セブンスデーアドベンチストは、このようにメシアニックジューが発生する百五十年以上も前から、第七日安息日に立ち返ってこれを守る様になったのですが、その意味で、この教会はプロテスタント教会とキリスト教会の中で忘れられていたユダヤの信仰の遺産の間の仲をとりもつ仲保または懸け橋の使命が与えられていたのではないかと考える事が出来ます。しかし、残念ながら、自分の教会のユダヤ性を批判の対象にされて、それを受容するかわりに、他の教会と同等の福音教会として認めてもらいたいと思うばかりに、逆に自分達に与えられた使命のユダヤ性を打ち消すような方向に進んで来た、というのがこの教会の成立以来の不幸な歴史でもありました。
SDA教会では、たとえばルカ21章やマタイ24章に書かれているキリスト再臨のしるしを、戦争、災害、地震、迫害のはじまりなどに結びつけてきていましたが、その中でも特にユニークなのは、「国家権力が土曜日の安息日に対して、日曜日の休業を強制する様になるのが人類最後の歴史のしるしとなるであろう」、というビジョンを持っているのです。しかしながら、この日曜休業令の事に関しては、「大争闘」で教会の女預言者であるEGホワイトが言及していましたが、実際に十九世紀の終わりにPresident Harrisonによって日曜休業令がある時期の間法令として出された後には日曜休業令に関して懸念や警告を述べた公式発言がただの一度もなかったという事は注目されるべきでしょう。ということはこの教会は第七日安息日を守るように導かれたのは正しかったとしても、教会員に第七日安息日の遵守を勧めるに当たって、再臨終末の危機意識を用いるのが主であって、本来のユダヤの伝統と知識からの動機付けが出来なかった証左であると解釈できます。実際問題として、SDAが成立した19世紀の時点ではユダヤ民族は未だ世界歴史の表舞台からは遠ざけられており、ユダヤに関する正しい情報も巷には流れていませんでしたから、この状態でこの教会がユダヤ人の文化遺産から学ぶという事は出来ない相談であったと言えます。
しかし、そうであったとしても、セブンスデーアドベンチスト教会は、その名前の通り、週の第七日目を安息日としてリスペクトを払ったのですから、それだけでも神から祝福された事は全く疑うことが出来ないでしょう。
ところが驚いた事に、ホワイトが1901年に、Counsels to Writers and Editors という文書の中で「ルカの21章はこれからエルサレムに何が起こるかを述べています。これは神の御子が雲に乗って再び来られる直前に世界に起こる事と関連しています(p.23-24)と書いていました。それが何であるかを考えるのにルカ21やマタイ24を読んでみても、それが日曜休業令に結びつけられそうな手がかりは皆無です。それどころか、かえって一層明らかになる事実は、むしろ「エルサレムは異邦人の時が満ちるまで踏みにじられるであろう」ということであり、明らかにこの「異邦人の時が満ちる」事が再臨の直前に起こらなければならない事になります。言い替えるなら、エルサレムが回復されるという事件こそが恩恵期間の終了のはじめの徴ではなかったのか? という事なのです。
確かにSDAには、他のプロテスタント教会同様に、ユダヤ人の興亡に関する歴史的視点を欠いてきていました。キリストを十字架につけた時点で「呪われて永遠にさまよう民」の烙印を鵜呑みにして、通俗の「置換神学」を導入して、聖書のイスラエルの祝福の約束は肉ではなく霊のイスラエルであるクリスチャンに「置換」されたものであり、エルサレムやイスラエルの子供達の帰還の記述もことごとく曖昧な「霊的解釈」を施して我田引水に「われわれのものだ」としてきたのです(同じような事を主張する教派は勿論少なくありませんが)。1944年にアメリカのセブンスデー・アドベンチストの広報部である「預言の声(Voice of Prophecy)」から著わされた文書には、「ユダヤ人は世の終わりまで呪われた民であって、前途に希望が無い」と書かれました。また1947年に、SDAの当時の指導的神学者であったRoy F. Cottrellは同教団の出版会社である Pacific Pressから著わした自著の本の中で、「ヘルツエルらの起こした国際シオニズム運動はイスラエル国家をパレスチナに回復しようとしているが、そういう企ては不可能である」としていました。
ところが、イスラエルは奇跡的にその翌年の1948年にアラブ諸国の圧倒的軍事力を跳ね返して建国を果してしまいました。その時、SDAの指導的人々は、驚きはしたものの、どうせユダヤ人の弱小コミュニテイがアラブの猛攻の前に長く続くはずが無いし、イスラエルにいるユダヤ人はニューヨークにいるユダヤ人よりも少ないのだからイスラエルのユダヤ人国家の建国など有り得ないとして、その出来事に深い意味があるのではないかとは考えなかったようです。
ところがイスラエル建国の翌年からSDAの内部で少しばかり変化が起こりました。まず1949年にSDAが教理のマイナー変更を行ないました。その翌年、Robert J Wielandと Donald K Shortが連名で世界総会に対して教理の変更に関する意見書を提出しましたが、それは「1888 Re-Examined」という名前の文書として有名で、内容は1888年にこの教会のミネアポリス世界総会で律法の回復派と福音派が衝突して大混乱を来たしたという出来事があったのですが、その出来事を反省して教会全体としての教理変更に伴う問題点を指摘したものとされています。ところが教会は最終的にこの勧告を1967年に正式に拒否し、ルカ21:24の聖句解釈も実際の歴史には何も関係がないかのように解釈されるように固まってしまいました。ところが、SDA教会の中でそういう自分の教会の使命が混乱させられるような議論が起こっている最中の同じ1967年に「6日戦争」が起こり、イスラエルは念願の古き都エルサレムを奪回して世界をあっと言わせたのでした。
それからさらに13年の後の1980年には、イスラエルは首都をテルアビブからエルサレムに遷都して、ついにその時点でイスラエルは国家(エレツ)としてユダヤ人のものとなったのです。言い替えるなら、聖書が字義通り言ってきたように(あるいはホワイト夫人がそう言ったように)エルサレムが異邦人によって踏みにじられてきた時代が終わってしまったのです。その直後にメシアニックジュー(Messianic Jew)というイエスキリストを主と受け入れるユダヤ人クリスチャンのグループがイスラエルを含めて世界各地で起こりました。「キリスト教に改宗するユダヤ人はイスラエル国籍を剥奪」というイスラエル共和国政府の威嚇すらにもかかわらずイスラエル国内においてもMessianic Jewsの存在は着実に確立されてきています。彼らはキリストを主と認め、第七日安息日に礼拝をしてプロテスタントやカトリックからも異邦人改宗者を集めているのです。ユダヤ人の間にこのようなリバイバルが始まったのは1980年以降の事です。アメリカではメシアニックジューは少なくとも10万人になっており、これに賛同し援助をしているクリスチャンを含めると、その勢力は恐らく60万人程に達しているであろうと推定されています。
ちょうど1980年のSDA教会の中で何が起こっていたかというと、当教会神学者のデズモンド・フォードやロバート・ブリンズミードによる預言解釈の否定などの再臨信条を破壊する神学論争の嵐や、ワルター・レイの「White Lie」に現わされたようなホワイトの預言の霊に対する教会三面記事レベルの攻撃が教会の中で現われました。これは非常に興味深い年時の符合です。アメリカにはセブンスデーアドベンチストは80万人(全世界ではせいぜい450万人)いると言われていますが、やはり時を同じくして教会の霊的衰退が 始まっています。「もう我々は第七日の安息日にこだわるのはやめよう」という主張を唱える教会の神学者すら現われているそうです。 日本のアドベンチスト教会でも、やはりちょうど奇しくも、同じ時期から雑婚の容認、教会出版物の信仰のトーンダウン、保守的な教団役員出版物編集者の順次中央排除、金曜日サンセットの軽視、第7日安息日遵守に対するリスペクトとモラルの低下、教会バプテスマ試問の一部削除検討などという順序で教会の緊張した再臨信仰が徐々に空洞化し、切り崩されて行きました。そしてその結果、SDA教会からかなりの数の信者が静かに離れて行きましたが、アメリカではそのような人の中で現在メシアニック・ジューに参加している人々は少なくありません。ですから、SDAに属して恵みを受けていた人がみんな失われてしまったという訳では決してないのです。
この様にして振り返ってみると、SDA教会の後退プロセスはイスラエルの回復と時期的に逆相関しているように見えますが、一体これは何を意味しているのでしょうか。SDAは、やはり本物が現われるまでの救いや安息日の使命を一時的に担っていたものであって、今こそ最後に真打の登場を迎えて、道を譲ったという事になっているのでしょうか。そうかもしれません。だとするとイスラエルの復興とSDAの表の目に見えない関係が、1980年の時点で折り返し地点に達したという事は、ますます神秘の摂理の内に導かれた歴史の必然のように思われます。1980年7月のイスラエルのエルサレム回復が時の終わりのしるしであるとするならば、SDAの
Spontaneous decline (自然退潮)は歴史の表舞台のスポットの当たらぬ所で起こったしるしでもあると思います。それはちょうど、イエス・キリストが来たので静かに公の使命から降板したバプテスマのヨハネのようなものを思い起こさせるではありませんか。事実SDAの教会は自分達の再臨終末宣布の使命をエリヤの使命と言っていますのでその点において確かに自らの運命を奇しくも言い当てているように見えます。
このセブンスデーアドベンチストのユニークな歴史的意義は, これからも詳細に論じられたり、クリテイカルな検証を行ってみる必要と意義があるものと見られます。
This page hosted by
Get your own Free Home Page