第一版 1996年
第二版 2000年9月17日
もちろんそういう説を聞くのは時には痛快であり、私は個人的には興味深いと思っています。しかしそうであったとしても現状の日本では残念ながらそういう話は、キリスト教の側からもオカルトとか、心霊現象などの如き眉唾ものの話と同列に扱われる傾向があり、また、国粋主義精神から論じられたり、また神道などの宗教との融合混交の口実の為に用いられたりして混乱をみずから混乱を来していたりしています。また、それゆえに、そういうレベルの議論であるからという理由で冷静に考えられない傾向があります。ですからこういう状況が変わらない限り同祖論の議論をするのはここでは意味がないと思えます。また、奈良の建築物にギリシャア様式の影響が見られるから、と言って奈良の都市計画を行なったのはギリシャ人だったというのと同じようなレベルの議論はMJはつとめて敬遠していて構わないでしょう。
ひとつ面白い例として、こんな話があります。最近もモンタナで、あるユダヤ人の医師が、自分もMJに加わりたいが、自分がユダヤ人である事を証明するために、骨髄検査をして造血細胞の遺伝子マーカーによって証明したと言いました。これに対してMJのラビはこの「ユダヤ人」医師に、「あなたがユダヤ人の血や遺伝子を継承しているからユダヤ人として救われたり、MJになる資格を獲得するというのではありません。真のユダヤ人は、聖書とトーラーの戒めを尊重して守るのがそれであり、遺伝子が証明したとかどうかというのは重要ではありません」と教えました。そうしたら、この医師はそれきり怒って二度とMJに来ませんでした。日本人であるあなたがもし日猶同祖論に自分のアイデンテテイとリバイバルの根拠を賭けるとするなら、この骨髄検査の結果を盾にしてユダヤ性を主張する医師と同じ愚かな事をしている事になるのが理解して頂けるでしょうか。
そういう訳で、基本的にMJは、日猶同祖論の是非に存在を依存していないという理解を読者に要請します。
日本の巷では、日本が「失われたユダヤ十部族の子孫」であるという説が、非宗教者、キリスト教外の人をも含めて一種のブームになっているのだそうです。日本のメシアニック・ムーブメントの中でも、この日猶同祖説をもって、我々も実はユダヤ人なんだということを言い、中には日猶同祖説をもって日本の霊的リバイバルのチャンスにしたいとすら考えておられる人もあると聞いています。それに対し、やはりメシアニック・ジューを支持している中川健一氏らを代表とするグループはどちらかというと日猶同祖説には批判的な立場であるようです。
日猶同祖説は日本が世界に目が開かれた明治の開国あたりから発生している帰納的推論であってそれ自体新しいものではありません。この説が依拠している所も古代の文献によるのではなく、比較対象と直感に頼っているところが未だに多くその意味ではまだ正当な学問の地位を獲得していません。そうであったとしてもこれらの間接的な風俗、言語などの『証拠』の集積は、やはりひょっとしたらユダヤ人が日本にも渡来しているという可能性を否定することは出来ないと思います。しかしながら、それは単に日本人の中にユダヤの血を引いている人が小数はいるであろうという穏やかな結論を導くだけでしょう。
日本人がユダヤ人の末裔であると主張する事は、もっと深刻な自己矛盾的な民族の問題を自らの上に誘導することに気がついている日本人はどれくらいいるのでしょう? たとえば、仮にも日本人がユダヤの10部族の成れの果てであったとするならば、それならば今世紀に入って日本人が韓国や中国大陸の人にした「蛮行」はどういう説明と釈明をするのかというような事を考えた人が日本にどれくらいいるでしょうか? 日本政府は公式には否定していますが、日本は戦前韓国を併合してから韓国朝鮮の人に非人道的な行為を行なってきたと主張されています。詳細は論じませんが、それは大変むごいものであって、ナチスのユダヤ人六百万虐殺の数には及ばぬものの、本質的には同様の残虐性であったと言われています。
一部の左翼政治家はそういう日本の過去の事を持ちだして軍国政府批判、保守政権批判のプロパガンダに利用していますが、問題はこれらのクレームがどの程度事実であるかという事ではなく、どうして日本民族がそのように言われなければならないのか、という事です。これは日本が全体主義になろうが共産主義になろうが政府の形態に関係なく国民の中の罪によって起こったものと考えなければならないと考えます。
その点に関して無反省のままでは、「いやあ、実はわれわれ日本人はユダヤ人の子孫なんでした」などと言うような事は、大陸の人やクリスチャン人口が半分に達しつつある韓国の人の前で言える事ではないということを冷静に考えてみて下さい。
私は考えます。日本人はもしかしたら本当に少ない可能性ながらも何歩か譲ってユダヤ人の子孫であるのかも知れませんが、そういう証拠は日本人が世界の前で民族の罪を告白して悔い改めない限り天の日の下には絶対に現われることはないと思います。中川健一氏が日猶同祖説に批判的であるのも恐らく彼らの「ハーベスト・ミニストリー」が韓国のクリスチャンの祈りと多くの献金で支えられているので、そういう彼らをさしおいて日本の過去の罪の清算なしに日猶同祖フィーバーに走るのは申し訳ない事であると考えておられるからと察せられます。中川健一氏がそう考えて日猶同祖論に反対しているのであれば、彼はその点で間違ってはいないと判断されてフェアです。しかし、「民族の罪」とはそれだけの表層的なものではないでしょう。それは左翼リベラリストらの薄っぺらな政治宣伝以上のものであると寧ろ考えるべきです。もし日本が失われた十部族の末裔であるとするならば、その十部族がなぜアッシリアの進攻を受けて祖国の地から強制連行されたのかという所まで罪のルーツを遡る必要があります。それはイスラエルの背教と偶像崇拝の罪を日本民族の罪として認知することが出来るかどうかという所にまでボイルドダウンしなければならないのです。
そういう背景と理由で、ここでは日猶同祖説が頭からヒステリックに否定したり排除されたりする事はありませんが、そうであったとしても、日本人がメシアニック・ジューを名乗る事の出来る資格獲得には全く関係のない事であるという一貫した姿勢を取っています。たとえ百歩譲って、日本人がユダヤ人の子孫である様な事が何等かの歴史的出土品で証明されるようなことが将来万一起こったとしても、あなたがイエスをメシアと受け入れず、トーラーにリスペクトを払ってそれを守ろうとも、週の第七日の安息日も巧妙に言い逃れて守ろうともしないならば、あなたはジューにもメシアニックにもなれません。恐らくは、そういう歴史的証拠がもしあるというならば、神はその啓示は日本民族の罪が告白され悔い改めが起こることを前提条件とするでしょう。日本が民族として 悔い改めた日には、日本が失われた十部族である証拠が出てきても、韓国などの人々は喜んでくれるでしょう。