神の存在とメシアについて
旧約聖書は神の存在を論じるのにほとんど何も労力を払っていません。旧約聖書(Tenach)においては、そのかわりに、世界が神によって創られた事、アダムの創造以来の人類の歴史が始めに比較的淡々として書かれ、それから神の救済のプランとして、アブラハムが選ばれた事、その後のイサク、ヤコブ、ヨセフの物語が集中的に語られています。
イスラエルの時代において、「神の存在」が哲学的に疑念を持たれたという様なことはありませんでした。彼らがアブラハムの子孫であることを固く信じている以上、彼を選ばれた上なる神がおられることは自明の事であったからです。アブラハムとサラが奇跡的な召しによってメソポタミアを離れ、奇跡的にエジプトで命を助けられ、高年齢で奇跡的にイサクが与えられて、そういう連続の奇跡の結果信仰が試されるという経験を経てパレスチナに約束の地が与えられた、というトーラーの記述を信じてユダヤ人が信仰によって存在している以上はそれを支配している神の存在を疑うことは不可能なのです。言い換えるなら、あのパレスチナの不毛の地にアブラハムの約束に従って国を建てたイスラエルがこの世界にあるのは、世界を創造された神が存在する事の、人々の好むと好まざるとに係わらぬ、証明ともなっているのです。
”... Because that which may be known of God is manifest in them; for God hath shewed it unto them. For the invisible things of him from the creation of the world are clearly seen, being understood by the things that are made, even his eternal power and Godhead; so that they are without excuse... ” (新約聖書 ローマ 1:19、20)
従って、トーラーの記述の通りに、世界が出来た順序と秩序、世界の歴史の順序的展開を布観するならば、神の存在があることを改めて論ずるまでもない、というのが聖書の神の存在の議論に与える一貫した解答なのです。 その理解の上で、もう一度旧約聖書の記述に戻るなら、アブラハムの子孫の繁栄の約束は、100万ドルの懸賞が無目的に何の動機もないところに当たるようなものではなく、「罪をあがなう犠牲行為」という確固とした超自然的目的行為の啓示に基づいている事に気がつくでしょう。アブラハムが神に示されて彼の一人子イサクを犠牲に捧げるように言われてそれに驚愕と苦悩を感じながら自発的信仰で従った経験を通して、神がその一人子を捧げるという信仰による罪の救済のプランを提示しました。もっとも、救い主のコンセプトはアブラハムが最初ではありません。そのような啓示はノアにも与えられていましたしそもそも罪が始まった直後に、メシアの啓示はアダムにも次のように与えられています。
”And I will put enmity between thee and the woman, and between thy seed and her seed; it shall bruise thy head, and thou shalt bruise his heel” (トーラー 創世記3:15)
この、"seed"(種)という言葉の持つ意味は重大です。明らかにその言葉は女の子孫である人類を指しています。つまり、罪をあがない、裁きを行なう救い主は女の種である人のかたちの中から現われるのであって、形而上的な思索上の存在であったり、超人間的な一方的な天上の神からの啓示ではないという事を意味していると考えられるでしょう。そして、ヤコブが死の直前に、12人の息子達に対して祝福の預言をしていますが、その中で、
”The sceptre shall not depart from Judah, nor a lawgiver from between his feet, until Shiloh come; and unto him shall the gathering of the people be.” (旧約聖書 創世記49:10)
というのがあります。来たるべき人というのは、ヘブル語でShiloh、ですがこれはメシアの源義です。メシアとは油注がれた者という意味であり、聖なる指導権を持った者を意味しています。それが、旧約聖書サムエル記第二第7章に来ると、「女の種」がダビデの血統に綿々と続いて来たことが明らかにされており、その上で預言者イザヤを通して次のような劇的な啓示が与えられます。
” Therefore the Lord himself shall give you a sign; Behold, a virgin shall conceive, and bear a son, and shall call his name Immanuel.” (旧約聖書 イザヤ7:9)
” For unto us a child is born, unto us a son is given: and the government shall be upon his shoulder: and his name shall be called Wonderful Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace. Of the increase of his government and peace there shall be no end, upon the throne of David, and upon his kingdom, to order it, and to establish it with judgment and with justice from henceforth even for ever. The zeal of the LORD of hosts will perform this. (旧約聖書 イザヤ9:6、7)
このように、メシアとは、「女のすえの種」から、神聖な契約に従って、処女から生まれる、ただ一人の超自然的かつ神聖な、人間としての存在なのです。イエス・キリスト(メシア)が超自然的存在だというと、誤解を招くかも知れませんが、その真意は、メシアは神の創られた世界(自然)以上のものである事実を述べるものであり、この場合漠然であっても最も正確に表現するものとして考えてほしいと思います。いみじくも、悪霊の起こす「怪奇現象」がしばしば「超自然的」という立派な形容を受けているのですから、まして神の神聖なご計画や清いアクションはそれ以上のものであると納得できるでしょう。その上にさらに旧約聖書のメシアの証しは続きます。
イザヤ53章はイエス・キリスト(イエシューア)のメシアとしての生涯が十字架の犠牲に至るまでの過程として詳細に予知表示(預言)されています。 ダニエル書9:25ー27はもっと驚くべきことに、
” Know and understand this: From the issuing of the decree to restore and rebuild Jerusalem until the Anointed One, the ruler, comes, there will be seven `sevens,' and sixty-two `sevens.' It will be rebuilt with streets and a trench, but in times of trouble. After the sixty-two `sevens,' the Anointed One will be cut off and will have nothing. The people of the ruler who will come will destroy the city and the sanctuary. The end will come like a flood: War will continue until the end, and desolations have been decreed. He will confirm a covenant with many for one `seven.' In the middle of the `seven' he will put an end to sacrifice and offering. And on a wing of the temple he will set up an abomination that causes desolation, until the end that is decreed is poured out on him."
とし、69週(つまり69 x 7 = 483年)の後にメシアは断たれるとしていますが、実際、イエスキリストが十字架にかけられたのは、アケメネス朝ペルシャのアルタクセルクセス王のユダヤ人への恩赦令とエルサレム再建許可令が出された紀元前445年から483年後でした。日数を年に換算する表現は、旧約聖書のいろいろな所で用いられている一般的用法ですが、それは 自明の事としてここでは説明を省略します。ちなみに余談ですが、キリストの十字架以後、現代までのユダヤ教ではトーラーや列王記などはいくつもの解説書が存在して集中的に研究されて来ましたが、それに比べて、詩篇、イザヤ、ダニエルなどの書の研究文献が数えるほどしかありません。なぜなのかその理由をユダヤ教のラビに尋ねると、その正直なラビは「詩篇やダニエルなどの預言書をマジに深く研究していくと、イエス・キリストがメシアであることを証明してしまう結果になるからだろう」と言いました。こうして来られたメシアは、新約聖書においても、旧約聖書のトーラーの記述を十分な根拠にして
” For there is one God and one mediator between God and men, the man Christ Jesus, who gave himself as a ransom for all men -- the testim ony given in its proper time.” (新約聖書 1テモテ2:5)
と証しされているのであります。 このように、メシアがキリストであることも、神の存在と同様に、我々がユダヤ人を通して与えられた救い主を信じる信仰によって自明なのです。
質問またはコメントはいつでも歓迎します。
MJは現在、プロテスタントの教会の中で徐々に関心を集めていますが、相対的にカリスマ系によく受け入れられている傾向があるのだとか。実際にこちらのMJのオフィスには、プロテスタントだけでなくカトリックからも個人的問い合わせがひきも切らないという状況になっています。何の教派に属しているとしても、MJが現われて、今まで持っていた自分の信仰のルーツが突然現われたと言う新鮮な驚きがそのような状況を生み出しているのであろうと思います。それは異なる教派間の教理の違いを人為的に妥協・交渉・根回し・教理改変等という形で一致を求める努力するエキュメニズムとは異なり、自分達の信仰が出てきた元の木の枝の幹に行ってみようとする、寧ろ自然な形のキリストを信じる人々の心の融合が実現する場所として、これからも注目を受けるであろうと思います。
This page hosted by
Get your own Free Home Page