神はアブラハムの子孫である「ユダヤ民族」を取って、神のスタンダード、神の摂理、慈愛をこの世界に提示し、またその中にイエスキリストを救い主(Messiah)としてあらわす事によって人がいかにして救われうるかの道を示された。メシアニック・ジューとは、第一義的にはユダヤ人であり、旧約聖書のアブラハムイサク、ヤコブからの血を受け継いだ子孫であって、ナザレのイエスを旧約聖書に述べられていて久しく待望されていた救い主、メシアとして受け入れる者である。従ってメシアニック・ジューは聖書に記載されているアブラハム、イサク、ヤコブが聖書の実在の人物であったことを当然信じている。
メシアニックジュー(もしくはメシアニック・イスラエル)の資格
メシアニックジュー(メシアニック・イスラエル)にとってイエスキリストとは誰か
十字架につけられたメシアであるイエス・キリスト(ヘブル語発音ではイエシューアと表記される)の流された血は、とりもなおさずイスラエルがエジプトの奴隷状態から解放された時の過ぎ越しの小羊の血の永遠の形である。過ぎ越しの小羊の血を塗った家はエジプトの罪の罰を免れた。メシアニック・ジュー(メシアニック・イスラエル)はこうして旧約聖書に述べられた全記述を神の啓示として、新約聖書の全記述をメシアであるイエスキリストのメッセージとして、神の言葉として受け入れるものである。
メシアニックジューとメシアニックイスラエルの関係
当ホームページの定義にも述べられたように、メシアニック・イスラエルとはメシアニック・ジュダイズムを受け入れて信じる異邦人の事である。こうして神の戒めを守るようになった異邦人が失われた10部族から取り戻された人の子孫でないと誰が言えようか。ジューと言われる人々の中ですら、一部に不純なものがあり安息日を守らないジューや神の創造のかわりに進化論を信じているジューすらいる。我々はこのような人々はたとえ血液を引いていても神の民とは認められないであろうと考える。従って、MJとMIの区別のなかには恐らく人為的な任意決定性要素が混入しているであろう事を全く否定しない。「ジュー」であるか「イスラエル」であるかよりも、その共通の父であるヤコブ(イスラエル)の信仰の召しを自分の物として受け入れるかどうかが重要なのであり、血統の証明の重要性はそれよりも優先順位が高くない。すべての真実を裁きの日に明らかにしてくださるのは神である。我々はそれを信じて互いに助け合っている。
過去の経緯
不幸なことに、そういうクリスチャンのキリスト教会にも、残念ながら「キリストを十字架にかけたのはJewだ」として、ユダヤ人に対して偏見や敵対心を持つ『反ユダヤ主義』を生み出してきたのは歴史上の事実である。一方「ユダヤ人がイスラエルの地を追われて今でも存在している事はキリスト教が正しい宗教である事を証明するものだ」として中世ヨーロッパ社会がユダヤ人を生かさず殺さずの隔離保護政策をしてきた事も、それがまたかえってユダヤ教とキリスト教の対立の素地を固めて来てしまった。我々はこの和解のために祈らなければならないと考える。そうしている内に、イスラエルはエゼキエル37章の預言の通りに民族として国を復興した。1980年代に入って、イスラエルが首都をテルアビブからエルサレムに遷都したが、この事実によって、世界各地でキリストが旧約聖書で待望されていたメシアであることを悟ったユダヤ人の数が増えている。イスラエルの首都は現在はエルサレムである事を政治的に否定しようとする人々もあるが、これらの事を導かれたのが神であるならそれに反逆することは出来ないであろう。メシアニック・ジューが起こっているのはそういう訳で主に西欧であるがもちろん日本でもいくつかの複数の活動が起こって来ていて希望を持つものである。
クリスチャンという名称は、もともと聖書には無かった。この言葉は、かつてイエスキリストを神として受け入れて信じた人をローマのガバメントが軽蔑して呼んだものが、キリストを信じる側はむしろそういう名称で呼ばれることを喜んだという所に由来する。クリスチャンはイエスキリストを信じているが、そのメシアが出て来たユダヤの文化思想背景が意識的もしくは無意識的に削り落とされていた過去の経緯がある。我々はそういう事実を認識するが、だからといってその理由でクリスチャンを責めたりすることはありえない。我々の信じる所は、「クリスチャン」は「メシアニック・ジュー」の兄弟であり、「クリスチャン」がその本来のユダヤ性を振り返って正当に再評価することが出来るようになって、その本来の主旨に共感し、第七日安息日を含む神の戒めに立ち返る事ができるようになれば、本質的に「メシアニック・ジュー(メシアニック・イスラエル)」であると言える。
旧約聖書では一貫して週の第七日は神の創造の記念日であるとともに、人間がこれを神の与えられた聖なる日として認識して守ることを求めている。その事実は新約聖書においても変更された事実は見出だされないと信じられる。従って、そういう聖書の認識に従って我々も週の第七日を安息日として礼拝の日とするものである。正確には、安息日が始まるのは金曜日の日没から、土曜日の日没迄である。キリスト教教会の中でこれと同じ事をしているのはセブンスデーアドベンチスト教会が知られている通り。
トーラーとは旧約聖書のモーセ五書を意味する。キリストはこの世界に来られて、「私は律法と預言を廃する為に来たのではなく成就するため(完成するため)に来た」と述べられた(Matt. 5:17-19)。この言葉に従って、旧約の律法はユダヤ人の 福祉のためだけではなく世界の人々のために与えられたものであると信じることができる。従って新約聖書のイエスの福音書も旧約に既に与えられたプリンシプルの実現を意味するものに他ならないと考えるべきであると提言する。律法に関する若干の誤解がキリスト教会に未だに広く存在している。キリストは律法を廃したからユダヤの規定は不必要ではないのかという主張がしばしばなされることがある。南カリフォルニアにあるプロテスタントの著名な神学校の一つであるフラー神学校の創設者のフラー教授はこの問題についてコメントし、パウロが無益な律法として新約聖書で排除していたのは、実はユダヤ人がバビロン捕囚から帰って来たエズラ以降に現われた宗教家の学派が、既にあった律法の上に更に微細にわたって追加した宗教行政規定(ミシュナなど)であり、トーラーそのものではないとしている。我々はその見解に賛成している。
正確に言うならば、現在存在しているユダヤ教と言われるものの多くはイエス・キリストの時代よりも遥か以降のデイアスポラ(離散)のクリスチャンによる迫害の歴史の中で理論的肉付けが出来て形をなしたものである。従って、その教義の中には当然、キリスト教徒に対抗して、イエスキリストが神である事や三位一体を殊更に否定しようとする明確な意志が含まれている。我々はそれはユダヤの歴史にとって非常に不幸なことであったと思う。誤解の無いように述べるならば、キリストがおられた時代の「ユダヤ教」にはメシア観を誤らせる教義の人為的操作は存在しなかった(単にイエスがメシアであることを気がつかなかっただけのこと)。従って、メシアニック・ジューとは、イエスがメシアであると認める原点に立ち帰ったJudaismという定義を受け入れる。しかも、クリスチャンの本質はメシアニックジューであるという認識をも受け入れる。そうであるから、MJはキリスト以後に作られたユダヤ教教条とは関係がない。しかも、ユダヤ教にはメシアニック・イスラエルというコンセプトがそもそも存在しない。
メシアニック・ジューとセブンスデー・アドベンチスト教会と関係があるのか
セブンスデー・アドベンチスト教会は週の第七日を安息日としてこれを遵守するプロテスタント教会である。歴史的に見てセブンスデー・アドベンチストとメシアニックジューは創立においても組織においても互いに何の関係のない、相互的に独立なグループである。しかし、セブンスデー・アドベンチストは、プロテスタント教会の中に第七日を安息日とする教えと、レビ記の食物規定の本当の意味を現代に復活させた意味で、プロテスタント教会とユダヤの間の回復の為の橋渡しとなって起こされた教会であるように見える。事実、セブンスデー・アドベンチスト教会の創始者は自らの使命を「キリスト(イエシュア)の再臨に備えるバプテスマのヨハネの使命である」と定義している。セブンスデー・アドベンチストの公衆衛生観、教育観は高水準であり、ユダヤ文化のそれらのものと比べられる類似性を持っていた。そういう意味でセブンスデー・アドベンチストはメシアニックジューという元の木が現れるまでの間橋渡しのつなぎとしてプロテスタントの異邦人クリスチャンを招くために召された教会であったのかもしれず、両者の興亡の間に神秘的な連関があった可能性を保留する。同様の事は、セブンスデー・バプテストにおいても言えるであろう。(Please read Historical Implications of MJ) しかしSDAやSDBが潜在的にメシアニックイスラエルとなりうるのではないかという主張はこれを否定も肯定もせず保留するものである。
MJは政治圧力団体なのか
メシアニック・ジュー(メシアニック・イスラエル)は政治団体ではありません。NGO関連でもありません。ヒューマニストの団体でもありません。それどころか宗教教団組織・法人でもありません。メシアニック・ジューとは、従って聖書に書かれているイスラエルの約束を信じ、神に従って歩む人の集まりです。