MJを新約から理解する
ここにMJを新約のサイドから理解する助けになると思われる小ファイルをアッ プしてみます。皆さんの側で適当に手を加えたりするなりして利用してみて下さい。
『ではユダヤ人の優れている点は何か。また割礼の益は何か。 それはいろいろな点で数多くある。まず第一に神の言葉が彼らに委ねられたことである。』 ROMAN 3:1,2
まずはっきりさせなければならないことは、ユダヤ人も同じ人間であって、もとはといえば日本人もアメリカ人も本質的に神の前では裸の人間に過ぎないと言うことです。 パウロは当時のユダヤ人社会の中で最高水準の教育を受けた新鋭の律法学者でしたがキリストに出会って変えられて福音を「異邦人」に伝えるために残りの人生を捧げました。
そういう事実を踏まえてローマ人への手紙の3章を再読してみてください。彼は自ら受けた律法(旧約聖書)の知識を否定しているのではなく、それどころかユダヤ人は神の言葉を委ねられた者であった事を評価しています。 たとえそれがパリサイ人のような高い人間的教養を装った人々によって粉飾されたり、自分に栄光を帰したり、神から遣わされた預言者を殺す方便に誤用されたことがあったとしても、神の言葉は神の言葉であります。それを伝える器となった人々は神に依って祝福されたのです。しかし、自ら律法を持っていると言っていながら 神のみ心を行なわなかった人々はローマ軍の餌食になって滅んでしまったのでした。 今、我々には聖書が与えられ、大量のキリスト教関係の出版物に曲がりなりにも恵 まれているようにしているのは、神の言葉がそこに委ねられていることを意味していないでしょうか。アブラハムの子孫に啓示された神の言葉が、今クリスチャンに委ねられ、今またメシアニック・ジューに回帰しようとして現在に至っています。もし、私たちが血の関係によらず、信仰に依ってアブラハムを唯一の神を信じる信仰の父とするならば、私たちが自ら神の言葉を委ねられている意義の大きさを感じて神の前に身を低くする必要があるでしょう。みなさんの教会の中でも確かにある人は自分の聖書的教養を誇ったりいたずらに聖書に人間的解釈を施してみて神の大きさを操作しようとするような人に出会うかも知れません。またある人はキリスト教を信じない人々を一律に見下げてつっけんどんな荒々しい態度を表してあなたを驚かせるかも知れません。しかし残念ながらそういう人々には結局神の言葉を委ねられたという言葉の意味が理解されてい ないのです。もし私たちが本当に神の言葉の委託者であることの特権と責任とそのインパクトを理解するなら、それがなぜ自分のような取るに足らぬ存在に与えられ たのかを思って畏れるようになるでしょう。
【引用聖句】
「もしあなたが律法を行なうならば、なるほど割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。」 (Roman 2:25)
ユダヤ人には神に選ばれた民族という誇りがあり、それは外面的にはトーラー(モー セ五書)の教えに従うことと、男子は割礼を受けて神に肉的に聖別されたしるしとしていたのです。現代の我々は神に従うからといって肉体にしるしを帯びる必要はありませんが、当時のユダヤ人にとって、割礼があるということは、現代の我々クリスチャンがキリスト教会の洗礼証明書を持っているかどうかと同じくらい、もしくはそれ以上の社会的意味があったのです。この聖書の箇所はユダヤ人ではない我々はともすると 「自分の事を言っているのではないから」として、余り深く考えないで読んでしまいがちですが、ちょっと立ち止まって考えてみるべきでしょう。
律法とは十戒の事です。モーセ五書の内の一つである旧約聖書の「出エジプト記」の20章に人間が基本的に守るべき大原則として神が与えられたものです。その中には「唯一の神を拝せよ」「偶像を崇拝するな」、「安息日を尊べ」「姦淫をするな」などの十のアウトライン化された項目があります。罪の中にある我々は神の助け無しに神の律法を全うすることは出来ないのです。 しかし、神の戒めを守ることが自分の力で出来ないと言うことが、神の戒めを無視してよい理由にはならないのです。なぜならキリストはそういう罪の前に無力になっている人間の罪をあがなってご自身の身代りの死によって律法を全うされたからです。従って自分が出来ないからと言う理由で律法を軽んじるならば、それはキリストの十字架の犠牲の重さを自ら過小評価する事になってしまいますが、それは愚 かです。もし、自分はキリストを信じる、十字架の身代りの死を受け入れると言っていながら「律法は福音から比べたらもはや大きな問題ではない、極端な話し、フリーセックスをしても、嫌な奴を抹殺しても、靖国神社で手をあわせても、隣人を妬んだり羨んだりしても、気にするな、神は愛のお方だからあなたを滅ぼしたりなさらないであろう」、と思っている者があるならば、その人は律法主義のパリサイ人の主張に対する人間的反動を行なっているに過ぎず、パリサイ人同様に呪われるかもしれないのです。そもそも「律法」と「福音」を比べて優劣を論じることがリンゴとジャガイモを比較して優劣を論じるのと同じくらい愚かなことであると気がつかなければなりません。そういうではなくて、律法が石の板に刻まれたように、あなたの心に刻まれて、自然に神のみこころを行えるようになるのが十字架のあがないによる救いの趣旨なのです。 パウロが、「文字によらず霊による心の割礼こそ割礼である」(ROMAN 2:29)と 言う言葉の深い意味がここで味わえるとおもいます。
【引用聖句】
『いったいキリストが私を遣わされたのはバプテスマ(洗礼)を授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉(=難解なロジック)を用いずに宣べ伝えるためであった。それはキリストの十字架が無力なものになってしまわないためである』 1Cor 1:17
教会に行くとしばしば、「パウロ先生派」とか「アポロ先生派」というような暗黙の派閥に出会うことがあります。それはだいたい自分が「パウロ先生」や「アポロ先生」に聖書研究を受けてバプテスマを受けたというような非常に人間的な理由に基づくものであります。しかも、それに追い打ちをかけるかのように、実際ある教会では、牧師の行なった受洗者の数に従って、昇進、昇給、解雇を判断している所すらあります。また引退した牧師や教師が「名誉牧師」とかいうような称号が付与されることがありますが、これとてその人の信仰が評価されてというよりも、お説教が面白かったとか、人気があったとかという極めて人間的な価値判断によってなされる事があります。そういう称号がかえって人間的に聖書のみ言葉の真意を正しく歪み淀みなく伝達する際の障害になっている事が見られる場合すら経験されます。昔あるプロテスタント教会(SDA)の牧師が私に「牧師は人気商売ですよ」と自嘲的に言っていたのが同情を以って思い出されました。
しかし上の引用聖句に従うと、そのようなありかたは正しくないということが無理なく判断されるでしょう。 人がクリスチャンになるのは、人脈が形成されるからではなく、人間の思いついた議論を持ち込んで自己が満足できるキリスト教的人生観が形成されたからでもなく、偉い先生があなたを説得したからでもありません。それは神がそうなるように導かれたのです。それに対して私たちが出来ることは、それに従うか逆らうかだけです。救いは個人の問題です。一方の福音を伝える器は福音と聖書のメッセージと戒めを人間的な混ぜものなしに伝達する為に召されています。自分の教説を納得させて洗礼の決心を誘導させるのが第一ではなく、ただ真摯・謙遜に神のメッセージを混ぜもの無しに語り伝えるのが、誰が何と言おうと第一義的な伝道者の使命なのです。
コリント人への第一の手紙の第1章の引用聖句はその事を改めて確認させられます。 本パテイオであくまでも組織を排して個人のスタンスでコミュニケーションを求めているのも、実はその理由によるのです。そういう趣旨でこのMJPをこれからもよろしくお願いいたします。
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