|
ものみの塔協会の教理によると14万4,000人のエホバの証人だけが天に行く。(ヨハ ネ14:2,3)聖霊によって「証印を押された」者(ローマ8:14,16,17)、または,「油そそがれたクラス」−「忠実で思慮深い奴隷」とも呼んでいる。(啓示7:4,14:1-3)。
一方,エホバの証人の大半である「大群衆」は地上の楽園で永遠に生きると信じる。(啓示 7:9-17)。ちなみに,1995年4月14日(金),全世界の主の記念式[聖餐式]出席者数は13,147,201人。
次の資料は 『洞察』(第2巻554頁ものみの塔協会1994年発行)。2巻から成るものみの塔協会版聖書事典である。エホバの証人の神学研究の必須資料と言える。本誌の使命のひとつは,『洞察』などの教理・教義に対して『新世界訳』聖書から常に論じていくことである。
同様に,キリスト教のバプテスマを受ける人々は神の所有物・神の奴隷となり,神はご自分のよしとされるとおりに彼らをお用いになります。(コリ一6:20)こうした事柄に関する神の指導の一例は,「啓示」の書の中に見られます。そこには,最終的に「証印を押された」人々の明確な数 つまり14万4,000人という数が出て来ます(啓7:4-8)そのようにして最終的に是認される前でさえ,神の聖霊は証印を押される人々に彼らの相続財産,すなわち天的な相続財産こ関する事前の印となる証印としての役割を果たします。(エフェ1:13,14;コリニ5:1-5)また,そのような希望を持つ人々について.「神は[キリストの]体に肢体を,その各々を,ご自分の望むままに置かれたのです」とも言わわれています。− コリ一 12:18,27。 イエスは別のグループにも注意を向け,「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります」と言われました。(ヨハ10:16)これらは「小さな群れ」のものではありませんが(ルカ12:32),やはりイエス・キリストを通してエホバに近づき,水のバブテスマを受けなければなりません。 「啓示」の書に記録されている,使徒ヨハネに与えられた幻はそれと調和しており,「証印を押された」14万4,000人をヨハネに示した後,ヨハネの目を「だれも数えつくすことのできない大群衆」にむけています。 『洞察』 第2巻554頁 |
ものみの塔協会の出版物は,一世紀の時代から1935年にいたるまで,14万4,000人から成る「忠実で思慮深い奴隷」級に証印が押されてきたと主張する。つまり,聖霊で油そそがれたクリスチャンは約2千年間で14万4,000の人しかいないと強調する。
「『啓示』(『ヨハネの黙示録』)の書は最終的に証印を押される者の数が14万4,000人であることを示しています。」(『洞察』第一巻 269頁)「証印を押すことは,最初のユダヤ人のクリスチヤンたちが聖霊で油そそがれた西暦33年に始 まりました。」(『啓示 その壮大な最高潮は近い!』l15頁 ものみの塔協会発行 1988年版)
「真の神のイスラエルを選び出す全般的な業は,西暦33年のペンテコステの日から始まって1935年まで続き,同年米国のワシントン特別区で開かれたエホバの証人の歴史的な大会で,それまでとは異なり,地的な命の見込みを持つ大群衆の取り入れを行なうことが強調されるようになりました。(啓示 7:9)」(同上 117頁)
「エホバ神がご自分の献身した僕たちを,霊によって生み出された見える組織.すなわち「忠実で思慮深い奴隷」によって導いておられることを確信しています。(マタイ24:45-47)1935年ころまでは、その指導の下に天的な希望が差し伸べられ,際だったものにされ,強調されました。それから『光がきらめき』,啓示7章9節の「大群衆」の実体が明らかに示されて,地的希望に強調が置かれるようになりました。」 (「ものみの塔」誌 1982年2月1日号13頁)
14万4,000人を集める業が1935年に終了したという聖書的根拠はあるだろうか。もちろん,ない。1935年にラザフォードは「光がきらめき」と表現した。新興宗教の教祖とどう違うのか。どんな‘光’か。また,どこからもたらされたのか。
エホバの証人の長老クラスなら,「光が義なる者のために,…きらめいた」(詩編97:11,箴言4:18)を引用して弁明することだろう。しかし,詩編97編はイスラエルの民がバビロン補囚から解放された場面である。礼拝できなかった「闇」の状態から,「光」である
14万4,000人を聖書から論じる前に,ものみの塔協会の初期の歴史に注目してみることにする。
さて,テレビは一般の人々の生活に溶け込んでいる。かつて,私は神戸市明舞会衆の牧者だった時,成員たちにテレビを見ることを極力避けるように示唆していた。ところで,テレビをよく見る人であっても,だれがテレビを発明したかすぐに答えられるだろうか。一度ライフ・サイクルに取り込まれてしまうと,どのように歴史の中で生まれたのか全然考えなくなってしまう。
興味深いことに,エホバの証人はものみの塔協会の「残りの者」,すなわち14万4,000人の教理がどのように生み出されてきたか知らない。
「真理は年とともにその価値を失うことがありません」(「王国宣教」 1983年8月号4頁
*拙著『ものみの塔文書資料集』(真理のみことば伝道協会発行)参照。.
通例,新しいリーダーが神の僕であることを知らしめるために何をするか。先代の教えを変えるのが一番手っ取り早い。神のご意志の調整があったことが誰の目にもはっきり分かるからだ。漸進的に光がきらめいたと言って新しい理解を披露する。どのように「忠実で思慮深い奴隷」の教理が変遷したか次のページから取り扱っている。
『知識 永遠の命に導く』(161頁ものみの塔協会発行 1995年版)は,証人の求道者が学ばねばならないテキストである。本文に質問がある。‘イエス・キリストが1914年に天の王として即位させられたとき,この「奴隷」はだれであることが分かりましたか’である。司会者(求道者の導き手)は‘「小さな群れ」と呼ばれた人々に属する真のクリスチャンのグループ’(ルカ12:32)と答えるように誘導する。
では,「小さな群れ」である「忠実で思慮深い奴隷」はいったい何人で構成されるのか。
ものみの塔協会の初期の時代も,グループと教えていただろうか。
「ラッセル牧師
1879年から1927年にいたるまで,「奴隷」とは,初代会長C.T.ラッセル(1852‐1916年)一人だけだった。 1927年までラッセル以外のだれかを「奴隷」と認めた記録はない。 1916年から12年間,地上の「奴隷」が消滅した時代があった。そこで,「奴隷」に関する教理を変える必要が生じたのである。『エホバの証人』(626頁 ものみの塔協会発行)によると,1927年に「忠実で思慮深い奴隷」が一個人ではなくグループであることが再確認されたと歪曲していないだろうか。
真実は,1927年に,2代目会長ラザフォードが‘油そそがれた「奴隷」’について‘級’すなわち‘グループ’だと教えた。ところが,驚くことに,すでに死んでいた1870年代からの仲間のメンバーを「残りの者」級とは認めていない。
1927年以降,神のご意志を宣べ伝えているクリスチャンこそが「残りの者」級と定義している。
現在のエホバの証人の理解とは大いにかけはなれていないだろうか。
2代目会長ラザフォードは過去50年間,知性におぼれて伝道してこなかった体質を批判。御国の福音を全地に宣明する者だけが「残りの者」と宣言したのである。
参考までに,現在の教理は,ラザフォードが非難したメンバー,つまり1870年代以降天にあげられた聖書研究生たちをも「残りの者」に含めてしまっているのだ。1996年現在,地上に残っている奴隷級は8,645人と発表している。
「エホバはその受膏者(じゅこうしゃ)等即ちエホバの證者(しょうじゃ)として召されて今,『遺残者』(のこれるもの)を形成する『僕(しもべ)』級の者に向って示し給ふ。」(『政府』日本語版 212頁 ものみの塔協会発行 1930年版)
「忠実で思慮深い奴隷」級が「油そそがれた残りの者」,つまり「残りの者」であるという新しい教理が始まった。381頁にも及ぶ書籍『政府』の中で,「忠実で思慮深い奴隷」級に関して詳細に説明している。けれども,14万4,000とかの特別な数字は一度も登場してこないのはどうしてだろうか。
考えられるのは1925年の主の記念式に90,424人が表象物[パンとぶどう酒]にあずかったことである。1925年ハルマゲドン説*が失敗に帰すと,翌年には聖書研究生[当時のエホバの証人の通称]の数は激減という衝撃があった。
預言の失敗によって,1928年の記念式には,17,380人だけが出席したにすぎない。だから時を移さず「奴隷」級が14万4,000人と定義することは問題だった。なぜなら組織から離脱した多くのメンバー*を「奴隷」級とみなすことはできないジレンマがあったからではないか。したがって,14万4,000人の数字が「忠実で思慮深い奴隷」級と説明できない時代があったことを忘れてはいけない。
ものみの塔協会は1935年までに14万4,000人という数がほぼ満たされたと結論している。その後,不忠実な者の代わりに補充することがあると言うが,人数が増えたりするのはどうしてか。
「ディオクレティアヌス帝*の大迫害の直後におけるキリスト教との総数は、およそ300万ないし400万人と推定されるが,ローマ帝国全般にわたって人口の減少がみられたこの時代としては,驚くべき数だといわねばならない。」
「キリスト信者が新しい都市に達したとき,ユダヤ人にまずキリスト教を信受する機会が与えられた。2世紀においては,帝国領内のギリシャ語を話す異邦人の間に急速にひろがって行った。200年頃には帝国のどの地域にも、キリスト信者を見つけることができた。3世紀には福音の宣伝は主として帝国の西部のラテン民族に行われた。カルタゴをその知的中心とする強力な教会が北アフリカに出来た。アレキサンドリヤの教会はエジプトの諸教会の主要教会となった。250年頃の教会の勢力は、帝国人口の5パーセントから12パーセントの間と評価された。」
ちなみに,イエスが誕生した当時のローマ帝国の総面積は900万平方キロ,人口は少なくとも7千万人に及んでいた。(『原典新約時代史』31頁 蛭沼寿雄,秀村欣二編者 山本書店)すると,「5パーセントから12パーセント」の比率を適用すると,250年頃には350〜840万人のクリスチャンがいたことになる。
では,迫害にもかかわらず,徹底的に宣教していった初代教会の記録を聖書からみてみよう。
使徒 2:41 「…バプテスマを受け,その日におよそ三千人の魂が加えられた。」
使徒 4:4 「…聴いた人々のうち大勢の者が信じ,男の数は五千人になった。」
使徒 5:14 「…主を信じる者が,男も女も大ぜい加えられていった。」
使徒 6:7 「…神の言葉は盛んになり,弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけた。」
使徒 9:31 「こうして,会衆はまさに,ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全域にわたって…。」
使徒 11:19,21「…患難のために散らされた者たちは,フェニキア,キプロス,アンティオキアにまで進んで行った…信者となった大勢の人が主に転じた。」
使徒 14:1 「…イコニオムで…ユダヤ人もギリシャ人も非常に大勢の人が信者となった。」
使徒 14:20,21「…テルベに…良いたよりを宣明してかなりの大勢の弟子を作った‥・。」
使徒 21:20「…あなたが見るとおり,ユダヤ人の中には幾万もの信者がいます‥・。」
コロサイ 1:6 「その良いたよりはあなた方のところにもたらされましたが,世界中で実を結んで増大しているのであり…。」
日本のエホバの証人の伝道者数が1万人に達したのは1970年11月。1995年3月には20万人になった。20万人を越えるまでわずか25年の歳月しか必要としなかった。
ペンテコステの日に120名ほどであったのが,3,000人に拡大した。ものみの塔協会は2,520%の成長率であることを分析し,初期クリスチャンの宣教精神を見倣うように現代のエホバの証人に挑発することがある。使徒4章4節は「男の数はおよそ5,000人」とあるから、婦人,子供の数を含めると少なくとも3倍の15,000人以上いたことも推測できる。西暦初期の2,3世紀には燎原の火のごとく拡大した。多数のクリスチャンが殉教したことは歴史が示している。命を惜しまない「忠実さ」という点では,統治体の成員もみならうべきではないだろうか。
いずれにしても,20世紀の終わりに14万4,000人のうちの「残りの者」級だけが今なお地上にいるというのは道理にかなっていない。一世紀以降,地上での生涯を忠実に果たし終えた忠実なクリスチャンの数は14万4,000人をはるかに上回っているからである。
「恐れることはありません。小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです」−ルカ12:32。
「またわたしが見ると,見よ,子羊[イエス・キリスト]が[天の]シオンの山に立っており,彼と共に,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて立っていた。 そして彼らは,み座の前および四つの生き物と長老たちの前で,新しい歌であるかのような歌を歌っている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学びとることができなかった」−啓示14:1,3。
「ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなた方は皆キリスト・イエスと結ばれて一人の人となっているからてす。さらに,キリストに属しているのであれば,あなた方ほまさにアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人です」−ガラテア 3:28,29。
「外面のユダヤ人がユダヤ人ではなく,また,外面の肉の上での割礼が割礼でもないのです。内面のユダヤ人がユダヤ人のなのであって,その人の割礼は霊による心の割礼で,書かれた法典によるものではありません」−ローマ 2:28,29。
「彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼と共に王として支配する」−啓示 20:6。
『エホパの証人 神の王国をふれ告げる人々』(169頁ものみの塔協会発行1993年版)
同書627頁には,‘今日のエホパの証人は,「ものみの塔」誌や同種の出版物が,霊的な食物を分配するために忠実で忠慮深い奴隷によって用いられていることを認めています。証人たらはこの奴隷級が不謬であるとは主張しませんが,その奴隷級が,この事物の体制の終わりの日に主が用いておられる唯一の経路であると考えています。’と述へている。
イエスはルカ12章32節で「小さな群れ」と語った。聖書全巻の中で「小さな群れ」ということばは他に出てこない。文脈からだれについて言及しているか考慮してみよう。
イエスが一世紀に「小さな群れよ」と話しかけられた相手は12使徒たちである。
マタイの福音書の筆者も小さな群れで行動する羊について書いている。
キリストは使徒たちを「羊のよう」と言い表わした。また,エルサレムにおける最後の宣教の業に携わっている際,イエスは語った。
「群れの羊」とは,文字通り小さい群れであった使徒たちを指している。小さいゆえに外敵に備えがなかった。『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』(106頁ものみの塔協会発行)参照。
しがたって,ルカ12章22〜34節の文脈は羊飼いとして気遣いを示し,使徒たちを築き上げている場面である。
25,26節の中で言われた。「あなた方のうちだれが,思い煩ったからといって自分の寿命に一キュビットを加えることができるでしょうか。それゆえ,一番小さな事さえできないのに,なぜほかの事について思い煩うのですか。」と。イエスは使徒たちに対し,食べ物や衣服について思い煩わないように,心配したからといって,何も物事は進展しないと教えている。「それで,自分は何を食べるのだろうか,何を飲むのだろうかと尋ね求めるのをやめ,心配して気をもむのをやめなさい」(29節)と語った。心配が寿命に一キュビットを加えることはない。思い煩いの根は信仰の欠如であると指摘した。「これらはみな,世の諸国民がしきりに追い求めているものですが,あなた方の父は,あなた方がこれらのものを必要としていることを知っておられるのです。」(30節)と書かれているように,父は使徒たちの必要物をすべてご存知であると言った。それゆえ,ただ王国を第一にすれば備えられると励ました。「それで,やはり,絶えず神の王国を求めてゆきなさい。そうすれば,これらのものはあなた方に加えられるのです。」(31節)。恐れることなく,神に全幅の信頼をおいていれば王国を与えると使徒たち,すなわち「小さな群れ」に保証された場面である。(32節)。
14万4,000人と「小さな群れ」である12使徒の間にはなんの関連も見いだされない。
「小さな群れ」を集める神の計画が1935年に終了したなどという発想はみことばに基づくものではなく,人間の勝手な解釈にすぎないのでは。
イエスご自身は天に行くという14万4,000人の数字について教えたことがあっただろうか。
王国が14万4,000人に限定されるという教えは聖書のどこに書かれているか。
むしろ,聖書のメッセージは福音に聞き従うすべての人が王国に招かれるように戸が開かれていると教えている。
「きわめて真実にあなたに言いますが,再び生まれなけれ,だれも神の王国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)。
「きわめて真実にあなたに言いますが,水と霊から生まれなければ.だれも神の王国に入ることはできません。」(ヨハネ 3:5)。
初期の時代であっても,現代でもクリスチャンはすべて神から生まれた者である。神から生まれた者はみな神の王国に入ることができる。14万4,000人に限定されない。驚くことに,ものみの塔協会はクリスチャンを霊によって生まれる「残りの者」級と,霊によって生まれない「大郡衆」の2つのグループに分けてしまう。「書かれている事柄を越えてはならない」という定めを破っていることにならないだろうか。(Tコリ4:6)
啓示7,14章の14万4,000人の人々がだれであるか理解する糸口の一つは,ローマ人への手紙11章のオリーブの木のたとえ話である。
「ものみの塔」誌では,生来のイスラエル民族とクリスチャンを2つに分けて考える。それ自体は間違っていない。しかし,クリスチャンをさらに霊的イスラエル民族(14万4,000人)と「大群衆」の2つに分類してしまうのは聖書に基づいているだろうか。その結果,オリーブの木のたとえの解釈も視雑怪奇になっている。
夏期号では,「大群衆」の教理に関して,また14万4,000人が生来のイスラエル民族であるということに焦点を合わせて,聖書から論じる。
霊的イスラエルの諸部族 啓示7章4−8節は霊的イスラエルの14万4,000人の成員を、各々1万2,000人で成る12「部族」に分けてい主す。(「神のイスラエル」を参照。)その一覧表は生来のイスラエルの部族の頭である,ヤコプの子ら(レビを含む)の一覧表とは少し異なります。(創 49:28)こうした相違があるのは以下の理由によるのかもしれません。
ヤコプの長子ルペンは自分の不品行によって長子としての権利を失いました。(創 49:3,4;代一 5:1,2)ヨセフ(ヤコプが2番目の、しかし最愛の妻出会ったラケルによってもうけた長子)はイスラエルにおける二つの部分つまり受け分を持つ権利を含む,長子としての特権を待ました。(創 48:21,22)「啓示」の書の一覧表の「ヨセフ」は「エフライム」を表わしているようです。そしてマナセは霊的イスラエルにおけるヨセフの第二の受け分を表わしています。
レビの部族も一覧表に挙げられていますが,部族数を増やさないでレビが入るようにするため,啓示7章4−8節にはダンの部族が含まれていません。といっても,これはダンに何らかのふさわしくないところがあったためではないようです。レビが含められているのは,霊的イスラエルに特別な祭司の部族がなく,この霊的な国民全体が「王なる祭司」であることを示すためでもあるようです。−ペテ一 2:9。
啓示7章4−8節の12部族にはヨセフやレビの部族がある。一方,エフライムとダンの部族がない。民数記1章にある生来のイスラエルの部族と合致しない。従って,証人は啓示7章の14万4,000人は霊的イスラエル人であると主張。天的希望を持つエホバの証人こそが14万4,000人だと思いこんでいる。
「み言葉に属する,何も混ぜ物のない乳を慕う気持ちを培い」(ペテロ第一2:2 NWT)の精神態度で聖句を考慮してみよう。
5ユダの部族の中から−万二千人が証印を押され,ルペンの部族の中から一万二千人,ガドの部族の中から−万二千人,
6アシェルの部族の中から一万二千人,ナフタリの部族の中から一万二千人,マナセの部族の中から一万二千人,
7シメオンの部族の中から一万二千人,レビの部族の中から一万二千人,イッサカルの部族の中から一万二千人,
8ゼブルンの部族の中から一万二千人,ヨセフの部族の中から一万二千人,ペニヤミンの部族の中から一万二千人が証印を押された。」(啓示 7:4−8 NWT)。
証人は4節の前半「そしてわたしは,証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり」を文字通りと解釈。ところが,後半の「イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された」は象徴的と鵜呑みにする。一つの節の中だけで2つの解釈法を平然と用いる。
証人の長老クラスなら啓示21章14節の「子羊の12使徒」を引用するだろう。文字通りの‘12’と,象徴的な‘子羊’について論じる。
4節の「イスラエル」が文字通りか,象徴的かどうかは文脈から判明する。
イスラエルの部族が聖書で言及される場合,部族数は12である。つまり‘12’は生来のイスラエルの部族を指している数字。
ところが,『聖書から論じる』(ものみの塔協会発行1985年版)の釈義によると,啓示7章の‘12’部族は文字通りのユダヤ人でない。
ものみの塔協会の教理は変節が激しい。
上記の伝道用の書籍と左ページの『洞察』[ものみの塔版聖書事典]では理解が異なる。
驚くことに,1933年発行の『光』第一巻は現在のエホバの証人が聞けば,腰を抜かすほど解釈が異なる。猫の目のように変化する体質に悲哀すら覚える。
なぜ啓示7章4−8節にダンの部族がないのか。上記の『洞察』は「ダンに何らかのふさわしくないところがあったためではないようです。」と述べる。しかし,『光』(第一巻)で説明しているように,ダンの部族は偶像崇拝をした最初の部族である。(王一 12:28−29,裁 18:1,30,レビ 24:11参照)。従って,神から祝福を取り除かれたのだ。
次に,なぜエフライムが省かれているのか。
ヨセフの子は二人。エフライムとマナセ。聖書の中で‘12部族’に言及する際,ヨセフとエフライムとマナセの三部族の代表がヨセフの場合もあれば,息子たちのどちらかを含める場合もある。
啓示7章4−8節に,エフライムの部族がないのは,ダンと同様に不名誉な記録があるからではないか。(裁き人 17章,ホセア 4:17参照)。
1933年時代のものみの塔の方が聖書に基づいていた。人数が増えたために,新しい教理に移行せざるを得なかった。結局,聖書を曲解する羽目になった。
真実は,ヨセフとレビは12部族のメンバーとして旧約聖書に頻繁に登場する。
参照聖句:創35:22−26,48:8−22,49:1−28、申27:12−13,33:6−29,代−2:1−2,エゼ48章。
ヤコブ1章1節は,生来のユダヤ人を「各地に散っている十二部族へ」と表わしている。従って,啓示7章4−8節の14万4,000人とは文字通りのイスラエル人。否定できない真理である。
次号は生来のイスラエル人が終末に救われる預言について取り上げる。
パウロは生来のイスラエル人をどうみなしたか。
初代教会時代,ユダヤ人はまことのメシヤを拒んだ。イエスを釘付けにして,悔い改めなかった。しかし,すべてのユダヤ人が祝福から切り落とされたのではない。使徒をはじめ最初のクリスチャンはすべてイスラエル人だった。
ところで,エクレーシア[教会]が‘霊のイスラエル人’だけで横成するという教理は正しいだろうか。生来のユダヤ人は永遠に棄てられてしまったのだろうか。
パウロはイスラエル人に対する激しい痛みを告白。同胞のためなら,キリストから引き離されて良いとさえ吐露している。
神はキリストを十字架につけたイスラエルの民を憐れまないのだろうか。
ローマ人への手紙11章は終末を詳細に語る。
「異邦人の時」が終わる前兆に,「あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。」(マタイ 24:14 NWT)とあるように福音の宣明がある。しかし,諸国民が宣教に耳を傾けず,神に背を向けると,今度は異邦人が切り捨てられる。その時,もう一度生来のイスラエル人を神は顧みると言う。
聖書全体は見事に調和している。ローマ11章の克明な描写。ルカの「異邦人の時」。ハルマゲドン前の「ヨハネへの啓示」[黙示録]にある預言―14万4,000人の生来のイスラエル人。
では,いつユダヤ人が回復するかについて鍵となる聖句を見てみよう。
「事物の体制の終結」(マタイ 24:3 NWT)のしるしについて証人は伝道で盛んにアピールする。イエスは4人の弟子に預言。オリーブ山でエルサレムの神殿を目の前にして語られた。
証人は文脈の戦争,大きな地震,疫病,食糧不足などのしるしに関して文字通りだと宣教。
ところが,「異邦人の時の終わるまで,エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(『新改訳聖書』)を象徴的に理解する。気の毒なことに,証人は‘伝達経路’の‘光’に服さなければならない。
聖書を素直に受け止められなくなっている。
「異邦人の時」とは,『洞察』(第一巻1184―1185頁 本誌4ページ)の冒頭で注解している通りである。やはり文字通りのエルサレムに成就する出来事ではないだろうか。
パウロは「諸国民の定められた時」(「異邦人の時」)に関してどうみなしているか,再び,ローマ11章の文脈から注目してみたい。
25節の預言はイスラエル人が「異邦人の時」の終結までメシヤに対してかたくなになるという内容である。(The Bible and the Future A.A.Hoekema, Eerdmands, 1986)。
つまり,不従順なユダヤ人の「枝」は切り落とされた。無割礼の異邦人に取って代わった。
「終わりの日」に異邦人に対する神の恵みが達成すると,イスラエルの回復が再び始まるという啓示である。(『神の国の福音』ジョージ・E・ラッド著 聖書図書刊行会)。
ものみの塔協会は11章を特異に解釈する。
『新世界訳』は「異邦人」と訳さず,「諸国民」とする。しかし,「諸国民」は誤解を生む訳ではないだろうか。ユダヤ人も含んだ意に解釈されかねない。25節の他の翻訳を紹介しよう。
ユダヤ人は現在イスラエル共和国を持っている。しかし,エルサレムの聖所はまだ異邦人の手中にある。ハルマゲドン前にユダヤ人の中の「残りの者」が罪を悔い改め,主イエス・キリストを信じるようになるであろう。(Thy Kingdom Come J.D.Pentcost, Victor Books, 1990)。
26節は預言する。「こうして全イスラエルが救われることです。」(NWT)。「全イスラエル」とはユダヤ人全体ということなのだろうか。
パウロは預言したo「こうして全イスラ工ルが救われることです。」(NWT)。
「全イスラエル」とは民全体ということなのだろうか。ディスペンセーション主義*は,異邦人が王国に集められた後,イスラエル民族の全体も救われると解する。 *本誌5頁参照。
一方、ものみの塔は「全イスラエル」とは霊的イスラエル人だと解釈。つまり異邦人,生来のイスラエル人双方の中からの選ばれた14万4,000人だと強弁する。
ものみの塔は「全イスラエル」がイスラエル民族全体でない根拠をあげる。ひとつに26節の「こうして」を問題視する。ギリシャ語のΚαι ουτοωζ[カイフートース「こうして」]は時間的な概念がない。だから1の次は2だとは機械的に言えないと論争をしかける。
「ものみの塔」誌1983年11月15日号17頁
やはり聖書の文脈から判断すべきである。
かつては異邦人が不従順であった。不従順であったがゆえに神は憐れみをもたれた。今度は生来のイスラエル人が不従順になった。32節はイスラエルが不従順なのは「神が…閉じこめ」られたからとある。生来のイスラエル人に対して神が憐れみを示されるためと書いてある。
したがって,終わりの日に「肉のイスラエル」も選ばれると考えるのが適切ではないだろうか。
次号に続く。
「新しい真理だけでなく,以前に聞いた真理や原則を研究することにも価値がある」
(「ものみの塔」誌1984年2月1日号22頁*)。
‘忠実で思慮深い奴隷’は何人で構成するか
「忠実で思慮深い奴隷,または家令という人物はだれを指すか,…特権を与えられるただ一人の人物を予表しているという意味ではありません。」 (『洞察』第1巻 212頁)
「ラッセル自身が忠実にして智(さと)き僕(しもべ)であるという考え …約30年間,聖書研究者たちの間で一般に受け入れられるようになりました。」
(『エホバの証人神の王国をふれ告げる人々』143頁 ものみの塔協会発行1993年版)
「過去五十年間に多数の人々が,‘現下の真理’の知識に入れられ,神の聖旨(せいし)を為すべく己(おのれ)を献身して,キリストの中に受け入れられ,御国の中の一部署に任命の膏(あぶら)をそそがれた。之等(これら)の中の或(あ)る者は其(そ)の性質上,他の者を教える才能を多く得てゐたので各地の教會*の長老の位置に置かれた。然(しか)るに彼等は謙遜と従順の道に歩まずして自尊自大に陥り,悪しき者サタンの悪感化に堕(お)ちて,遂(つい)に其(そ)の虜(とりこ)となって了(しま)った。彼等は喜んで神命(しんめい)に聴従(ちょうじゅう)しないのである。」(『政府』日本語版 238頁 ものみの塔挽会発行 1930年版)
*当時は会衆を教曾と呼んでいた。
「此の‘遺残者’(のこれるもの)級に属する者こそ主が『忠義にして智(さと)き僕(しもべ)』と形容されたる者であって,之等の者に対して主はその‘所有物’即ち地上に於ける御国の利害の全部を委託されたのである。(マタイ傳24:45。イザヤ書42:1,6)。神命に喜び服して御国の福音を全地に宣明する者は即(すなわち)此の‘遺残者’(のこれるもの)級である。」
(同上 244責)
(*参照 拙著『ものみの塔文書資料集』真理のみことば伝道協会発行 2,600円)。
*参照:『エホバの証人 神の王団をふれ告げる人々』633頁 ものみの塔協会発行 1993年版。
主の記念式で表象物にあずかった人数
1899年 2,501人 1938年 36,732人
1917年 21,274人 1972年 10,350人
1919年 17,961人 1974年 10,723人
1925年 90,434人 1986年 8,808人
1928年 17,380人 1987年 8,927人
初代教会のクリスチャン人口
「キリスト教の伝道は初代の使徒たちが亡くなったのちも活発に続けられ,ローマ帝国内に広く展開された。まず使徒パウロなどによって開拓されたシリア,小アジア,ギリシアから首都ローマにいたるまでの主要な都市や農村に教会がたてられた。さらにアルメニア,エジプトなどをも含めたギリシア語が通用する世界で信者の密度が高くなった。その後,次第にラテン語が話される西方の世界にも広がり,イリリア,イタリアについで,2世紀のうちには南ガリア,北アフリカ,イスパニアに達し,180年頃にはローマ帝国の地中海沿岸のすべての属州にひろまった。」
(『世界の歴史2』429貢 秀村欣二著
中央公論社)
(『世界史概観』157頁 トマス・ウルバン著 エンデルレ書店)
*ディオクレティアヌス帝の治世は284年〜305年
(『基督教全史』132頁 E.ケアンズ著 聖書図書刊行会発行)
使徒 1:15 「…その群れの人々は全部で百二十名ほどであった。」
「小さな群れ」とはだれのことですか
天に行く人々
何人の人が天に行きますか
その14万4,000人の人々は全員ユダヤ人ですか
神がある人々を天に取られるのはなぜですか
「それから,イエスは弟子たちにこう言われた。このような訳であなた方に言いますが,何を食べるのだろうかと自分の魂のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい。…『恐れることはありません。小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです。自分の持ち物を売って,憐れみの施しをしなさい。自分のために,すり切れることのない財布,決して尽きることのない宝を天に作りなさい。そこでは,盗人が近づくことも,蛾が食い尽くすこともありません。あなた方の宝のある所,そこにあなた方の心もあるのです。」
(ルカ12:22−34 NWT)。
「『ご覧なさい,わたしはあなた方を,おおかみのただ中にいる羊のように遣わすのです。それゆえ,蛇のように用心深く,しかもはとのように純真なことを示しなさい。」(マタイ 10:16 NWT)。
「それからイエスは彼らにこう言われた。『今夜,あなた方は皆わたしに関してつまずくでしょう。‘わたしは牧者を打つ。すると,群れの羊は散り散りになるであろう’と書いてあるからです。」
(マタイ26:31NWT)。
「イエスがキリストであること信じる者はみな神から生まれたのであり,生まれさせた方を愛する者は皆,その方から 生まれた者を愛します」(Tヨハ 5:1)。
14万4,000人とはだれのことか(その二)
14万4,000の数は実数か
(『洞察』第二巻 671頁)
「4そしてわたしは.証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された。
「これらは生来のイスラエルの部族ではあり得ません。というのは,ヨセフの部族と呼ばれるものは決してありませんでしたし,エフライムとダンの部族はこの一覧表の中には含まれておらず,またレビ人は神殿に関連した奉仕のために別にされて,十二部族の一つに数えられていなかったからです。
民数記1:4−16参照」(『聖書から論じる』337頁)。
「十二の支派(わかれ)が列挙されて,各支派共に一萬(まん)二千宛が選ばれて印されてゐる。 …
神はその聖意のまゝに枝なる成員をキリストの體(からだ)の中に置き給ふ。(コリント前書十二章十八節)。肉的イスラエルの十二の支派(わかれ)はシナイ山に於(おい)て就任せる神の契約の中に在つた。…
レビはイスラエルの十二の支派の中には普通算(かぞ)へられなかつた,そして之は,ヨセフの支派がエフライムとマナセの両支派に分裂せる事によつて第十三番目の支派として取り扱はれてゐた.(民数記略一章十節)。印を受けたる十二の支派として黙示録中に示されあるものゝ中にはダンの名が除かれてゐる。
ダンは,神との契約に在(あ)り乍(なが)ら,『己(おの)が母の子』に背き,神の組織制度に敵対して自ら滅亡せる者等を代表してゐるやうである。『ダンは路(みち)の傍(かたわら)の蛇の如く途邊(みちべ)に在る蝮(まむし)の如し,馬の踵(くびす)を噛(は)みてその騎者(のるもの)をして後方に落ちしむ』(創世記四十九章十七節)。黙示録中に示されたるレビの支派はダンの代りとなつた事が明かである。」(『光』第一巻 ものみの塔発行1933年版 106−107頁)
「黙示録の中にはエフライムの支派(わかれ)が除かれてゐるが,此の支派は明かにヨセフの別れの名に含まれてゐる,何故なればマナセの支派が分離されたる後にヨセフの支派として残ってゐるのは即ち此のエフライムの支派のみであるからである。エフライムは彼の熱くもなく,亦(また)冷かにあらずして『主の口より吐き出さるゝ』微温者の級を代表してゐるやうである。之等(これら)の者は祭物(そなえもの)の契約中にあつたとは雖(いえど)も主より膏(あぶら)をそゝがれてはゐなかった。即ちその首位の稱號(しょうごう)がエフライムより取り揚げられて,先祖のヨセフに興へられたのである。…キリストの體(からだ)の成員たる十四萬(まん)四千は斯(か)く集められて,選ばれ,膏(あぶら)そゝがれて印を受けたる者として示さる。」(『光』第一巻 ものみの塔協会発行1933年版 107−108頁)
14万4,000人とはだれのことか(その三)
(『洞察』第一巻 497頁,同書 第二巻 231頁)
(『洞察』第一巻 867頁)
(「ものみの塔」誌 1983年11月15日号 14-19頁, 1984年9月1日号 8-11頁)
(『洞察』第二巻 671頁,「目薬」誌 夏季号 '96参照))
「わたしの心には大きな悲嘆と絶えざる苦痛があります。わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」
(ローマ 9:2−3 NWT)。
「では,わたしは言います。神はご自分の民を退けられたわけではないでしよう。断じてそのようなことはないように!わたしもイスラエル人であり,アブラハムの胤の者,ベニヤミン部族の者だからです。」
アブラハム契約を結ばれた神は不変である。
(ローマ 11:1 NWT)。
「そこでわたしは尋ねます。かれら[ユダヤ人]はつまずいて全く倒れてしまったのですか。断じてそのようなことはないように!…」(ローマ 11:11 NWT)。
アブラハム契約は「定めのない時に至る契約」です。その条件によると,この契約は神の敵がすべて滅ばされ,他のもろもろの家族を祝福することが成し遂げられるまで存続しなしれはなつません。―創 17:7; コリ一 15:23-26。
(『洞察』第一巻837頁)
「…ただし,あなたがそのご親切のうちにとどまっていればのことです。そうでないと,あなたも切り落とされることになります。また彼らも,信仰の欠如のうちにとどまっていなければ,接ぎ木されることになるのです。神はかれら[生来のイスラエル人]を再び接ぎ木することができるからです。」
(ローマ 11:22−23 NWT)。
生来のイスラエル人の救い
「そして人々は剣の刃に倒れ,捕らわれとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう。そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです。」
(ルカ 21:24 NWT)。
「兄弟たち。あなた方がただ自分の目から見て思慮深い者とならないために,わたしはあなた方がこの神聖な奥義について無知でいることがないようにと願うのです。 すなわち,諸国の人たちが入って来てその人たちの数がそろうまで,感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ」。
(ローマ 11:25 NWT)。
「…その奥義とは,イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり,」
(ローマ 11:25 『新改訳』)。
「…一部のイスラ工ル人がかたくなになったのは.異邦人が全部救われるに至る時までのことであって,」
(同 『口語訳』)。
「…それは異邦人らに救いが満ちてしまう時までである。」(同 『口語訳新約聖書』 キリスト新聞社)。
14万4,000人とはだれのことか(その四)
(『洞察』第一巻497頁,同書第二巻231頁)。
(『洞察』第一巻837頁;「目薬」誌秋季号、'96参照)。
「こうして全イスラエルが救われることです。まさに書かれているとおりです。『救出者がシオンから出て、不敬虔な習わしをヤコブから遠ざける。」ローマ 11:26 NWT
「Και ουτοωζ=そしてこうして:単に時を表わす表現でほない。」(解説者のギリシャ語新約聖書〕今日の英語聖書(「そしてこのように」),欽定訳.改訂標準訳.新国際訳(「そうして」)と比較しこください。ユダヤ国民全体が最終的に改宗して救われることを信ずる人々は,カイ フートースという句が時間に関連して,「そしこその後に」を意味するとしています。(エルサレム聖書のローマ11:26参照。)キリスト教世界の聖書評釈書の中には,パウロの全体的な論議の流れに反し,過去と現在の歴史の事実に反するにらかかわらず,こうした解釈を述べるものが少なくありません。―ローマ 2:28,29;9:1−6,27:10:1,21;11:5,7−10,14。使徒 13:45,46と比較してください。
「確かに,良いたよりについて言えば,彼ら[イスラエル人]はあなた方の益のために敵となっています
が,神の選びについて言えば,彼らはその父祖たちの益のために愛されています。」(ローマ11:28 NWT)
パウロはローマ11章1節で,神が「ご自分の民を退けられたわけではない」と言った。確かに
イスラエルの民はクリスチャンの敵となった。けれども神の隣れみとアブラハム契約による招き
が無効になることはないとパウロは断言する。
「あなた方がかつては神に不従順で,今は彼らの不従順のゆえに憐れみを受けているのと同じように, 彼らがいま不従順になってあなた方に憐れみが及んでいても,それは彼ら自身も今や憐れみを受けるためなのです。」(ローマ 11:30,31 NWT)
「ああ,禅の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく…。」(33節)