不思議な「サマリア人」の現状
This article is pararelled to the "Pass-over description."
いわゆる「サマリア人」というのが初めて中東に登場したのは、紀元前4世紀ごろでした(違っていたら訂正願います)。彼らは、自分達はイスラエルの失われた北王国の十部族の子孫であるような主張をしています。彼らもトーラーを持っています。しかしながら、当然というか、トーラー以外のミシュナーのごとき教典とかコメンタリーを継承していません。ユダヤ教徒は犠牲の羊をエルサレムの神殿に捧げることになっていますが、イスラエルがローマに神殿を破壊されて以来いまだ回復を見ていないので、ユダヤ教徒は正式には犠牲の羊を捧げることは過去二千年間不可能になっていました。しかしな がら、サマリア教徒に取っては全然そういう心配がありませんでした。なぜなら、彼らはゲリジム山を聖地としており、羊の犠牲はゲリジム山で毎年パスオーバー(過ぎ越しの祭)で行なってきました。今年も、世界でたった600人しか残っていないというサマリヤ人がゲリジム山で過ぎ越しの祭を行い、それにはユダヤ教のラビやムスリムの関係者が多数招待されています。
歴史の語るところに依ると、サマリア人は新約聖書に一度、キリストの「よきサマリア人のたとえ」として登場していますが、その後彼らの人口は紀元後三世紀にピークを迎え多分100万人程になったとされています。しかしそれから徐々に衰退が始まり、戦争や他宗教からの迫害で人口が激減し今世紀の初頭にはわずか140人程しか残っていなかったのがユダヤ教のラビによって発見されたそうです。そこでこのラビが、ユダヤ人の女性をめとって民族と文化を継承するように訴えて、それでどうにか民族として絶滅消散の危機を乗り越えて現在に至っているとの由。
興味深い事は、サマリア教徒は、ユダヤ教徒からしか改宗者を受け入れないという事実です。しかし、ユダヤ教からサマリア教徒になった人のほとんどは、サマリヤ人の戒律の厳しさに根を上げるのだとか。上には上があると言う事でしょう。
現在、サマリア人のコミュニテイはゲリジム山近傍に集中しており、昔ながらの宗教文化を継承しています。もっとも6日戦争の結果サマリア人のコミュニテイがイスラエルとレバノン側とに二つに分離されてしばらく一緒に宗教行事を営むことが出来なくなってしまっていましたが、最近になって再び一緒になってそういう行事・祭事を行なうことが許されるようになりました。サマリア人はそういう理由でイスラエル共和国側にもレバノンやパレスチナアラブの側に対しても中立を守っておりどちらの敵にも味方にもならないことを絶対信条としています。参考までに
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