贖罪日 (Yom Kippur)



贖罪日とは、イスラエルの民が一年間の罪を悔い改める最も厳粛で神聖な日と言われているものです。旧約聖書のレビ記には
 

23:26 主はまたモーセに言われた、23:27 「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。23:28 その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。23:29 すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。23:30 またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。23:31 あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。23:32 これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」。


とあり、贖罪の日がロシュ・ハシャナの直後の十日になされる事が明らかに記されています。偶像崇拝宗教の祭りというと普通は、羽目を外す騒ぎやおもしろおかしい喧騒を思い浮かべますが、これはそんな甘っちょろいものではありません。ヨムキプールを守って己の身を清め、罪を悔い改めないイスラエルの民は厳罰を受けたのです。この日はまた、大祭司が至聖所に入り、年に一度の宮清めを行いました。ご存知のように、イスラエルの聖所とは民の日ごとの罪のあがないとして傷のない羊や山鳩などの動物の犠牲の血を受け入れていましたが、(レビ記16章参照)この日には一年間の積もり積もった罪を清めるために大祭司が至聖所に入って清め、もしそこでまだ悔い改められていない罪があれば大祭司が絶たれるのでした。その通り、KIPPURというのは、「身代わりの供え物」という意味なのです。

今日では、毎週の土曜日の安息日の礼拝にああだこうだと理由をつけてもろくろくシナゴーグに来ないようないい加減な世俗的ユダヤ人であっても、ヨムキプールの時だけはわざわざ会社の休みをとってシュンとなってやってきます。ユダヤ人の家庭ではその前の日などは大掃除を行い、家にある鍋釜はすべて沸騰したお湯で煮沸消毒をして清めます。しかし、その本当の意味する所はどれほど深く語り伝えられているでしょうか。

ロシュハシャナからヨムキプールまで、毎日シナゴーグではトーラーの朗読が行われていますが、その基本的テーマはイサクの犠牲(Akedah)です。神は我々のために、信仰の父アブラハムがイサクを捧げたのを受け入れたのだと教えています。なぜなら、イサクの犠牲は、メシアであるイエシュアの犠牲の予表だったからです。
 
 

11:17 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。11:18 この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。11:19 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。


ヨムキプールの時の預言書の朗読のテーマはヨナ書です。これははからずも、ユダヤ人が認めようと認めまいと、キリストが墓の中に3日の間いたことを予表しています。新約には、イエシュアが自分がメシアである証拠を見せよとパリサイ派のユダヤ人に質問された時、
 

12:39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。12:40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。
 
と答えられたのは、それが理由だったからです。イエシュアは預言者ヨナの経験を御自分の死と復活の摂理と重ね合わせてお示しになりました。こうした事実は古いヨムキプールの祈祷書から明らかに理解できるのです。

使徒パウロは、イスラエルが回復され、和解する事を預言して書いています(ローマ11:26)。ゼカリヤもまた、イスラエルが回復される事を預言しています。(ゼカリヤ12:10、13:9)。古代において、ヨムキプールはイスラエルの悔い改めの日でした。今日、それは一歩進んで、すべてのイスラエルがメシアの救済を受け入れて、偶像崇拝、姦淫、殺人などの罪から救われる時とならなければなりません。

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