一九九九年一月八日号の『目ざめよ!』誌は十一頁にわたって、信教の自由について論じています。ヨーロッパなどで、ものみの塔聖書冊子協会が危険な「カルト」、または「セクト」と烙印されていることへの必死の抵抗ですが、その矛盾した論法は、読者を欺くものです。
同誌はまず、宗教上の迫害に関する歴史にふれ、エホバの証人が様々な国で差別を受けていると訴えます。それは否めない事実だと言えましょう。しかし、現在、世界各地で繰り広げられている、プロテスタントの信者に対する厳しい迫害のことは、何も書かれていません。毎年、十六万人ものプロテスタント・クリスチャンが殉教の死を遂げています。組織がこの事実について沈黙しているのは、なぜでしょうか。エホバの証人だけが迫害されているという印象を読者に与えるためです。
次に、『目ざめよ!』誌は、ものみの塔がヨーロッパのマスコミによってたたかれている問題を取り上げて、こう述べています。
「スペインで人気のあるABC紙が引用したカトリック関係者の意見で、『あらゆる教派(セクト)の中で最も危険な』宗教グループとされたのはどれでしょうか。ABC紙がエホバの証人に言及していたことを知って驚く方がおられるでしょう。エホバの証人に対するそのような告発は、公平で客観的な根拠に基づいているでしょうか」(九頁)。
ここで、普通なら、ABC紙がどんなことを述べたかということが出て来るはずですが、『目ざめよ!』誌は全くその記事の内容にふれず、「他の資料が述べている点を見てください」と言うのです。理解に苦しむ論法の展開です。「エホバの証人に対するそのような告発は、公平で客観的な根拠に基づいているでしょうか」とあるので、良識のある読者は当然、ABC紙の記事の検証が始まると期待するものですが、いきなり、「他の資料が述べている点を見てください」とこられると、だまされた気持ちになります。ABC紙の記事が客観的な根拠に基づいているかどうかを判断するために、当然のことながら、その記事を調べなければなりません。しかし、『目ざめよ』誌の筆者はそのことをせず、「他の資料」の話に入ってしまうのです。人をごまかすためのトリックとしか言いようがありません。ちなみに、「他の資料」とは、一般の人々がエホバの証人を「模範的な市民」としてたたえている記述です。しかし、多くの場合、危険なカルト集団は、信者のために高い倫理基準を設けて、守らせます。オウム真理教も例外ではありませんが、末端の信者が「平和を愛し、良心的で、正直である」にしても、彼らを操っている組織が信用できるものであるとは限りません。立派な人々が、悪質な組織によってだまされて悪用されるということがよくあるのです。
更に、『目ざめよ』誌は、宗教的差別の根本的原因は無知にあるとして、「平均の取れた教育」の重要性を訴えています。それは、どんな教育でしょうか。同誌は、ユネスコ・クーリエ誌を引用しながら、「若者たちが独立した判断、批判的な思考、論理的な推論の能力を培えるよう助けるべきものである」と結論づけています(十一頁)。確かに、ユネスコ・クーリエ誌が提案している教育は、現代人にとっては不可欠なものです。しかし、この提案に同調しているかのように見せかけるものみの塔は、果たして、「独立した判断、批判的な思考、論理的な推論の能力」を培う教育を目指して来たと言えるのでしょうか。
「それでも一部の人々は、この組織がこれまで幾つかの調整を行なってきたこと(注:教理を訂正してきたこと)を指摘し、『この点からすると、わたしたちは何を信じるべきかについて自分で決定しなければならない』と論じます。これは独立的な考えです。この考え方が非常に危険なのはなぜですか。この考えは誇りの証拠です」(『ものみの塔』誌一九八三年四月十五日号、二十七頁)。
「悪魔はわたしたちを離れさせようとして、ほかに何を用いますか。悪魔はこれまで常に反逆を引き起こそうとし、指導の任に当たる人たちに対してエホバの僕たちが批判的になるよう仕向けてきたのではないでしょうか。‥‥‥自分自身の反対意見を押し出そうとする人には用心しなければなりません」(『ものみの塔』誌一九八六年三月十五日号、十七頁)。
これらの記事から分かるように、ものみの塔聖書冊子協会は決して、「独立した判断、批判的な思考、論理的な推論の能力」を培う宗教団体ではありません。
最後に、『目ざめよ!』誌は十二頁にも、読者を欺く言葉を述べています。
「エホバの証人は、他の人と様々な信条について話し合うことが、寛容を促進するための極めて効果的な方法であることに気付いています‥‥‥証人たちは、様々な宗教に属する人たちの信条を、また無神論者の考えを聞く機会があります。その一方で証人たちも、聴こうとする人たちに自分の信条を説明する備えをしています。」
しかし、一九九八年十一月号の『わたしたちの王国宣教』は、元証人や牧師の話に耳を傾けることを断固として拒むように、また、その話し合いの場から逃げるように、エホバの証人に指示しています(六頁)。
確かに、信教の自由は人権の中でも、極めて重要なものだと言えます。信条に関する自由は、あくまでも尊重されるべきですが、人間社会に対して破壊的結果をもたらすカルトの場合、その自由が制限されたとしても、やむを得ないでしょう。勿論、その場合、客観的な基準に基づいて、またすべての事実を考慮したうえで、慎重に判断することが必要です。