PASSOVER SECRET 1
過ぎ越しの祭り(Passover :Pesac)の神秘
過ぎ越しの祭りとは、ユダヤ教の人々が今日まで欠かすことなく毎年行なっている重要な宗教行事です。一言で簡単に言うなら、イスラエルの人々がモーセによってエジプトを脱出して奴隷の身から自由になったことの記念の日なのです。
クリスチャンのパスオーバーに対する無知は伝統的に甚だしく、1171年にはフランスでユダヤ人の大虐殺がありましたが、その時の虐殺の理由は「ユダヤ人は過ぎ越 しの祭りの種入れぬパンにクリスチャンの子供の血を混ぜる」という荒唐無稽な噂が広まったからです。現在ではそのような事を信じている人は誰もいませんが、そのレベルの理解から余り進んでいないのも実情です。
パスオーバーは毎年4月頃、キリスト教のイースターの前後にあります。聖書を読んでいる人はすぐお分かりのように、これは全然偶然ではありません。なぜなら、イエスキリストが十字架に掛かられたのは過ぎ越しの祭りの時であり、復活されたのはその3日後だったからです。キリストの最後の晩餐というのは、キリストがゲッセマネで逮捕される直前の過ぎ越しの祭りの文字通りの最後の晩餐でもあったという事に注意したいと思います。
パスオーバーというのは一週間続く行事です。パスオーバーの晩餐には、マッツア(matzah)という名前の種入れぬパン(こういう言い方が分かりにくい方には「非発酵パン」と言っておきます)を食べますが、それは一度見ると二度と忘れないような形をしています。形は正方形で、単に小麦粉をこねて平らにして焼き焦がしただけのものなのですが、必ず火箸で開けたような穴がいくつもあいています。そういう風に作らなければならないとキリスト時代以前からの伝統なのです。最近はマッツアはすべて機械でこねられ、電熱式の焼き櫛でそういう穴が開けられているようです。パリパリして美味しいのですが、それはともかく、それがどういう風にして 使われるのかを順を追って説明しましょう。
まず、パスーバーのデイナーのテーブル には白いテーブルクロスがかけられ、食事の前の祈祷があって、家の主婦が、二本の蝋燭に火を灯します。マッツアは白い亜麻布にくるまれて食卓の上にあります。ホストはこのうちの一枚を取り、みんなの見ている前で高く持ち上げ「これは苦悩のパンである」と言って半分に割ります。 そして、一方を亜麻布にくるんで、家の中のどこかに隠すのです。亜麻布でくるまれたマッツアの半分はアフィコメンと言います。それをどうするのかは後で説明します。正統派ユダヤ教徒の一部や超保守派のユダヤの伝統の墨守派の人たちは、家の中に隠すのではなく、外に行って亜麻布ごと穴を掘って地面の下に隠してしまうのだそうです。しかも彼らがそうするのはそういうふうにしろとキリスト以前から教えられているからそうするのであり、どうしてそうしなければならないのかは全くわかっていないというのです。(funny, isn't it?)
テーブルの上にはワインゴブレットがあってそこに葡萄酒が注がれます(酒の飲めない人は葡萄ジュース)。カップは正式にはそれぞれに4回注がれます。1回目は普通に注がれて、祈りをして、リーダーに導かれるまま一緒に飲みます。 2回目に葡萄酒が注がれる時、参加者は小指をその中に浸してから、自分のナプキンの上にたらし、出エジプトの時に起こった災害の名前(アブ、川が血になったこと、皮膚病、いなご、長子の死など)をそれぞれ三回ずつ唱えます。一つの災害の名前を三回となえてナプキンに葡萄酒をたらし、同じ事を全部の災害の名前について行なうのです。そして、その時はまだ2回目のカップは飲みません。
過ぎ越しの祭りのデイナーの食卓には、マッツアの他に、パセリがあります。これはエジプトで奴隷でいたときの劣悪な生活環境と貧素な食事に甘んじていた時の経験を思い出す為の象徴です。パセリは塩水に三回浸して食べますが、それは奴隷の苦しみの時の涙を思い起こさせるものです。
また苦菜というものがあり、これはエジ プトでの苦しい戦いを思い起こさせるものです。ニガナには、最近ではだいたい西洋ワサビの根が用いられているようです。これをマッツアに乗せて食べます。苦いとはいえ、日本の生寿司のワサビ程強烈ではありません。来年過ぎ越しの祭りのデイナーに招かれる時は、私から日本の寿司に使う緑色のワサビを持って行こうと思っています (It should work great)。
またHarosetという皿があ り、ここには木の実とリンゴと蜜を混ぜて煮たようなものがあって、ワサビで苦い思いをした後に、ワサビとこれを混ぜて挟んでもう一度食べます。これは神がどんな苦しい辛い経験の時の中でも必ず耐えられるように希望と喜びを与えて下さるという象徴です。日本で聞いた下衆な言葉で言えば「試練の中のアメ玉」という所なのでしょうか(私はそういう言い方は好きではありませんが)。
セダー(過ぎ越しのデイナー)の皿の上には、焼いた卵(生卵をオーブンに入れて 焼いたというもの)があり、これは始めも終わりもない神の祝福を表わしているとしています。この焼き卵は、長子である人だけが食べられます。私も一応長男ですから、食べる特権に与かりました、要するにゆで卵と何の味の違いもないものです。セダーにはローストされた羊の骨があります。この骨は折れたり曲がったりしていない、完全な羊の足の骨でなければならないとしています。
「骨だけだったら食べられないじゃないか」と言う人もあろうと思いますが、まったくその通り。食べられません。これには因縁があるのです。本来なら、ここに羊の肉が添えられるはずだったのです。それが骨だけになってしまったのは、2千年前にイスラエルの神殿がローマによって破壊されてしまったのはご存知の通りですが、ミシュナー(エズラ以後に現われた律法のコメンタリー。セブンスデーアドベンチストの聖書に対するEGWの証しの文に相当する)の教える所によると、過ぎ越しの祭りに捧げる子羊は正式な神殿のある事を前提にしなければならないという勧告があり、その通りにしてきたのですが、第二神殿が破壊された結果、ユダヤ人はもはや過ぎ越しの祭りに子羊の犠牲 を屠れなくなってしまったのです(もっともミシュナーに敬意を払っていないサマリヤ人やセファラデイ派のユダヤ人は羊の肉を過ぎ越しの時も食べています)。という事は、もし、イスラエル共和国がアラブの反対を押し切って、エルサレムに第三神殿を再建したら、過ぎ越しのデイナーに羊の肉のメニューが加わるという事です。これがどんな大変なことを意味しているか、おわかりになりますか。それは次のアーテクルに解説します。
2回目のカップは上の一連の個別のメニューが終わってから、参加者が祈りをもってグイと飲み干します。 その後は、過ぎ越しの晩餐です。一年に一度、奴隷から自由人に開放されたかのよ うに腕によりをかけて作られた美味しい料理を食べて楽しみます。カップには葡萄酒でも葡萄ジュースでも好きなだけ注がれますが、この時に注がれる回数は、先に述べた「計4回」の中に数えられません!
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PASSOVER SECRET 2
さて、沢山食べて、沢山飲んで、過ぎ越しのデイナーは大きな山場に差しかかります。「4つの質問」というのがあるのです。これは子供達が大人に「どうしてこんなことするの」という質問をして、大人がそれに答えるという形態を取っています。「4つの質問」とは、
1 なぜこの日は種入れぬパンを食べるの?
2 なぜこの日だけ苦い根を食べるの?
3 なぜこの日菜葉を塩水に浸して食べるの?
4 なぜこの日だけ横になって食べてもいいの?
今年のパスオーバーでは私の7歳の娘がその質問項目を読み上げる役を与えられましたが、大人はそれににこやかにかつおごそかに答えられなくてはなりません。こうして過ぎ越しの意義が世代に渡って伝えられて行くことが極めて重要なのです。
さて、3回目の葡萄酒が注がれます。もうデイナーの人たちは既に何回も葡萄酒の カップのおかわりをしているはずで、ある程度酔っているか、葡萄ジュースを飲んでいてもかなりの水分の摂取になっているはずです。そこに追い撃ちをかけるような3回目はなんなんだ?という所ですが。実は、ミシュナーの決まりでは、この過ぎ越しデイナーの3回目のカップに注がれるものは、葡萄酒:湯=1:2 という「変な」葡萄酒なのです。こういう状況でこんなものを飲んだらどういう結果になるかは、経験者はお分かりと思います。ダラ〜と汗がとめどもなく出て来ます。Jesusが血の汗を流されて祈ったこと、十字架にかかって血と水が分かれて流れたことを思い出させると思います。
タルムードでは、どんなに酒嫌いな者であっても 禁酒を公言しているものであっても、過ぎ越しのデイナーの時には無理矢理飲まなければないとしています。しかも、驚くべき事に、これはユダヤ教の方でも「血」の象徴として捉らえられているのです。鴨居に羊の血を塗った事との関連です。
そこでキリストの最後の晩餐を思い出して下さい。弟子達が食べて飲んで笑って、食事が終わりかけたころに、キリストが葡萄酒を注いで「これは私の血である」と言ったのは実はこの第三のカップだったのです。
また、この時に思い出したように、 さっき「苦悩のパン」と言って半分に割られたマッツアの隠されたアフィコメンを捜索するようにと子供達に命じられます。子供達はそれが家の中であろうが、外の土の下であろうが、見つけて持って来ます。見つけた子供には御褒美がでます(キリスト教のイースターでは、このアフィコメンが卵にすり変わっています)。そして、デイナーのホストはこの亜麻布にくるまれたアフィコメンを子供から銀貨を払って買い取るのです(本当にお金をくれます)。そして、買い取られたアフィコメンは皆の前で開かれ、バラバラにされて、「これは神の体だから、口の中で長く味わうように」と言って配られ参加者に食べられるのです。
ユダヤ教の人たちは、そういう伝統を守っていながら、それでもまだこれがキリストに結びついていないというのが驚くべきことであると思います。
先の犠牲の件ですが、先に述べたミシュナーの勧告に従って、彼らは過去二千年間羊を犠牲として捧げていないのです。これは本当に驚くべきことです。一体本来はどうやって羊を犠牲とするのは、当HPの読者は知っているべきです。律法の規定によると、神殿で捧げられる羊は棒に吊されてローストされるように定められていました。ハンバーガーをジリジリ焼くみたいに、網の上に寝かせてするのではないのです。しかも奇妙なことに、前肢によって羊を吊して、上腹部を割いて、羊の腸管を引き出し、それを羊の頭の上でグルグル巻にせよと迄詳細に定められているのです。こうして頭の上で巻かれた腸管は、「A crown of shame: 恥の冠」と言う古代ヘブル語名で呼ばれていました。それで、そういう風に羊を焼いたらどうなるかというと、裸の男が両腕で吊されて、頭の上にイバラの冠をしているように見えるようになるのです。これがキリストの象徴でなくて何であろうというのでありましょう。
ユダヤ人が第三神殿を再建して、再び律法の通りにして羊を料理した なら、それを見てショックを受けて、やはりキリストは律法を成就する為に来た神の子だったのだと悟る人が出てくるはずだと思います(実際MJはパスオーバーの意義をユダヤ教徒に教育する事によって賛同者を得ているのです)。
最後に第4の カップに葡萄酒が注がれます。これで過ぎ越しのデイナーはお開きです。神に命と救いが与えられている事を感謝して、ゴブレットを高く掲げて、感謝の祈りをします。「我々に命の血を与えられた神に栄えがあるように」と。そして「来年のパスオーバーこそはエルサレム(または天)で」と言って、お別れのシャロームの歌(Shalom hKverim)を歌います。それが終わった後は、みんなでダンスをしたりして終わります。キリストが、「私は新しい天地が来るまでは、葡萄の飲み物を飲まない」と言ったのは、実はこの過ぎ越しの第4のカップを意味していたのでした!
現在キリスト教会 で定期的に行なわれている聖餐式というのは、このように過ぎ越しの食卓の儀式の一部をもの凄く簡略省略して出来たものだという事がこれでお分かりになられたと思います。 この説明自体も簡単過ぎて不備な点も有ろうと思いますが、質問はお気軽にお寄せ下さい。
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