【人生讃歌】“風の画家”と呼ばれて 中島潔氏(10)貧しくても絵さえ描ければ
[1999年02月02日 東京夕刊]

 広告業界で必死に働くうち、心はすり切れ、目標を失いそうになる。やはり絵描きになろうと、昭和五十一年、広告代理店を辞め、池袋にアトリエを借りた。

 というと聞こえはいいが、以前はラブホテルだった裏通りの古びたビルの一室。アニメーションの仕事をしていた友人が六畳間、私は三畳間を使う。机を置くと部屋はいっぱいで、徹夜明けには机の下にもぐり込んで仮眠したものだ。私は三十三歳だった。

 友人のあだ名はアナグマ。小太りで黒ぶち眼鏡にヒゲをはやし、夜な夜な自転車でネオン街に繰り出しては、怖い兄さんに首をつかまれて帰ってくる。私たちの隣の部屋にはやせた白髪の老人が一人。入り口には真っ黒なカーテンが下がり、のぞいてみると部屋中が銀色。入れ代わり立ち代わり男が出入りする。

 その老人が“アナグマ”にほれた。毎日のようにメロンの差し入れが届き、私しかいない時は不機嫌に帰っていく。老人にしてみれば私は恋敵? 廊下ですれ違っても彼はプイと横を向き、なんとも居心地の悪い仕事場だった。

 私はといえば、いい絵を描きたいと思うがたいした才分もなく、もがき苦しみ暗くなる。その上、服装にまったく構わないので、よほど見すぼらしい。ある日、徹夜明けで雑誌の原稿を渡すため、早朝の渋谷駅で編集者と待ち合わせていると、「ふろに入れて温かい飯を食わしてやるよ」と声をかけられた。どうやら手配師の兄さんに、工事現場に連れ込まれそうになったようだ。

 絵さえ描ければどんな生活でもと思っていたので何のことはない。今日も目元まで帽子で顔を隠し、だらりと服をはおって仕事場に通う。(日本画家)

【写真説明】

独立した当初は生活も苦しかった

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