前書き
筆者は宗教に関して、エホバの証人の他は経験がない。また、筆者はここ岡山市内の内部のみの観察しかできておらず、全地球的規模でこのカルト教団が引き起こす数々の問題を聞いたことがあるに過ぎないことをご了承いただきたい。実際、文才のない筆者が語ることがこの組織の評価につながる訳でもない。内部告発であるならば、他に多くの文才、能力のある脱会者がいるからである。
しかしながら、ここ西日本の地方においても、関東地区と同様の観察があるということに意義を見いだし、及ばずながら小生の観察を述べようと思う。
簡略化された組織図
◎忠実で思慮深い奴隷の残りの者で構成される統治体
◎ものみの塔聖書冊子協会
◎各会衆
☆長老団(会衆の長老すべてで構成される一団)
☆長老
☆奉仕の僕
☆その他(伝道者・研究生)
上記の他、巡回監督、地域監督、ベテル奉仕者、支部委員など数々の立場が存在するが、ここ岡山の地においては、巡回監督より立場の高い人々との交わりは、エホバの証人の大会やその他、特別な場合がない限りあり得ないので、本文では、言及をしない。そして、この組織はかなりの秘密主義であることを申し添えておく。
例えば、ある人が問題に巻き込まれたとしても、その問題の対策と称する長老団の考えは、ほとんど、当人には知らされない。従って、当人は、真の意味でどのように扱われているのかが不明な点が非常に多いのである。このことは、長老団の問題対策に不備があったとしても、証拠が残らないことを意味する。自分や他の仲間が理不尽な扱いを受けたという個人的確信がいくらあったとしても、訴える手段がない。我々の情報誌である『ものみの塔』にも、長老団の決定にはとやかく言わずに従え、の指示しかないのである。不正はエホバが聖霊をもって正すのを待つように指示があるのみである。
ものみの塔の言い分をまとめると、次のようになる。
@エホバの組織も長老も間違いを犯す人間であり、いわゆる不謬ではない。
Aエホバの組織や長老の指示にはとやかく言わずに従え。
B間違いがあれば、聖霊が正す。
つまり、平信徒には語る立場がないのである。この組織の凄いところは、実際には平信徒という言葉がない。神の御前にはすべて兄弟と言い、神にお仕えする立場が違うだけだと言う。そういった上で、上下関係を強調するのである。
Bに関しては、真の神の組織かどうかの嫌疑がかけられているが、証明する手段がない。また、過去において聖霊の名において行われた理不尽な裁きは、数限りなく存在する。ものみの塔の組織も例外ではない。問題を解決するのではなく、断罪をすることに腐心する長老がいれば、事件はこじれるばかりである。
今回は、エホバの証人内部の司法システムには、これ以上、言及しないこととする。
エホバの証人と研究生との主従関係
エホバの証人は伝道で見いだした求道者を「研究生」と呼ぶ。研究生の援助者を「研究司会者」と呼ぶ。例えば、田中さんという人が研究生を見いだすと、その研究生は、「田中兄弟の研究生」と呼ばれる。また、研究生を成員に導くなら、「エホバの祝福」ということになる。
研究生と権威との関係はどうかというと、研究生は誰の研究生かで、ある程度、出世できるかどうかが決まるのである。もし、研究司会者が長老であるなら、「何々兄弟の研究生」という言葉に権威が発生する。第一に、長老であるなら、有名である。第二に、長老なら組織に通じている。その長老から学ぶなら、組織に近い立場が得られる。露骨な長老なら、あからさまに「あなたは長老の研究生だ」という意識を埋め込むことを始めるのである。私は、「君は長老の研究生だ。これは特権だぞ」と言われた。怪訝な頻を見せると、第二の理由を語ったのである。私は、人間の研究生になった覚えなどなかったのであるが、それが事実であるようだ。第三に、これが本音であろうが、特権は長老の推薦がなければならない。
当然、長老が効果的に研究生を育てるということは、長老としての立場を固めることに有利である。(現実は既に得た特権を奪われる恐れは余りないのではあるが。)自分の立場を危めることのない範囲で部下が出世することは、上司の栄誉であることは理解に固くない。
勿論、うまくいかない場合がある。これには立派な言い訳があるため、問題がない。うまくいけば良き助言者、うまくいかなければサタンや悪霊の影響、もしくは世の霊に責任が転化される。「あの一長老でも援助できないほどどうしようもない」と研究生が言われるだけのことである。また、この研究生と研究司会者との関係は永遠に続くのである。
平信徒と奉仕の僕
「奉仕の僕」という立場があるが、これはそれはど権威主義ではない。単に腰の低いお兄ちゃんたちである。「お兄ちゃんたち」と記述したのは言うまでもない。女性は特権には預かれないのである。
この段階では、まず組織の権威主義に気付いていない。つまり、純真にエホバにお仕えしているという認識の持ち主がほとんどである。しかしながら、彼らの多くは潜在的には権威主義を擁護する精神構造を植え付けられているのである。長老予備軍という訳である。ところで、彼らに組織に関する不満をこぽしたりするとどうなるであろうか。
真顔で援助してくださる、というのが答えである。彼らに、組織に関する不満を述べても、具体的に叱責は発生しない。大方の僕の仲間は胸の内にしまってくれるのである。長老に報告されることは実際そう滅多にないのである。しかしながら、そういう反乱分子とならないように、誠心誠意さとしてくださる人々である。
しかしながら、彼らもまた、長老に対する絶対服従が自らの特権の源であることを感覚的にとらえているのである。しかし、中には、権威主義に目覚めている者もいる。そういう人々は、長老に知らず知らず媚びへつらうのである。この場合においても、意識的にへつらっている訳ではなさそうであった。
例えば、平信徒が病気の時は、知らん顔。病気回復後には、集会において、本当に心配していた旨せつせつと語る。もし、長老が病気ならどうであろうか。勿論、一品持参でお見舞いである。
こういう動作を長老は観察している。集会において、平信徒ごときにキリストの愛を実践している、と見るのである。前文後半のコメントであるが、心がこもった人間だ、と評価するのである。
要するに、奉仕の僕である人たちは、「長老に見せる振る舞い」を重要視するように、いつの間にかなっていくのである。しかしながら、責めることができないのである。残念なことに、彼らには人を選んで行動しているという自覚症状がない。本人たちは、誠心誠意キリストまた仲間の信者にお仕えしているのである。
長老対その他信者
長老は会衆の主催監督とその他である、現実は主催監督のいいなりとなる。多くの場合、長老団で話し合いの結果と言うが、真実は主催監督の一存である。しかしながら、形だけの会合を行うということで、他の長老たちも会衆の運営に一役担っているという満足を得るらしい。主催監督は他の長老たちの意見を聞くという形をとることもある。しかしながら、答えは既に決まっているのである。
現実問題、過去から現在まで行ってきたことの繰り返しであるため、新たに熟考を要する問題などあり得ない。当然、答えを求められた長老も無難な線を越えない答えをするようになっているのである。
ここで私情を語るなら、主催監督権限でその場で特権剥奪があり得るのである。他の長老の意見が通る場合もある。主催監督が面倒くさいという理由でよく考えていない問題などは、他の長老の意見そのままということもあるのである。
とにもかくにも、主催監督は神から任命された権威であるため、あからさまに組織を非難するか、演壇で淫行でも犯さない限り、降ろされることはないのである。嘘を言おうが、しらを切ろうが、聖霊が任命した長老なのである。私なども、主催監督と一対一で言い合ったことがある。私が主催監督に対して二の句がないほどポロクソにたたいたことがあるが、言葉に詰まった主催監督が語ったのは、「私は長老だぞ」であった。これが黄門様の印篭に相当する。ここまでくそかすに言われた経験はなかったようである。通常、私などはこの時点で、審理委員会(エホパの証人の内部の裁判)にかけられるはずであったが、なぜか不問であった。
さて、ここからがこの組織の不思議な点である。極まれに、権威主義が身についていない長老が誕生するのである。そのような勘違い長老が主催の任に就いている会衆は本当に平和である。誰が見てもキリストが共におられる姿となる。いわゆるクリスチャンが紛れ込んだとしても、幾ばくかの教理を除けば、違和感もなかろう。更に、居心地が良いに違いない。上下関係は皆無となる。その長老は、「私は組織からの提案をお伝えするに過ぎない」という謙遜きわまりない態度を取るのである。そのような会衆の場合、「先生」と呼ばれる人もいない。「先生」の態度を取る人もいない。キリストのみ、師となるのである。
おおざっぱに言うと、更に二つのバリエーションがある。主催監督は権威主義者であるが、正直者である場合がある。主催監督は権威主義者であるが、それを意識的に見せない場合もある。その他の可能性は、ご想像にお任せする。
なぜそのようなバリエーションが存在するのであろうか。原因は、『ものみの塔』誌にある。エホバの証人の定期刊行雑誌『ものみの塔』がある。この中に、多くの場合、二つの研究記事がある。これは、日曜日の集会で約一時問をかけて質問とコメントという形で進行する集会で使用される。研究記事の朗読、質問、注解(聴衆が挙手し、当てられた人が質問に応答する)の形である。また本集会は組織の最新の見解が反映される重要な集会なのである。
実は、この集会の進め方に秘密がある。通常、この集会の司会者は長老が行う。つまり、主催監督に限らない。ある会衆では週毎に持ち回りで、ある会衆では特定の長老が、という具合に統一されていないのである。さて、なぜこれが会衆の霊のバリエーションを生むのであろうか。研究記事の構成が関わっているのである。
研究記事の構成は二部でなっている。第一研究記事は原則を説き、第二研究記事はその適用が主な役割となっている。例えば、キリストの愛に関する研究記事であるならば、紹介の言葉があり、実際的な知恵とその聖書的裏付け、具体的な例があり、結論で構成される。キリストの愛の記事ならば、
*世の中の愛が冷えていることを序論で述べ、
*キリストの愛がどれほど素晴らしいかを述べ、
*心安らぐ世界を思いに描くように記事は進行する。
*そして結論は、「組織に従え」に結び付くのである。
キリストの愛の第二研究記事は、
*序論は、第一研究記事の復習。
*会衆内でどんなことがキリストに倣って行えるかの実際的な例を挙げる。
*心安らぐ世界を思いに描くように勧める。
*そして結論は、「組織に従え」。おおむねの記事の結論は「組織に従え」である。「おおむね」と書いたのには理由がある。次の号と結びつきが大きい場合、慰めで終了する場合がある。また気まぐれのように、慰めや励ましで終わる場合もある。このようにして、年間を通じて復習してみると、「組織に従え」の命令の繰り返しとなっているのである。
さて、通常、文章は最初か最後に伝えたい重要なメッセージがある。このような型に自然に従える長老は、「組織に従え」を強調するように、いつの間にか訓練されていくのである。しかし、キリストの愛や実際的な知恵にしか関心のない長老が司会するなら、どうなるだろうか。「組織に従え」が二次的なところにおかれてしまうのである。
「今回の記事の要点はどこですか」の質問の答えが人によって異なるのである。複数の長老の一人が、組織に従うという点が重要であると気付いたとしよう。すると、馬鹿な長老が愛だの実際的な知恵だのに重点を置くことに、いらだちを感じ始めるのである。「重要なのは、神の組織に歩調を合わせるということなのだ」と強く主張するようになる。その長老はものみの塔の司会を独占することを、ものみの塔聖書冊子協会は禁止していないことに注意していただきたい。他の愛を語る長老より、組織を重要視する長老の方が力強くなるのである。
会衆が分解しない限り、他の長老が主催監督になることは普通できないが、いざ分解する時、組織を重要視する長老が主催監督になる可能性は高くなるのである。
こで引き合いに出されるのが、パウロとパルナバである。パルナバは「慰めの子」であるが、パウロは「義のパウロ」である。バルナバはどこに行ったのか分からなくなった。義が勝つという訳である。
これらのことから、会衆の雰囲気にある程度の違いが発生するメカニズムが、感覚的にご理解いただけるのではないかと思う。蛇足だが、「義の長老」がものみの塔研究を主催するようになると、「愛の長老」は肩身が狭くなる。自然と「義の長老」の影響を受けるのである。
巡回監督と会衆
巡回監督の中にも、権威主義が分かっていない素晴らしい人物が時折、見受けられる。私など、そのような巡回監督を尊敬するとともに、「よくそこまでのばりつめたな」とため息が出る。そういった人々は純心なので、絞滑な長老の欺瞞を見抜くことなどできない。自分も聖霊が任命しているとの自負はあるものの、各会衆の長老もそうであるという認識があるからである。このような監督は、巡回監督止まりとなるのである。
権威主義に染まっている巡回監督は、権威主義を守るのが自分の使命と考えている。そのような訳で、長老と会衆の成員間のトラブルに関して、無力となっているのである。
さらに困ったことに、権威主義を守ろうとしている人々の大半は、結構、純心なのである。自分はエホバとキリストに心底お仕えしていると思っている。嘘を言っても、しらを切っても、自分がいまだに監督の立場にあるし、聖霊に任命されている訳だから、自信をもってしらを切る訳である。
「嘘」とは、知る権利のある人に対する事実に反する報告となっているのである。ここで言う「知る権利のある人」を認定する技量を聖霊によって与えられていると勘違いしているのである。まさに、つける薬がない、と言わざるを得ない。
この狭い世界(エホバの証人の世界)でとどまるとはどういう意味かを再度、問わなければならない。ものみの塔によって廃人とされた人の人生は、次のようである。
ある日突然、扉をノックされて、信じて、勉強して、神を確信して、バプテスマを受けて、世の立場を捨て、どっぶりとこの世界に浸かる。そして、ここからが問題である。大した知識も知恵もない人間が、この世界で特権を得るのである。屁理屈をこねた注解をすると、みんなからほめられ、持ち上げられる。心からの注解と称してヒステリックな注解をすると、確信のある心のこもった注解として、ちやほやされる。
いずれ、奉仕の僕となり、公開講演四五分の話をする。「素晴らしかったです」の賛辞に埋もれる。そして長老、もはや神の特権を手に入れた。新聞のコラムの受け売りを語っても、洞察力があるとほめそやされる。何を語っても、洞察力があるとほめそやされるのである。神から洞察力を得ていると、考え始める。もはや無敵である。
自分は何様なのだろうか、もはや評価される人間ではなく、評価する側の人間である。嬉しい。涙が出る。特権に感謝するのである。そして組織の権威を擁護すると高められる自自分。ますます権威を賛美する。ものみの塔研究司会の独占ができた。特権に感謝である。ますます組織を賛美する特権を得るのである。
ついに主催監督。もはや自分を批評する人間がいるなどということは考えられない。井の中の蛙です。この井の中は、私の王国となった。蛙の王様、ぱんざ−い。
最後に
前述の人の洞察力は、三〇歳の時から、何の変化も遂げていない。その人は今、五〇歳である。 この文書を見て、あなたはどのように感じられただろうか。私、筆者が茶化す人であると思われただろうか。そうであることを希望する。
(注・この記事を書かれた男性は、エホバの証人の補助開拓者でしたが、ものみの塔のあまりに勝手な論理や、会衆内の呆れ果てたさばき合いに空いた口がふさがらず、脱会しておられます。今現在、『エホバの証人の反三位一体論に答える』などを読まれ、真の福音を追求中です。)
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