月刊少年エース8月号読感
(7月1日 更新)



 えー、一回やってしまうと、てな気分で。
 さて、エース8月号読感です。
 初めに申しますと、今月号、「どうってこと無かった」です。
 強いて言えば、「アスカとシンジの仲が急接近中」ということが上げられますが。これは、誰でも予想しえた事態でありますから。
 それでも見所は幾つかあるので、前回のスタイルを踏襲しつつ、アニメとマンガの比較を主に適宜紹介していきましょう。



1・踊る綾波
<証拠>
 ユニゾンのうまくいかないミサトは業を煮やし、レイにアスカの代わりにシンジと踊るよう、命令する。レイは制服姿で、頬に汗をかきながら、シンジとのダンスに興じる……。

<検証>
 本編ではツイスターゲームだったユニゾン特訓も、今回は当初よりダンス。
従って、綾波のダンス姿は当然しかるものではあったものの……。
 やはり、どこか違和感を感じる。
 なぜなのか。
 一つに、綾波が激しく体を動かすシーンというのは今までほとんど無かった、というのが上げられましょう。
 思い返すに綾波が激しく体を動かすシーンと言えば、

 10話 プールで泳ぐ綾波
 11話 ナディアスタイルで両手を広げて着地する綾波
 26話 トーストくわえて走る綾波

 ぐらいしか思い浮かべられません。ましてや、「汗」をかくまで動く、など。
 そう、もう一つがこの「汗」です。
 決して私はフェチではありませんが、汗は活発な肉体活動の象徴であり、綾波の「人間らしい」側面を強調するものとして見逃すことはできません。
 前回より、「貞本綾波人間説」を繰り返していますが、「汗」もまたそうした画伯の思いの現れなのでありましょう。
 ちなみに、3巻の最後でも火あぶりになった直後の綾波は汗をかきまくっています。
 アニメでは、1話の登場シーンで起きあがる時少しかいていますが、それ以後ではほとんど見受けられません。


<脱線・エヴァ論「貞本綾波の魅力」>

 綾波が人間であるせいか、貞本エヴァの綾波は妙に「格好よく」見える。確かに司令にべったり、ではありますが、何か透徹した悟りのようなものを得ているようにも感じられる。静かな諦観、と言えばいいのだろうか。運命を受け入れた人間として、輝き。

 アニメの綾波の思考は或る意味単純にも思える。司令に従って生きる彼女。それ以外は何も要らないという彼女。それは、父親に甘え「パパと結婚するの」という娘の姿とダブる。しかし、やがて、彼女は「パパ」と良く似た「他人」が気になり始め……。
 これがアニメ綾波の心の流れだ。裏設定をとっぱらって考えるとびっくりするぐらいシンプルである。要するにアニメ綾波は「子供」なのである。だから、裸を見られても動じもせず、パパの悪口を言う子を叩いたりもする(5話)。彼女は自らの「女性性」に気付いていない。もちろん「血の流さない女(14話)」だから生理も無いのであろう。

 しかし、貞本エヴァの綾波はどこか違う
 3巻、STAGE15での綾波はシンジの頬を叩いたりはしない。ただふりかえり、勝ち誇った笑みを浮かべ、「私は信じてるわ。私が信じているのは碇司令だけ」と言う。
 また同巻、STAGE16ではシンジに食事を持ってくる際、綾波はパック牛乳をカップの中にわざわざ注いであげたりもしている。こういう細かい気配りは子供にはできまい。
 そしてSTAGE17でも、綾波はシンジが話している間、視線を彼の方に向けてあげている。きちんと話を聞いているのだ。アニメではただ二人はずっと前を向いているだけだったというのに。

 ちなみに、ガイナ自身がどこかに書いていたことだが、エヴァでは視線を合わせて会話するシーンは少なく、向き合っている場合は必ず何らかの意味がそこにこめられる。
 これは比較的若い世代、つまり私をも含む30代以下全般に共通した状況であるように思える。向き合うよりも、互いに並んで話をする方が楽で自然に感じられるという傾向。生々しさからの回避。そういう所を意図的に強調する辺りにエヴァの今日性があるのかもしれない。

 ゲンドウとの仲についてもSTAGE14では、顔を少し赤くしていても感情を或る程度意図的にコントロールしている姿が見える。
 やや精神分析的な言い方をさせてもらえば、貞本綾波には「自我」があるのである。一方、アニメ綾波には自我はとぼしく、「超自我」の影響ばかりが強い
 超自我とは、善悪の概念など「〜すべき」という普段あまり意識しない価値観の集まりのことで、主に「しつけ」によって生じると考えられている。要するに他人によって与えられたものにすぎない。
 自我、とは確立するもの、自らが選び取ったものである。自我も超自我も価値観の集まりという点では共通だが、意識しているしていないという差がそこにはある。
 つまり、綾波は自分自身の価値観、感情をかなり意識しているのではと私は思うのである。ここに私は綾波の悲劇性の極まりを感じる。

 アニメ6話、綾波はシンジに微笑む。
 このシーンはマンガの方がいいと評判であるが、これは私は絵柄のせいだけでは無いと思っている。
 アニメ綾波のここでの笑みはあくまで、「シンジの中に司令の姿を見て」の笑いである。上の論を用いれば、超自我が彼女を笑わせたにすぎない。司令の言葉とだぶらせ、司令の命令を受けたような錯覚を覚え、そこに彼女は反応して、笑みを浮かべたのだ。シンジを通して司令の姿を見ているという点で、あの綾波の笑みはシンジに対してのものという側面がかなり薄い。
 しかし、貞本綾波は、最初こそシンジを司令とだぶらせてはいるが、その後はきちんと「シンジ」と会話をしている。そのことは綾波にも分かっている。
 貞本綾波は言う。
 「…うれしくて? うれしい時も涙がでるのね。ごめんなさい。私はこんな時どんな顔したらいいのかわからない。ほんとはうれしいはずなのにね…」
 この最後の「ほんとはうれしいはずなのにね…」は、アニメには無い。貞本氏はあえてこのセリフをつけくわえたのだ。
 「ほんとは」
 つまり、彼女は「ほんと」と呼ばれる「他人のふるまい」について分かっているのだ。彼女は自分が普通じゃないことを知っているのだ。

 これは悲しい。山田洋二監督の「学校2」では無いが、自分が他人と比べて駄目だと分かっている人の方が、それに気付かない人よりつらいものである。アニメ綾波は子供だから気付かなくても「パパ」によしよしされているだけで満足だが、貞本綾波は違う。貞本綾波は14歳なのだ
 そもそも、貞本綾波はなぜ、シンジに裸を見られても動じなかったのか。これは私見の域を越えないが、彼女は「見られることに慣れすぎていた」のではなかろうか。実験につぐ実験。その度に彼女は裸にさせられ、研究者の前にさらされる。
 一時は恥ずかしいことなのかもと思った時もあったのかもしれない。しかし、彼女にはそんな感情は邪魔なだけだった。だから、彼女はそれを捨てた。そう思えてくるのだ。
 ひでえ話だ。

***

 さらに脱線する。
 私は性的道徳観というのは邪魔ではある一方、それは守れるものなら大事なものだとも思う。性的道徳観を支えるのは家族観であり、つまり家族に対するイメージが薄い人ほど性的道徳観が弱いものである。
 家族制度というのは社会システムの最小限単位であり、それは特に現代においては世代毎にかなり変化がある。よって性的道徳概念も同様だ。
 昔は、セックスを許されたのは夫婦が原則だった。それだけではうまくいかないので、男には例外的に「金銭関係」というビジネスライクな場合だけ、セックスは許された。
 主に戦後になって、それは「恋愛関係」のある場合にのみ許される、というものに変わってきた。旧来の家族制度も「愛ある関係」として読み替えられマイナーチェンジを含みながらも一応継承されることになる。
 だが、若い世代、戦後生まれの人間に育てられた人間はそこに大いなる矛盾を感じることが多い。
 恋愛→結婚→愛ある関係という公式はすばらしいが、これは、とんでも無く難しい目標で、ほぼうまくいく人間などいやしない、ということに気付かされるのだ。

 恋愛と愛情関係もそもそも違う。わかりやすく言えば「好きなだけで結婚できはしない」というやつだ。
 さらに、結婚が愛ある場だというのも難しい。愛の定義は難しいが、ここでは「感情の交流が深く行われている状態」としておこう。この感情の交流というのは時にやっかいなものなのだ。人間、いい感情もあれば嫌な感情もある。この嫌な感情についてのやりとりも四六時中やらねばならぬとしたら、これはもう無茶苦茶ハードワークである。
 ましてや世間は高度経済成長時代。「日本は資源が無い、働くしかない」という教育を受けて、大人になって働いている大多数のみなさんは、家庭内でまで「愛」とかやってる暇は無いのである。働かなければ「負けてしまう」のだ。個人レベルでは隣や同僚の誰かさんに、国家レベルではアメリカやらソ連やらの大国に。
 そこで生活の知恵としては「上手に無視する」ということが必要になってくる。お互いの感情は、うまく、かわしてゆくテクニック。
 特に第2次ベビーブーマー世代以降、つまり、戦後教育を受けた親に育てられた「私たち」はこのテクニックを「当然」の前提として受け入れながら育った。エヴァで視線を合わせない会話が多用されるのも、けだし、当然なのだ。
 なのに、同時に「愛ある結婚」「恋愛」なども教えられる。親も自分ではほとんどできてはいないのに、「価値或ること」だと子供に教える。
 子供は思う。
 時に「愛なんて嘘っぱちだ」と全てをつっぱねる。時にはその二重性に気づき、「恋愛」「結婚」「愛情」を全部使い分けることを知る。全部を一つのものにまとめて考えようとして、「うまくいかないなあ、どうしてだろう」と迷い続けるかもしれない。
 これが現代である。
 性的道徳観の差、その強弱、それにリンクする家族観。これに自分なりの決着をつけないことには、心はいつまでたっても迷いっぱなし。不安で孤独なままだ。
 恋愛や結婚、もしくはその失敗で自分なりの「とりあえず」を作り、できればそれをブレッシュアップしてゆくことが、おそらく現代人の最重要課題の一つなのではと私などは思うのである。結論は無い、のかもしれないが。


***

 話をエヴァに戻そう。
 綾波には性的道徳概念が弱い。おそらく命令があればシンジと寝ろと言ってもそうするだろう。これはおそらくアニメでも貞本エヴァでも同じだと思う。
 だが、アニメ綾波はただ未発達なだけなのに、貞本エヴァにはどうも「捨てさせられた」という印象が強い。自我の発達の具合から見て、「未発達」というのは不自然に思えるからだ。
 性的道徳概念が弱い人間は孤独に陥りやすい。これは背後に家族概念の弱さが動いているからだが、同時に孤独な人間は、性的概念を弱め、家族概念を弱めようと動く。成功すれば、自分なりの性的道徳概念、家族概念をうちたて、自我も安定するが、これはこれで難しい問題である。弱まったままでいる人や、結局、元の概念(親などから受け継いだもの)に戻っている人も多いでは無いか。

 そして貞本綾波である。彼女は果たしてどうなのか。アニメ綾波は子供だからパパが「いい子いい子」してくれればよかった。23話では、最後にシンジへの思いを確かめるが、死ぬ間際に見るのは司令の幻影である。そこから抜けきることは最後までできなかったのだ。
 貞本綾波もそうするしかないのか。
 私は一縷の望みを抱く。
 貞本綾波は違うのでは、と。
 彼女は自分の運命を知っている。そして、それを一応受け入れてもいる。だが、彼女は「ふつうじゃない」自分にも気づいており、「どうしていいかわからない」とも認めている。
 そんな彼女がシンジに見せた笑顔。この重み。

 彼女は孤独を知っているのだろうか。彼女には家族が無い。ただ司令を信じることで自分を支えている。そこに彼女は自負がある。だからこそ、シンジに対して「勝ち誇った笑み」を浮かべられるのだ。
 強い。
 シンジ自身も言っている。
 「たぶん綾波には僕よりもっと何もない。なぜだか分からないけどそんな気がする(3巻STAGE17)」と。
 そんな孤独を抱えておしつぶされそうな中、それがいいことなのかどうかは別としても「司令を信じきる」ということで彼女は戦っているのだ。
 孤独な世代に生きる人にはそれがまぶしく思える。

 彼女は人間なのか。
 使徒でもエンジェルでも人間じゃ無いのなら、それはあくまで人間にはとどかない理想の姿としてかたずけられてしまう。
 しかし、もし、人間なら、それは……。

 いや、これ以上は止めておこう。
 ともかく、貞本綾波の微笑みにメロメロキューになっても決して恥ずかしいことでは無いということだけは言えよう。
 私?
 ノーコメントです。



2・シンジ、アスカに説教する。
<証拠>
 逃げ出したアスカを、加持の言葉(「早くアスカを追いかけろ、これも君の仕事だよ」)に従い、追いかけるシンジ。
 なぜかトルコ宮殿のような噴水にギリシャ風円柱の立ち並ぶ公園のベンチに座るアスカの背中。
 「私は完璧なのに。どうして私が怒られるの?」
 アスカは叫ぶ。
 「ごめん…」
 謝りながらもシンジは言う。
 「惣流…もっと肩の力抜いたほうがいいよ。自分のこと特別だなんと思わないほうがいいよ」
 「私に忠告する気?」
 「そんなつもりないけど、でもそういうのって疲れるだろ? もしムリしてるんだったら」
 「うるさい、うるさい、うるさ〜い。あんた何さまのつもり?」
 「ご、ごめん、でも僕も昔もそうだったからわかる気がするんだ」
 「あたしとあんたは違うわよ」
 叫び、肩で息をするアスカ。
 「ごめん…先に戻ってる」
 冷静な顔を崩さずに去って行くシンジ。
 うつむくアスカ。

 その柱の影にはなぜか様子を見に来ていた加持の姿が……(^^;

<検証>

 ちょっと綾波論を書き込みすぎて疲れたので、こちらはさくっと行きます。
 宮殿公園についてはまあ、いいでしょう。
 貞本ネルフは「福利厚生施設が整ってい」るという前回の主張を裏付けるものであり。

 そしてシンジの説教である。
 SEGAのゲーム「2nd Impression」に続いてのシーンである。
 はたして本編(アニメ)でこのようにシンジがイニシアチブを取って、説教するシーンなどどれほどあったろうか。
 先に述べた6話のラストがまず考えられる。
 しかし、それ以外となると……少なくとも私には思い浮かばない。


 今回のシンジの行動は、前回、アスカが夜中ママと言って泣いていたことを受けてのものだと思われる。シンジの心の中におこった、アスカへの同情心のようなもの(精神分析の流れを汲む交流分析風に言うならば「親心」的な感情)が原因である、と。
 いずれにせよ、ここでは心理的にかなりシンジが優位に立っている
 こういうシチュエーションだけとっても、アニメでは滅多にみられないシーンと言えよう。アスカに限らず、シンジが誰かに対して心理的に優位に立つことなどほとんど無かったのだから……。

 マンガでは、殴ろうとするトウジに似たような御説をぶったことが以前にもあった(STAGE 8)。その時にも「疲れない?」という言葉を使っていた。
 だが、この場合の「疲れない」と今回のそれとは少しニュアンスが違う。
 前回の「疲れない?」は、かっかするトウジに対する一種の嫌味だったが、今回のそれは「ムリするな」という次に続く語と同義である。

 シンジの性格が本編の性格とかなり違うというのは一目瞭然なので、ここではくどくどと繰り返さないが、基本的に貞本シンジは「自己嫌悪」が少ない。ただ自分に対する「無価値観」を強く抱いているだけである。
 この違いは作者の違いに起因するものだと思うが、要するに庵野シンジは甘えたがり屋なのである。貞本シンジにも甘え欲求はあるが、理性をやぶって出てくることは少ない。

 ここではそこに深く分け入らず、シンジの説教に話を戻すが。
 説教が人を動かす場合とはどんな時か。
 それは相手への共感が充分にある時である。
 自分のことをよく分かってもいない、と思われる人からどんな立派なことを言われても、むかつくだけである。
 分かってもらっていると思うから、人の話を素直に聞くこともできる。
 極論すれば、「分かってもらえる」だけでも充分なのだが。
 この場合はどうか。
 アスカはシンジの言葉を聞いている。
 そして、過剰に反応している。
 最後、シンジが去った後うつむいている所からも、痛い所をつかられたという思いもあるのだろう。
 全ては、その前にシンジに父親の事、エヴァに乗ることを話、なおかつ寝言までを聞かれてしまったアスカの「負け」である。シンジはアスカの心を(少なくとも一部は)理解してしまっている。

 再びアニメとの比較をすると、9話でのアニメシンジは、アスカの寝言には「自分だって子供のくせに」とキスできなかったことへの恨み言としか反応できなかった。そこで、心理的優位に立つこともできたはずなのに、戦闘後の失言で逆に窮地に追い込まれた。本当にアニメシンジは人の気持ちを理解する能力に乏しい駄目な奴です。まあ、それはアニメ版のキャラ全員に言えることでありますが……。

 今回はこの程度にしますが、ともかく、このシンジの優勢状態。人を愛することのできない庵野シンジと比べて、わりに暖かい貞本シンジは果たして綾波と惣流のどちらを選ぶのか。


3・アスカとシンジ、見つめ合う
<証拠>
 怒ったアスカは戻ってくるなり、天井のスピーカーを巧みなハイキックで撃破。そこから監視カメラが現れる。
 そして、シンジに向かって「特訓して見返すのよ」と言い……。

 監視カメラの無くなった部屋で、ダンスにいそしむ二人。
 腰を抱く、手を取り合う。
 そして二人は笑顔で見つめあう……。

<検証>
 貞本アスカは凶暴だ。
 初登場シーンでもゲームセンターでカツ上げをしていた。今回もそれを発揮、2メートルはあろう高さのスピーカーを一撃で蹴り壊してくれた。

 ここで一応貞本アスカとアニメアスカを比較・整理してみると。

 1、貞本アスカは赤毛ではなく金髪
 2、貞本アスカに父はいない(一応)
 3、貞本アスカはシンジにかなり気があるよう

 3については、わりとシンジにも心をひらいてくれていて、前回の父親の時のようにべらべらと色々話もしてくれることからの推察である。
 アニメですと、「なんであんたなんかにこんなこと言わなきゃならないのよ」とどなられておしまいですが(23話)。
 シンジのベッドの脇に座ったり、わりと親密でもあり。

 その分、二人の仲が急接近することに意外性はありません。
 おそらく、「シンジは綾波が好き。綾波の気持ちは分からない。そんなシンジを見てアスカが知らずやきもきする」という流れになるのではと推察される。
 ちなみに前回の「シンジとアスカ兄妹説」については、今回の話だけではよくわかりません。ストーリー的にはテレビ版に戻ってきているので、あんまり過剰な期待はかけないほうがいいのかもしれませんが……。

 私の日記を読んでくださる方な知っているでしょうが、アスカの父親についてはその後「葛城博士説(アスカとミサトが姉妹)」「アインシュタイン説(ドイツの天才学者と言えばこれ)」が提案されており、結論は未だでてきません。あまり拘泥せずに、素直に今は読み進むべきなのでしょう。

 これは多くの人に指摘されていることですが、貞本氏は「企画書」にあった元のエヴァの話を復活させたいのでは無いかと思われます。
 例えば、その中には「アスカはゲームが好き」とか「アスカ初デート」という話がでており、特に前者はゲームセンターを最初の舞台に据えたりと結構強調されてマンガで出てきます。アニメでは委員長の部屋でゲームをしているシーンがありましたが、あれは退屈しのぎにやっているという印象の方が強くあまり楽しんでいるようにも見えませんでした。
 そしてなんと言っても「アスカ初デート」
 16話のシンジが使徒に取り込まれる話の後で、「アスカが初めて遊園地に行く」というラブコメ話が企画書にあるのです。
 私の予想では、これもマンガには出てくるのでしょう
 ちなみに本編では15話がこれにとってかわっているように思えます。
 そして、何より企画書のラストは「レイを守るために、人工進化研究所にシンジたちが留まる」というものなのです。シンジたちとはもちろん、アスカも含まれるわけですから。この三角関係をぎりぎりまでひっぱるつもりでいたのでしょうが、どうも分はアスカの方が強そうです。

 という部分からすると、もしかして貞本エヴァもアスカ有利……
 前回とは逆のことを言っていますが、あれはあくまで「シンジ・アスカ兄妹説」を前提としての話。そうで無いのならば、逆にアスカの方がシンジに心を最初から開いている分だけ、有利です。この辺りは気長に待つ方がいいのでしょう。

 全然関係無いですが、私はなぜか「アスカ」と呼ぶより「惣流」と呼ぶシンジの方が好きです。シンジが「惣流」と呼ぶ度に、私はアスカに気持ちが傾き……何やってるんでしょうね(^^;

 いずれにせよ、マンガは7話ごとに話が区切れ、単行本化するので、後1話、来月のSTAGE26でアスカ登場編は終了でしょう。
 その後は三角関係話が続くわけで……アスカとレイの対決が見物です。





今回は、やや綾波論に走りバランスも悪く、論旨もかなり乱れています。
時間があったら改稿したいとい思いますので。
ご意見ご感想などいただければ幸いです。


***


<追記1>
みなさまからいただいたお便りの内、代表的な一通と、関連伝言板の紹介をしてみました。
是非ご覧ください。(7/1)



[Back to DEEP EVA]/ [MORIVER'S HOMEPAGE]

文責:moriver(f7152684@nv.aif.or.jp)(感想、叱責等、一言でもお願いします)
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「新世紀エヴァンゲリオン」は、(C)GAINAX/Project Eva.,テレビ東京,NASの作品です。

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