聖書から『知識』を論じる(二章)

第二章 神についての知識を明らかにする本

T.第二章の要約

 『知識』の第二章の説いていることを簡単に要約するなら、次のようになります。その流れをつかんでおいてください。

愛ある創造者は人間に教訓的で導きとなる本を備えてくださるはずである(1)。

人間は、自分で自分の道を歩むことができない(2)。

聖書は、永遠の命を受けるための必要なものを備えているので、学ぶべきである(3)。

そこで、まず、聖書のあらましを述べ、聖書が神の言葉である理由を考える(4)。

聖書66巻のうち、27巻が新約聖書、39巻が旧約聖書である(5)。

新約聖書と旧約聖書は別々ではなく、両方を見なければならない(6)。

聖書全体を貫くテーマは、人間を支配する権利は神にあり、それは、神の王国において実現する(7)。

聖書は神の目的だけではなく、神の性格をも明らかにしている(8)。

聖書は、神が人間に望んでいる基準をも明らかにしている(9)。

聖書は霊感を受けた書物であるから、古くても、役に立つ(10)。

山上の垂訓を見れば分かるとおり、聖書は書かれた当時と同様、役に立つ(11)。

山上の垂訓には、幸福を見いだす方法、紛争を解決する方法、祈りの方法、物質や他の人との関係などについて教えている(12)。

聖書は、この世の知恵より優れた教えを説いている(13)。

聖書は科学の教科書ではないが、科学的にも正しい(14)。

聖書は、歴史の出来事を残しており、隠しておきたい罪等などさえ正直に記録しているので信頼できる(15)。

預言が成就したことは聖書が神の霊感によるものであることの決定的な証拠である(16)。

その預言の中には、「バビロンの陥落」(17)、「ギリシヤの王の興亡」(18)、イエス・キリストの生涯(19)などが含まれる。

このように成就することを預言した神が、来るべき地上の楽園を預言しているのであるから、確かである(20)。

聖書が考えや行動の調整を求めても、それに応えながら聖書を調べてほしい(21)。

友人や家族が反対したり、心配しても、真理を学んでいるのだから諦めてはいけない(22)。

生まれたばかりの乳飲み子のようにみ言葉を慕い求めるように(23)。

U.第二章の教えと聖句

 第二章の中心的なメッセージは、聖書は神の言葉であり、信頼できるものであるから、それに聞き従うように、ということにある。

 この主張は、キリスト教のプロテスタントの主張であり、歴史的キリスト教を信じる者にとっては、基本的に問題はない。

V.聖書の教え

 この『知識』の第二章が説いている「聖書について」聖書が教えていることを、ここに簡単に述べておこう。ものみの塔は、歴史的キリスト教の中でも、字句控泥主義者の中から生まれてきたグループである。従って、本章で述べられていることは、歴史的キリスト教が信じてきたことであるので、大きな違いはないが、特にその解釈などにおいて微妙な問題があるので、読み取っていただきたいと思う。

@神は、人間を「神のかたち」に想像された。その「かたち」の中には、理性的働きが含まれる。その理性的な働きの中心は、むろん言語能力である。つまり、神と人間は、言語を媒介にして交流が可能なのである。

A事実、旧約聖書は神が語られた言葉で満ちている(旧約聖書の中には、「主の御告げ」、「主は言われる」という言葉が、数千回出てくる)。ヘブル人への手紙は、旧約時代、神は、夢、幻、直接の語りかけ、などさまざまな形をとおして、いろいろな人に語りかけた、と述べている(ヘブル1:1)。

B預言者たちに啓示された内容は、「聖霊の霊感という働き」によって、今日、私たちのもとに、旧約聖書という形で伝えられた(Uテモテ3:16)。このような神の特別な霊感という働きの故に、聖書は、「真理のみ言葉」であり(Uテモテ2:15)、「すたれることはない」(マタイ5:18)。

Cイエス・キリストは、サタンに立ち向かうとき、聖書の言葉を使ったし(マタイ4:1-11)、聖書の言葉からご自身のメッセージを理解させようとした(マタイ21:42)。復活を正しく理解できないのは、聖書を知らないからだ、と非難した(マタイ22:29)。また、クリスチャンは、聖書を「神の言葉」として受けとめていた(ローマ15:4、Uコリント4:2)。使徒たちから聞いたメッセージさえ、聖書によってチェックした(使徒17:11)。使徒たちは、聖書を使って、キリストを宣べ伝え(使徒18:28)、信仰を論じている(ローマ4:3)。

Dキリストがこの世界に来られたときには、そのキリストをとおして、神はみ心を示された(ヘブル1:2、ヨハネ1:18、3:34、7:16)。そして、キリストの言葉と業もまた、使徒たちによって私たちのもとに伝えられた(ルカ1:1-4)。

Eキリストの使徒たちが語ったメッセージは、「神の言葉」として受け止められ(Tテサロニケ2:13、ヘブル6:5)。

Fパウロが書いた手紙は、旧約聖書と同じ権威があるものとして、受けとめられてきた(Uペテロ3:15-16)。ヨハネの黙示録は、その啓示に対し、付け加えても、削除してもいけない、と命じている(22:18)。

G聖書の目的は、キリストを証詞することであり(ヨハネ5:39、ルカ24:37)、キリストの救いを与えるためであり(Uテモテ3:15)、クリスチャンを整えるためである(Uテモテ3:17、使徒20:32)。

H聖書の言葉に対し、勝手に加えるようなことをしてはならず(申命記4:2、黙示録22:18)、まっすぐ説き明かすべきである(Uテモテ2:15)。聖書は、他の人の手助けによって理解できるようになることもむろんあるが(使徒8:30-35)、本来それは、難しいものではなく(申命記30:11-14)、理解できるものである(Uコリント1:13、ネヘミヤ8:8)。

Iクリスチャンは、み言葉を心にとめ(ヨブ22:22)、喜びのうちに口ずさむ(詩篇1:2)。聞いて、それを守ることが大切である(ルカ11:28、ヤコブ1:21-22)。聖霊は、聖書を用いて、信仰生活の戦いを導いてくださる(エペソ6:17)。

W.聖句の黙想

 詩篇119篇は、神の言葉についてつくられた詩篇です。長い詩篇ですが、じっくり味わいながら読んでください。


司会者への質問

1節

1.『知識』は、聖書を「人間に教訓的で導きとなる本」と規定しています。聖書をそのような書物ととらえることは、正しいでしょうか。

2.聖書は、神がご自身を表された書物、神が人間の歴史の中で行なわれた出来事の記録、あるいは、人間に救いの道を指し示す書物、などと規定した方がよいと思うのですが、いかがでしょうか。

3.ものみの塔の出版物は、「道理にかなっています」という表現をよく使います。「道理にかなう」というのは、人間の理性的判断において矛盾はない、ということです。この理性至上主義は、前世紀から今世紀にかけて繁栄した自由主義神学の立場と同じです。歴史的キリスト教は、理性を最優先させず、聖書が教えていることであれば、不合理であっても信ずる、という立場を取ります。エホバの証人のように、理性的に納得できないことは、たとえ聖書がはっきり教えていても、信じない、という立場です。どちらが、聖書と神とに対し、正しい姿勢だと思いますか。

4.「人間には導きが必要だ」という場合、どのようなことを考えて、述べているのでしょうか。神や救いといった問題に関しては、確かに、超自然的な導きが必要です。しかし、科学や学問で究明すべき課題については、神は、人間の責任に委ねており、超自然的な導きを与える必要はありませんでした。

2節

1.エレミヤは、エルサレム崩壊前後に活躍した預言者です。ものみの塔は、そのエルサレム陥落を、紀元前607年と考えているのですから、「今から2,500年前」ではなく、「今から2,600年前」、とした方がよいのではないでしょうか。

2.聖書は、エレミヤを、「預言者」と呼んでいますが、「歴史家」と呼んでいる箇所はあるでしょうか。あったら教えてください。もしなければ、どうしてここで、「歴史家」と呼んだのでしょうか。

3.『知識』は、人間が自分自身を治めるのに失敗した、ということを確証する聖句として、エレミヤ10:23を引用しています。しかし、エレミヤの言葉は、預言者としての経験から、人生は自分が思うとおりにいくものではなく、神のみ手に握られているのだ、ということを強調しているだけです。この箇所のように、聖書が必要だということを述べるための伏せんとして引用するのは適切だと思えないのですが、いかがでしょうか。

4.『知識』によれば、「この言葉の真実さ」とは、エレミヤが語った言葉を指し、人間が人間を支配できない状況のことです。しかし、エレミヤの言葉の真意は、人生は神のみ手の中にある、ということです。すると、この文章は意味が通じなくなりますが、いかがでしょうか。

5.ウイリアム・H・マクニールという歴史家は、どのような方なのでしょうか。また、この文章の中で、「大胆な試み」とは、具体的に何を指しているのでしょうか。

6.マクニールの歴史観は、大変悲観的なものです。そのように悲観的に見る人もいるでしょうが、歴史を発展的にとらえ、楽観的な歴史認識をもつ人々もたくさんいます。エホバの証人は、どうして悲観的な見解のみを紹介するのでしょうか。

3節

1.「賢明な指導」とは、何に対する指導でしょうか。個人の信仰の問題に対してであれば、「聖書はその必要のすべてを満たしてくれます」と言って差し支えないでしょう。しかし、前節が取り上げている社会の問題に関してであれば、そこまでは言えないと思うのですが、いかがでしょうか。

2.聖書を、「貴重な遺産を受け継ぐために行なうべき事柄の大要を述べた法律上の文書」になぞらえています。「法律上の文書」という表現は、専門家の解説者が必要であるかのような印象を与えます(次の質問を参照してください)。私は、聖書に関しては、そのような解説者を必要としませんので、遺産相続人のために用意された「遺書」、あるいは、「約束の文書」に、例えた方がよいと思うのですが、いかがでしょうか。

3.「経験のある人の援助を求めるでしょう」という文章は、自分一人で聖書を読んだのでは理解できないことを前提にしての発言です。はたして、聖書はそのような書物でしょうか。パウロの手紙を受け取った一世紀のクリスチャンたちは、誰か解釈者を必要としていたでしょうか。ペテロは、パウロの手紙には難解なところがある、と述べています。だからと言って、誰か援助者を必要とする、とまで言っているでしょうか(Uペテロ3:15-16)。

4.使徒17:11は、ベレヤの人々が、パウロの語ったメッセージを聖書からチェックしたことを報じています。この際、彼らは誰か援助者を介して、調べたでしょうか。それとも自分たちの目と耳とで判断したでしょうか。

5.私たちが、この『知識』の書物が教えていることや、『ものみの塔』誌や『目ざめよ!』誌が教えていることのひとつひとつを取り上げ、聖書からチェックすることは正しいでしょうか。ものみの塔の組織は、そのようにすることを勧め、励ましているでしょうか。それとも、そうされることを恐れているでしょうか。

4節

1.『知識』は、聖書を、「神について明らかにする本」と規定しています。ヨハネ5:39によれば、聖書はどのような書物でしょうか。Uテモテ3:15によれば、聖書が書かれた目的は何でしょうか。

2.「学識のある多くの人々」とは、どのような人たちを指しているでしょうか。組織が出版した『聖書−人間の言葉か神の言葉か』には、聖書を信じる著名な学者たちが、たくさん紹介されています。例えば、F.F.ブルース、ラルフ・マーチン、ケネス・カンツァー、グレアソン・アーチャー、レイモンド・ブラウンなどです。これらの学者は皆、三位一体を信じる福音的な聖書の学者たちであることを、どう思いますか。

3.このような学者たちの名をあげながら、組織が、彼らの著した「聖書の注解書」などを読んだり、考察したりすること(むろん、すべてを賛成する必要などありません)を禁じるとしたら、どう思いますか。

5節

1.ものみの塔は、人間創造の年代を割り出すために、聖書の年代を逆算して、4026年という年代を導出しましたが、この計算方法に問題はないでしょうか。

2.ものみの塔の計算方法が正しいとした場合、「人類史の3,500年」は、クロス王の解放の年代になります。ここでは、マラキ書が書かれた年代が問題となっているのですから、「3,600年」とした方がよいのではないでしょうか。

3.「イスラエル人が西暦前16世紀に一国民として出現した」という文章は、イスラエルの民の出エジプトとカナンの地の侵入を指しています。今日の考古学は、これらの出来事が13世紀初頭に起こったことを明らかにしています。エホバの証人は、このような考古学的成果をどのように評価しますか。

4.聖書に出てくる年代を、単純に逆算して、さまざまの出来事の年代を割り出すだけでなく、さまざまの考古学的資料をも突き合わせて、聖書の年代を決定した方がよいと思いますが、いかがでしょうか。

6節

1.Uテモテ3:16に出てくる「聖書全体」という表現を、この『知識』では、旧約聖書と新約聖書の両方を含めた聖書全体と理解しています。しかし、ここでパウロが言及している聖書とは、テモテが「幼いときから親しんできた聖書」のことであり(前節参照)、旧約聖書を指しています。実際、その時点では、新約聖書は未だ存在しませんでした。「聖書全体」と訳されているギリシャ語は、直訳すると、「すべての聖書」です。それは、旧約聖書39巻全部、という意味であって、『知識』が述べるように、新約聖書をも含めたすべての聖書と読み込むのは、文脈を無視しています。いかがでしょうか。

2.「聖書の二つの部分は互いに補足し合い、見事に調和しており」という文章は、間違いではありません。しかし、ものみの塔は、両者の本質的相違を区別せず、平面的・画一的に、同一価値を帰する傾向があります。もし、この文章を、ものみの塔のニュアンスで理解するのであれば、正しいとは言えません。新約聖書は、旧約聖書に比べると、非常に多くの斬新的啓示(後になってより明らかに神のみ心が示されること)が含まれているからです。

3.『知識』が主張する「全体を貫く一つの主題」とは、次節から、主権論争を指していることは明らかです。しかし、それがほんとうに「聖書全体のテーマ」だと言えるでしょうか。

7節

1.聖書全体を貫くテーマが、「人間を支配する神の権利は正当なものであることが立証され、神の愛ある目的が神の王国によって実現する」ということである(エホバの証人は、これを「主権論争」と呼ぶ)と、どの聖句によって主張できるでしょうか。

2.創造者なる神が被造物である人間を支配することが、正当な権利であることは当然です。そのようなことに対して、いったい誰が疑っているのでしょうか。誰に証明する必要があったのでしょうか。どのようにして証明したのでしょうか。教えていただきたいのですが。

3.「神の王国によって実現する」という主張の、「神の王国」の中味は何でしょうか。キリストが、144,000人と共に地上の大群衆を治める、ということでしょうか。それとも、その王国が、エホバ神に返されるときのことを指しているのでしょうか。

4.もし旧約聖書と新約聖書を貫く主題を一つだけ上げるとしたら、「神が人類と結ばれた契約」あるいは、「神が人類の罪を赦すためになされた贖いのみ業」ということになるのではないでしょうか。あるいは、「神は神の国をつくられ、王として人類を支配されること」と考える人もいるでしょう。あなたは聖書全体を読んで、どれが一番ふさわしいテーマだと考えますか。

8節

1.「聖書は神の目的のあらましを述べている」と説いていますが、そのことを支持する聖句はどこにあるでしょうか。「神の性格を明らかにしている」聖句の方は、上げているのですから、そちらも上げるべきだと思いますが、いかがでしょうか。

2.箴言27:11の語り手は、前の10節の「父の友」という表現から、神ではなく、人間の父のことです。もしそうだとすれば、『知識』がここに引用したのは間違いということになりますが、そう考えてよいでしょうか。

3.この箇所は、聖書が主張していないことを聖書が主張しているかのような印象を与えるため、工夫がこらされています。まず、神が感情をもっているお方であることを、聖句によって証明します。次に、人間がちりに帰ることを聖句によって説明します。そしてこの二つを結びつけて、思いがけない結論を導き出します。つまり、神は情け深い性質をおもちだから、人間を塵に帰してそれでおわりにする、などとは考えられない。地球上に永遠に住まわせるはずだ、となるのです。このように論理を展開して出した結論を聖書が教えていることだと、確信できますか。

9節

1.神の基準は、律法あるいは教訓となる実例によって示されている、と述べています。この表現では、律法と歴史書に表された「神の基準」は含まれるでしょう。しかし、詩篇や箴言などは、人間の体験や知恵を通して得られる神の基準を示していますし、預言書は、神からの直接の指示を取り次いでいます。『知識』は、どうしてそのようなことには触れないのでしょうか。

2.『知識』は、実例から原則が教えられ、その原則から基準が示される、と説いています。しかし、聖書はむしろ反対のことを教えているのではないでしょうか。つまり、神は、最初に原則を示し、イスラエルの歴史はその原則どおりに神によって扱われているにすぎない、と。あなたは、どちらが正しい理解だと思いますか。

3.Tコリント10:6より、「古代のイスラエル人の歴史の中で起きた特定の出来事を、わたしたちの益のために記録させておられました」と理解することは、間違ってはいません。しかし、イスラエル史が記録された第一の目的は、「従う者には祝福が、従わない者には呪いが与えられる」という神の原則(申命記28-29章)が、そのまま真実であることを確認させることにあったのではないでしょうか。

4.「その出来事の登場人物になり切ることができます」とまで言うのは、言いすぎでしょう。「登場人物の状況や、気持ちをある程度理解できます」ぐらいの表現にしておいた方がよいのではないでしょうか。

5.「しかし」という句は、その直前で述べたことを否定するのが普通です。ところが、「しかし、極めて重要な次の疑問の答えが必要です」という文章の中の「しかし」は、そうではありません。その後に述べていることと、前の文章で述べていることとは、関係がないので、「しかし」という接続詞は、ふさわしくありません。ものみの塔の文章が分かりにくいのは、このような論理的でない文章が多いことに基づくように思うのですが、いかがでしょうか。

6.もっとも、聖書の記録が霊感によって書かれたことを確信するなら、聖書の記録を模範や警告として受け止めやすくすることは事実です。しかし、その場合でも、それが必然的ではないことを踏まえて、表現すべきでしょう。

10節

1.神の霊感を受けていれば、「その助言は常に最新のものであるはずです」というのは、論理的ではありません。霊感を受けていれば、権威がある、間違いがない、とは言えます。しかし、最新のものである、とは言えません。例えば、旧約聖書の言葉は、すべて霊感を受けていますが、そこから得られる助言の多くは、当時の時代の中で啓示されたもので、「常に最新である」とは言えません。いかがでしょうか。

2.Uテモテ3:16-17によれば、「神の人が十分な能力を備える」のに、あるいは「全く整えられた者となるために」、何が必要だと言っているでしょうか。この聖句は、聖書だけでは不十分だと、言っているでしょうか。

3.エホバの証人は、聖書だけを研究している、とは言えません。いつでも、聖書を解説してくれるグループや書籍を傍らに置いています。そのようなものによって聖書を解釈する結果、結局、それらは聖書以上の位置を占めてしまうのではないでしょうか。あなたが接しているエホバの証人について、よく観察しながら、この問題を考えてくださいませんか。

4.もし、聖書の教えと組織の教えとが矛盾した場合、あなたは聖書を取りますか、それとも、組織を取りますか。

11節

1.「その原則は最初に書き記された当時と全く同様、今日でもあてはまることが明らかになります」と述べています。しかし、聖書の原則の中には、今日も当てはまる原則もありますが、廃棄されるべきものもあります。例えば、旧約聖書の食物の規定、祭の規定、市民生活の規定などです。『知識』が、当てはまる原則だけ上げ、このように断定的に表現するのは不正確だと思いませんか。

2.英国とインドは、ガンジーが言ったとおり、「キリストが述べた教えについて意見の一致を」見ることができたのでしょうか。それとも一致を見ることができなかったのでしょうか。一致を見ることができなかったとすれば、それぞれは、キリストが教えた教えを、どのように見たのでしょうか。どこで食い違ってしまったのでしょうか。

3.山上の垂訓は、いつの時代に生きる人であれ、耳を傾けるべきメッセージです。そこに示された原則を実践するなら、人間の間に生じている多くの問題を解決することができるでしょう。問題は、なぜ、現実には、キリストの教えに基づいて、この世の中の多くの問題が解決していないのか、ということにあります。人間にとっての根本的な問題は、どこにあると思いますか。

4.主権論争に基づいて歴史を理解するエホバの証人は、「全世界の問題をも解決することになるでしょう」というガンジーの言葉を、支持できるのでしょうか。

5.山上の垂訓から、、問題解決のための基本的精神、を導き出することはできます。しかし、具体的に問題を解決するのには、そのような精神的なあり方だけでは不十分です。例えば、日米間に見られる貿易摩擦の問題を解決するには、山上の垂訓のどの原則を、どのように用いればよい、というのでしょうか。

12節

1.「イエスは真の幸福を見いだす方法を示されました」と述べています。イエスが山上の垂訓の中で教えた「幸福を見いだす方法」とはどのようなものでしょうか。それは現在のエホバの証人が教えている「幸福を見いだす方法」と同じでしょうか。

2 「紛争を解決する仕方」についてはいかがでしょうか。個人的な争い、エホバの証人と他の宗教をもっている人との争い、国際間に見られる戦争、などに対して、エホバの証人がイエスの教えとは違う態度をとっていることはないでしょうか。

3.「祈り方」に対してはいかがでしょう。新世界訳においてさえ、この山上の垂訓の中では、エホバ神に祈ることを教えてはいません。イエスの教えとものみの塔の教えとは、ずいぶん違っていると思いませんか。

4.「物質上の必要物に対する最も賢明な態度」についても、考えてください。マタイ6:20は、自分の宝をどこに積むように、教えているでしょうか。死ねばすべてが無に帰してしまうと信じるエホバの証人にとっては、「天に宝を蓄える」とは、どういうことになるのでしょうか。

13節

1.「聖書は山上の垂訓や他の記録の至る所で、わたしたちが自分の状況を改善するために行なうべきことや避けるべきことをはっきり教えています」という文章は、聖書を道徳の教科書にしてしまっているように思います。山上の垂訓をはじめとする、聖書のさまざまな戒めを、道徳の教科書のように読むことは正しいでしょうか。

2.「聖書が述べる諭しは、私がこれまで大学で読んだり研究したりしたどんなことよりもはるかにすぐれていることが分かった」という表現は、大学教育が無価値であるかのような印象を与えます。しかし、大学で学ぶことと、聖書から学ぶべきこととは領域が違います。このように、平面的に比較して陳述すること自体、愚かなことだと思いませんか。

3.「聖書は実際的であると共に現代的である」と述べていますが、「現代的」という表現は不正確でしょう。「現代にも通用する真理を明らかにしている」と言うべきではないでしょうか。

4.「聖書は信頼できるか」という小見出しが、10-13節のタイトルとしてつけられています。しかし、この箇所で述べていることは、山上の垂訓(その他の戒めも)が現代にも通じる、ということにすぎません。このような内容で、「聖書は信頼できるか」という問いに答えたことになる、と思いますか。

5.「聖書が信頼できる」ということを説得するのに、あなたでしたら、他にどんな証拠をあげることができますか。

14節

1.「聖書は...科学的にも正確な本です。」こういう表現には、注意深さが必要です。というのは、聖書の執筆者は、自分が見たとおりの表現(現象学的表現)を用いているからです。例えば、伝道者1:5は、「日は上り、日は沈み」と記述しています。この表現から、聖書が天道説を教えている、などと解釈してはいけません。従って、、聖書は科学的に正確な本である、、と断定する場合、このような現象学的表現によって記されていることをも併せて述べておくべきではないでしょうか。

2.「地の天蓋」というヘブル語「フーグ・ハアレッツ」の直訳は、「地の円」です。この「フーグ」という言葉の動詞は、ヨブ26:10において、地平線上に太陽が上っては沈む場合の「半円を描く」という意味で使われています。名詞形は、ヨブ22:14で、「天の回り」のこと、箴言8:27で、「深淵の面に円を描く」という意味で使われています。これらの用例から、地球が球体であると聖書が教えている、との『知識』の主張は、言いすぎのように思えるのですが。

15節

1.T列14:25は、エジプトの王シシャクとイスラエルの歴史を、イザヤ36:1は、アッシリヤの王セナケリブとイスラエルの歴史を、結びつけて叙述しています。それらの記録が歴史的記録である限り、聖書以外の出来事と結び付けて記すのは当然のことで、結び付けていること自体をもって、「正確で信頼できる」と主張することには、論理に飛躍があります。そう思いませんか。

2.ルカ3:1-2は、ヨハネの出来事と皇帝テベリオとを結びつけて記述しています。このような記述方法を「正確で信頼できる」根拠にすることもまた、同じように、論理に飛躍があると思いませんか。

16節

1.成就した預言が聖書の霊感の証拠である、と考えるのであれば、これまでにものみの塔の会長や統治体がした預言が成就しなかったことを、どのように考えることが、道理にかなったこと、と言えるでしょうか。

2.申命記18:20-22を読んでください。そして、ラッセルが、1914年にハルマゲドンが来ると預言し、1916年に死んだこと、ラザフォードが、1925年、あるいは1943年に終わりが来ると預言し、1945年に死んだこと、ノアが率いる統治体が、1975年に終末が来ると預言し、ノアは1977年に死んだことを考えてください。これらの出来事と申命記18:20とは、関係があると思いますか。

17節

1.イザヤ44:27は、ユーフラテス川の水源に向かって干上がるように命じているのであって、「人造湖に流れ込ませて川を干上がらせた」という説明は、間違っていると思いませんか。

2.エレミヤ50:38も、一般的な日照りの預言です。どうして「人造湖に流れ込ませて川を干上がらせた」とまで言えるのでしょうか。

3.イザヤ45:1の聖句は、「不用意なことに、バビロンの川の城門の警備が行なわれていない」などと、述べているでしょうか。単に、敵の城門が開かれる(敗北して、落城したこと)ことを述べているにすぎないのではないでしょうか。

18節

特に異論なし。

19節

特に異論なし。

20節

1.「地上の楽園」を聖書が約束している事柄と断定していますが、ほんとうにそうでしょうか。

2.「聖書こそ、永遠の命に導く、神についての知識を明らかにする本」と主張していますが、ヨハネ5:39-40は、そのように言っているでしょうか。Uテモテ3:15は、いかがでしょうか。

21節

1.「神についての知識を見いだすために聖書を注意深く調べてみてください」と述べていますが、使徒17:11のベレヤの人々は、何を聖書から調べたのでしょうか。使徒17:2-3を参考にしながら、考えてください。

2.神がまず求めていることは、「考え方や行動の調整をすること」でしょうか。新約聖書がまず求めていることは、、イエスを信じること、受け入れること、ではないでしょうか。

22節

1.「聖書の研究に反対する」と述べていますが、家族や友人の反対のほとんどは、「ものみの塔の信仰内容と研究方法」に対してです。聖書を学ぶことにではなく、ものみの塔の組織が用いるマインド・コントロールおよびカルト性に対してなのです。どうぞ、あなたの回りで反対している人々に、何を反対しているのか、お尋ねになってみてください。

2.イエスが否認する、と宣言されたのは、イエスとの結びつきを告白しない人に関してです。すると、『知識』は、聖書研究をするなら、イエスとの結びつきが起こる、という前提に立っていることになります。それでは、永遠の命を受けるには、神についての知識を取り入れることが必要だ、という『知識』の主張と食い違ってしまいます。どちらが正しいのでしょうか。

3.もし誰かが、「あなたがカルト教団に関係している」と言った場合、その人が定義する「カルト教団」とは、どのようなものでしょうか。

4.ここでは、ものみの塔がカルト教団ではないという前提に立っていますが、ものみの塔は、カルト教団についてどのような定義をしているのでしょうか。

5.この『知識』を学ぶことは、「実際には、あなたは神とその真理についての正確な知識を得ようと努力しているだけ」でしょうか。むしろ、、ものみの塔の聖書解釈に基づく、ものみの塔の教理、を学ぼうとしているのではないでしょうか。

6.Tテモテ2:3-4で「真理」と言われている内容は、どのようなものでしょうか。続く5-7節を読んで考えてくださいませんか。

7.「道理をわきまえた話し方」というのは、どのような話し方でしょうか。多くのエホバの証人は、反対する人をサタン呼ばわりし、耳をかしません。それは道理をわきまえた話し方と言えるでしょうか。

23節

1.「神からの知識に依存しています」という文章の「神からの知識」とは何を指しているのでしょうか。Tペテロ2:2で言及されている「み言葉」と同じでしょうか。それとも、『知識』が教えているものみの塔の教義のことでしょうか。

2.「聖書を毎日読む」と言っていますが、純粋に聖書だけを読んでよいのでしょうか。つまり、聖書を前後の流れを追いながら、自分で解釈しつつ読んでもよいのでしょうか。

3.詩篇19:11は、律法を守ることが祝福をもたらす、と言っています。しかし、この『知識』は、聖書を読むならと、意味をずらして適用しています。「律法を守ること」と「聖書を毎日読むこと」とを同一視するのは、正しい聖書の読み方だと思いますか。

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