MJの礼拝形態の紹介
メシアニック・ジューというのは、キリストを神と受け入れたユダヤ人のグループである事を説明しました。これはまた同時に、メシアニック・ジューとは単なるユダヤ人のキリスト教転向者の集まりではないという事もさらりと述べましたが、その違いが一体何を意味するのか、まだピンとこない読者もおられるかも知れません。
実は、その違いを最も端的に表すのは、MJの礼拝の形態なのです。MJの安息日礼拝は、土曜日かもしくは金曜日の日没後に行なわれます。そこに行ってまず気がつくことは、礼拝の手順がユダヤ教のシナゴーグでやっていることと本質的に同じであるということです。もちろんキリストを主と受け入れているのですから、礼拝壇の上には、参加者に配るねじりパンや葡萄ジュース、トーラーに並んで、大きな十字架が背後に架けられているでしょう。ユダヤ教の礼拝と違っている唯一のことは、その礼拝がキリスト中心となっているということです。礼拝の司会者も参加者もユダヤ人がしているようなキッパという丸い帽子をかぶり、Tzitziという青縞の入った肩掛けをかけ(これには重要な意味がありますが)、女もスカーフをかけています(していないからといってとがめられることはまったくありません)。
礼拝はまずいろいろな賛美歌を歌うことから始まります。歌われるものは、だいたい毎週決まっていて、ユダヤ人の礼拝で伝統的に歌われていたものがほとんどですが、中にはメシアニックのゴスペルフォークから入ってきたような歌もそのメニューに加えられています。新しい歌が加えられる事はありますが、何と言っても、その歌がそれをバックにしてメシアニック・ダンスが踊れるか、というのが選定の条件にすらなっているようです。ですから、たとえば「いつくしみふかき友なるイエスは」は歌われる可能性はあっても「神は我がやぐら我が強き盾」のような歌は絶対にメシアニックダンスの雰囲気ではないので選ばれる可能性はまずもってないでしょう。実際、そういうメシアニックの集会で賛美歌を歌っていると、会堂の中でメシアニックダンスが自然発生的に始まります。踊りたい人がそこの輪に加わって踊ります。疲れて抜けたくなった人はいつ抜けてもいいのです。
メシアニック・ジューの安息日礼拝では、必ずねじりパンと葡萄ジュースを聖餐として配ります。それはまるでキリスト教会の聖餐式のルーツを見ているようです。古代のユダヤ人が安息日礼拝毎にしてきた事と全く同じ事をしているのですが、彼らはそのパンと葡萄汁がキリスト(メシア)の肉と血を意味することをそうして教えられてきたのです。しかしながらキリストの来られた時のユダヤ人宗教体制組織はそれを認める事を頑として拒んでしまったのが悲劇的な誤りだったのです。今、彼らはこれを信仰に依ってキリストの血であり肉である事を受け入れたのです。パンと葡萄汁の聖餐の後も賛美歌は歌われます。祈りが捧げられ、聖書が朗読され心の必要を感じている人は前に出て司会者に油を注いで他の信仰を共にする人と一緒に祈ってもらいます。たいてい集会の長老とか「執事」に相当する人がその油を額に塗られた人の肩に手を置いて一緒にいのりますが、これが長老が油を塗られるような時は、集会の小さな女の子や男の子達がやってきて肩に手を置いて祈るのです。
何と言ってもMJの集会が、一般の正統といわれるキリスト教会の礼拝と決定的に違っているのは、いわゆる定式化された「礼拝説教」というものがないということでしょう。たとえばプロテスタントの教会では、安息日聖書研究会の後賛美歌があって祝悼があって子供用の話があって、それから牧師が講壇に上ってその日の準備したお説教(というか演説)を延々とぶつという形態ですが、MJにはそういうものが無いのです。証は神の霊に促されるままに任意であり、聖書の学びは、礼拝が終ってから残ってはじまったり、別な機会に用意されています。子供用のプログラムがない、ということも非常に興味深いことで、これはまた別に評論したいと思います。こういう礼拝に出席して、まず退屈するということはまずありません。「つまらないから早く終って欲しい」と思う人もいません。礼拝には、人それぞれの事情もありますから、神の霊の導かれるまま、いつ来てもいつ出て行ってもよいという形態になっているからです。聖餐のパンの残りを貰って会堂の隅で静かに食べながら瞑想にふけっている人もいます。祈りの最中に子供達が輪になってステップを踏んでいるような事もありますが、もちろんそれはそれでいいのであり、無論誰もとがめません。集会司会者も自らメシアニック・ダンスの輪に加わります。最も大切なことは、参加者が自分の家にいるかのようにくつろげる雰囲気で礼拝をすることなのです。
それはもうキリスト教の正統的礼拝式次第を見慣れた人には混沌のように思われるかも知れません。しかしそれは混沌というよりも、そういう風な秩序になっているのです。しかも、それはイスラエルの人々が安息日ごとにそうしてきた事なのです。
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