閉ざされた心を開く

ランダル・ワターズ著|ウィリアム・ウッド訳

(「真理」40号1994年12月25日〜43号1995年7月1日に連載されたものを、発行者の許可を受けて転載)

 


エホバの証人が訪問して来たら、何をどう語れば良いか。
聖書に関する議論をどのように避けることができるのか。
親族や友人をどのように救い出せるか。
問題の核心にどのように迫ればよいか。



PART I
問題の正しい理解から

 たいていのエホバの証人は、「ものみの塔」の欺瞞性をあらわに示す情報を見たり聞いたりしたことがあるものです。それでは、なぜ彼らは問題を感じないのでしょうか。事実に基づく情報の客観的な分析を妨げている何らかの要素が確かにあるのです。彼らの心は組織への疑いを受けつけないように訓練されています。すなわち、「ここまではいいけれど、これ以上はだめ」と告げる障壁がきずかれているのです。

 では、エホバの証人が批判的な吟味という「危険区域」に入るのを妨げている力は、一体、何でしょうか。その力とは恐怖です。言い換えれば、根底にある問題は、誤ってさだめられた安心感です。超自然的な神に信頼するというクリスチャンの概念に代わるものとして、もっと分かりやすい対象、つまり組織、神の組織があるのです。エホバの証人は、組織に仕えることが神に仕えることと同じであると学びます。組織が母で、神が父、そしてエホバの証人は「両親」に従うべきであると。エホバの証人は神との真の交わりが理解できませんし、体験もできないので、彼らにとって神との唯一のつながりは、目に見える組織を通してしかありません。実際のところ、(本人は認めようとしないでしょうが)エホバの証人にとって、組織は「神」なのです。もし組織が実際に神によって導かれていないとすると、エホバの証人には他に安心できる拠り所がありません。そして、「一体どこに行けばいいのだろう?」ということになるのです。それでエホバの証人は、ものみの塔の土台を揺るがす、事実に基づいた情報の洪水を無視し続け、何年も組織の中に留まる訳です。エホバの証人は、事実を無視すればするほど、「自分は絶対に考えを変えない」と、ますます偏狭で頑なになり、「自分は真理に立っている」と更に強く思い込むようになっていきます。彼らは「疑い」という敵に対抗して、ありとあらゆる種類の心理的バリケードを築き上げ、自分の殻に閉じこもります。事実を示してエホバの証人を救い出そうとする人にとって、このことは信じられないように思えるでしょうが、それは安心感を失うという衝撃から自己を守る保護作用に過ぎないのです。実際のところ、エホバの証人は偽りの予言と組織の矛盾を論理的に片付けるために、組織には矛盾が全くないと考えるようにして、自分自身をだましているのです。

(注・・組織への信仰を強めるための裏付けを必死になって求める人は、支えになる論法は何でも、その妥当性や合法性を問わず、用いるものです。その類いの口実を最も効果的に紹介しているのは、「ものみの塔」発行の『聖書から論じる』です。この本によってエホバの証人は偽りの予言を言い逃れ、問題をすり替え、聖書のみことばを自己流に解釈し、愚かで矛盾した推論を用いて、あらゆる状況に対応しながら自分たちの立場を主張することができます。しかし、必死になって逃げ口を探しているエホバの証人にとって、十分な説得力を備えている本のようです。例えば、『聖書から論じる』の351〜352頁にある「エホバの証人は教えの点で誤りを犯してきたのではありませんか」という項目で彼らは、聖書の中の人々も時には「誤った期待」を抱きましたが、そのことによって偽予言者になった訳ではないと論じています。勿論、彼らが言及していないのは、このような「誤った期待」が予言ではなかたという点です。)

 クリスチャンはキリストというお方との霊的な交わりで平安を得ますが、エホバの証人は組織に信仰を置くように教えられます。組織を信じるなら、それは神を信じることになると言われるのです。その二つは切り離すことができないので、組織への信仰を失うことは、すなわち神への信仰を失うことを意味します。これこそまさに、エホバの証人が自己欺瞞の過程を通して、自己を守ろうとしなければならない理由なのです。エホバの証人は信仰を失うという苦しみに耐えられないのです。


訪問を受けたら彼らに考えさせる

「ものみの塔」の古い文書のコピーを持ち出したり、聖書を引用したりする前に、幾つかの事柄についてエホバの証人に確認を取るのが善策です。その事柄とは、ものみの塔の正式な教理であるのに、エホバの証人が個人として必ずしも同意していない事柄です。その信仰内容を認めなければならないこと自体が彼らを当惑させると同時に、ものみの塔によって奨励されているのは、実は偏狭で異端的な物の見方であることを意識させることになるでしょう。エホバの証人は、当惑させられることを避けて面目を保つために、時には信仰内容について嘘をついたり、答えないで話題を変えようとしますが、その場合、エホバの証人が否定することを確認した後で、エホバの証人の書物を用いて、まさに自分で否定したそのことを、実際に教えているのだと証明しなければなりません。それによって、エホバの証人が心の中に築き上げている障壁(「これ以上は進入禁止だ」と告げるもの)の存在を認めさせるのです。そうなるとエホバの証人は自分に正直であるための決断をせざるを得ません。つまり、今まで、組織に依存して得ていた安心感の代わりに、神との直接的な関係によって本当の安心感を見いだそうと冒険をする決断です。もしこの決断ができない場合は、クリスチャンとの対決を避けて、逃げて行くでしょう。

ではどのように話を進めていけば良いのでしょうか。

次回から記すのは、エホバの証人に問いかける準備段階の質問です。これらの質問は、ある特定の聖書箇所の解釈についてのものではなく(それは後の問題)、神が人間とかかわってくださる方法についてと、聖書の解釈方法についてのエホバの証人の見解に関するものです。これらの質問は、凝り固まっている人は別にして、一般のエホバの証人に対して非常に効果的です。


PART II
常識的な質問

 まず次の三つの質問は、聖書とキリスト教についての常識的な認識の基盤を形成し、異端のグループが普通、否定していることです。これは特に、エホバの証人について言えます。エホバの証人はしばしば、面目を保ったり当惑を避けたりするために、これらの質問に対して肯定の返事をするものです。が、後になつてそれらのことを否定した時、最初にした肯定の返事を思い出させる必要があります。

 「聖書がすべての人々のために書かれたと、あなたぱ信じますか。」(使徒一七・三〇、Iコリント一・二)

 「過去二〇〇〇年の間に、真のクリスチャンは常にどこかで存在してきたと、あなたは信じますか。」(マタイ二八・一九〜二〇。ものみの塔はそのように教えていますが、実際にその証拠として団体や人を挙げることはできません。なぜなら、彼らと同じ事柄を信じていた歴史的人物は一人として、存在しないからです。)

 「だれであれ、どこであれ、他の書物は一切持たずに、聖書だけを手にした人が、聖書を理解し、救われることができると、あなたは信じますか。」(「いいえ」という答えは、彼らが聖書だけで十分ではないと信じていることを暴露します。「はい」という答えは、ものみの塔の教えに矛盾します。『ものみの塔』誌一九六八年一月一五日号四三頁、一九八一年一二月一五日号二五頁、一九八二年三月一日号二七頁)

続いて、様々な宗教組織の危険について、次のような説明が必要です。

 「今日はかつてないほど、人々を真のキリスト教から逸脱させる多くの宗教団体があります。このような宗教団体の特徴について、お互いに同意できるかどうか、一緒に考えてみましょう。」

それから、次のような客観的な質問に進むのです。相手の人自身や、相手の組織に質問を当てはめるよりも、第三者(あるいは自分自身)に質問を当てはめたほうが賢明でしょう。「あなたの組織が……」と問うのではなく、「もしもある組織が……」とか、「もしも私が……」と問うことです。そうすることによって、エホバの証人に警戒心を与えないですみます。エホバの証人は会話の中で、やがて質問を自分自身に当てはめざるを得なくなるでしょうし、あるいはそうでなくとも、後で質問と相手の組織との関連性について、考えさせることもできます。いずれにしても、相手が感情を損ねる前に、問題点を理解させることが肝心です。(IIサムエルー二・一〜一四参照)

 「ある宗教団体が真理を持っていると判断する前に、その組織の教えだけでなく、その組織の歴史も吟味すべきだと、あなたは思いますか。」 (欺瞞に満ち、預言の成就もない歴史は、非常に都合の悪いものです。)

 「ある宗教団体が真理を持っていると判断する前に、その組織の教えだけでなく、その組織の歴史も吟味すべきだと、あなたは思いますか。」 (欺瞞に満ち、預言の成就もない歴史は、非常に都合の悪いものです。) 「もし私がある宗教組織に入り、後でその組織の上層部に欺瞞があると気付いたり、その上層部の人々が教えや預言を変えたと分かつたとしたら、どうでしょうか。私はその組織に留まるべきでしょうか。」 (ほとんどの異端は、その上層部において、重大なスキャンダルや、欺瞞と政治的な駆け引きを含む事件を経ています。もし自分たちこそ神の真の民であると主張するなら、彼らの主張は非常に疑わしいものです。)

 「申命記一八章二〇〜二二節と、マタイによる福音書二四章一一節二三〜二七節は、偽預言者を警戒せよと述べています。これらの箇所を用いて、どのようにして偽預言者を見分けるのでしょうか。」(偽預言者者は神の御名によって語りますが、その預言は実現しません。)

 「ある宗教のメンバーが、自分の組織以外の宗教の書物を読むことが許されないとしたら、あなたはどう思いますか。」(それは、信者の識別力の無さを示すと同時に、独裁的支配や事実を恐れる体制を明らかにします。エホバの証人は、他の宗教の書物を読むことが許されていません。)

 「モルモン教徒は、聖書を用いますが、聖書の正確な知識を得るために、自分たちの書物を学ばなければならないと主張します。あなたはこのことをどう思いますか。」 (すべての異端は、自分たちの指導者が聖書の唯一の解釈者であると信じており、エホバの証人も例外ではありません。)

 「もしも私がモルモン教やその他の宗教を調べるとして、その宗教の元メンバーが書いた本を読むことを、あなたは名案だと思いますか。」(異端のメンバーにとっては、これは難しい質問です。なぜなら、肯定しても否定しても、自分の首を絞めることになるからです。もし否定するなら、人が異端のグループに引き込まれる可能性がいかに高いかということを示すことができるでしょう。もし肯定するなら、「なぜ、あなたはエホバの証人の元メンバーによって書かれた本を読んでいないのか」と質問することができます。)

 「もしある宗教に対するすべての異なった見解が、高慢や罪のしるしと見なされるなら、どうでしょうか。」(異端は、本質的に独裁主義であり、どんな規則違反や組織への不従順に対しても、メンバーを懲らしめるものです。『ものみの塔』誌一九五二年七月一日号二〇三頁、一九八三年四月一五日号二七頁、一九八六年三月一五日号一二頁)

 「もしもその宗教が一般の人の批判に耳を傾けないなら、どうでしょうか。また、公の場での討論を許さないなら、どうでしょうか。」(それは、彼らの教理上の基盤が学問的にも論理的にも、非常に弱いものであることを暴露します。)


PART III
考えさせるための質問

 次に述べるのは、ある特定の問題について、異端の信者が取っている立場の矛盾点を彼らに理解させるための質問です。つまり、彼らに一つの聖書的あるいは学問的な論法に同意させたうえで、ものみの塔が実際にその論法を否定していると自ら理解するように、導くことです。たとえ態度で表さなくても、彼らはこの矛盾点のために苦しむでしょう。あるいはまた、話題を変えようとしたり、逃げたりすることによって、話し合いを拒み、思考停止をするでしょう。もはや第三者としての質問にするのではなく、またその質問を一般論や仮定として当てはめるのではなく、今度は直接に、ものみの塔に当てはめていきます。実際に責任を問われるのはエホバの証人個人というよりも組織ですから、質問をエホバの証人個人にではなく、その組織に適応するのです。こうすることによって、個人的に攻撃されているという印象を、彼らに与えないですむでしょう。

 「聖書を正しく解釈できるのは、ものみの塔だけですか。」(使徒一七・一一、Iヨハネ二・二六〜二七参照。「はい」という答えは、聖書と矛盾します。「いいえ」という答えは、ものみの塔の方針と矛盾します。『ものみの塔』誌一九六八年一月一五日号四三頁、一九七三年十月一日号五九四頁、一九八二年三月一日号二七頁)

 「聖書を解釈するために、ものみの塔はどんな方法を用いていまずか。」(彼らは聖書を字義どおりに受け入れると言い、象徴的な箇所は、他の関連箇所によって解釈すると主張します。(『聖書から論じる』二七〇頁。)しかし、彼らは絶えず、この規則を破っており、自分たちの独特の神学のゆえに字義どおりに受け入れられない箇所を、象徴的に解釈することがよくあります。例えば、ヨハネ三・三〜七、マタイ二四・二六〜三〇、ヨハネ一・一、黙示一・七など。)

 「学者たちは聖書の内容を理解するための歴史的、文法的、解釈学的方法などを問題にします(説明をする)。あなたは、これが良い方法だと思いますか。」(これは、聖書の内容を正しく解釈するために、内容や言葉の歴史的、かつ文化的な意味や、その言語的な重要性を考慮に入れることを意味します。ものみの塔は数多くの聖書箇所の歴史的意義を無視し、勝手に解釈します。例えば、ルカ一六・一六〜三一、ヨハネ一〇・一六など。) 

 「宗教に関係した人であろうとなかろうと、著名な学者たちは、ものみの塔の聖書解釈を支持していますか。」(学者たちは全体として、クリスチャンの陣営も不可知論者の陣営も、その不正直な手口や神学的な偏りのゆえに、ものみの塔に対して反対の立場を取っています。ものみの塔はある一定の見解について学者の言葉を引用しますが、それは半面だけの真理であったり、自分たちの立場を裏付けるために文脈を無視して引用されたものであったりすることがほとんどです。また彼らは度々、注目すべき文献であると言って、所在不明の資料から引用することもありますが、そういった資料は権威ある学会では、認められていません。ウィリアム・ウッド著、『エホバの証人の反三位一体論に答える資料集』参照)

 「ものみの塔は、他のあらゆるキリスト教の団体が間違つていると教えていますか。」(組織は確かに、そのように教えています。『ものみの塔』誌一九七三年十月一日号五九四頁、一九七九年六月一日号二四頁参照)

 「ものみの塔は、他のあらゆるキリスト教の団体が間違つていると教えていますか。」(「はい」という答えは、聖書によって支持されるものではありません。マルコ九・三七〜四一参照。「いいえ」という答えは、ものみの塔の教えと矛盾します。『ものみの塔』誌一九八三年五月一五日号一二頁)

 「エホバの証人は、自分たちが真のクリスチャンであることを、何を根拠にして証明できますか。その特徴は、『ものみの塔』だけに限られていますか。それとも他の宗教にも共通したところかありますか。」(その「特徴」を一つずつ取り上げます。彼らは心の要因よりも、外面的なものに基ついた一定の基準を挙げるでしょう。すなわち、彼らの「愛」は無条件の愛ではなく(マタイ五・四三〜四八参照)、組織への服従を条件とした愛です。彼らはキリストヘの愛に基づいた交わりの代わりに、共通の教理的な立場に基づいた交わりを持っています。他の異端と比べることによって、一つ一つの特徴の「独善性」を問題にしなければなりません。)

 ここで、初めに挙げた質問(常識的な質問)を再検討し、「ものみの塔」に当てはめてみます。そして、「ものみの塔」がいかにこれらの基本的真理を否定しているかを、エホバの証人に考えさせることかできます。


PART IV
事実に直面させる

 相手は態度に表さないかも知れませんが、ここまで進むと、エホバの証人の心はかなり動揺しているはずです。そこで、何よりも肝心なことは、穏やかで親切な態度を取り続けることです。なぜなら、エホバの証人が自ら心に築いた防御用の壁を崩し、「母なる組織」に対して疑問を持つように促していることになるからです。

 次に挙げる質問は、組織が「エゼキエルやエレミヤのような」預言者であると主張してきた事実、すなわちエホバの名によつて何度も偽りの預言をしてきたことや、自分たちが神の唯一の伝達の経路とか仲介者であると主張していることに、エホバの証人を直面させるためのものです。もしエホバの証人がこのことの真実性を否定するなら、事実を確認する意味で、共に「ものみの塔」の資料を詳しく調べるように勧めます。そして、もしそれでも「ものみの塔」の立場を擁護するなら、少なくとも彼らが他の異端と何ら変わらないことを認めさせるために、前述の質問に戻ります。

 「『ものみの塔』の組織の指導者たちは、神の預言者であると主張していますか。」(彼らは明らかに、自分たちがエゼキエルやエレミヤのような神の預言者であると言っています。申命記一八・二〇〜二二。『ものみの塔』誌一九七二年六月一五日号三八二頁、一九七二年七月一日号四〇六〜四〇七頁、一九八三年一月一日号二六〜二七頁参照)

 「『ものみの塔』の指導者たちは、神からの特別な導きを主張し、自分たち以外の人にはそれか直接に与えられないと教えていますか。」(「忠実て思慮深い奴隷」こそ、エホバから一般の信者へと真理が伝達される経路であると、彼らは主張します。『ものみの塔』誌一九七三年十月一日号五九四頁、一九八二年三月一日号二七頁。マルコ九・二八〜四二。)

 「あなたは自分の仲介者として、キリストのもとに来ることができますか。」(エホハの証人の九九・七%は「いいえ」と答えます。『ものみの塔』誌一九七九年九月一日号三一頁)

 「『ものみの塔』の組織は実現しなかった預言をしたことかありますか。」(申命記一ハ・二〇〜二二、真理のみことば伝道協会発行『ものみの塔の預言の記録』参照)

 「『ものみの塔』の過去の歴史において、教理か著しく変わったことかありますか。」(変更かあったという事実は、教理の矛盾を示すと同時に、その教理が元々、神の導きによるものてないことを明らかにします。真理のみことば伝道協会発行『ものみの塔の文書資料集』参照)

 「あなたの宗教団体は、いつ頃から存在するようになりましたか。そのことは、歴史的に証明できますか。」(「聖書によると、エホハの証人の系譜は忠実なアベルまでさかのぼります」と、『聖書から論じる』の九八頁に記されています。彼らはこのように、あたかも旧約聖書時代の聖徒たちや使徒たちが自分たちと同じように信じたと主張しますが、それは歴史的に誤りであると証明することができます。少なくともラッセルが登場するまでは、過去二千年の間に、彼らのような「真のクリスチャン」がいたということの裏付けとして、何らかの集団や個人を挙げることはできません。この論法は異端の典型的なものてす。)

 これらの質問は、エホハの証人に矛盾点と異端的な傾向を悟らせるために非常に効果的なものであるゆえ、エホハの証人は質問を少ししか受け付けられないかも知れません。彼らは言われたことを更によく考えて深く調べるようになるか、あるいは質問に対して心を閉ざし、恐れて逃避するかのいづれかでしょうが、しかしそれでも、彼らに疑問の種を植え付けることはできるはずです。

 これらの質問をマスターしている人は、この中に含まれていない聖書箇所の解釈については議論する必要はありません。もしエホハの証人か前述のことを信していると認めるなら、これらか多くの異端的宗教団体の特徴であることを指摘しさえすれば良いのてす。そして、真のキリスト教には、次のような特徴があることを強調します。

☆ どんな調査も批判も恐れす事実に基つくいがなる情報を知ることも禁しない。
☆ 文脈的、言語的、歴史的追究を含む、健全な研究方法を用いて聖書を解釈する。
☆ 聖書たけで十分であり(IIテモテ三・一六)、聖書を解釈するためには特別な人や団体は必要としない。ヨハネの第一の手紙二章二七節にあるように、聖霊かすべてを教えてくたさる。
☆ キリスト教は二千年の間、存続しており、その源流をたどることかてきる。
☆ 教会は献金と捧げ物によって運営されるべきであり、教役者には報酬を受ける権利がある。(Iテモテ五・一七〜一八、Iコリント九・一四、一六・二)
☆ 真のキリスト教はキリストを仲介者とする。
☆ イエス・キリストは、預言者だと自称しなから、実現しない預言をする人々を警戒するように、教えておられる。
☆ すべてのクリスチャンは平等に、真理を得る機会がある。
☆ 真理の前には、悪魔も、いかなる誤りも立ち得ない。必ず真理から逃避する。

 最後に、次のことを心に留める必要かあります。エホバの証人の閉ざされた心を、外部の人がー方的にこじ開けることはできません。エホハの証人が自ら考え、疑問を持ち、共通の論法に同意しようとしなければ、時間の無駄でしかないでしょう。自分自身と主とに恥をもたらさないように、時を見極めて、好機が訪れるまで、頑固で屁理屈を言うような人は放っておくへきてす(マタイ七・六)。いすれにしても、語るべき事柄、へりくだった心、そしてふさわしい時について、祈ることか肝心です。

 「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。」 (箴言二五・一一〜一二)


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