アルカナ通信195号 |
1999年1月10日発行 |
49 バス司教からのクリスマス・メッセージ |
新年、新世紀、新千年を迎えるとき |
新
しい年を迎えて、何か決心をなさいましたか。1999年は、今世紀最後の年、今千年最後の年です。この一年は、まるまる新世紀と新千年のための準備の年になります。決心はある意味では、主との個人的約束ですから、他の人が知る必要はありませんが、それについて参考になることをご自分なりにチェックしてみるのはいかがでしょう。
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49 バス司教からのクリスマス・メッセージ |
ルカ福音書2:25,26
さて、エルサレムにシメオンという名の人がいました。正しい心の人で、信心深く、イスラエルの救いを待ち望んでおり、聖霊に照らされていました。シメオンは主キリストを見ないで死ぬことはないと、聖霊によって啓示されていました。
ルカ福音書2:29−32
「主よ、〈みことば〉にしたがって、あなたのしもべを今こそ安らかに逝かせてください。わたしはあなたの救いを目撃しました。それはすべての国民の前に準備された救いです。それはまた異邦人を照らす光であり、あなたの民イスラエルの栄光です」。
天界の秘義6238
[旧約聖書に出てくるシメオンは、ヤコブの次男でした]シメオンは意志の中にある信仰を意味します。これはまた行動の中での真理でもあります。すなわち信仰の善であるとともに、真理の善です。
天界の秘義3872
「シメオン」が意味するのは、このような性格です。これは教会における第二の普遍的なものです。これはわたしたちの再生の過程、教会になる過程での第二のもので、信仰の真理を実践する意志、つまり従順を意味します。この従順すなわちこの意志に、仁愛が植えつけられますが、この仁愛こそ[ヤコブの三男]レビを意味しています。 シメオンという名の意味は「聞く」 からきており、わたしたちの中にある「従順」を表します。またそれ以上のことも表しています。信仰によって〈よろこび〉の知らせがあるとき、わたしたちの宗教が示す事柄にあこがれて待ち望むとき、心に宿る霊は「シメオン」です。つまり意志の中にある信仰のことで、その信仰が行動に導き、心に天界を想像するために頑張ろうとします。 仁愛はこのような霊の中に芽生えます。やがてシメオンは死んでいきます。ことが実現するとき、待望や憧れは必要なくなりました。その代わりに実現の〈よろこび〉が生まれます。シメオンが主のご誕生を喜んだのはずっと昔のことで、その待望は終わりましたが、その結果わたしたちは宗教生活を送り、本物の愛をくださる主のお約束を思って、安心できるようになりました。その愛を待ちあこがれていますが、その日は必ずやってきて、待望の日々は終わります。「主よ、〈みことば〉にしたがって、今こそあなたのしもべを安らかに逝かせてください。わたしの目はあなたの救いを目撃しました」 と言う日がきます。 このクリスマスに、みなさんの信仰が強められ。主のみこころを行う願いが高められますように。主は、かならずみなさんの心を訪れてくださいます。(以上バス司教) |
89 聖 餐 式 |
カトリック教会では、これをミサまたはミサ聖祭といいます。この「ミサ missa (英語の mass)」は、「(神から)遣わされたもの」という意味です。新教会では、プロテスタントと同じく、holy supper (聖餐式)またはLord's supper (主の晩餐式)と言います。主はご自分の十字架上の死去前日、弟子たちと最後の晩餐を行って、これをご自分の記念として行うよう命じられました(マタイ26・26〜29)。司祭はみな毎日ミサをささげ、それを主の死と復活の尊い記念として、今日までこの儀式を大切に守ってきました。その中心は聖変化で、司祭はパンを手にして「これはわが体なり」と唱え、両手で高く挙げて礼拝します。また葡萄酒のはいった杯を手にして、「これはあなた方のために流すわたしの血である」と唱え、同じように両手で高くかかげ礼拝します。また聖体拝領(陪餐)では、主のおん体とおん血をいただくと考えます。 パンと葡萄酒がキリストの体と血に変化することを、神学的には「実体変化 transsubstantiatio 」と言い、たとえ外観はパンと葡萄酒であっても、実体はキリストのおん体とおん血になったと信じます。ですから聖堂には明かりを点して、主の絶え間のない臨在を示します。しかしプロテスタントでは、このような考えを化体説として否定し、むしろシンボルまたは記念の意味を強調し、ミサという言葉も使いませんし、教派によって違いますが大体月一度くらいの頻度でしか行いません。以上は、聖書の〈みことば〉の文字上の意味から生まれた従来のキリスト教的解釈です。 新教会の教義では、主の〈みことば〉の霊的意味にもとづいて解釈します。パンが主のおん体の表象であれば、主のおん体は、主の天的善と愛の表象です。種なしパンを使用するのは、主の善と愛が純粋そのものであることを表します。また葡萄酒が主のおん血の表象であれば、主のおん血は、主の天的真理および仁愛の表象です。そして葡萄酒はブドーがだんだん発酵して純粋の葡萄酒になるように、真理は、戦いと試練・誘惑を招くため、それによって再生が行われ、浄化されてていくことを示します。 人は聖餐式に参加し、以上のような信仰をもってパンと葡萄酒の二つをいただきます。そのあと人の体の中で、善と真理が融合一致します。また葡萄酒が、霊的天使たちの隣人愛を示すものであるのにたいし、パンは、天的天使たちの主への愛を示します。 洗礼が教会への入門式であったように、聖餐式は天界への入門式です。人は心から悔い改め、再生を決意して聖餐式にあずかれば、天界とのつながりができ、それを通して、主とつながります。パンと葡萄酒で表象される善と真理との結合は、天界での永遠の結婚を表象します。主と、その花嫁である新エルサレム教会との結婚は、新教会につらなる者にとっては、これ以上の誉れと光栄は考えられません。 参考箇所 『天界の秘義』4211、 4217(2)、『啓示された黙示録』224 (終りの部分)、『真のキリスト教』711、 728。 |
新教会一口英語(6)Heaven and hell is in your heart天界も地獄もあなたの心の中にある |
だから heaven and hell are でなくてはなりません。
それがどうして単数の is になっているのでしょう。 だからこの英語は、"Heaven or hell is in your heart" と言いたいところなのを、and にしたのでしょう。というのは両方ともが交替で心を占めるから、一方だけということはありません。or にすると、どっちか一方だけのような印象を与えます。 さて、英語の勉強を兼ねて "Heaven is in my heart, but hell is not in my heart" の練習はいかがですか。 さて、「わたしは天界が心の中にあるのを願っています」を英訳してみましょう。 I want the heaven to be in my heart. 以下二つの英文の意味は、どこが違いますか。
I wish I will have heaven in my heart. |
もろもろの お知らせの いろいろ |
◎アルカナ友の会に入会された方を紹介します(敬称略) 山田茂
★クリスマス献金 ありがとうございました。 尊いおささげ物が主のご用のために使われるよう努力いたします。お陰様で、去年は3冊の新刊書(『小品集』『聖日礼拝式文』『著作の自己証言』)、それに、エプソンのカラー・プリンターLP8000C を購入できました。ご覧のような『アルカナ通信』の印刷が可能になりました。 ◇ アルカナ出版の平成11年度計画に入っているものは、現在進行中の原典訳『Summaria Expositio』(仮称:略説)と、『メディテーション 1』です。後者は『祈りのとき』が残部がわずかになり、その代わりとして、著作の特定箇所を抜粋して、祈りに使っていただきたいと思い、現在編集中です。
○ バス司教からお手紙いただき、司教訪問につては、今年は遠慮し、来年の8月末、10月末、11月初めはどうかとの打診がありました。2000年6月には世界大会がカナダで行われますが、バス司教とリサの日本訪問は、そのあとになる可能性があります。 ◆バス司教からいただいたクリスマス・カードは、2面に和訳してあります。鈴木桂子さんからのご要望でした。
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上下句選 |
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辛口一番 |
アガトス 次の世紀に、人類には何が起こるでしょう アマトス 「未来を知りたければ、過去を見よ」という諺があります。 |
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