議をさえ無視して、誤用し続けていることに重大な反省をすべきである。そのような行為は、著者に対してはむろんのこと、エホバの証人の組織に所属する人々をも欺くものである。それは学問の世界では詐欺以上の不正である。聖書では、嘘をつくことはエホバ神の義に反すると教えている。エホバ神の義を満たすことを、学問の世界でも実践していただきたい。そうでなければ、確かな真理を求めようとしている多くの人々に、大きなつまづきを与えることになる。例えエホバの証人が説く教理が聖書に忠実であったとしても、このような引用方法を繰り返すなら、それだけで一般の人々の信用を失うであろう。書籍を執筆している人々の責任はエホバ神の前にきわめて大きい。
16 このパンフレットをお読みになって、エホバの証人の教理を聖書からもう一度考え直してみたいと思われた方もおられるであろう。このパンフレットを手渡してくださった方にお声をかけていただきたい。きっとこれまで教えられていた情報とは違う情報を手にすることができ、聖書が教えていることをより正確に理解することができるようになると思う。このパンフレットを用意した『新世界訳研究会』は、今後もエホバの証人の方々が聖書を読むのに手助けになるような、学問的に正確な資料を提供させていただきたいと願っている。聖書の真理が、どのような立場に立つ人にであれ、明らかにされることを期待して。