第一章:創世記第9章とノアの契約

 創世記の記載によれば、ノアとその家族が大洪水を生き残った時、彼らは唯一の人類の生き残りでした。神はそこでノアを通して、人類と契約を結んだのでした。この契約の中に、エホバの証人の主張する血を食べることの禁制が出てきます。

3生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。4ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。5さらにわたしは,あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手から,その兄弟である各人の手から,わたしは人の魂の返済を求める。6だれでも人の血を流す者は,人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからである。7そしてあなた方は,子を生んで多くなり,地に群がってそこに多くなれ」。 (創世記 9:3-7)

 エホバの証人はこの部分に関して、1990年発行のいわゆる「血のブロッシュアー」と呼ばれる『血はあなたの命をどのように救うことができますか』の中で次ぎのように述べています。

そうした箇所の最初のほうで創造者は,「生きていて,動くものはすへて,あなた方の食物となる。‥‥しかし,命の血がまだその中にある肉は食へてはならない」と宣言し,「あなたの命の血に対して,わたしは確かに言い開きを求める」と付け加えてから,殺人を非とされました。(創世記9:3−6,新国際訳)創造者はノアにそのように語られました。ノアはユダヤ人からも,イスラム教徒からも,クリスチャンからも大いに尊ばれている人類共通の先祖です。そのようにして,創造者から見て血は命を表わすということが全人類に知らされました。これは食事に関する規定以上のものでした。ここに道徳的な原則が関係していたことは明らかです。人間の血は重要な意味を持つものであり,誤用すへきではありませんでした。後に創造者が付け加えられた詳細な点から,創造者が命の血と道徳上の問題を結びつけておられることを容易に理解できます。(『血はあなたの命をどのように救うことができますか』1990年3頁) 
 しかし、このノアの契約が、本当に人間が血液を食べたり体に取り入れたりしていることを絶対的に禁じているのでしょうか。ここではこの創世記9:3−11をもう一度よく見てみましょう。そこには次の三つの項目がはっきりと契約としてうたわれています。
  1. 人間は動物の肉を食べてもよいが、「その魂つまりその血を伴う肉」は食べてはならない。

  2. 人の血を流すこと、つまり殺人をしてはならない。人の血を流す者は,人によって自分の血を流される、つまり死刑になる。

  3. 子を生んで多くなり,地に群がってそこに多くなれ。
 ここでは幾つかの、ものみの塔の記事が語らない重要な点を指摘しましょう。先ず、ものみの塔は意図的に9章7節を無視します。もしエホバの証人がこのノアとエホバとの契約が全人類を永遠に束縛する最も重要な規定であると信じるのなら、この第三の項目、すなわち「子供を産み増やせ」というエホバの命令を彼らはどの程度真剣に守っているのでしょうか。 ものみの塔の避妊と産児制限に関する態度は、1989年9月22日の「目ざめよ!」誌23−24頁(英文)に明らかに述べられています。エホバの証人は避妊を行うことに全く反対していないのです。それどころか、このエホバのノアに対する「子供を産み増やせ」という命令に関して、この「目ざめよ!」誌の記事では「この命令は明らかにその当時存在した特別な状況に関係していました」と述べています。

 もし、ものみの塔協会が主張するように、このノアの契約が全人類を永遠に束縛する重要な規定であると信じるのなら、そのうちの一つは「その時だけのもの」と軽視して、エホバの証人が避妊法を行うのを、輸血を禁止するのと同じ熱心さで禁止しないのはどういう訳でしょう。1988年3月1日の「ものみの塔」誌26頁(英文)では「今日、子供を生むことは、エホバが特に人々に与えた仕事の一部になっているわけではありません」と書いてあります。また歴史的に、ものみの塔協会はハルマゲドンが迫っているこの時点では結婚して子供を作ることは見合わせるように、と教えてきました。矛盾した自分勝手な聖書解釈の典型ではないでしょうか。

 しかし、イエス・キリストが人類に与えられた後の、現在のわれわれクリスチャンにとって、このノアの契約は本当にものみの塔が主張するような、永遠に厳密に守らなければならない掟なのでしょうか。イエス・キリストによる新しい契約では、これらの古い契約は新しい契約の中に「成就され」統合されており、それだけを取り上げて新しい契約全体の中での位置づけを見ないのは、聖書全体を通して聖書を解釈しない、エホバの証人の特徴なのです。イエスもパウロも結婚しない生き方も勧めているところからも分かる通り(第一コリント7:38)、確かに「子供を産み増やせ」という命令はイエスもパウロも絶対的に重要な掟とは考えていませんでした。

 次に問題にしなければならないのは、9章6節の殺人の禁止です。ここには人を殺した者は自分も殺されなければならない、と命じています。この命令は本当に全人類を拘束する永遠の命令だったでしょうか。聖書の中には沢山の殺人が記載されています。ある場合にはエホバ神はそのような殺人を犯した者を罰することなく、逆に是認したことさえありました。また、沢山の人が聖書の中で間違って殺されていますが、そのような場合、殺した者は死刑に処せられませんでした。エホバ神は状況に応じて多くの例外をご自身で設けているのが聖書の中で読み取れます。更に新約聖書の時代に入ると、パウロはキリストに改宗する前にステファノの処刑に参加していますが、彼は死刑に処せられませんでした。文字に書かれた律法を守ることより、愛による赦しを教えたのがイエス・キリストでした。この例でも分かるとおり、このノアの契約はものみの塔協会が教えるような絶対で永遠の命令ではないことが、聖書の中に示されているのです。

 最後に問題にしなければならないのは、このノアの契約、あるいは旧約聖書の中での「血」の意義です。注目しなければならないのは9章6節で「人の血を流す」という言葉で殺人を表現していることです。これは文字通りに皮膚を切って出血することを禁じたものではなく、明らかに殺人を意味しています。旧約聖書の中では、この章の最初に引用した『血はあなたの命をどのように救うことができますか』の中にも述べられているように、血は命の象徴と見られていました。それ故、「血を流す」という表現は人を殺すことの象徴的表現として聖書全体を通して使われているのです。この表現の中では文字通りの「血」が大事なのではありません。人を殺すのに毒殺でも絞め殺しでも、全て「血を流す」こととして禁じられているのです。

 この象徴的な「血」の意味は、もう一つの掟である肉の食べ方にも当てはまります。9章4節には「その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」、つまり魂が「血」と同等の言葉となっており、それが含まれた肉を食べてはいけないのです。この部分で、ものみの塔の新世界訳聖書では「魂」と訳している言葉は、他の聖書は皆、「命」又は「life」と訳しています。例えば新共同訳では「命である血を含んだまま食べてはならない」、Revised Standard Versionでは"Only you shall not eat flesh with its life, that is, its blood." 、King James Versionでは"But flesh with the life thereof, which is the blood thereof, shall ye not eat." 、New International Versionでは"But you must not eat meat that has its lifeblood still in it."、となっており、ここでも肉にある血は命の象徴としてとして扱われていることがわかります。

 そして、ちょうど9章6節で「血を流す」ことが文字通りの出血を意味するのでなく、命を奪うことを意味するのと同じように、9章4節では文字通りの血液が肉に入っていることが重要なのではなく、「命を含んだ肉」つまり、生きたままの肉を食べることを最も問題としているのです。この「血」を命と解釈する仕方は多くのユダヤ教のモーセ五書の注解書や、聖書の注解書でもとられており、この9章3節の掟は「あなた方は動物の肉は何でも食べてもよいが、命の含まれた肉は食べてはいけない」と解釈しています。命の残っている肉を食べる習慣は古代だけでなく、現在のアフリカの一部でも行われている風習であり、エホバ神はこのノアの契約の中ではこの風習を取り入れることを禁じているのです。

 もし、ものみの塔協会の言うように創世記9章の「血」に関するエホバ神の掟が、文字通りの血液を意味していて、しかもそれが永遠に絶対に守らなければならない掟であるのなら、われわれは皮膚を怪我して出血したり、検査のために採血されるだけで罰せられなければなりませんし、逆に文字通りの血液が流されることが禁じられているのであれば、人を絞め殺しても構わないことになります。また、動物の肉はどんなに瀉血してもその半分位の血液は肉の中に残るため、この掟を文字通りの血液の掟と取れば、実際には肉は食べられないという自己矛盾した掟になってしまうのです。もし本当にエホバ神が文字通りの血液を食べることを禁じようとしたら、全ての肉を食べることを禁じるのが最も簡単でした。しかし、エホバ神は明らかに肉を食べてもよいと言っているのです。そのことはエホバ神が肉の中に含まれるある程度の血液も食べることを許していることを意味するのです。

 この創世記第9章を深く調べてみて分かることは次の通りです。

  1. ノアの契約は永遠に不変の命令ではなく、聖書全体から見ると、新しい契約の中で別の光が与えられている。

  2. ノアの契約は絶対的な命令ではなく、聖書全体の中で見ると多くの例外が設けられている。

  3. 「血」は命の象徴として述べられており、文字通りの「血液」が問題にされているのではない。

 最後にもう一つの重要な点を付け加えましょう。エホバの証人も認める通り、「血液」が「命」の象徴であるのなら、「象徴」そのものが大事なのでしょうか、それとも象徴によって現されている実体、すなわちここでは「命」が大事なのでしょうか。イエスはその死の前に、弟子たちに対して、ぶどう酒をイエスの血として飲みなさいと命じました。ぶどう酒はイエスの血を象徴しますが、それではぶどう酒自体がイエスの血よりも大きな意義を持つのでしょうか。多くの人は結婚の象徴として結婚指輪をしますが、もし強盗が来てその指輪を渡さなければあなたの妻を殺すと言った場合、あなたは象徴である指輪を取ってその象徴の実体である妻を犠牲にするでしょうか。ものみの塔協会が指導していることはまさにこのような本末転倒なのです。エホバの証人は象徴である「血液」そのものを重視する余り、その象徴の実体である命を犠牲にしているのです。



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