ものみの塔−聖書に敬意を払っているか

(「真理」63号1998年11月1日〜1999年9月1日に掲載されたものを、
発行者の許可を受けて転載)

 

 エホバの証人と接する時に、よく言われることとして、「私たちは聖書に忠実に従っています。聖書に対する敬意を払い、聖書一本で生きています」という言葉があります。これは、ものみの塔協会の出版物の中でも、何度も強調される主張です。

 『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の中で、真の宗教を見分けるしるしとして、協会は「神の言葉に対する敬意」を挙げています(一八七頁)。

 更に、『聖書から論じる』には、次のように書かれています。  「エホバの証人の信条、行動の基準、組織上の手順などはすべて、聖書に立脚しているゆえに、聖書そのものを神の言葉と信ずる証人たちは、自分たちの持っているものは確かに真理であるという確信を抱くのです」(九九頁)。

 しかし、ものみの塔の出版物を注意深く調べて行く時に、組織が聖書に対して抱いている「敬意」が真の敬意ではないことが分かります。

聖書翻訳の問題

 聖書がどの本よりも多くの言語に訳されているくとは、周知の事実です。今現在、少なくとも部分訳が行われている聖書の言語数は二千二百以上に達しています。この偉業は、数百年にわたるプロテスタントの宣教団体の努力によるものです。

 一九九七年に発行された『すべての人のための書物』の中で、ものみの塔協会は聖書翻訳に貢献したロバート・モファット、アドニラム・ジャドソン、ロバート・モリソンをたたえていますが、彼らがプロテスタントの宣教師であるということについては、全く沈黙しています。そこで、多くのエホバの証人は、モファットらがエホパの証人の仲間であるかのような印象を持ってしまうようですが、聖書翻訳の事業に、ものみの塔がほとんど貢献していないことは明らかです。『新世界訳』は、十数ヵ国語にしか翻訳されていません。しかし、驚いたことに、『ものみの塔』誌は一二八の言語、『目ざめよT』誌は八一の言語で発行されています。この数字がはっきりと示しているように、ものみの塔協会は聖書の普及よりも、組織の出版物の普汲に全力を挙げているのです。ものみの塔の最大の関心事は、人々の手元に聖書を届けるということよりも、組織の特異な教理を伝えることなのです。

聖書は組織の本?

 一九六八年一月一五日号の『ものみの塔』誌に、「聖書は組織の本」という小見出しの後に、次のような言葉があります。

 「それで聖書は組織の本であり、個人にではなく、一組織としてのクリスチャン会衆に属するものです。個人的に聖書を解釈できると、誠実に信ずる人がいても、その事実は変わりません。ゆえにエホバの見える組織を度外視して聖書を正しく理解することはできないのです」(四三頁)。

 このような考え方のルーツはものみの塔の創立者、チャールズ・ラッセルの教えに逆上ります。一九一〇年九月一五日号の雑誌の中で、彼は聖書だけを読む者は二年のうちに霊的暗闇をさまようことになるとしたうえで、自分の著書『聖書研究』だけを読めば必ず光を見いだす、というのです(四六八五頁)。

 ラッセルの主張は、宗教改革者の信仰とは実に対照的です。ルターなどの改革者たちは、聖書はすべての人間に与えられている神からのメッセージであって、誰にでも理解できる書物であると信じました。彼らはその確信に立って、聖書の翻訳や普及のために命をかけたのです。興味深いことに、プロテスタント改革者を最も激しく迫害したのは、ものみの塔と同じような権威を主張したローマ・カトリック教会です。カトリック教会は、聖書を正しく解釈する能力も権威も一般の信徒にはないとして、霊的事柄を理解するための「かぎ」が教会の聖職者にのみ与えられていると断言しました。そこで、庶民の手に聖書を届けようとする運動に抵抗した訳です。結局のところ、教皇制度が最も恐れたことは、庶民が聖書に触れることによって、カトリック教会の間違いを見破り、教皇の支配下から離れることです。

 同じように、ものみの塔協会も、信者を組織のコントロール下に置くために、「神の権威」を振りかざします。「聖書だけを読んでも分からない。神は組織を通してのみ語られる」という主張を繰り返すのです。しかし、そこから生まれるものは、聖書そのものに対する敬意ではありません。ものみの塔協会への忠誠心だけなのです。


 ものみの塔聖書冊子協会は、あくまでも聖書を研究し、聖書を信じ、聖書の教えを実践する組織であると、自らが主張しています。また、他のどの宗教団体よりも聖書に対する敬意を払っていると言うのですが、その主張と矛盾する事実が幾つもあります。その一つは、『新世界訳聖書』の難解さです。

 『新世界訳』は、その新約聖書の英語版が一九四九年、旧約聖書の方は一九六〇年に完成しました。また、日本語版は一九八五年に発行されていますが、『新世界訳聖書』は、明快で正確な聖書として、神から備えられたものだそうです(『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』、三二五頁)。しかし、果たしてそうでしょうか。

 『新世界訳』の日本語版には、二つの特徴があります。まず、重訳である、ということです。つまり、訳されたものからの訳です。『新世界訳』の英語版は、聖書の元来の言語であるヘブル語とギリシャ語から訳されていますが、その日本語版は、英語版からの訳なのです。学問の担界では、重訳は非常識とされています。なぜなら、重訳ではどうしても訳の正確さが一段と落ち、時には原文と大きくずれることもあるからです。

 次に、『新世界訳』は、字義直訳です。つまり、一語一語、逐語訳した聖書です。翻訳者の間では、字義直訳は悪訳の代名詞になっています。それは、文意を正確に伝えることは決して一語一語の正確な翻訳によって達成される訳ではないからです。素人はやむを得ず、「直訳」をしてしまいますが、一つ一つの単語から文全体の意味を捕らえようとすると、不正確で分かりにくい文章が増えることになります。

 『新世界訳』を通読しようとする者は誰でも、その難解さや不自然さで頭を傾げずにはいられないでしょう。例えば、旧約聖書の哀歌三章四八〜四九節は、次のように訳されています。

 「わたしの民の娘の崩壊ゆえに、わたしの目からは水の流れが下って行く。わたしの目は注ぎ出されて、とどまることがない。そのために休みがない。」

 このことぱを著したエレミヤは、何を言わんとしているのでしょう。「わたしの目からは水の流れが下って行く」とか、「わたしの目は注ぎ出されて」等の表現は、日本語ではないので、当然のことながら、読者はその理解に苦しみます。ちなみに、『新改訳聖書』は次のようになっています。 「私の民の娘の破滅のために、私の目から涙が川のように流れ、私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、‥‥」

 『新世界訳』を翻訳した人々の国語の力の低さは、多くの箇所で証明されています。次に挙げるものは、その一例に過ぎません。

 「安楽にしている諸国民に対しては大いなる憤りをもって憤っている。わたしは少しだけ憤ったのだが、彼らは災いを助けたからである」(ゼカリヤ一・一五)。 「彼らは災いを助けた」とは、正しい日本語で表現すると、「彼らはほしいままに悪事を行なった」ということになります。

 「エホバは必ず、イスラエルの誇りのように、ヤコプの誇りを集めるのである。奪い去る者たちが彼らから奪い去ったからである。そして、彼らの若技を損なった」(ナホム二・二)。  ここにも、国語辞典に載っていない表現が登場します。ホウキがあれば、埃(ほこり)を集めることは可能ですが、「誇り」は集められるものではありません。正確な日本語は、「栄えを回復する」です。

「あなたは昨日来たばかりで、今日わたしは、どこか行こうとしているところへ行くところなのに、あなたを行かせて我々と共にさまよわせるというのか。戻って行き、あなたの兄弟たちを共に連れて戻りなさい」(Uサムエルー五・二〇)。  これを一度読んだだけで、その意味を理解できる読者がいるのでしょうか。文型といい、文法といい、中学生以下のレベルです。

 『新世界訳』の存在によって、人々の聖書に対するイメージが著しく傷つけられています。『新世界訳』を読んだ人が、「聖書って訳の分からないことが書いてある書物だ」という印象をもったとしても、不思議ではありません。そのことは、聖書を神のみことばと信じているクリスチャンにとっては、大さな悲しみです。    


 「聖書に敬意を払う宗教団体」と自己宣伝する、ものみの塔聖書冊子協会は、一九六一年に、『新世界訳聖書』を発行しました。一般のエホバの証人は、他のどの聖書翻訳よりも優れた聖書として、『新世界訳』を愛読しています。また、彼らは次に挙げる言葉に対して、心からうなずくでしょう。

 「『新世界訳』を読む人はその言葉遣いによって霊的に覚せいさせられ、霊感を受けた元の聖書の力強い表現にすぐなじんで読むことができるようになります。あいまいな表現を理解しようとして何度も節を読み返す必要はもはやありません。この訳は読み始めるその出だしの所から力と明快さをもって大胆に語りかけます」(『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』、三三〇頁)。

 この言葉は、真実なのでしょうか。前回に続いて、『新世界訳』の何ヵ所かを検証してみることにしましょう。

 「エホバよ、怒りのうちに立ち上がってください。わたしに敵意を示す者たちの憤怒の激発に対して身を起こしてください」(詩篇七・六)。

 ここにある「憤怒の激発」とは、何でしょうか。

 「あなた方は自分のために、息がその鼻孔にある地の人から離れていよ。どんな根拠があってその人が考慮に入れられるというのか」(イザヤ二・二二)。

 何度も節を読み返す必要がなくなったはずの『新世界訳聖書』ですが、一度読んだだけで、この聖句を理解できる人は偉い、と言わざるを得ません。ちなみに、『新改訳聖書』はこうなっています。

 「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」

 このように、本来なら、非常に力強い聖句ですが、『新世界訳』の訳者たちの手によって、原形をとどめぬまでに、変えられてしまっています。

 「それで[イエス]は、『こうした事がいつから起きているのですか』とその父にお尋ねになった。[父]は言つた、『子供のころからずっとです。そして、[息子]を滅ぼそうとして、その [霊]は何度となく彼を火の中にも水の中にも投げ込んだものです。しかし、何かもしおできになるなら、私どもを哀れんでお助けください』。イエスは彼に言われた、『その、「もしできるなら」という言い方です!信仰があるなら、その人にはすべてのことができるのです』」(マルコ九・二一〜二三)。

 この話で、ある父親が、悪霊に取り付かれた息子を解放してくださるように、キリストに懇願していますが、その前に一度、キリストの弟子たちに祈ってもらって、効果がなかったために、「もう駄目だ」という否定的な思いと戦っていました。そこでつい、「何かもしおできになるなら、私どもを哀れんでお助けください」と叫んでしまう訳ですが、『新世界訳』では、父親に対するキリストの言葉は、「その、『もしできるなら』という言い方です!」になってしまいます。何とも奇妙な感じです。これでは、キリストの言葉の力強さが全く伝わりません。しかし、『新改訳』はどうでしょう。

 「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』」

 「さて、最後の日、祭りの大いなる日に、イエスは立っておられたが、叫んでこう言われた。『だれでも渇いている人がいるなら、わたしのところに来て飲みなさい。わたしに信仰を持つ者は、まさに聖書が言ったとおり、「その内奥のところから生きた水の流れが流れ出る」のです』」(ヨハネ七・三七〜三八)。

 「内奥」は「ないおう」と読むようですが、日常会話の中で、この言葉を使ったことのある日本人は、果たして何人くらいいるでしょうか。『新改訳』は、「その人の心の奥底」となっています。

 「夫たちよ、同じように、知識にしたがって [妻] と共に住み、弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい」(Tペテロ三・七)。

 男性に対する重要な戒めを含んでいる箇所ですが、「妻に誉れを配しなさい」と言われた人は、その意味が分かるのでしょうか。残念ながら、日本語には、「誉れを配する」という表現はありません。通常、「尊敬する」と言います。  


 これまで見てきたように、ものみの塔聖書冊子協会発行の『新世界訳聖書』は、極めて難解な聖書です。不自然で、珍妙な表現で満ちているため、解説なしではとても理解できません。 恐らく、ここに組織の狙いがあるのでしょう。つまり、わざと難しい聖書を作ることによって、ものみの塔は導き手としての、自らの存在の必要性を訴えることができます。そこで、信者たちは難解な聖書を親切に解説してくれる組織に感謝するようになり、ますます組織に依存するようになる訳です。

 「しかしエホバ神は、あらゆる国にいるクリ スチャンが聖書を理解し、それを自分たちの生活に正しく適用するための助けとして、霊によって油そそがれた人々から成るご自分の見える組織、つまりご自分の『忠実で思慮深い奴隷』を備えてくださいました。神が用いておられるこの伝達の経路と連絡を保たなければ、どれほど多く聖書を読むとしても、わたしたちは命に至る道を進むことはでさません。――使徒八・三○〜四〇と比較してください」(『ものみの塔』誌一九八二年三月一日号、二七頁)。

 『新世界訳』を手に持っているエホバの証人は、心から右記の書葉にうなずくでしょう。エホバが備えてくださった助けとして、喜んで、ものみの塔に依存するでしょう。

 右記の言葉もそうですが、ものみの塔の出版物の中で、度々組織の主張を裏付ける聖書的根拠として、使徒の働き八章三一〜三二節が挙げられます。

 「そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、『あなたは、読んでいることが、分かりますか。』と言った。すると、その人は、『導く人がなければ、どうして分かりましょう。』と言った。そして、馬車に乗っていっしよにすわるように、ピリポに頓んだ。」

 「導く人がなければ、どうして分かりましょう。」これは、旧約聖書のイザヤ書五三章を読んでいた、あるエチオピヤの宦官が述べた言葉です。彼は、イザヤがメシヤ(救い主)について預言していることが分からなかったので、ピリポの助けを求めた訳ですが、ものみの塔が主張するように、「導く人がなければ、どうして分かりましょう」というのは、どの時代の、どのような状況にある人にも当てはまる、普遍的な真理だと言えるでしょうか。

 宦官の理解を妨げていた根本的な問題は、イザヤの預言がイエス・キリストによって成就されたという福音(新約聖書)を知らなかったということにあります。ピリポからキリストのことを聞いた彼は、すぐにみことばを理解し、信じることができました(三五〜三八節)。ですから、「導く人がなければ、どうして分かりましょう」とは、旧約聖書だけしか手元にない人の発言であり、旧約聖書と新約聖書の両方を持っている人には当てはまらない言葉なのです。

 真のクリスチャンは、聖書を開く時に、人間の解説に頼ることをせず、イエス・キリストの約束を信じます。

 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ一四・二六)。

 「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」(ヨハネ一六・一三)。

 ここでキリストがはっきりと語られたように、クリスチャンに与えられる助け王は、「目に見える組織」ではありません。真理の御霊なのです。この素晴らしい約束に立つことこそが、聖書に対する敬意を表することになります。それに対して、「組織の指導なくして聖書を理解できない」という主張は、みことばの否定です。 


 既に見てきたように、ものみの塔協会発行の『新世界訳聖書』には、他の聖書翻訳と異なる幾つかの特徴があります。一つは、重訳であるということです。つまり、一旦、ヘブル語とギリシャ語から英語に翻訳したものを日本語に直している訳です。

 二つ目の特徴は、字義直訳であるということです。一語一語、逐語訳した聖書です。

 また、更に、『新世界訳』のもう一つの特徴として挙げられるのは、「改ざん」です。ものみの塔は、聖書の言葉が組織の教理と矛盾した場合、原文にない言葉を付け加えたり、あるいは原文にある言葉を削除したりします。こうして、聖書を自分たちの教理に合わせているのです。その最も顕著な例として、コロサイ書一章一六〜一七節があります。この聖句で、ものみの塔は四回も、原文にない「他の」という言葉を付け加えて、元々の文の意味をすり替えようとします。

 「なぜなら、[他の]すべてのものは、天においても地においても、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ、彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して、また彼のために創造されているのです。また、彼は、[他の]すべてのものより前からあり、[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。」 

 「彼」とは、イエス・キリストのことですが、原文どおりに、「他の」という言葉抜きで読むと、キリストが創造以前に存在されていることが分かります。そこで、当然のことながら、キリストは被造物ではあり得ないということになり、造り主なる神ご白身であるという結論になるのです。しかし、この結論は、キリストを最初に造られた天使とするものみの塔協会の見解と矛盾します。そこで、協会は、「他の」を挿入することにしましたが、このような苦肉の策に出るのは明らかに、みことばをそのまま受け入れられないためです。

 (注 角かっこの使用について、『新世界訳』はこう説明しています。「一重の角かっこ[ ]は、そこに挿入された語が訳文の意味を明確にするための補足であることを示しています。」)
 イエス・キリストの神性を否定するものみの塔は、更に、使徒たちの活動(使徒の働き)七章において、同じギリシャ語の言葉を二通りに訳して、読者を欺こうとします。

 「そして、訴えながら、『主(「キューリエ」)イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言うステファノに向かって、彼らは石を投げつづけた。それから彼はひざをかがめ、強い声で、『エホバよ(「キューリエ」)、この罪を彼らに負わせないでください』と叫んだ。そして、そう言ってから、[死の]眠りについた」(五九〜六〇節)。

 ここで、『新世界訳』の翻訳者たちは、「キューリエ」というギリシャ語を、五九節では「主」、六〇節では「エホバ」と訳しています。その狙いは、ステファノがキリストに向かって祈っているという事実をぼやかすためです。組織の見解によると、ステファノは五九節でキリストに呼びかけはしましたが、六〇節でエホバに祈願しているということになります。しかし、原文で読むと明らかなように、ステファノは同じ方に祈っています。主(キューリエ)イエスです。

 救いに関する聖書箇所も、改ざんされている例があります。

 「事実、そうすることによって、わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国に入る[機会]が、あなた方に豊かに与えられるのです」(Uペテロ一・一一)。

 「何のためですか。罪が死を伴って王として支配したのと同じように、過分のご親切もまた、わたしたちの主イエス・キリストを通して来る永遺の命の見込みを伴いつつ、義によって王として支配するためでした」(ローマ五・二一)。

 この聖句では、神の国に入る「機会」が与えられており、永遠の命の「見込み」があるということになっています。「機会」も、「見込み」も、原文にない言葉ですが、「機会」だけが角かっこに入っています。ものみの塔の教理によると、救いはあくまでも、未来における経験で、最後まで戦い抜いた者に与えられる報いだそうです。これに対して、一般のプロテスタント教会は、救いは信じる者に与えられる無償の賜物であり、救いに預かった者に神の御国が保証されると教えていますが、ものみの塔の教理は、聖書に手を加えない限り、決して成り立たないものです。

 『新世界訳』の改ざん例として、ルカ二・三○、ローマ一三・一、ヨハネ一四・一四、ピリピ二・九、Tテサロニケ五・二三、使徒一○・三六、Tコリント一四・一五〜一六など、多数の箇所がありますが、聖書に手を加える者に対する厳しい警告の言葉が、黙示録二二章に記されています。

 「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」(一八〜一九節、『新改訳聖書』)。

 このような警告を無視し、聖書のみことばに付け加えたり、削除したりするものみの塔は、聖書に敬意を払う宗教団体ではありません。組織の利益のために、聖書を利用しているに過ぎないのです。   


(目次に戻る)  1