初学者の為の哲学史レジュメ
一 デカルト
1 人生
ルネ・デカルト(Rene descartes:1596~1650)は大陸合理論(注1)を代表する哲学者で俗に『近代の父』
(注2)と言われたりします。ラテン語で「コギト・エルゴ・スム(cogito ergo sum)」なんて言う有名な言葉が
あります(注3)。彼はフランスの貴族の子として生まれ、ラ・フレーシュの学校を卒業後一時期軍隊に入っ
て従軍したが、1619年南ドイツのノイブルクで冬営中新しい学問研究の方法に気付き、その後軍隊を辞し、
欧州各地を遍歴したが1629年より二十年間オランダに滞在した。その後、1649年にスウェーデンの女王ク
リスティーネに招かれてストックホルムで哲学を教授したが、翌年寒さと朝起きのため(朝起きが苦手だっ
た)1650年に亡くなった。
(注1)十七世紀頃のフランス・ドイツ・オランダなどのヨーロッパ大陸から生まれてきた理性重視の合理的な
哲学のこと。他に代表的な哲学者としてはスピノザやライプニッツがいる。
(注2)数学者としては幾何学に代数的解法を適用した。解析幾何学の創始者。
(注3)原書には「je pense, jesuis」と書かれているのですが、その後デカルトと仲が良かったメルセンヌ神父
が学会用に当時のアカデミックな共通語のラテン語に置き換えた
2 著作
(1)『方法序説』(注1)の要点
(a)第一部
1 良識は万人に等しく分けられている
2 現実には誤った判断を下すものがいるが、それは良識の使い方を知らないからである
3 学校教育はよくない。世間と言う大きな書物を読め。
(b)第二部
1 明晰判明なものだけを真理と見なすこと(明証性:自分が明らかに真であると認められなければ、どんな
ものでも真実と認めないこと速断と偏見を 避け、まったく疑いの余地がないほど明らかではっきりと自分の
心に現われるものの他は判断の考慮に入れないこと)
2 複雑なものを単純なものに分解すること(分析)
3 単純なものから複雑なものを再構成すること(綜合:単純なものや認識しやすいものから順序良く複雑な
ものへ向かっていくこと。そして、秩序立てて考えること)
4 これらの分析と綜合の間に見過ごしたものがまったくないと確信出来るほどに広範囲に検討すること(枚
挙)
(c)第三部
1 最も穏健な意見に従うこと
2 一旦決断したことは最後までやりぬくこと
3 自分の力量の範囲内で意志し行為すること
4 天職を定めること
(d)第四部
下記引用を参照のこと
(e)第五部
1 自然学について(光学:人間は光を見るもの)
2 動物は機械である
3 人間の魂は不滅である
(f)第六部
割愛(本書の成立の経緯等)
(2)『省察』及びに『哲学原理』の要点
1 物質と精神とは相互に全く独立した実体である〔心身二元論〕(注2)
2 物質は数学的原理によって表わされる延長(注3)である
3 精神(注3)はこの世界を数学的に把握する理性(思惟)にある
4 理性が世界の客観的真理に到達出来る根拠は神に或る
(注1)正式な名称は「彼の理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法の序
説(尚、この方法の試みなる屈折光学、気象学、及び幾何学)」
(注2)二元論とは広義には物事(世界)をふたつの原理で説明しようとする考え方で、狭義には物事(世界)
をそう反する二つの物から説明する考え方を指します。(例)ゾロアスター教(善悪二元論)
(注3)「延長」なんていうとどうも難しく聞こえますが、要は「物体は縦・横・高さ」と言う空間的な広がりを持つ
と言うだけの話でそれをデカルトは「延長」と一言で片づける訳です。そして、また、そういう論理構成から必然
的に「心」や「精神」は「縦・横・高さ」を持たないものなので「延長」という属性を持たない別のものとされた訳
でした。
3 思想
(1)方法的懐疑
先ず、方法的懐疑とは平たく言えば、「敢えてわざと徹底的に懐疑する」と言う意味で、具体的には、新しい
世界観構築のために古い知識の根拠をすべて無化させ、知識の原理足り得るものをはじめから新たに見つ
け出してそこからそれを土台にして知識を再建し直すことを言います。そして、デカルトは以下の手順に従っ
て、方法的懐疑を行います(背景的には当時主流だった懐疑主義のピュロン派を意識していた)。
1 我々は外界を感覚器官を通して感じる訳だが、それは良く誤ることがある
2 我々は自分自身の内的状態・身体的状態について正確に計り知れない。至っては夢と現実の区別もつ
かない(夢の中で自分が覚醒していると思うことは良くあることだ)
3 こうしたいい加減な感覚とは独立した論理的・数学的知識に関しても、仮に何らかの全能の神が我々を
欺いていたのなら、誤っているかもしれない。例えば、「2+2=4」と言う命題も実は神に欺かれてあたかも
必然的論理と思わされているかもしれない。少なくともそういう想定を我々は行うことが出来る(注1)。
(2)コギト
デカルトは、上述の方法的懐疑によって一般に知識として呼ばれているものはすべて疑いましたが、それで
も、ただ一つ残るものがあると彼は言います。それは、「私は疑っている」と言うことでした。つまり、今私は様
々なものを疑っているが、少なくとも今疑っていることは確かであると言うことです(確実)。そして、更にデカル
トは、「疑う」と言うことはより広く言えば「思惟すること(考えること)」であり、「思惟する(考える)」と言うことは
、少なくとも「私の存在」が前提されていなければならないと推論します。これが、有名な「我思う、故に、我あ
り(cogito ergo sum)」と言うものです。これによって、「"理性的な"私の存在」が確実なものとされた訳です。
また、デカルトは『それから私というものが何であるかを注意深く調べて見て分かったのです。仮に、私にはひ
とつも体がなく、またどんな世界もなければ自分がいるどんな場所もないと考えてみることは出来る、しかし、
仮に私がこれっぽっちも無いとは考えてみる訳にも行かない。』と考え、身体的な特性がすべて否定されても
尚「(思惟する)私」の存在が確証できると推論し、これを「精神(魂:純粋理性)」(注2)と名づけます。
(3) 明証性の原則(明晰判明知の原則)
デカルトは、コギトを第一の原理(真理)とした後、更にこれを土台にして、構築されるべき諸々の真理のメルク
マーク(指標)を考えていきます。そこで、デカルトは最初にコギトがなぜ不可疑的なのかについて考えます。
そして、それはこの認識が明証的であることに由来すると考える訳です。明証的とは、注意深い精神の前にし
てもはっきりと現前しているものであり(明晰)、且つ又、その内に明晰ならざる部分を含まない(判明)と言う
ことです。そして、一般的に明晰判明な認識、即ち明証的な認識は真であるとするわけです。
(4) 神の証明
そこで、デカルトにとって次に問題になってくるのは数学的な認識は明証的な認識(真理)かどうか、と言うこ
とでした。数学的な認識が明証的な認識でなくては此の世はコギト以外何もかも「偽」になってしまうからです
。しかし、方法的懐疑の説明のところで述べました様に、「欺く神」と言うものをデカルトは想定していました。
つまり、数学的認識には懐疑理由が存在するという訳です。それで、デカルトは数学的認識を確実な知識と
して承認するために、完全者たる神が存在し、尚且つ、その神はその完全性故に欺くものではないことを証
明する必要が生じてきました[神の存在と善性の証明]。それでは、デカルトの神の証明の手順を追ってみま
しょう。
1 我々は多くの観念を持っているが、そのなかには言うまでもなく、「(完全者たる)神」の観念が或る
2 如何なる観念もそれが存在するためには何らかの原因を持っていなくてはならないが(無から有が生じる
ことはないと言うことは明証たる真理である)、それでは神の観念は何処からやってくるのだろうか?
3 先ず、神と言う観念は我々が感覚を通じて知った観念ではないが(習得観念)、だからと言って、この観念
の作者が我々であるはずはない(構想観念)。何故なら、不完全者たる我々から完全者たる神の観念が生ま
れ来るはずがないからだ
4 従って、神の観念は我々の作り出したものではなく、完全者たる神自らが我々に植え付けたものであると
考えなければならない。即ち、神の観念は神によって我々に生得的(生まれつき)に与えられているものであ
る(本有観念/生得観念)。
5 こうして我々が神と言う観念を有していることから神の存在は証明されるのである。そして、完全者たる神
は我々を欺かない(注3)
こうやってデカルトは神の証明を果たします(同時に数学的認識の正しさの根拠を証明したことになる)。これ
がしばしば人性論的証明と呼ばれるデカルトの有名な神の証明です。しかしながら、これは結局アンセルム
ス以来の本体論的証明(存在論的証明)と本質的に同じ物であると言わざるを得ないものであります(注4)。
(注1)(特にここでデカルトが真実と信じて疑わない数学的知識を疑ったことが方法的懐疑の真骨頂と言えま
す)
(注2)この精神が身体の助けを借りることなく、意識しているところの思考の対象を「観念」と呼ぶ。
(注3)神は完全であるがゆえに一切の性質を有しているはずであるが、それらの性質のうちもっとも重要なも
のは「誠実さ」であり、それゆえ神は我々を欺かない
(注4)但し、デカルトは後の叙述において神は物体の存在を証明するための媒介としての論理的意義をもっ
ているに過ぎないと言っています。また、当時の時代的状況を考えるに内心神など"どうでも良くても"下手な
ことを言うと殺されかねない(実際 ユトレヒト大学から糾弾書が出されている)ので致しかた無かったと言う理
由も存しますので致し方ないと言えば致し方ないでしょう。
【参照:「方法序説」より】
そこへ行ってまずはじめに思いをひそめたことどもについて話を持ち出すべきかどうか分かりません。というの
も、その内容は「形而上学」で扱うようなひどく浮世離れしたそんじょそこらに有り触れたものではないので、お
そらくみなさんの好みにも合わないでしょうと思われるからです。それでも、わたしの選んだ土台が十分しっか
りしているかどうか判断していただくためには、そのことについて話さなければならないようですね。前々から
気付いていたことでしたが、「生き方」のことになれば、いくら不確かだと分かっていても、時にはそんな意見
に従わなければならない(まるでそれが疑えないものであるのと同じ様に)と、そう前に言った通りです。し
かし、当時は真理の探究にただただ打ち込みたいと望んでいたために、次のようにしなければならないと考
えました。つまり、正反対のことをする訳です。そして、もし想像して見てこれっぽっちでも疑いの有りそうなも
のは絶対に偽者として放り出さなければならないと。もしかしたら、その後で、私の信念にまったく疑いを差し
挟めないものが少しでも残りはしないかを見るために。そういう訳で、私達の感覚は時々私達を騙すと言う理
由からどんなものでも感覚が想像させる通りのものはひとつもないと想定しようと思ったのです。そして、推論
する際に「幾何学」のいくら単純な素材に触れても取り違いをして「誤謬推理」する人がいるように、私だって
間違いかねないことでは、他の誰にも負けないだろうと判断して、以前に「論証」と取っていた理由をどれもこ
れも偽者として捨てました。そして、最後にどんな考えでも私達が目を醒ましていて抱くのと同じものが眠って
いるときにもやってくることがありうるのだから、どれひとつとして本物はないと仮定して私は思い切って次のよ
うに考えてみました。つまり、これまでに一度でも私の精神に入りこんできたものはどれもみな私の夢に現わ
れる夢と何ら変らないものであると(注1)。しかし、気を付けてみると私がなんでも偽者だと考えている間でも
どうしても私がいなくちゃはじまらない。つまり、そう考えているものは何かでなくてはならない。そして、「私は
考えている。だから私は有る。」という真理に私は気付いたのです。この真理はとてもしっかりしていて、幾ら
懐疑論者達が常軌を逸した想定を持ち出してきてもこの真理を揺さぶることは絶対に出来ないから私は次の
ように判断しました。即ち、この真理を「哲学」の第一原理とすると。
(5)心身二元論
さて、デカルトは今まで述べてきたような神・精神・物質を「実体(substantia)」と名づけました。彼の定義に依
れば、実体とは"その存在のために他の何者も必要としないもの"をいいます。三者の中で真の意味で独立
的に存在するものは神のみであるが(精神や物質は神に依存している)、精神や物質は相互に全く独立する
ものであり、即ち神以外の物には何ら依存しないものであるから、これも実体と名づけることが出来るとします
。そうして、デカルトは神を無限的実体、精神と物質を有限的実体とします。次に、これらの実体は幾つかの
性質を有するが、その性質の中でもその実体の本質を表わすものを属性と呼び、その他の諸性質(属性を予
想して始めて考えられる様な二次的な性質)を様態と呼びました。精神の属性は思惟であり、様態は感情・意
志・表象・判断等でした。また、物質の属性は延長で、その様態は位置・形状・運動等でした。こうして、デカ
ルトは精神と物質を全く相互に独立した実体として心身二元論を確立しました。その後、デカルトはこの全く相
互に独立したものであるはずの精神と物質(身体)が一見関係しあっているように見えることに対して抗弁を
立てなければなりませんでしたが、その論証はお世辞にも上手いものとは言えず、脳にある松果腺が精神の
座であり、この部分を介して精神が肉体に影響を与えているなどと説明してしまいます(それに対し、弟子達
などが必死に論証付けようとして「機会因論」と呼ばれる考え方が生まれてくる。代表的な論者としてはゲー
リンクスやマールブランシュがいる。両者とも神を介して精神と肉体の関係を説明付けている)。
(6)機械論的自然観
ところで、デカルトは以上の様な考えを押し進め独自の自然観を生み出します。それは、自然界の一切の変
化を物質の運動によるものとして(全て延長の為せる業である)、一切が運動の法則として機械論的に説明
付けることが出来ると言う考えでした(機械論的世界観)。つまり、全て機械仕掛けである、という訳です。し
かし、機械仕掛けと言っても時計仕掛けと言うような意味程度でして、我々のこの身体も神が精巧に作った時
計仕掛けのものであるとします。また、動物達はみな精神の存在を否定され、時計仕掛けのガラクタの様に
扱われました。
二 スピノザ
1 人生
バルフ・デ・スピノザ(Baruch de Spinoza:1632〜1677)は汎神論者とも無神論者とも呼ばれるオランダの哲
学者で俗に「神に酔える人」とも呼ばれます。反デカルトの急先鋒。ポルトガルから亡命してきたユダヤ人家
庭に生まれた彼は、最初ユダヤ教の学者となる教育を受けたが、それに満足できず、次第に教団から離れて
いきデカルト哲学や自然科学を研究するに至ります。その為、1656年に教団より破門され、アムステルダムを
追われて各地を転々と渉り、最後にバークに移って学問の研究に従事したそうです。スピノザはその出自で
あるユダヤ教からもキリスト教からも無神論者として非難され(神学政治論を匿名で出版したせい)、死ぬまで
清貧の生活を送り、レンズ磨きの職人をしていたとされています(殆ど伝説。多くは謎に満ちている)。
2 著作
(1)エチカ(倫理学)の要点
1 実体は唯一神のみ、神は無間の属性を持つ
2 思惟と延長のみが人間に知ることが出来るもの
3 精神と身体は互いに排他的なものではなく平行している(物心平行論)
4 精神の最高の徳は神の認識である
5 神への知的愛
(2)神学・政治論
1 啓示とは自然的認識の限界を超えるものであり、従って、人間本性の法則がその原因とはなり得ない
2 奇跡とは超自然な出来事ではなく原因を知る事の出来ない異常な出来事
3 自然の法則に反する聖書の記述は無神論者によって書かれたものである
3 思想
(1)神即自然
まず、スピノザは実体を「実体とは、それ自身のうちに在り、かつそれ自身によって考えられるもの、言い換え
れば、その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないものと解する」と定義します。つまり、実体とは
自分だけで存在して、考えるのに他のものを必要としないものであると言う訳です。そして、彼はこれを当時の
通念に従って神と名づけました。この時点でスピノザによる鋭いデカルト批判が伺われます(即ち、神の概念
を使わなくては説明出来ない様な精神や物質は実体ではない)。と言え、実はこのスピノザの定義はそう目
新しいものではなく(目新しいのはその書『エチカ』の極端に数学的(幾何学的)な形式《定義−公理−定理
−系》の方)、ギリシア以来の伝統的な哲学史の定義に沿ったものと言えるものでした。しかしながら、ただ伝
統的な系譜ではプラトンのイデア論のようになってしまい、この世は仮象とでも呼ぶべきものになってしまいま
す。そこで、スピノザはこう考えたのです。普段、我々が目にしたり、感じている自然も精神もみんなすべて神
とは別の物ではないという事です。即ち、スピノザは神は絶対に無限な存在、無限に多くの属性よりなる実体
であると定義しました。そして、神は無限に多くの属性を持つ実体であるから、神以外の他に実体が存する事
になれば二つの実体が同じ属性を有する事になってしまい、それでは、その二つともが共に独立的なもので
はなくなってしまうので(つまり、実体の概念に相反してしまう)神以外の実体は有り得ないとします。こうして
、すべては神によって生じしめられ、神の内に存在する、と言う事になる訳です(全ては神である)。つまり、唯
一の実体は神であり、神は完全かつ無限、永遠なる実体で、この世界の一切のもの(精神も物質も神の属性
に過ぎない)はこの唯一の実体たる神からの変様体に過ぎないと言う事です。これが、「神即ち自然」=「神
即自然」の思想と呼ばれる所以です(一般には汎神論と言われることもある)。
また、スピノザにおける神は何ら自己以外のものを持たないのであるから、一切を生じせしめる神の働きは決
して他のものなどの外的強制によって強いられるものではなく、神の働きは自由であると考えます(とは言え
、この自由は無秩序な自由ではなく、神が自己自身の内的必然性により自己の法則に従って働くものである
とされている)。つまり、神の働きを目的論的に捉えてはならない訳です。更にスピノザは、神と個々の事物と
の関係を原因と結果の関係とします。しかしながら、この因果関係はいわゆる時間的な(後と先の様な)因果
関係ではなく(スピノザの哲学には変化する時間、或いは歴史と言う概念はない)、「永遠の相の下に」考察さ
れた関係であるのです。それは、三角形の内角の和が永遠に変化しない様に、現実の中に永遠(イデアとで
も呼ぶべきもの)を垣間見る関係と言えます(これは神の必然的法則によって決定された所産的自然と能動
的自然の関係とも言いかえれる)。つまり、世界の一切は神と言う実体の持つ論理の必然に従っている訳で
あって、自由などはない、と言うことであり、自由は大いなる必然の全てを人間が認識出来ないと言う限界か
ら来る錯覚に過ぎないとされる訳です。
(2)精神と物質の関係
以上のように、スピノザにおいては精神や物質は実体ではないと考えられた訳ですが、こうした精神と物質は
神の無数の属性のうちのふたつであり、それら二つだけしか我々は知り得ることが出来ないと考えます(感情
や意志、判断などは様態)。そして、この二つは全く別の独立した異なる属性では在るが、根本的には神と言
う唯一の実態から現われた二つの属性に過ぎない訳ですから、精神と物質は元々一つのものの二面的な現
われに過ぎないと推論します(物心平行論)。したがって、精神と物質の関係について、精神の秩序と物質の
秩序は同一であるからお互いが相互作用しなくとも並行的な対抗関係に在ると考えます。これは、いわば後
の哲学者ソシュールの思想である言語におけるシニフィアン(表現する記号)とシニフィエ(表現された意味)
のような密接不可分な関係に在ると言う訳です。
(3)倫理説
さて、スピノザによると我々には意志の自由はなく、我々が自由に行っていると思う事は、あたかも下へ向か
って落下する石が自由に落下していると思っているに等しい勘違いであるとされております。こうした展開(機
械論的な世界観)からは倫理など生まれるまでもなく、まさしくレッセフェーレ状態になってしまいそうですが
、スピノザは独自の倫理説を展開します。スピノザによると、まず存在するという事は「自己を保存する」と言う
事に他ならないのだから、全ての個物は自己を保存しようと努力しなければならないとされます。従って、我
々はそういった自己保存を遂行するためにも外界の影響(外的原因)によって生まれる感情に左右されては
ならないとされます(受動と能動。感情は受動的である)。そして更に、スピノザは我々の本質は純粋な認識
の内に在るとし、その認識を発展させるために努力しなければならないと説きます。即ち、そこにおける真の
認識とは上述までの論理より判るように、一切を神の中において眺める事であるから、我々は自らが神に依
存している事を自覚して神の中に同化し、それと一つになったものとして省みなければならないとされた訳で
す。これが、神に対する「知的愛」と言うものになります。
〜次回はライプニッツ〜
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