MESSIANIC JEWの本質
メシアニックジュー(MJ)もしくはメシアニックイスラエル(MI)とは神の救いの歴史を総括する栄光ある召しです。神はイスラエルを召して神の人類救済の計画を委ねられました。イスラエルは何回となく偶像礼拝や不信仰などに走って挫折を繰り返しましたが、この最後の時代になって、イスラエルの名前が再び唱えられるでしょう。それは、神が決してアブラハムの約束を無効にしてイスラエルを捨てていない事を表わしているのです。しかもイエス・キリストが約束のメシアとして来られたのは、その約束を成就するためであったのです。ダビデの末が王になるという約束も重ねて成就されました。イエス・キリストは、天の神であるにもかかわらず私たちの罪の汚れの故に地に降りて来られてこれを清められたという事実は驚くべきものであります。ペテロが最後の聖餐式の時に、イエスが彼の汚ない足を洗うのを拒まれましたが、それはペテロが単にイエスキリストを栄光の王の王としてのみ見ていたからであって、彼の汚ない足を洗うへりくだられた救い主という認識がなかったからです。そこでイエスはペテロが拒むなら「私とあなたとは何の係わりもなくなる」と警告され、そこでペテロはあわてて認識の錯誤を修正しなければならなかったのです。
ユダヤの年間の行事にはなぜメシアがきて人の罪の故に犠牲の羊として殺されて捧げられなければならなかったのかが象徴的に表わされており、それをよく注意深く吟味していたなら、キリストによる贖罪死の必然性ないし必要性をユダヤ人でも容易に気がついた事でしょう。私たちは、現在キリストの十字架を信じるいわゆるクリスチャンという伝統を引き継いで、再びこのイスラエルの約束の原点に立ち返ろうとしています。
もしクリスチャンの誰かが、「あなたはキリストを高めなければならない。キリスト以外のものが強調されるのは誤りだ」とか「あなたの存在はキリストとの一致の内にのみある。だからクリスチャンの存在はすべての魂の一致の上にある」と言うならば、それは電光石火ただちに間違いであると気がつかなければなりません。確かにキリストは私の救い主です。しかし、彼は観念的とか抽象的な存在ではありません。私たちは誰か「イエス・キリスト」という特別な超人的存在を普通の人間であった「イエス」よりも喜んでいるのではないのです。もしあなたが、このようにキリストを単なる観念的存在としてのみあがめているとするならば、自分が神の戒めを守らなければならないと言われたときに頑として抵抗するでしょう。
彼は人と共に安息日に集い、病めるものを癒し、過ぎ越しの祭りを祝いました。私たちがキリストをあがめるのは、彼が創造の初めから人間として生きるあらゆる側面にわたって経験を共有し、苦悩と涙を分かち、死とよみがえりを通られたからです。私たちは、聖書のすべてに渡る記述を単に「イエスさま」という情緒的な一言にすべて折り畳んでしまうことが出来るとは考えません。一部の人には「イエスさまの愛」という言葉だけをを浮き上がらせて愛しているようなことが見られますが、私たちは名前を唱える事だけに存在的な意味があるとせず、この聖書のすべての記述の隅々がキリストを伝えているが故にイエスキリストがメシアとして地上に来られた事実を生きた経験として積極的に覚えていたいと考えます。
キリストが来た事によって、過去の契約はすべて無効になって、十字架だけが意味があると考えている人がいますが、MJ(MI)はそうは考えません。よく読めば聖書には実はたくさんの契約が無効にならないままいくらでも残っています。創世記9章にはいわゆるNoahic Covenantという「私は二度とこの世界を洪水で滅ぼさない」という契約があり、これは現在でも無効ではないと思います。創世記の12、15、17章にはアブラハムの契約があり、アブラハムに約束の地としてカナンの地が与えられて、子孫が星の数のようになるという約束ですが、それはこの通りになっています。モーセの契約は、主に出エジプト記に現われていますが、これは、イスラエルがエジプトの奴隷の地から開放されたという所にテーマの設定をしていますが、それに伴なった613箇条の「モーセの律法」というのもその文脈の中で理解されるものであり、その中には当然普遍的な適用が生きています。その根本原則は神の天の秩序に一致するものです。十戒はその原則を集約したものであり、その普遍性を疑う人はクリスチャンにもユダヤ教徒にも存在しません。ここで重要なことはキリストはそういう律法を廃するために来たのではないという事です。また、意外に思うかも知れませんが、ユダヤの年中の祭式を排するために来たのでもありません。
確かに、犠牲の本体であるキリストが来られて、月毎の神殿への犠牲などは本来の意義を消失しました。そして、おおかたのモーセの律法や規定はキリストの十字架のプリンシプルに置き換えられましたが(だから我々も昔のユダヤ人のやっていた律法の社会規制に拘束されない)、注意しなければならない事実は、そうなったのはイスラエルの存在と、イスラエルが神を礼拝を継続するという前提条件の上で神が決められたことではない(!)ということなのです。イスラエルが根底から排除されて全然別な世界が出来上がったのではないのです。パウロが新約聖書の書簡の中で律法の呪縛から解放されたと言っているのは、モーセの契約の律法から解放されたと言っているのではなく、モーセの律法の定めるところを社会大衆にenforceする所の後世のラビの任意に決めた宗教的行政規制から開放されたと解釈されます。そういう解釈は私たちの創作ではなく、カリフォルニアのフラー神学校の校長のDaniel P. Fuller氏が著書である"Gospel and Law"という本の中で述べている所である事を確認して下さい。
新約聖書の「ヘブル人への手紙」というのは実は、もとはといえば "Messianic Jewへの手紙"というタイトルだったのです。それもそのはず、パウロが書簡を充てたユダヤ人というのはキリストを神と信じていたのですから当然、文字通り、Messianic Jew だったのです。 そういう認識で読んでみると、必ず新しい発見をされると思います。今週のウィークエンドは皆さん「ヘブル人(MJ)への手紙」を読みましょう!
A Message from Mr. Kataoka
名古屋にお住まいの片岡さんから次のようなメッセージが寄せられています。
ちなみに、ここでいうところの、奥義とは、旧約聖書に預言されているものの、 これまで明らかにならなかったことが、今ここで、明らかになったという意味で、 救いの中心が、異邦人に移ったことでは、だんじてないのです。 これは、24節と25節を続けて読めば、普通は問題無いのですが、巧妙に関係が断ち切られ、読み替えられています。
また、ユダヤ人伝道に熱心な伝道者は、共産圏や、イスラム圏の伝道にも熱心なのは、まさにパウロのいったとおりに、行動しているわけです。福音が、異邦人の全世界に伝えられたとき、ユダヤ人全体も、イエスを救い主として受け入れるのです。(異邦人の最後は日本かもしれない) 私達は、特別な使命を受けた民を、嫉妬の目で見るべきではありません。神が用いた、また用い続けようとしている民を、否定することは、キリスト者として誤った行為であると、確信します。