平成二年の十月、四十七歳の私は中国文化庁に招かれ、初の海外個展を北京で開いた。会場は故宮の中にある北京労働人民文化大宮殿。ここで個展を開いた日本人は東山魁夷、平山郁夫に次いで私で三人目だという。大変な名誉だ。
夢にまでみた海外個展だが会場に入って足がすくんだ。広さは奈良東大寺の大仏殿の三倍はあろうか。陸上競技ができそうな石畳に巨大な柱が何十本も並び、天井など高すぎて見えない。日本から三百点もの絵を運んだが、それでもスカスカの感じがする。
本当に人が見に来るんだろうかと心配したが、連日の大盛況。童画にほほ笑み、女性画に涙する人もいて、私の日本的な絵が通じたと、ホッと胸をなで下ろした。三千部刷ったパンフレットが一日でなくなってしまったのには、中国側の担当者も驚いた。
“ご褒美”にとかなえてくれたのが、生まれ故郷への旅。私は昭和十八年に旧満州・奉天(今の瀋陽)で生まれ、敗戦の年に母が必死で故郷の佐賀へ連れ帰ってくれたという。願いは生まれた地に両足で立つこと。夜八時に北京から汽車に乗り、着いたのは翌朝八時。父が書いてくれた簡単な地図を頼りに生家を探す。
そこは本当に粗末な家だった。今の住人はくず鉄を拾って生計を立てているらしく、辺りには鉄片が散乱している。突然、目頭が熱くなった。今は亡き母の面影が鮮やかに蘇る。遠く日本を離れ、父についてこんな所まで来た母が哀れだった。
中国残留孤児のニュースを見るたびに思う。彼らはちょうど私と同じくらいの年。母が命懸けで私を連れ帰ってくれねば、私も彼らと同じ運命をたどっていたかもしれない。
【写真説明】
北京の個展でVIPを案内する中島氏(左から2人目)