永田町の広告代理店で働くうち、本格的に絵の勉強をしたくなった私は、パリ行きを決意して辞表を提出した。すると社長はこう言って、往復の旅費をポンと出してくれたのだ。昭和四十六年、二十八歳の私はコツコツとためた六十万ほどのお金を手に、パリへと旅立った。これまで独学で絵を描いてきただけに、パリは憧れの芸術の都。といっても住む所、知人、学校、なんのあてもない旅だった。
夜更けにパリに着き、セーヌ川左岸の学生街、カルチェ・ラタンの小さなホテルに飛び込む。フロントではアフロヘアの黒人青年がカウンターに足を投げ出し、怪しげな人々がたむろしていた。
やがて空が白み、小さな煙突がニョキニョキとキノコのように突き出したパリの町がぼんやりと浮き上がる。七階の窓からこの風景を眺めた時、初めて「ああ、パリに来たんだ」と感激した。
一夜の緊張でのどがかわき町に出たが「水が飲みたい」という言葉が通じない。何軒もカフェを回り、「ウオーター」「ジュース」「H2O」といろいろ試したが、子犬のようにシッシッと追い払われる。やっとのことで通じた言葉が「ソーダー」だった。
とにかく最初は怒られっぱなし。フランス語が分からないものだから、バスに乗っても、店に入っても、道を聞いても怒られる。ホテルまで我慢できず、通りの陰で立ちションしようとして逮捕されそうになったこともある。
一週間後、パリの中心から徒歩一時間ほどの、一泊七百円の安宿に移った。町の雰囲気にも慣れ、美術館を巡り歩くうち、絵の勉強をしたいという気持ちがムクムクと盛り上がってきた。(日本画家)
【写真説明】
広告代理店時代の私(右)