History 1
「神は死んでいなかった」
Hisotorical Implication of Messianic Jews (3)
私が高校時代の時、よく実存主義のニーチェなどに傾倒しているような学生と出会ったものです。高校の倫理社会のレベルの簡単な話で言えば、ニーチェはキリスト教の神の否定で「神は死んだ」というのがその象徴的な引用句でした。それに対してキルケゴールは信仰の受容肯定であったとか、そういう事を学んだような気がします。それが一体MJと何の脈絡があるのか?それをちょっとユダヤ人研究の鬼門ともいえるヒトラーのユダヤ人虐殺からという変則的なアプローチで考えてみましょう。
ニーチェは他の人から、「あなたは神学者よりもキリスト教の事をよく知識を持っているのにどうしてクリスチャンにならないのですか」と尋ねられて、「教会に行って神を信じていると言って心が平安である事と喜びに満たされている事が顔に表われている人に一人でも出会う事ができればクリスチャンになっていたでしょう」と答えたそうです。ニーチェがどこの教会に出ていたのか特定の宗派の事は私は知りませんが、一応この言葉は当時のヨーロッパ・ドイツのキリスト教界全般の事を指していたと解釈するのが自然であると思えます。こういうニーチェが当時のスピリットを慢性的に欠如したキリスト教会の閉塞状況を見て「神が死んだ」と言ったのは、それなりにキリスト教に対して期待していたものが裏切られた結果出て来たものであろうと思いますが、神を否定しているように聞こえるセリフは同時にそれは神の存在を認めて来た認識の裏返しであったのです。キルケゴールが「それでもなお神に期待する」という態度であったのに対してニーチェは「もうだめだ」という方向に走り、そこで奇妙にも別な救世主を求める思想に深めて行きました。本ではそれをデユオニソス的志向とかなんとかいろいろな形容詞をつけて説明していますが、要するに、今まで出来なかった事をやってくれる「超人」を求めたのです。それは、自力本願宗教の如く自分の内部に「超人」の可能性を求めて期待しているのではなく、本当に妙なのですが、「神が死んだ」と言っていながら、別の全能者が現われて問題を解決してくれることを期待したのです。
ニーチェのいう「死んだ神」とは、十字架に掛けられてユダヤ人によって殺された神であり、イエスはその時代に希望を与える「超人」であったものが、ユダヤ人によって抹殺されてしまった。その怨みが今に至るまで呪いとしてかかっていて人間は今でも混乱と苦痛の中にいるのではないか。それならばキリストを殺したユダヤ人をこの世界から消滅させることができたとしたら、「神が死んだ」事の証明になるのではなかろうか、と考える人たちが現われたのです。ニーチェは19世紀半ばに自分の思想がどこにつながるかを見越していました。彼は我々の20世紀の混乱と恐怖を予感し、その中で「予言者的」なカリスマを与えて来ました。しかも彼の自分で予知した問題に対する彼なりの解決法はその認識のように壮大で乱暴なものでした。つまり(ここがポイントですが)ニーチェはユダヤ人の神(つまりキリスト教の神)の「死」が、人間がより高い存在、つまり神不在の「超人」の時代に至るために必要な第一歩としたのです。彼はその自分の作りだした認識によって狂気にも至ったのであります。何千年というユダヤ人の歴史の中での不思議な持続性は、いにしえの旧約の世界でイスラエルを選ばれた天の神の存在の証明であると思われたので、本当に神が死んだのであるなら、それを証明する唯一の方法は、ユダヤ人が地球上から完全に消滅させる事であるとしたのです。もちろんこれは狂人の論理ですが、彼らにとってはこれほど論理的な事は無かったのです。
そういう気違い沙汰とも思える論理を実行に移したのがヒトラーでした。ヒトラーがユダヤ人を殺そうとした大きな努力の中には偶然や狂人の思い付きというものはありませんでした。なぜなら彼は実は「予言者」ニーチェの言葉を実行する忠実な弟子の一人だと思っていたのです。それで、彼は、自分から見れば何をどうもがいても終わる運命の社会に「ドイツ第三帝国」を築き、無神経無感覚で冷徹な機械の様にニーチェの引いた「超人の世界」の実現の青写真に従ってユダヤ人抹殺計画を実行に移したのでした。600万のユダヤ人が死にました。これはニヒリズムの描いた「神」のイメージに対する自己賛美でありました。ヒトラーの通ったあとには死屍累々の廃虚と悪夢が残りました。ヒトラー自身も消滅し、自ら廃虚の中に消えて行きました。
こうしてニヒリズムという病人の妄想にもてあそばれ、傷つき希望を失ったユダヤ人達は「一体どうして我々は選ばれたのだろうか」と問い始めました。ユダヤ人はヤコブの染色体を持っているから踏みにじられるのであろうか、キリスト教教徒からもイスラムからも社会主義者からもけ散らされるのは何故であろうかと。まもなくシオニズム運動が盛り上がり、これまでは絶対に不可能であると思われていた、イスラエルの国の建国という大事件が起こりました。あるものは自分のアイデンテテイを求めるためにこれまでの安住の地を離れてイスラエルに移住しましたが多くの者が自由の新天地であるアメリカ合衆国に移住しました。アメリカには「超人」の到来を待ち望まなければならないような社会の閉塞状態はありませんでした。従来までのユダヤ教の伝統は音を立てて崩壊過程に入り、自分達は一体何物であるのかという反省過程が始まったのです。
結果的に明らかなように、ヒトラーはユダヤ人を絶滅させることは出来ませんでしたから、「神が死んだ」事を証明することは出来なかったのです。それどころか、その迫害によってかえってイスラエルの建国の可能な状況を創り出し、そのままでいたなら絶対一人立ちしようとしなかったユダヤ人を動かさなかったでありましょう。その意味では、ニーチェはユダヤの神は死んでしまったという対立仮説を出し、ヒトラーがその仮説を自分で証明しようとして、結局イスラエルの神が生きていることを証明してしまった結果になったと言えるのです。またニーチェのようなニヒリズムを生み出したキリスト教会の側も必ずしも今の状況が19世紀と同じであるとは限りません(そういう教会も一部残っているのは否定しませんが)。ナチスの反ユダヤ主義によるホロコーストは、そういう風にして心あるキリスト教がユダヤ人を再発見するきっかけとなったのです。
そうして、実は我々の望んでいたのは「超人」ではなく、我々のために自ら十字架にかかられたメシアであることをユダヤ人自らが悟る事によって、20世紀後半にMessianic Jewsが起こるように、キリスト教とユダヤの「微分係数」の合一する合特異点に導かれたと考えられるのです。 なんという運命ではありませんか...
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