アルカナ通信194号


1998年12月10日発行

内容
敗者を救われる主に感謝
48 「エゴ地獄」からの脱出
88 人間
新教会一口英語(4)
もろもろのお知らせのいろいろ
上下句選
辛口一番

敗者を救われる主に感謝

西暦1998年も終わりに近づきました。新聞紙面上では、いろいろ不幸な事件がありましたが、周囲と日常の出来事を見回してみると、よいことも沢山ありました。まず戦争もなく平和に暮らせたことは感謝です。戦時を記憶している人にとって、戦時と平和時には雲泥の差があります。衣食住について反省してみますと、現在安価な衣料がスーパーに山積みにされています。食糧の乏しい国や地域と違って、豊富な食べ物が提供されています。住宅事情も二、三十年前と比べ、はるかに改善されてきました。それだけでも主に感謝しなくてはなりません(11月23日の勤労感謝の日に因んで)。

 カ福音書18章にある譬え話を取り上げてみます。二人の者が神殿に祈りをささげにいきました。パリサイ人は立って、ひとりでこう言いました。「神よ、わたしは他の人たちのように、貪欲な者、不正な者、姦淫をおかす者ではなく、またこの取税人のような者でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」と。それにたいし取税人は頭を垂れ、「神様、罪人のわたしをお許しください」と祈りました。主は、神に義とされて自分の家に帰ったのは、あのパリサイ人よりむしろ、この取税人であったと言われます。

 教会員にも大きな誘惑があります。天界の教義を知っているから、他の人たちよりスムーズに天界入りをするのではないかとの思いです。「他の人のように、カネとモノに追い回され、貪欲、ウソつき、不信心でないことを感謝します。わたしたちは〈みことば〉を読み、天界の教義をわきまえ、悪を避け、役立ちに精進しています」と、胸をはって祈るとしたら。  エデンボルグは、天界の秘義の中で、パリサイ人もモーセの律法を守り、主のご命令に従った生活をしていたので、当然義とされて帰ったと記します(6404(3))。ただ取税人のほうがより義とされました。それは自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるとの〈みことば〉からきます(ルカ18・14)。

 たしたちとてパリサイ人のように、感謝して義とされないわけではありません。それなりに真理を求め、天界の教義を熱心に学び、家庭礼拝も行っていれば、それが主に受け入れられないはずはありません。ただかつてのパリサイ人のように、そのために救われる値打ちがあると思うと危険です。自分の行いによって、天界行きの先頭集団の中にいると思うと、わたしたちもパリサイ人とあまり違いません。 まず主のみ摂理と哀れみについて知ることでしょう。たとえ悪を行わず、善の役立ちに専心できても、主の支えなくしては何もできません。

 ゴは徹頭徹尾、悪であるという教義が役にたちます。川の流れが常に下に行くように、人のエゴはその意志も理性も感情も下へ下へ、つまり地獄へ地獄へと流れます。それを自力で断ち切り、天界へ向かわせることはできません。主のおん計らいによって、川面からちょっとジャンプ〔悪を避ける〕さえすれば、そのスキに主は特別のおん計らいで、そのジャンプを利用され、上流に運ばれます。ですから天界の天使になるのは「主の恵み」ではなく、「主の哀れみ」でしかありません。そこに本当の感謝が生まれます。これは勝利者の感謝ではなく、敗者を救われる主への感謝です。

48 「エゴ地獄」からの脱出

天界の秘義8391より

   信仰生活をしている人は、毎日悔い改めます。自分の悪を反省して、それを認め、悪に陥らないよう注意し、主に助けを祈り求めます。人は自分からはたえず下に落ちますが、主によってたえず引き上げられます。悪にたいする欲求を感じるとき、人はおのずから落ち込み、悪に抵抗するとき主によって引き上げられ、その結果、悪を行わないで済みます。善の中にいる人は、みなこのような状態です。悪の中にいる者は、たえず落ち、同時に主によってたえず引き上げられますが、ただこの場合、みずから全力で向かっている最悪・最深の地獄に落ち込まないよう、結局はよりましな地獄のほうに、引き上げられています。

天界と地獄160

 天使たちは、自分のエゴにもどった最低の状態では、悲しみがましてきます。わたしは、そんな状態の天使とコトバをかわしましたが、その悲しみは隠せませんでした。ただし、かれらは前の状態にやがてもどる希望をもっていると言っていました。それは天使にとって、自分の「我」のため天界にもどれなくても、いずれまた帰っていけるようなものだとのことです。

 従来のキリスト教会では、意志と恵みの関係では常に不安定・不確定でした。悪から脱して善を行うという点では、アウグスティヌスは、人間の力より恩寵を強調しました。その反面ペラギウスは原罪説を否定し、人間の意志の力を高く評価して、人間には善への意志が残っていると強調しました。宗教改革者たち、特にカルヴィンは、人間の全面的堕落を力説し他力的でした。

 そのようにカトリックとプロテスタントとも、自力と他力の関係が不明確で、どちらかというとカトリック側が自然本性にあるよきものを強調し、プロテスタントは、自然本性の徹底的堕落を全面に打ち出しました。ただ両者とも等しく、〈みことば〉の自然的意味にとどまっていたため、どこまでが人間の力で、どこまでが神のみ助けか分からないまま、双方とも恵みを強調しました。日本ではカトリックは「恩寵」という言葉を使い、プロテスタントは「恵み」を使っていました。

 それにたいし、天界の教義では明確です。つまりエゴは悪そのものです。しかし人は、あたかも自分の力でするように意志を発動させる「あたかもの原理」で意志すれば、主のみ力で悪から一時的に離れ、善を行うことができます。ただしその善の行為者としての責任主体は、あくまで主であって、人間に功績や手柄、功徳はありません。主のあがないの功績はあくまで主のもので、人のものではありません。人は主により頼むことによって、「悪を行わないで済む」ことになり、その結果善が推進されます。そして、それは報いのような意味での恵み、恩寵ではなく、主の無限のおん哀れみから出るものですから、人間はいただくだけです。

 人間のエゴは、鉛が落ちるように地獄へ向かっていますが、主のおん哀れみによって、絶えず引き上げられます。わたしたちが、天界にあげられるとすれば、報いでなく、まったくのおん哀れみであるとは、そのことです。

   

88 人間 
 ラ homo  英 human being,man,etc.

男性の精子が女性の卵子と結合するとき、ひとりの人間が胎児として形成され、約9か月の後誕生します。誕生後は嬰児、幼児、児童、少年少女期、青年期を経て、一人前の男性または女性になります。人間のことをラテン語で homo といいますが、これは humus(土)に由来します。アダムが赤土を意味し、それが人類の祖先の総称になったように、人は土から造られ、神の霊気が吹きこまれ霊的動物になりました。ギリシャ時代、人間は「理性的動物 animal rationale」と定義づけられ、天界の教義では、人の霊は、理性と意志二大能力をもち、神の真理と善の器になって、天界の住民になるため造られたとあります。

 このようにして造られている人間は、男女ともに生殖機能が与えられ、夫の精子には、子孫の霊魂を含む人間形成力があり、妻の卵子はその形相 forma を生長・発展・開化させる材料 materia が備わっています。人類の繁殖力は、生命の神秘を垣間見せてくれます。驚くほど微細・微小・繊細な生命の粒子から、一人前の大人になるまでの潜在的成長力のおかげで、それが子孫に受け継がれ、生長・発展・進化の歴史が何万年も続いて今日にいたっています。

 これは物質に絶えず働きかける霊の内在的活力を示します。とるに足らぬ微小な精子のなかに、先在的に人を人たらしめる力が注がれています。その霊的力が物質を操って、人間として必要不可欠な器官をすべて生み出していきます。頭脳、胴体、両手、両足、心臓、肺臓、肋膜、胃、腸、肝臓、膵臓、脾臓、腎臓、膀胱、毛細管、血管、内分泌腺、生殖細胞など、緻密な細胞の数々を具備しています。これらを形造っているのは霊ですが、それを支えているのは霊界の太陽からの〈いのち〉の流入です。

 人間のコントロール・センターとも言うべき脳機能の複雑さは、驚嘆に値します。大脳と小脳、右脳と左脳があって、人の理性的・意志的・感情的・肉体的働きを司ります。大脳は、理性的諸作用、小脳は、運動神経につながります。左脳は概念、推理、判断、記憶を統括し、右脳は感情、想像、音、リズムを統括します。

 人の肉体は死んだ後土に帰るのは、土から造られたものだからです。創造主によって吹き込まれた霊があって、初めて土が人間として形成されます。畑は耕せば、それだけ肥沃になるように、人間も耕せば、それだけ豊かな人間になります。それは、人間が神の霊的働きの器だからです。頭脳を使って考え、概念を整理し、目的・原因・結果を順序弁えて秩序だて、悪を避け、善を行うことによって、人はより完成されたホモ・サピエンス(知恵を味わう人)になります。

 自然的人間は、遺伝的不秩序と罪から、天界の流入を歪曲しており、そのままでは天界の住人になれません。悔い改めと自己改革、再生をとおしてだけ天界に入る資格をえます。人間は、より人間らしい人間、つまり天界の天使になるため生まれてきました。天使こそ、最も人間らしい人間、そして人間の理想像です。参考箇所 『天界の秘義』5302、10298(2)、『天界と地獄』57(後半)、『神の愛と知恵』240。

新教会一口英語(4)

Happy Birthday to the Lord!
クリスマスは主のご誕生日です。誕生のことを英語で birth といいますが、語源はゲルマン系でしょう。というのはドイツ語では Geburt といって、綴りや発音が似ているからです。クリスマスには、教会の礼拝では、よくイザヤ書9章が読まれますが、その6節に有名な箇所があります。"For unto us a Child is born" (われらのために幼子が生まれた)。この born は、 bear という動詞の過去分詞ですが、過去分詞になるのは、やはり受け身的な動作だからです。このように、人が生まれるとき、その人のあとに、〜 is born を使います。そしてそのあと、日付を言います。主が実際に12月25日にお生まれになったわけではないでしょうが、それを英語にすると、"The Lord was born on December 25"のように、日付の前には、前置詞の on をいれます。さて、それでは主のご誕生に因んで、ご自分の誕生日をいってみてください。たとえば、わたしの場合、 "I was born on August 10"(わたしは8月10日に生まれた)のようになります。

 主は、"Unless one is born again, he cannot see the kingdom of God"(人は再び生れなければ、神の国を見ることが出来ない)と言われました。ここにも is born がありました。生まれ変わりのことを、わたしたちは「再生 regeneration 」と言いますが、再生しなくては、天界に入れないということです。福音派のクリスチャンのことを、Born-again Christians ということがありますが、わたしたちはみな、いつの日か、Born-again angels になれます。ただ再生していればです。

もろもろの お知らせの いろいろ

☆クリスマス献金の振替用紙を同封しました。 年末になり、周囲があわただしくなります。でも主のみ前では、千年も一日のようです。霊界には物質に由来する時間・空間はなく、霊は実体として永遠に生きるものですから、その霊を養うことが、何よりも先決だと考えます。アルカナ出版は、世紀末1999年度を迎えるにあたって、個人個人の霊的向上をお助けすることができるような計画を考えています。組織や活動は、それが源になって初めて生きたものになります。

◎献金してくださる方にお願い。霊的向上をお助けできることがあれば、振替用紙に一筆したためてくだされば幸いです。新世紀の始まる2000年についての思い、アイディア、希望、願い、祈りをお願いします。 献金の額は主にお任せします。多くても感謝、少なくても感謝、レプタ1枚でも感謝です。活動、組織、資金、社会的アピールは、内部のものがあってこそ、初めて意味あるものとなります。

★『天界の秘義』の原典訳は? との声をときどき耳にします。大著の場合、その翻訳は登山家がヒマラヤ登攀を志すようなもので、体力、資金、装備、道順その他を綿密に計算し、初めて動けるものとなります。英国のスエデンボルグ協会発行のエリオット訳は、第一巻が1983年に出て、すでに15年を経過しました。12巻の完結まであと一息ですが、十数年かかっています。原典和訳にも十数年かかるとして、それまで体力、精神力、記憶力がもつか現在考慮中です(筆者は現在68歳)。ついでながら米国のスエデンボルグ基金では、エリオット訳が完了しない中に、若い翻訳者に委託し、『天界の秘義』スタンダ−ド版計画を始めました。このようにして訳語は新鮮さを保つことになります。

上下句選

永遠を 思うサナギは 繭の中

辛口一番

アマトス
 なぜ死を恐れるようになったのでしょうか。

アガトス
   物質に埋まって、霊を窒息させたからです。

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