アルカナ通信187号


1998年5月10日発行

主の依怙贔屓(えこひいき)

は信仰が幼いあいだ、時に主から贔屓されていると思ってしまいます。「わたしは主から格別愛されている」と思っても、間違いではありませんが、「主の愛には、依怙贔屓的なモノがある」と思うと、間違います。

はご存世当時、ヨハネを特に愛されたと記されています。ペテロ、ヨハネ、ヤコブは、十二弟子の中でも選ばれた三人でした。弟子たちに対して主は、「あなた方がわたしを選んだのではなく、わたしがあなた方を選び、そしてあなた方を立てた」(ヨハネ15:16)と言われます。さて、これは依怙贔屓ではないでしょうか。

怙贔屓とは、自分の好みに従って、特定の人に寵愛を注ぐことです。族長やコブは末子ベンヤミンを格別愛していましたが、これはどの国、民族、両親にもあり得ることです。そうでなくても学校などでは、教師が特定の子どもに好意を寄せ寵愛を注ぐことはよくあります。主も、創造と摂理に際し、ある子どもはよい教育環境に生まれさせ、彼らには才能があり、よい教育を受け、順調に社会に受け入れられます。他方、ある子どもは戦火、飢餓の世界に生まれ、苦しい生活を余儀なくされます。主は前者を愛し、後者を愛しておられないからでしょうか。

この世が幸福を味わうためにだけ存在するのなら、そうかもしれません。 しかしこの世が存在するのは、天界にいけるよう、愛の訓練をするところ であれば、違ってきます。人生は「愛の学校」で、どんな環境でも「心を 尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛する」こと で、現世の幸福を味わうためでないとしたら?

主は全人類を一人一人無限に愛しておられます。だからご自分を愛するよ う命令されます。依怙贔屓とは、あくまで自己中心的エゴの愛で、お気に 入り的、気分的なものです。しかし愛は気分ではなく、〈いのち〉にたい する無限の評価から生まれる没我的自己献身で、これを新約聖書では「ア ガペ」という言葉で表します。

 主のお選びは、依怙贔屓ではなく、無限の愛から生まれ、無限の英知に 従って計画されたご配慮の一環です。自己中心的・依怙贔屓的な愛が多い この世では、主の無限の愛の性格はなかなか理解できず、主から依怙贔屓 されていると考えたとしても、そんなに害はありませんが、ただ贔屓され ている自分が、他の人より優れたものと錯覚すると間違います。信仰があ るのは、自分の手柄ではなく、主の無限のお哀れみからでたもので、主の 全人類にたいする無限の愛が波及していくための手順として、自分が選ば れています。

 とりわけ新教会に選ばれたわたしたちは、主の無限の愛のパイプ役です 。主の愛には、依怙贔屓、気分的取捨選択がないことは、教義の教えると ころです。「人はみな天界に行くために生まれてきた」「悔い改めて自己 改革をしなければ、だれ一人再生が始まらないし、天界にも行かれない」 「エゴは悪そのものであって、天使にもエゴがある」「他宗教の人でも唯 一の神をあがめ悪を避ければ救われる」などの教義は、新教会独特です。

 これこそ無限・平等な愛に基づく主の教えです。依怙贔屓は、有限で気 分的な自己愛です。主の愛は無限だからこそ、人類にたいし平等に波及し ていきます。 すばらしいみ教えではないでしょうか。

41普遍教会と特殊教会

聖書についての新エルサレムの教義(四教義集)

105・ 主のみ前では、全天界はひとりの人間 unus Homo のよ うです。それは教会についても言えます。・・・ その人間 Homo ( 訳注・「巨大人 Maximus Homo 」とも言う)の中に、〈みことば〉 が読まれ、主が知られる教会があります。それはちょうど心臓と肺臓のよ うです。天的王国は心臓のようであり、霊的王国は肺臓のようです。人体 の〈いのち〉の源でもあるこの二つの源泉から、それ以外のすべての四肢 と内臓が出来上がり、生きています。それと同じように、地上の人たちの 中で宗教心があり、唯一の神を礼拝され、善良な生活を送り、それによっ て巨大人の中にいる人たちは、心臓や肺臓を包む胸部の外にあって、四肢 や内臓を構成しながらも、〈みことば〉をとおして主と天界が教会と結ば れて、存続し生きていきます。

 教会には〈みことば〉がありますが、それは相対的に少数の人たちのも とにしかありません。それ以外の人たちにたいし、天界を通し、主からの 〈いのち〉が注がれています。それは身体全体の四肢・内臓が、心臓と肺 臓から〈いのち〉を受けているようなものです。そこには同様の交流が存 在しています。だからこそ、〈みことば〉を読むキリスト教信者は、巨大 人の胸部を形成しています。かれら全体の構成員の中心です。またその回 りには教皇派の人たちがおり、その回りには、主を最高の預言者、神の子 として認めているマホメット教徒がおり、その後ろにアフリカ人がおり、 一番の周辺地域には、アフリカやインドにいる諸民族、諸国民がいます。 ・・・

106・ キリスト信者たちがいる中央部には、〈みことば〉があり、最 大の光があります。その光は天界にあって、天界の太陽である主から発す る神の真理です。〈みことば〉が光ですから、〈みことば〉をもっている 人たちがいるところに、最大の光があります。光はそこが中心になって、 最終末端部まで周辺地域全土にひろがっていきます。それで教会外の諸民 族、諸国民にも、〈みことば〉をとおして照らしがあります。・・・

  巨大人とは何でしょう。蟻塚が蟻の格好をしているような意味で、巨大人 を考えると間違います。宇宙飛行士が、宇宙からみた地球が生き物のよう に見えるのとやや似ています。地球には五十数億の人類が生存し、その生 存に必要なあらゆる物質、植物、動物が生息存在しており、山・川、海・ 陸、雲・風、気流と潮流が渦巻いているのを想像してみると、地球全体が 一つの生き物として見えてこないでしょうか。暗黒の宇宙空間にくっきり と球状の天体が輝いているとしたら、素晴らしい生物として意識してしま います。

 それと同様、人間は、一人一人が小宇宙として、神の創造の傑作、天界 の雛型、神の像として造られています。それがまた一つの人間です。それ を巨大人と言っています。天界と霊界と地上全体を、主がご覧になるよう な眼で眺めてみるとき、人間としての生き物、運命共同体的有機体、キリ ストの体としての天界教会全体が、浮き彫りにされます。

 主は光と熱、真理と善、信仰と愛の源泉ですが、その波及には一定のル ールがあり、人体の仕組みに似た循環が行われています。それは中心部か ら、全体と周辺部にいたる有機体的共同作業です。

 新教会員としてのわたしたちは、ときとして主のご配慮に不満を感じる ことがあります。それは新教会の成長の遅さ、小グループの無力さ、世俗 世界にある悪の力の巨大さ、さらにみずからに潜む遺伝悪のしぶとさです 。それでも〈みことば〉を学び、それにしたがって生活するなら、わたし たちは天界の教会とつながっており、絶対に信頼できる主のみ手の中にあ ります。

エリシャが悪王アハブとその王妃イゼベルの迫害に疲れ果て死を望んだ 時、主は「わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアル に膝をかがめず、それに口づけしない者である」(列王紀上19:18) と言われました。 無力に疲れて、自分が喜劇役者のように思えたりする ことがあっても、それは地獄の流入であり、錯覚です。わたしたちの周囲 にはわたしたちの知らない七千人の味方がいます。それはクリスチャンか 、カトリックか、仏教徒か、その他の他宗教の人か、あるいは無宗教を装 っている人かもしれませんが、実態は主の普遍教会に属しています。かれ らは良心に従って悪を避け、善を実践しています。われわれ以上に、知れ る範囲の真理にたいし忠実かもしれません。隣人愛はわたしたちを凌駕し ます。たとえ新教会に属していなくても、たとえ天界の教義を知らなくて も、かれらはわれわれの味方なのです。

反面、天界の教義を知っても、再生の努力を怠り、悔い改めようとしない 人よりは、かれらのほうが、われわれに近い関係にあります。 それ以上 に味方なのは、霊界と天界の新教会です。わたしたちは人間関係というと 、すぐ現世だけのことを考え、あの人この人との関係だけを考慮にいれま すが、本物の関係は、主を中心にした天界と教会の人間関係なのです。

81 十戒

   
ラ Decalogus  英 Decalogue

十戒を語源的にみると、ギリシャ語の deca は10の数のことで 、logos は言葉ですから、「十の言葉」という意味です。これはユ ダヤ教会における〈みことば〉の最初の実りです。内的意味からいうと、 数の 10 は完全を表しますから、十戒は、〈みことば〉の完全性を表 します。

 荒野でイスラエルの民が長旅を続けていたあいだ、モーセはシナイ山で 、エホバから十戒をたまわります。二枚の石板に刻み込まれた掟は、エホ バご自身によって刻まれたものでした。第一戒「エホバ以外を神としては ならない」、第二戒「神の名を汚してはならない」、第三戒「安息日を守 れ」、第四戒「両親を敬え」、第五戒「盗むな」、第六戒「姦淫するな」 、第七戒「殺すな」、第八戒「偽証するな」、第九戒「隣人の家のものを 欲しがるな」、第十戒「隣人の妻と僕、家畜をほしがるな」です。いずれ も否定命令が多いのは、悪を避けることが、善をすることに先行するから です。  第一戒、第二戒、第三戒は神への愛にかかわり、第五戒から第十戒まで は、隣人愛にかかわります。そして第四戒の「両親を敬え」は、神への愛 と隣人愛の間で、仲介をなすものです。すなわち肉の両親は、霊の両親つ まりは天の父を表すと同時に、最も近い隣人です。

 ギリシャの哲人ソクラテスには、一人の賢明な守護霊がついていて、善 いことをするように命じないで、悪いことをしないように命じたそうです 。これは一見消極的に聞こえますが、その守護霊は、新教会の教義にある ように、悪いことをしないこと、すなわち悪を避けることが、隣人愛の始 まりであることを知っていたようです。おそらくは天界のある社会につな がっていた善霊だったと思われます。

 善を命じるのは、善を強制することになり、本人の自由をそこなうだけ でなく、悪を避けるという最も大切な点を疎かにさせ、ひいては善をする ことで功績感を煽る恐れもあります。それに引きかえ、悪を避けることは 、主と天界より善の流入をいただくための不可欠条件で、本人の悪い意志 を矯正し、善と真理の流入を受ける器自身を清めます。

 十戒の一つでも、これを神の法として守る人には、天界の天使との交流 がひらけ、それにともなって十戒の他の戒めにたいしても敏感になり、こ れを罪として避けるようになります。そして万が一、それに反することを して罪を犯した場合、心から悔い改めて、やがて悪から足を洗うようにな ります。 それに反して、十戒の一つでもないがしろにする人は、他の戒 めもないがしろにするようになります。なぜならどれ一つをとっても、そ れは神の法であり、あらゆる宗教、道徳、人道の基礎だからです。  黙示録15・5  にある「その後、わたしが見ていると、天にある証 しの幕屋の聖所がひらかれた」とは、天界の内奥のことです。そこには主 が、〈みことば〉と十戒に宿る聖性の中に、いらっしゃいます。なぜなら 、十戒は〈みことば〉中の〈みことば〉だからです。参考箇所   『真 のキリスト教』 283、 435、 『黙示録講解』1026、  1028、 『啓示された黙示録』 669。

もろもろの お知らせの いろいろ

☆バス司教ご夫妻の第二回目の訪日日程が近づいています。永遠のみ国に いたるチ−ムづくりの訪日です。少数ですが、全世界の新教会会員が協力 して祈り、励まし合い、助け合って役立ちに専心すれば、この世はもっと 住みやすい天界への橋渡しになると信じます。  7月23日(木)から30日(木)までのー週間滞在されます。そのあ いだの行事日程は、会員の林道夫さんのほうから通知があったはずです。 まだの方はご連絡ください。  電話(Fax )043−295−5417 (クエリテ出版 林道夫)  礼拝、聖餐式、洗礼式、講演、研修会、個人面談、ピクニックなど、盛 り沢山の計画が用意されています。

★ 平均寿命が伸びたとは言え、わたしたちは毎日、この世での滞在期間 を一日分短くしております。という思いから、筆者は時間を無駄にしない ためと計画をねり過ぎて、少々体調をくずしました。が、現在は回復して おります。ほったらかしの庭が芝なのか草原なのか分からないほど荒れて きたので手入れをし、狭い空間にキュウリ、トマト、ナスの苗を植えまし た。荒れた庭、心の荒れを見る思い

○ 新教会教義を学べば、「これはただごとではない」と感じませんか。 それを筆舌に移すことは不可能に近いことですが、それを可能にしたスエ デンボルグは、たしかに主の器です。語れ、神の〈みことば〉、黙れ、人のたわごと

● コピー機(Xerox Able 3300 )、およびワープロ(Tosword JW3070)とプリンター(Toshiba L400)の両方とも、それぞれ97 年2月、96年9月に、5年リースが終了して支出が減ったのをさいわい 、パソコン用のカラ−・プリンターを一台(60万円程度)購入する ことにしました。このアルカナ通信が色付きになる日も近いと思います。 ご期待ください。みえ美しきかな これも眼への役立ちか

辛口一番

アマトス 主の愛が分かりません。
アガトス あなたが主を呪っても、 主はあなたの心臓を動かして くださっています。

上下句選

天与の光一筋で、 錯覚、誤解、偏見、曲解、 見当違いの昔かな

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