アルカナ通信192号


1998年10月10日発行

内容
信じる→学ぶ→分かる→愛する
46 否定的な人、肯定的な人
86 神人
新教会一口英語
もろもろのお知らせのいろいろ
上下句選
辛口一番

信じる→学ぶ→分かる→愛する

エデンボルグによる霊界経験のメモにあるように、"Nunc Licet (今こそ許されている)"とは、「今こそ理性を使って、信仰の秘義に入っていけるようになった」(真のキリスト教508−3)という意味ですが、どの程度まで入っていけるかは、人によって随分違ってきます。

作を信じている程度:たとえば、ある人をウソつきだと誤って思い込んだとすると、その人からは何も学べません。その人が何を言っても半信半疑です。言葉の端々にウソが隠されていると思うことで、その人から学ぶことは何もないでしょう。子供が親から学ぶのは、親を信じているからです。小学校で児童が学ぶのは、先生の言うことを信じているからです。電車に乗るときは電車の運転手を信じ、レストランで昼食をとるときは、シェフや従業員を信じています。信じることは、学ぶための大前提です。  の目が清められている程度: 主は「心の清い人は幸いである。神を見るからである」(マタイ5・8)と言われました。ノアの時代以来、理性と意志が分離されたため、人間は堕落していても、高度の照らしを受けることがあります。ただしこれは一時的で、自分に同化せず、本物になりません。むしろ繰り返し言われていることは、わたしたちの再生が進む程度に照らされていくということです。ですから再生の努力を怠り、自己愛・世 間愛と戦わずにいると、照らされることは少なくなります。反対に自己改革を行い、生活を整え、悪を避けて、主のみ教えに従っている人には、劇的ではなくても、その日その日に必要な照らしと理解が与えられます。

に祈り求める程度: 祈りの中で主と交われば、照らされます。〈みことば〉を読んでもピンとこなかったものが、祈りのあと、ずしっと響いてくることがあります。これは人為的な思いつきとは違います。思い付きは、グッド・アイディア(よい考え)かも知れませんが、人生を変えるほど強いものではありません。しかし祈りの中で主からいただく考えは、人生を方向転換さえるほど,激烈な場合があります。主の弟子たち、使徒パウロ、スエデンボルグ、A・シュワイツア−博士、マザーテレサなど、みな劇的な変化を経験した人たちです。

は信じる程度に学び、学ぶ程度に分かり、分かる程度に、さらに信じます。ただしそのような循環運動を促進させるのは、愛です。再生の初期の段階では、信仰から愛(真理から善)への過程ですが、再生が進んでくると、愛から信仰(善から真理)への過程になるというのも同じです。車を発進させるときはバッテリーを使用し、発進したあとは自家発電で充電するのと似ています。

たしたちが聖なる著作を〈みことば〉と信じることによって、どれほど多くのことを学ぶでしょう。信じるから学びます。学んだ程度に、分かります。そして分かった程度に、信じる思いが強まります。わたしたちが聖なる著作を神の〈みことば〉とするのは、 そのためです。

46否定的な人、肯定的な人

聖書についての新エルサレムの教義(四教義集)

天界の秘義6479より   否定的な人の場合、つまりは否定があまねく支配的な人の場合、懐疑は取り除かれません。そのような人にとって、一つでも躓きがあれば、ちょうど目に砂が一粒はいると閉じてしまうようです。たった一粒の小さな砂であっても、それで視界がすべて失われます。ところが肯定的な人の場合、つまり肯定があまねく支配的である人は、真理に反する虚像があって躓きが生じても、理解できない段階なら、それを一応棚上げしておいて、自分はまだ理解できないと言います。とは言え、真理を信仰する面では、そのまま変わりません。

天界の秘義6383より   否定で始める人は、けっして信じません。かれらには否定的原理があまねく支配的で、それが支配的になると、拒みを促す科学的知識が流れ集められますが、反面、確信させるようなものは集めないのです。確信させるようなものは捨て去られるか、否定的な科学知に利用できるよう、こじつけられるかします。

霊界日記2727より    主が語られた諸真理や、主についての諸真理は、理性で透視できなくても信じるはずです。理性で透視できないという理由で否定する人は、種から樹木ができ、卵から動物が生まれるのを否定するような感じです。・・・したがって見えなければ信じられないと言う人は、どんな信仰をもっているかお分かりでしょう。現在ではとりわけ、この世の学者のあいだでは、これが普通になっているようです。

上は残念ながら、現代人、とくにわれわれ同胞の、宗教にたいする懐疑をあらわします。それも、見えないもの、とくに神の存在にたいする懐疑です。唯一なる創造主の存在は、理性で見通すことはできませんが、上の〈みことば〉にもあるように、肯定的な原理で生きている人には見えてきます。肯定的原理とは、まず自分の存在を感謝して受けることから始まります。自分の〈いのち〉、肉体的・精神的環境、才能と能力、衣食住にたいする感謝から、肯定的精神が養われます。次に周りの隣人、社会、国家、被造物にたいする愛と感謝を覚えるように努力し、よきもの、美しきもの、真実なものに目を向けることによって得られます。

  よくテレビなどで、災害にあった人が、「でも生命が助かっただけでも有難いです」と言っていますが、これは肯定的精神から出た麗しい言葉です。ハンディを背負う人たちが、自分の足りない部分より、残っている健全な部分に目を置いて、感謝していると聞くことがありますが、すばらしいことです。「ない部分に不平を言うより、ある部分に感謝せよ」といわれていますが、「他人のある部分と自分のない部分」を比べて不平を言うより、「自分のある部分」を感謝するほうが、健全ではないでしょうか。

  教会についてもそれが言えます。集会所が欲しい、賛美歌や祈り本が欲しい、牧師と教会堂が欲しいは当然ですが、ただ生まれたての赤ん坊から稼ぎを要求しているようで、これからみんなで協力してやらねばなりません。著作についても、膨大過ぎる、理論が多くて難しい、いい和訳がほしい、などもそうですが、易しいところ、分かりやすいところ、教えられるところも沢山あるはずですから、そこから吸収し学んでいきたいものです。

主のご生涯をかえりみると、すべてが肯定的です。貧しい人、病める人、ハンセン氏病者、身体障害者、子供たち、教養のない弟子たちすべてに、愛と理解を示しました。7度を70倍するまで人を許すと教えられるほど、肯定的でした。人間の弱さ、欠点、醜さ、不信、悪への傾向すべてを包まれました。 肯定的に生きている人は、光の中を歩んでいるようなものです。わずかな闇も、光の中では無力です。真理に反する虚像があり躓きが生じた場合でも、自分がそれを理解できないのは自分のセイと、それを一応棚上げするだけで、理解できる時機を待ちます。それにたいし、否定的な人は、即断を下し、懐疑の闇に包まれ、否定する目的で、眼をつむりますから、全部が見えなくなります。

作を読むわたしたちも、あちこちで同じような経験をするのではないでしょうか。現代の生活経験に合わないような部分、荒唐無稽に感じられる霊界メモ、歯が立たないほど抽象的な論理の展開などです。  でも福音書にある奇跡物語も、現代人にとって信じにくい箇所ですし、新約聖書に含まれるパウロ、ペテロ、ヤコブの手紙などにも、難解な個所がたくさんあります。しかしキリスト信者はこれをみな、〈みことば〉として崇敬しています。わたしたち新教会の信者が、スエデンボルグの著作を肯定的にみて、これを〈みことば〉にしても、不思議ではありません。

86 神人

ラ  Divinum Humanum
英  Divine Human

   
   「神人」とは、イエス・キリストご自身のことですが、初代キリスト教で、これについて解釈がいろいろあり、異端が台頭して神学上の論争を巻き起こしました。論点の中心は、キリストの神性と人性との関係です。3世紀から5世紀にかけて、アリウス派やネストリウス派は、神性よりも人性を強調しましたが、グノーシス派やユーティケス派は、人性よりも神性を強調しました。またアポリナーリスは、キリストの肉体と霊魂は人間であり、理性を含む霊は、神であると言いました。

 新教会の教義では、初期キリスト教のアタナシオス信条をある程度継承しながらも、聖書の啓示を正しく解釈する神人説を示します。ただ全面的でないのは、アタナシオス信条では、「三人格の唯一神」という矛盾を含んでいるためです。新教会の教義では、「一人格の三一性 Trinum unius Personae」を示します(主の教義58)。父と子と聖霊は、それぞれ別人格でなく、同一の神の三つの本質的なものtria essentialia と解釈します。 父は神性を表します。永遠・無限・全知・全能なる神です。父は起源としての神性 Divinum a quoです。子はそれから出る神人性 Divinum Humanuminde、聖霊とは、発出する神性 Divinum Procedensです(真のキリスト教172(3))。そして父である神性は、受肉にあたって、無限永遠なる神の霊魂となってマリヤの胎内に宿り、神人であるイエス・キリストとして、お生まれになりました。それはちょうど、人が生まれるとき、父親の精子が母親の胎内に入って、その卵子に結合し受精妊娠するように、神ご自身が精子になられ、マリヤの卵子に結合され、受肉を実現されたことになります。ですからイエス・キリストは、神みずから人間の肉体をとられたことになります。

 ただしマリヤに由来する人間性は、遺伝悪によって地獄の影響下にあり ます。主は一生にわたる試練・誘惑に打ち勝ち、マリヤ的人間性を徐々に神化されました。最後は十字架の死と復活によって、父である神本来の人間性に、完全にとって替わられました。復活後は、旧来の人間性が完全に消滅し、神的人間性になりました。復活後墓が空になっていたとはそのことです(ルカ24・3)。

 主の人間性の栄化とは、マリヤ的人間性を脱却し、それをことごとく神化されたことを意味します。主の神人性は、天にも地にもいっさいの権能を備え(マタイ28・18)、現在もなお天界にあって、あらゆる善と真理の源です。主が受肉され、マリヤの人間性を浄化脱却された過程は、われわれの再生過程の模範的表象です。人はそれぞれ遺伝悪から徐々に脱却していきますが、それには主の神人性からの流入による助けがあるからです。人間自身の力では地獄の力には対抗できませんが、みずからの力でするかのように踏み切るとき、主の神人性のみ助けによって、遺伝悪と地獄の力から脱却し、再生していきます。参考箇所  『天界の秘義』3061(2)、10125(3)、『真のキリスト教』109、『啓示による黙示録』294(4)、『黙示録講解』135。

 新教会一口英語(3)

True or Real?   ほんとう と 実際
若い女性ちの話の中に、『ウソー?!』というのが頻繁に出てくるので驚いたという日本語のわかる外人教師がいます。かれは心の中で翻訳して、"It's a lie!" と同じだと思ったのでしょう。英語にすると、相手にたいする侮辱的な捨て言葉ですから、外人教師が驚くのも無理はありません。日本語でも『あなたは嘘つきですよ』というと深刻です。ただし会話での『ウソー!』は、ずっと軽く、多少の愛嬌さえ感じさせます。しかしこれは日本語の誤用という他ありません。

   嘘 lie とは、「聞き手をだます目的で、誤った言葉を使用すること」ですが、その反対が本当 true であり、真理 truth です。これは「聞き手に真理を伝えるための正しい言葉のこと」ですが、さらに true には日本語でいう「正真正銘」という意味、truth には「本物」という意味もあります。 たとえば、"The Lord is truly Divine and truly human"(主は本当に神であり人である)の truly には「徹頭徹尾」とか「首尾一貫して」という強い意味が含まれています。英語では、true も lie もよく使われる単語ですが、それなりに宗教的・道徳的に、重要な意味合いを持ちますから注意を要します。 それにたいして、"Really?" の「本当?」は、「嘘対本当」の関係での「本当」ではありません。むしろ「実際に」と言ったほうがいいでしょう。語源はラテン語の "re" ですが、これは単なる「もの」thing を意味します。ですから話し手が事実を語っているという前提で、"Really!" が出てきます。日本語は曖昧だと言いますが、曖昧な言語ほど、ウソをつきやすい言語にもなりますから要注意です。また日本語を簡明直裁に使用することも、やればできますが、いかがでしょう。

結論: "I will show you my photos" にたいし、「本当!」と言いたければ、 "Is that true!"でなく、"Really!"がいい。

もろもろの お知らせの いろいろ

☆ 先月号でお知らせしましたが、『著作の自己証言』は、 10月末入荷します。来月月10日発行の『アルカナ通信』発送のさい、贈呈用として同封いたしますから、どうぞ、ご期待ください。大阪の川原春雄さんに校正をお願いし、予定以上に早く出版の運びが整い、感謝しております。

★ 会員名簿を同封いたしました。アルカナ出版のために、ご夫婦を含めいつも百名近い方々の支援をいただいています。ご援助にたいし、主が豊かに報いてくださると信じます。ささやかなお礼を兼ね、アルカナ出版から発行する今後の新刊書は、会員の方々には、もれなく贈呈することにいたしました。

○ 『祈りのとき』の残部が、あと僅かになりました。再版を考えましたが、その代わりに、新しい小冊子を計画しています。それは『著作の自己証言』に因んで、聖なる著作の全巻から、瞑想の種に相応しい箇所を選び出し、それを「祈りとメディテーション」のためのポケット・ブックにしたいと思います。またそれには英文を入れ、対訳式にするとどうでしょう。聖なる著作の中、現在までお読みの箇所で、格別なインスピレ−ションをいただいた箇所がありましたら、おついでの折お知らせください。

●パソコンをお持ちの方へ! ブリンアシンから、『NewSearch98 』の完成と、申込み受付の知らせが来ました。

申込先:
Stairs−Theological School,
  P.O.Box 717, Bryn Athyn,     Pa. l9009, U. S. A.
   価格:25ドル。NewSearch ユーザーの方には10ドル。
システム:Window95,98,or Window NT 8ラムSpace:150MBまたはCDドライブ。 詳しい内容については、簡単なパンフがありますから、ご希望の方は、留守番電話かFaxでアルカナ出版までお知らせください。コピーしてお送りいたします。

上下句選

一冊の 本との出会いで 人変わる

辛口一番

アマトス  どうしたら人生が変わるでしょうか。
アガトス  本心で変わりたいと思ったら、変わるでしょう。

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