しかしながら、信仰生活の出発点としての改心は、大きな人生転機です し、救いの出発点になるのは確かです。かつていずれかのキリスト教派に 属し、現在新教会に属するの人は、この転機がなかったら今の自分もなか ったと思われるでしょう。人が罪深い生活から離れるにはショックが必要 ですが、そうでなくても、宗教的冷淡さやマンネリズムから脱却して、人 生を有意義に、実り豊かに生活しようとすれば、みずからチャンスを求め なくてはなりません。「今のままではいけない」 と思いつつも、そ の状態を続けると 「今のままで何が悪い?」 という開き直った状態に、固着しかねません。 罪の意識が薄れると、悪習慣から脱却するのが難しくなります。それだ けでなく、自分の中に巣くっている遺伝悪、とくにその親玉ともいうべき 自己愛と世間愛が、心にしっかり居座ってしまいます。心の中にゴミがた まってもそれに気づかなくなると、自分はそんなに悪い人間ではないから 、まさか地獄に陥ることはないと思います。 今わたしが死んで霊界にいるとします。天界の天使たちが近づいたり、 地獄の霊たちが近づいたりします。天界の天使たちが近づくと、回りの雰 囲気が明るくなります。かれらは溌剌として穏やか、利発で生き生きとし 、人に対し同情的で、愛情にあふれ、主を心から愛しています。われわれ が同意さえすれば、天界に行く道を教えてくれます。しかし心に一抹の不 安が湧いてきます。天使たちと生活をともにして、うまくやって行けるだ ろうかということです。自分はかれらほど明るくないし、優しくなく、主 や人にたいし愛に溢れているわけでもない。「かれらは模範的だが、わた しには縁遠いし、天使の真似だけでは面白くない」 という方向に流 されていく可能性があります。 一方地獄の霊が近づいてきて話しかけられると、わずかながらも安心感 が湧いてきます。かれらはわたしの長所を高く評価し、ちやほやおだてま す。昔ながらの世間的野心が煽られると、嬉しくなって、なんでも同調し たくなります。悪霊たちは、善霊が偽善者で気が利かないとあざけり、主 に従っていくことが、いかに窮屈で報われないかを吹聴します。すると、 フラフラっとその考えに傾かないでしょうか。 「大して悪いことをしていないから地獄に行くことはない」 と思 うこと、その考えこそ危険です。地獄には、そのように考えて、自己愛と 世間愛になじみ、自己改革と再生を怠った人がいっぱいいて、自分たちの 現在の状態が一番幸せだと思い、過去の自分に同調して生きています。 「この世で悪が取り去られなかったら、後の世でも取り除かれません。樹 木は倒れたところで、じっとしています。…・・死は命の継続です。ただ 違うところは、もうその時は、自己改革は不可能になることです」(神の 摂理277).7月のチャンスを逃さないで! |
人が善の中にあり、このような信仰を維持している場合、悪がその人に 結ばれることも同化されることもありません。悪は自分に由来するのでな く、地獄に由来するのを知っているからです。 人がこのような心の状態にあるとき、平和が与えられます。なぜなら本 人は主だけに信頼しているからです。仁愛に根差してこのような信仰にあ る人だけに、平和が与えられます。それ以外の人たちは,たえず心労や欲 望に翻弄され、そこから不安が生じます。 自分のことは自分なりにやれ ると思う霊たちがいて、以上のようにすると.自分の意志を喪失するし、 自由とその〈よろこび〉、またあらゆる〈いのち〉や嬉しさも失われると 考えますが、その霊たちは、実情を知らないから、そう思うのです。(原 典訳) 以上は『New Church Life』5月号(228ペ)に引用掲載さ れた箇所です。以上と同じような箇所が『天界と地獄』302、『神の摂 理』320、321、『新エルサレムと天界の教義』170にありますが 、いずれも頻繁に引用されるところです。 「善はすべて主から、悪はすべて地獄から」の原理は新教会教義の中枢 的教えでもありますが、これを信じ応用しなくては、何の役にもたちませ ん。 わたしたちの心の中には、こっそりと盗人が入ります。そしてわがもの 顔に部屋中を物色し、荒らし回っている最中、突如家の主人が気が付いて 、「泥棒!」 と叫ぼうとしたら、その泥棒が反ってわたしたちに向 かって「泥棒!」 と叫んだとしたらどうでしょう。深夜、巡回中の 警官がかけつけても、どちらが泥棒で、どちらが家の主人か見分けが付か ないでしょう。 それと似ていて、心の泥棒は地獄から来て、わがもの顔に心を荒らし回 ります。そこには、恨み、嫉妬、復讐、猜疑、不信、失望、怨恨、嫌悪、 憎悪、疑い、執着、淫ら、軽蔑などが渦巻くでしょう。そのときわれわれ は、それが自分からでたと勘違いして、自分が泥棒だと思うと、どうなる でしょう。自分は絶対に救われない、自分は悪魔だと信じこませられます 。 反面しばらくして、ある別の機会に主から天界的流入があって、平安が 回復すると、愛情、同情、慈悲、犠牲、献身、柔和、謙遜、誠実、正直、 素直、天心爛漫、無邪気、平穏、秩序、調和が心を占めます。すると、こ れについても、もし自分から出たものと錯覚すると、自分は俗人と違って 天界行き間違いなしと思い、他人を軽蔑し、傲慢になる恐れがあります。 以上は、善も悪も、自分に由来すると錯覚することは、いかに間違って いるかを教えてくれます。スヴェーデンボルイは最後のところで、それは 「実情を知らないから、そうなるのです quia non sciunt quomodo se res habet; because they do not know how the case really is」 と 記しています。実情を知ることがいかに大切かを思い知らされます。 実情は、悪念はその出所である地獄に追い返すこと。また、善はすべて 主から出たものとして、自分のものにしないことです。善も悪もすべて自 分のものにしないことによって、悪念は自分を離れ、善は心に同化されて いきます。善はどうして同化するのでしょう。それは自らに栄光を帰せず 、主に帰することは、善だからです。 |
ラ castitas 英 chastitity
純潔にかんして、新教会は従来の教会と大きく解釈が違っています。ま ず純潔というコトバを、既婚者だけにあてはめて考えます。なぜなら人類 が男女に造られているのは、偶然でも一時的のものでもなく、また子孫を 増やすという理由だけでもありません。主の天地万物の創造には、「善と 真理の一致」という恒久のご計画があり、それが父なる神と子なる神、主 と教会、夫と妻、仁愛と信仰、意志と理性、情愛と思考の一致に現れます 。ですから、とくに夫と妻とのあいだの結婚愛は、天界の流入をいただく ための最高の窓口になっています。 ですから、新教会の純潔とは、結婚した夫と妻とのあいだの貞操のこと です。結婚以前の男女には、純潔にいたる準備としての慎み、節制、禁欲 が必要ですが、それをそのまま純潔とは考えません。たとえば幼児は純真 無垢の考えられやすいですが、実際はそうではありません。まだその意識 もない幼児には、外見では純真無垢に見えても、自然的であって霊的にな っていませんから、本当の純真無垢ではありません。外見上の純真無垢は 、内面の表象にすぎず、まだ表象の段階としてしか現れていません。真実 の純真無垢は、むしろ英知の中にあり、再生が進んで老年期にいたり、主 から与えられる英知の中に、純真無垢があります。 以上と同じように、結婚前の男女には、外見上純潔に見えても、結婚愛 という人間として最高の理想的状態に達していませんから、純潔も準備的 表面的で、表象にすぎません。ほんとうの結婚愛にある夫婦にとって、純 潔とは、二人が完全に一致することで、不倫の可能性が全く存在しないば かりか、二人の愛は時とともに成長し、精神的に若返ってくることです。 第三天界の天使たちとは、結婚愛で一致した夫婦のことで、一位の天使 として役立ちに励み、霊的子女を出産するとあります。この地上での結婚 が、肉的子孫の出産と育成を行っていくのにたいし、天界で結婚愛に生き る二人は、善と真理との一致を通して、あらゆる霊的実りを実現していき ます。物質的肉体に代わる実体的身体には、人間としてのあらゆる機能が そのまま備わり、夫の能力も衰えることなく、外見的にもますます若返り 、いっそうの美しさを備えるようになります。それが二人の霊的結合を促 し、喜びは永久に増えていきます。純潔とは、守りの美徳でなく、成長さ せていく一致結合なのです。 参考箇所 『結婚愛』139〜150。 |
98年箱根アッセンブリーへのお招き7月24日(金)より、29日(水)までのあいだ 何日間でも出席可能です。 礼拝、聖餐式、洗礼式、 講演、研修会、個人面談、ピクニックなど、 いろいろ企画あり。 今年こそ、霊的刷新のときです! まだの方は、お申込みください。 Fax 043・295・5417 クエリテ出版 林道夫
講演、研修などの題としては、バス司教から次のような案が出ておりま
すが、要請に応じて実施が可能です。 エマヌエル・スヴェーデンボルイ著 『小品集』(原典訳) が入荷しました! ご注文をお待ちしております。 250ページで定価1500円.友の会会員のかたには 2割引で送料サービスですので、同封の振替用紙で1200円お送りく だされば、すぐ発送いたします。 [内容解説] 小品三部を一冊にまとめ、『小品集』というタイトルで出 版することにしました。内容は次のとおり。 ★『白い馬』(原典初版1758年) 原題では『黙示録第十九章に ある白い馬について』。黙示録19章の「白い馬」を例にした〈みこ とば〉の霊的・内的意味の解説です。この小著16節には、聖書の中 のどれが〈みことば〉の書、すなわち霊的意味を含むものであるかを挙げ ております。スヴェーデンボルイが70歳のとき出版されました。 ★『アタナシオス信条』(原典初版1759年) 自筆原稿は現在残 っておりません。内容は、新教会教義の神学的護教論で、四世紀に活躍し たアレキサンドリアの司教アタナシオスの名をとり、中世のラテン教会で 用いられた信条を指しています。スヴェーデンボルイは、この信条のどの 点が正当で、どの部分が誤謬であるかを指摘します。 ★『仁愛の教義』(原典初版1766年) これは1766年発行 で、内容は、それから5年後の1771年に出版される『真のキリスト 教』第7章のための下書き原稿のような印象を受けますが、後者にない内 容が種々含まれていて、豊富な例や教訓が盛られています。
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アガトス 永遠に比べると、一瞬です。 |
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