対話12.聖書記者は神の名を変えている |
クリスチャン:
エホバの証人はエホバというみ名が大切だと考えていますが、霊感を受けたヘブライ語聖書の著者が、エホバを神という言葉に置き換えてしまったことをご存じですか?
エホバの証人:
そんなことは考えられません。
クリスチャン:
詩篇53篇と詩篇14篇とを比べて見ましょう。新世界訳ではなく、新改訳で読んでみます。まず、詩篇14篇です。[愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。(1節)
主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。(2節)
彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。(3節)
不法を行なう者らはだれも知らないのか。彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、主を呼び求めようとはしない。(4節)
見よ。彼らが、いかに恐れたかを。神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。(5節)
おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。しかし、主が彼の避け所である。(6節)
ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が、とりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。(7節)]
クリスチャン:
次に詩篇53篇を読んでみます。[愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。(1節)
神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。(2節)
彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。(3節)
不法を行なう者らは知らないのか。彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、神を呼び求めようとはしない。(4節)
見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。あなたは彼らをはずかしめた。それは神が彼らを捨てられたからだ。(5節)
ああ、イスラエルの救いが、シオンから来るように。神がとりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。(6節)]
クリスチャン:
両者を比較してみると、内容はほとんど同じです。しかしよく見ると、詩篇14篇の2,5,6,7節に出てくる「主」(エホバ)は、詩篇53篇の2,4,5,6節において「神」(エロヒーム)に置き換えられています。その結果、53篇の方はエホバがなくなってしまっています。
エホバの証人:
新世界訳ではそうなっていません。読んでみましょうか。(ここで読者は必ず新世界訳の詩篇14篇と53篇を読んでください。)
クリスチャン:
びっくりしました。詩篇14篇にはエロヒームが3回出てきたのに、みなエホバに変わっていますね。それに53篇ではもともとすべてのみ名がエロヒームだったのに、5箇所でエホバに直し、2節と5節の2箇所だけはエロヒームを残しているんですね。
エホバの証人:
参照資料付き聖書1754頁は、「ギンス、368,369頁によると、ユダヤ人のソフェリムは幾つかの箇所で四文字語をエロヒームという語に置き換えました。わたしたちは8か所、すなわち詩篇14:1、2、5、53:1、2、4、5、6で元の読み方を復元し、それをエホバと訳出しました」と説明しています。
クリスチャン:
そのように訳し直したヘブライ語聖書にはじめて出会いました。どうしてこれらの8箇所で、エロヒームをエホバにしたのでしょうか。
エホバの証人:
それぞれの聖書箇所の下に注があり、説明されています。詩篇14章1、2、5節、詩篇53章1、5節のそれぞれの注には、「書写の際YHWHがエロヒームに変えられた8箇所の一つ。付録1ロ参照」とあります。
クリスチャン:
それでは説明になりません。付録1ロの解説では、同じことが繰り返されているだけで、変更された理由は述べられていませんので。
エホバの証人:
詩篇53:2ではタルグム、53:4ではタルグムといくつかのヘブライ語写本、53:6では、タルグム、七十人訳、シリヤ語、多くのヘブライ語写本がエホバとなっていると説明しています。
クリスチャン:
タルグム、七十人訳、シリヤ語訳などは、ヘブライ語聖書が正典として確立されてからのものです。それらに基づいて聖書の語句を変えてしまうことは聖書を勝手に変更してしまうことを意味します。それは申命記4章2節の命令「あなた方は、わたしが命じている言葉に付け加えてはならず、それから取り去ってもならない」に違反することです。
エホバの証人:
そうでしょうか。
クリスチャン:
詩篇53篇ではなぜ2箇所だけは、エロヒームのままとし、エホバに変えなかったのでしょうか。いっそすべてをエホバに変えたらよいと思うのですが。
エホバの証人:
自分勝手にしてはいけないと思います。
クリスチャン:
他の箇所も自分勝手にしていることに気づいてくださるとよいのですが。ところで、詩篇14篇は個人的な信仰の告白として、より古い年代に作られたものです。一方、詩篇53篇の方は、個人的だった詩を公同の信仰告白に合うよう直されたものです。
エホバの証人:
それは初耳です。
クリスチャン:
もしこのように、エホバを神に置き換えることを霊感を受けた聖書記者がしていたとしたら、ずいぶん考えさせられますね。
エホバの証人:
霊感を受けた聖書記者が書き換えたのではなく、後のソフェリム(書士)が置き換えたのではないでしょうか。
クリスチャン:
写本の証拠からはそのようには言えません。もし、聖書記者が状況に応じて神のみ名を変える必要があったとしたなら、ここから大変大きな教訓を得ることができると思います。
エホバの証人:
どういうことでしょうか。
クリスチャン:
神のみ名は状況に応じて使い分けてよい、否、使い分けるべきだ、ということです。イエスの弟子たちがクリスチャン・ギリシャ語聖書を記したとき、四文字語が主と訳されていた七十人訳を引用したとしても、それは背教的なことではないということです。むしろ、福音が異邦人世界に広く伝えられるための方法だったのです。 「(目次へ戻る)
対話13.新世界訳に見られる信仰は不十分 |
クリスチャン:
エホバというみ名を使うという点で、エホバの証人の信仰はイエスやイエスの弟子たちの信仰と同じであるということができるでしょうか。
エホバの証人:
むろんエホバの証人はイエスとその弟子に忠実に学んでいる者たちです。
クリスチャン:
聖書を読む度に、霊感を受けた聖書の記者たちは今日のエホバの証人のような信仰をもっていたのだろうか、という疑問が湧いてくるのです。
エホバの証人:
どういう意味でしょうか。
クリスチャン:
クリスチャン・ギリシャ語聖書の原典には、本来一度もエホバという神の名前は出てきません。でも今は百歩譲って、新世界訳の翻訳委員会の推測が正しく、もともとの原典には237箇所においてエホバという名前が含まれていたとして議論を進めることにしましょう。
エホバの証人:
私たちは237箇所にエホバが使われていたと信じていますけれど。
クリスチャン:
例えそうだったとしても、イエスとその弟子たちの信仰は、エホバ神の名前の使用に関して、今日のエホバの証人が抱いているような信仰とは大部違うのではないでしょうか。
エホバの証人:
何を言いたいのかよく分かりません。
クリスチャン:
では、ヘブライ語聖書には、何回ぐらいエホバという名前が出てきますか?
エホバの証人:
参照資料付き聖書の1753頁には、6828回と言われています。
クリスチャン:
では、クリスチャン・ギリシャ語聖書の分量は、ヘブライ語聖書のどれぐらいになりますか。
エホバの証人:
ページ数ですか?
クリスチャン:
そうです。
エホバの証人:
多分三分の一ぐらいでしょうか。
クリスチャン:
もしヘブライ語聖書の著者たちと同じぐらいエホバ神を崇めている人々がクリスチャン・ギリシャ語聖書を執筆したと仮定するなら、クリスチャン・ギリシャ語聖書には何回ぐらい四文字語が出てくることを期待してよいでしょうか。
エホバの証人:
6828回の三分の一ですから、およそ2300回ぐらいでしょうか?
クリスチャン:
では、新世界訳の翻訳委員会は、何箇所でエホバというお名前を入れましたか?
エホバの証人:
237箇所です。
クリスチャン:
すると、期待される十分の一にすぎませんね。
エホバの証人:
そうですね。
クリスチャン:
しかも、その大半はヘブライ語聖書からの引用ですよ。とすると、普段はほとんど使わなかったということになりませんか。今日のエホバの証人のようにエホバを使っていたとしたら、数万回出てきてもよいのではないかな、と思うのですが。
エホバの証人:
そのようなことは考えてもみませんでした。
クリスチャン:
エホバのみ名を復元したとされる新世界訳においてさえ、エホバのみ名が一度も出てこない書物があるのをご存じですか。
エホバの証人:
どれでしょうか。
クリスチャン:
ピリピ人への手紙、テモテへの手紙第一、テトスへの手紙、ピレモンへの手紙、3つのヨハネの手紙です。
エホバの証人:
そうでしたか。
クリスチャン:
エホバのみ名を使わなければ、エホバを崇めていないと考えるエホバの証人にとっては、このような手紙が存在すること自体おかしなことに写りませんか。
エホバの証人:
どういう意味でしょうか?
クリスチャン:
今日のエホバの証人が仲間のエホバの証人に便せん10枚以上の手紙を書いたとします。そんなとき、ただの一言もエホバというみ名にふれないということは考えられるでしょうか。
エホバの証人:
それはあると思います。
クリスチャン:
そうですか。では統治体から王国会館に送られてくる手紙についてはどうでしょうか。一度もエホバのみ名が使われていない手紙など珍しいと思うんですが。
エホバの証人:
どうでしょうか。調べてきます。
クリスチャン:
ものみの塔によれば、クリスチャン・ギリシャ語聖書はエホバを信じ、エホバを愛している霊感を受けた聖書記者が、エホバを愛し、エホバの名前を使わねば神を敬ってはいないと信じる144,000人に宛てられた書物です。そのような人たちの間で行き交わされている手紙において、そのはじめの挨拶にも、終わりの祝福の祈りにも、会衆のさまざまな問題を解決するために与えられる指針の中にも、一度もエホバのみ名が使われていないなんて、不自然だと思いませんか?
エホバの証人:
...
クリスチャン:
エホバの証人は、神を「神」、「父」、「天の父」と呼ぶだけでは不十分であると考えているようですね。
エホバの証人:
エホバの証人は普通、「私たちの神、エホバ」、「エホバ」と祈り、エホバのみ名を使います。それがエホバ神の求めておられることだからです。
クリスチャン:
エホバの証人は神に対し「主」という言葉を使いますか。私たちクリスチャンの間ではとてもよく使われるのですが。
エホバの証人:
そうですね。エホバの証人はあまり言いませんね。
クリスチャン:
主という言葉は新世界訳においてさえ500回近く使われています。エホバが237回ですから倍以上の言及ですね。そのような信仰ははたして、クリスチャン・ギリシャ語聖書の中に見られる信仰と言えるでしょうか。
エホバの証人:
そのことだけ取り上げられても困りますけど。
クリスチャン:
イエスに関しては、祈りの終わりの時に「イエスのお名前をとおして」と付け加えられる以外、ほとんど語られないように思われますが?
エホバの証人:
そうだと思います。イエスは神の子ですから、エホバ神の方が重要です。
クリスチャン:
クリスチャン・ギリシャ語聖書においては、イエスは主と告白され、信仰の対象として大変重要です。現在のエホバの証人の信仰におけるイエスの位置とはあまりに違うように見えます。
エホバの証人:
そうでしょうか。
クリスチャン:
そのような問題意識をもって聖書を一度通読してみてくださいませんか。
エホバの証人:
読んでみたいと思います。 「(目次へ戻る)
対話14.初期の頃は四文字語を重視していない |
クリスチャン:
ものみの塔が他のキリスト教会と違う大きな点は何でしょうか。
エホバの証人:
たくさんあります。
クリスチャン:
エホバのみ名を使うことでしょうか。
エホバの証人:
それも一つです。
クリスチャン:
ものみの塔はその歴史のはじめからエホバという神の名を重要視していたわけではないことをご存じですか?
エホバの証人:
どこからそんなことが言えるのですか。
クリスチャン:
ものみの塔では、1919年頃、イエスが他のすべてのキリスト教会を見回し、ものみの塔を「思慮深い忠実な奴隷」として選ばれたと主張していますね。
エホバの証人:
そうです。
クリスチャン:
でもその頃のものみの塔は、エホバというみ名を特別扱いしていませんでした。
エホバの証人:
そのような証拠はどこにあるのでしょうか。
クリスチャン:
例えば、1919年4月15日号の『ものみの塔』誌を見てください。そこには、エホバという名前は一度出てくるのみです。最新の『ものみの塔』誌から数えてみますとエホバは80回以上も出てきます。
エホバの証人:
そんな古い話を持ち出されても困ります。たまたまエホバについて言及していないからといって、エホバを重要視していなかったことにはならないと思います。今、どうしているかということが大切です。
クリスチャン:
たまたまの記録を持ち出しているわけではありません。ものみの塔のグループが「思慮深い忠実な奴隷」として選ばれた 1919年の頃のことを取り上げているのです。当時エホバ神は、すべての宗教団体をお調べになり、ものみの塔だけが正しいエホバ神への信仰をもっている、と承認されたのですよね。
エホバの証人:
そうです。
クリスチャン:
もしその頃、ものみの塔のグループが神のみ名を特別重要視していなかったとすれば、エホバというみ名を使うことが、神の民かどうかを判断する基準ではなかったはずですね。
エホバの証人:
エホバの証人が神の民かどうかを判断する基準はそのこと一つだけではありませんでした。エホバは、その時以降の私たちの組織がどのように成長していくかをも見越して判断されたはずです。
クリスチャン:
ものみの塔のグループは、はじめ「国際聖書研究者同盟」と呼ばれていました。創設者のラッセルは、クリスチャンという名前以外の名をつけることは結局セクト主義に陷ると警告し、他の呼称で呼ばれることを拒否していました(『ものみの塔』誌1882年4月号、7-8頁参照)。今のエホバの証人とはずいぶん違うと思いませんか。
エホバの証人:
ラッセル兄弟がどのように教えたとしても、エホバはその時その時に必要な新しい光を与えてくださるのです。エホバの証人という名前を採用したのは、1931年の大会です。その時まではエホバというお名前はそれほど重要視されていなかったかもしれませんが、神は斬新的啓示をされる方ですから、そのことを問題にするのはおかしいと思います。
クリスチャン:
ものみの塔は、1世紀のクリスチャンたちはみ名をもって呼ばれた民であったが、3〜4世紀以降の教会はエホバというみ名を使わなくなったことが問題だった、と主張しているわけでしょう。ところが、エホバという名前は、ものみの塔の歴史の最初の半世紀においては特別な意味をもっていなかった、と分ると、それはどうでもよいことだと開き直ってしまうのです。そのような態度は正直だとは言えないと思います。
エホバの証人:
ものみの塔は、最初の半世紀においてエホバのお名前をたくさん使ってはいなかったとしても、使っていたことは事実なのですから、3世紀以降の教会と比べるのはおかしいのではないでしょうか。
クリスチャン:
別の角度から考えてみましょう。1901年に翻訳された American Standard Version という聖書の特色をご存じですか?
エホバの証人:
ヘブライ語聖書において一貫してエホバが使われた翻訳ですね。
クリスチャン:
ものみの塔はこの聖書を重要視して、1944年にはこの聖書を印刷する権利を把握しています。しかしそれでも、新世界訳が出版されるまでは、英語欽定訳聖書(King James Version)を公認聖書として使っていました。欽定訳聖書では、エホバが何度使われているかご存じですか?
エホバの証人:
4度です。
クリスチャン:
今日のものみの塔が主張するほどエホバのみ名を使うことが重要なことでしたら、ASVの訳を欽定訳の代わりに採用すべきだったと思いませんか。
エホバの証人:
聖書の選択は、エホバのみ名の問題だけではなく、訳その他全体的なことを考えた結果でしょう。また、どの訳を使うかは神の導きによって決められることで、人間がとやかく言うことではないと思います。
クリスチャン:
それはそうです。しかし、現在のエホバの証人がもっとも重要なことと考えているエホバという名前を使うことが本当に大切なことであるなら、そうした方が一貫性があったと思いますよ。
エホバの証人:
それはあなたの意見でしょう。
クリスチャン:
それはそうです。天の王国に招かれた144,000人という「思慮深い忠実な奴隷」のほとんどにとっては、エホバのみ名はそれほど重要ではなかったと考えることはとてもおかしいと思うのですが。
エホバの証人:
何を言いたいのでしょうか。
クリスチャン:
ものみの塔の初期の人々がエホバというみ名をそれほど重要視していなかったということは、今のエホバの証人と比べるとずいぶん違うということです。信仰の根幹に関わる重要なことが時代とともにくるくる変わるようでは、他の点でも当てにならないのではないかと思えてしまうのです。
エホバの証人:
そうでしょうか。
クリスチャン:
今教えていることでも、エホバ神が新しい光を与えてくださったという口実のもとに全く変えられてしまうこともあるのでしょうか。それを「新しい光」という名のもとに受け入れるというのは、正しい信仰なのでしょうか。今日まで2,000年間変わらなかった聖書の永遠の真理に信仰の土台を置くことこそ重要ではないでしょうか。 「