地理教師奮戦記
ぬかる民の授業実践
このページは1024×768以上の解像度で、ブラウザを最大にしてご覧下さい。
第4回:礼拝
礼拝が行われるチャペル(重要文化財)
私の勤務校は、プロテスタント系なので、毎朝礼拝があります。
私はクリスチャンではないのですが、礼拝で聖書を開き、賛美歌を
合唱していると、心が清められるような気がします。
普通、最低1年に1回、礼拝でのお話をする機会がやってきます。
その中から、今年度の私の話から「地球人になろう」と、
97年度の「藤木君のおがくず」、96年度の「東西お笑い比較文化論」を公開します。
98年度礼拝奨励
地球人になろう
おはようございます。私はこの学校で社会を教えるようになって、今年で6年目になります。さまざまな思い出がある中で、印象深いのは、由良や唐松のキャンプです。みなさんも由良キャンプがいよいよ近づいて、3日間、親元から離れてキャンプ生活をするわけで、期待や不安でいっぱいだと思います。
戦時中の日本の子供たちも、親元から離れなければならないことがありました。3日などではなく、いつ帰れるかもわからない、二度と親とは会えないかもしれない旅立ちが。決して楽しいキャンプではありません。
集団疎開といいまして、都市部へのアメリカ軍による空襲がひどくなって来たため、国民学校、つまり現在の小学校単位で、子供たちを空襲のない地方へと避難させたのです。私の母親も、現在の学年では小学校4年生の年から、奈良県の田原本町に集団疎開に行きました。宿舎はお寺で、毎朝6時起床、お寺の掃除や読経、朝食後夕方まで授業、夕食後週に1度、銭湯で入浴。それも地元の人が入ったあとにされ、にごった湯につからなければならなかったそうです。食事は一日2食、それもきわめて粗末な献立だったそうで、戦争末期には、わずか1食豆5粒で、飢えに耐え兼ねて、歯磨き粉さえ食べたとのことです。何ヶ月に一度、親との面会の日があり、先生の目をぬすんで、母の母、つまり私の祖母が、こっそりと食べ物を持ってきてくれたそうです。子供たちはみんな、この面会日を心待ちにしていたそうです。
このようなつらい日々を過ごしていたある日の夜、友人が母に、「生駒山の向こう側見てみ。今日は夕焼けがすごくきれいやで」といいました。もう8時を過ぎているのに、西の空が真っ赤に染まり、生駒山がシルエットになってみえていました。別の友人がいいました。「あれは夕焼けなんかやないで。大阪が燃えてるんや。」
昭和20年3月の大阪大空襲の夜でした。この日大阪を襲ったB29の大編隊は、大阪の町を焼き尽くし、一夜の内に、数万人が死亡したのです。集団疎開の子供たちの中にも、親や家をなくした子がたくさんでたため、
学校は、子供たちを一時的に大阪に帰らせることにしました。電車が大阪に入ると、焼け野原に変わり果てた大阪の町が目の前にありました。森之宮駅で電車を下りると、通りには黒焦げの死体がごろごろしていたそうです。みんな無表情で死体をよけて歩いていたそうです。戦争という状態では、死体を見ても何も思わなくなる。実に恐ろしいことだと思います。
幸いなことに、うちの母の実家には被害が無く、祖母も無事でした。おたがいの無事を喜び合っていたとき、近所の人がやってきて、「近くにB29が撃墜されよったから見に行こう」というのです。母も一緒についてゆくと、日本軍の高射砲によって撃墜されたB29が、みじめに焼け野原の中に横たわっていました。操縦席付近から、死亡したアメリカ兵の太い丸太のような腕がだらんとぶらさがっているのが見えました。近所の人たちは、「この鬼畜アメリカ野郎、よくも大阪を破壊さらしやがって」と手に手にクワやスコップを持って、アメリカ兵の死体をなぐりはじめました。そのときです。「やめなはれ」の大声にみんなの手が止まりました。うちの祖母がみんなに言ったのです。「この人かて、好きで空襲したんやない。上から命令されてやったんや。この人かてアメリカ帰ったら親も家族もおるんや。死んで仏さんになってる人にこんなことしてあげなさんな。」と。近所の人の中には、「何をゆうとんねん。この非国民が」と祖母に罵声をあびせる者もいたそうですが、祖母はアメリカ兵に、南無阿弥陀仏と念仏を唱え手をあわせてあげたのだそうです。
私はこの話を何度も母から聞きました。当時の日本人は、みんな軍国主義に洗脳され、アメリカ人やイギリス人は鬼畜米英であるとたたきこまれていた中で、うちの祖母は、死んでいるアメリカ人も同じ人間としてみなしていたのだと。たとえ、ついさっき大阪の町に爆弾の雨を降らせ、愛する町や人々を破壊したB29の乗組員であったとしてもです。つまり祖母は、この忌まわしい時代にあっても、一人のアメリカ人を、一人の自分たちと同じ人間であるとみなす心をもっていたのだと思います。つまり、自分は日本人であるという意識よりも、自分たちは地球人なのだという意識が、すでにそなわっていた人だったんだなと思うのです。
現在、外国で飛行機事故などが起きると、ニュースキャスターが「死傷者は100名以上ですが、乗客の中に日本人はいないもようです」という報道がよくあります。日本人の被害者がいなければ、報道も小さなあつかいです。でもこんなことをニュースで言うのは、日本のマスコミぐらいのものらしいです。せまい地球のなかで、何人だからどうのこうのという意識は、実にくだらないと私はおもいます。もう1ランク意識を進歩させて、われわれは地球人だという意識で物事を判断したいものです。愛国心ではなく愛星心をもって生きて行きたい。そうすれば、戦争や環境問題なども解決に向かうと思うのです。
その祖母は20年前に他界しました。何か自分の身内の自慢話みたいで申し訳ないのですが、あの忌々しい時代のなかで、祖母は進歩的な考えをもったえらい人だったなと思っています。
それでは黙祷してください。
藤木君のおがくず
970512(MON) 礼拝原稿
おはようございます。みなさんは、漫画ちびまる子ちゃんを見ている人も多いとおもいます。
この漫画の作者のさくらももこさんは、自分の小学校三年生時代の話としてこの作品をえがいているわけです。
私とさくらももこさんは、ほぼ同じ年齢で、小学校時代のたいへん懐かしい1970年代の話題がしょちゅうでてくる、ので、ちびまる子ちゃんは毎週かかさず見ています。
みなさんは、この作品に登場する永沢君と藤木君を知っているでしょうか。みなさんは、永沢君と藤木君と聞けば、どうゆうイメージをもつでしょうか。おそらくほとんどの人は、永沢君は暗い少年、藤木君はひきょうな少年というイメージが大半を占めると思います。たしかに作者がそのように描いているため、そのようなイメージをもつのはいたしかたないことです。でもほんとうに彼らは、いつも暗くてひきょうなのでしょうか。
藤木君は、運動がにがてですが、唯一スケートが得意です。一度クラスで、さまざまな小グループをつくって発表会を行った時、彼はスケート研究会をつくりましたが、クラスメイトは藤木君を嫌がって誰も入会しませんでした。結局彼は一人でスケートリンクに行って、スイスイと上手に滑るわけですが、藤木君がすべっていると、バックのBGMもなにかおどろおどろしいものになり、いかにも暗いスケーターという具合に描かれてしまうのです。同じスケートの場面でも、クラス一運動が得意で活発に描かれている大野君や杉山君が滑っていればきっと、明るく健康的な場面としてイメージされると思います。
つまり、人間の心理は、全く同じことをやっていても、明るく活発というイメージの人が行うことは、何をやっても明るく活発な行為と認識し、暗いイメージが定着させられてしまった人が行うことは、なんでも暗い行為だと認識してしまいがちなのです。自分がいやだとか、むかつくと思った人のやる行為は何をやってもむかつくということがありませんか。逆に、自分が好きな人がやる行為は、なんでもいいことだと思ってしまいませんか。このような人間の心理を、心理学ではハロー効果というのですが、みなさんも入学して一ヶ月あまり。クラスメイトについて徐々にわかってきたころだと思うのですが、あの人は暗い人とか、きしょい人とかいう悪い方のフイルターをかけて、クラスメイトをみていないでしょうか。
今日読んでいただいた聖句には2つの意味があるとおもうのです。ひとつは、そういう悪いイメージのフイルター、つまり「眼の中の丸太」をはずして人を見てみよう。そうすればきっと、本当のその人の姿が見えてくるんだという意味。もう一つの意味は、ひどい人になると、もうこれはいじめそのものなのですが、暗いきしょいというイメージをいだく人に直接、または陰口というかたちで「おまえはきしょいんじゃ」とか「あの人は暗いねえ」などと言ったりする行為。または、まったく無視してはみごにしてしまう行為。こんなことを言ったりやったりすることは、言われている人が実際に暗くきしょい行為をおこなった(他人の眼の中のおがくず)としても、その行為よりもっとっもっと暗くきしょく、ひきょうな行為(自分の眼の中の丸太)ですよということ。一度眼の中の丸太をとりのぞいてクラスメイトをみてみましょう。今までと違ったイメージの相手がみえてくるかもしれません。相手の悪い部分ばかりじゃなく、よい部分をみつけましょう。永沢君と藤木君の良い部分をさがしながらみたら、ちびまる子ちゃんのまた違ったおもしろさを発見できるかもしれませんよ。
最後に、今年の3年生のHR委員が抱負を述べているなかで、大変印象深い言葉がありましたので紹介します。「学校に淋しい人が一人もいないようにしたいなあ。
永沢君→←藤木君
96 礼拝原稿
Title:東西お笑い比較文化論
おはようございます。みなさんは、東京と大阪のお笑いのちがいは何だと思いますか。
“たけし"や“とんねるず"の笑いと、坂田利男や間寛平の笑いのちがいがわかるでしょうか。
ちびまるこちゃんにででくる、お笑いマニアの野口さんみたいですけど、今日は、東西のお笑
いの違いについてのお話から始めたいと思います。
大阪の笑いの典型的な特徴は、芸人は一般大衆よりも低いレベルに降りる。つまり、自分が"アホ"になって周囲の人達に笑ってもらうという形式が多いです。坂田利男や間寛平や藤山寛美などの笑いが典型的なこの例です。大阪の笑いじゃないけれど、昔のチャプリンの笑いや、ちびまるこちゃんの笑いも、ドジ
でズボラな小学3年生時代の“さくらももこ"を描いている点で同じですね。
一方、東京の笑いのパターンは、芸人は一般大衆よりも一段高い位置に立ち、一般よりも弱
い立場の人を周囲の大衆とともに、笑い飛ばす。という形式が多くみられます。かつてビートたけしが漫才をしていた頃の、お年寄りを笑いとばすネタなどは典型的なこの例です。
みなさんは、どちらの笑いが好きでしょうか。私は断然、大阪の笑いの形式の方が好きです。弱い立場の人を攻撃して笑いをとるやり方は、下ネタで笑いをとろうとするやり方と同様、大変安易な笑いをとる方法でしょう。しかしこの形式の笑いは、何か後味が悪く、さわやかさが感じられない笑いだと思うのです。まあ、最近大阪でも、“ダウンタウン"のように、東京型の笑いの形式をとる芸人が増えてきたのが残念ですが。
みなさんも、知らず知らずの内に、東京型の笑いで、クラスの中でうけようとしていませんか。クラスメイトの弱点や欠点や身体的な特徴を笑いのネタにしていないでしょうか。特に無抵抗な人や体力などが弱い人に対して。そのような笑いは、全くおもしろくもなんともありません。他人を犠牲する笑いなど、お笑いでも何でもない、"いじめ"以外の何ものでもないのです。本人は軽い気持ちで、いじめているつもりが全くなくても、やられている人が“いじめられた"と感じたらそれは“いじめ"なのです。
他人をいじめる権利など、いかなる人にも与えられていないのです。
今から2500年以上昔の中国の思想家で、儒教の創始者である“孔子"という人がいました。儒教と聞くと、何か宗教の一つのようですが、これは、宗教というよりむしろある種の道徳思想といった方が正しいと思います。今回の期末テストの範囲である東アジアや、日本の、精神文化の形成に儒教は大きな影響を与えてきたのです。この儒教の創始者である“孔子"の有名な言葉に、“己れの欲せざるところを人に施すことなかれ"という名言があります。つまり、自分がやられたり言われたりしたらいやなことは、人にもやったり言ったりするな。ということ。キリスト教の聖書の中にも、これと同じ意味の聖句があるのは、みなさんも知っているでしょう。新約聖書マタイによる福音書第7章の12節に、「何事でも、あなたが人からしてほしいと思うことを、人にもしてあげなさい。」とあります。この2つのことばは、人間として、他の人と交わってゆく上での必要最低限のルールだと思うのです。こういうことをやったり言ったり
したら、相手はどう思うか。相手の立場や気持ちになって行動する。これが人間どうしつきあってゆく上での最低限のマナーなのです。
人のいやがることをやったり、言ったり、したっておもしろいことでもなんでもありません。全世界の学校や社会からあらゆる"いじめ"がなくなるよう、お祈りし、私の話を終わろうと思います。黙祷してください。
地理教師奮戦記メニューに戻る
表紙のページに戻る