第四章:「血の教え」の発展

血の教えの「細則」の発展

 前の章に述べたように、輸血禁止の新たに明文化された教義が、1951年の「ものみの塔」誌に発表された当時、問題にされたのは、単純な輸血(当時はまだ全血輸血が主流でした)だけでした。しかし、その後、この教義には様々な「細則」がつけ加えられました。

食肉、その他の食物の血について

 先ず、1961年の「ものみの塔」誌では、肉屋で売られている肉に含まれる血液を問題にしています。

もし、屠殺された動物を瀉血することがあなたの地方で一般に行われていないなら、あるいはあなたの住む地域での普通の処理の仕方がわからなかったら、肉から血が正しく抜かれているかどうかを確かめる一番よい方法は個人的に聞いてみることです。‥‥もしクリスチャンがその肉は正しく処理されていることを確信したら、それを自由に使って構いません。しかし、もし肉を売っている人がそのことを知らなかったら、「誰がこれについての情報を知っていますか。これは私の宗教上の理由で大事なのです」と質問しなさい。もし何らかの理由で彼が真実を知らされていないと感じたら、いつでも他の所へ行って買うことが出来ますし、もし必要なら、生きた動物を買って自分で屠殺するように手配もできます。

(「ものみの塔」1961年11月1日669頁)

 ここで、ものみの塔協会は正統派ユダヤ人も顔負けの、食肉に関する決まりを設定しています。この「ものみの塔」の、肉屋に問い合わせなさいという教えは、コリント第一10章25節の次のパウロの言葉とは、全く反対の教えです。

何でも肉市場で売っているものは、あなた方の良心のために、何も尋ねないで今後も食べなさい。「地とそれに満ちるものとはエホバのもの」だからです。不信者のだれかがあなた方を招き、あなた方が行きたいと思った場合、自分の良心のために、何も尋ねることなく、何でも自分の前に出される物を食べなさい。(コリント第一10:25-27−新世界訳)

 ものみの塔も、この点は無視できませんでした。同じ号の「ものみの塔」誌の次の「読者からの質問」の欄でこの点は、苦しい説明がなされています。それによると、コリント第一の10章で問題にしているのは、偶像に捧げられた肉が肉市場で売られているものについて、議論されている、従って、クリスチャンはその肉が偶像の神殿から来たかどうかを尋ねないで食べてもよいと、パウロは言っているのである、というのがものみの塔の説明です。しかしそれは、聖書に書いていないことを無理に読みとっているのではないでしょうか。コリント第一には「何でも肉市場に売っているものは」と書いてあります。そこには当然、正しい血を抜く手続きを受けていない肉が売られていました。そもそも、偶像の神殿に供えられる肉は、ユダヤ人の神殿に供える肉とは違った処理法を受けています。パウロの言うように「何も尋ねないで」食べた場合、正しく血抜きをしていない肉をたべることになるのは、必至でしょう。

 また、不信者の家で何でも出されたものを何も尋ねることなく食べれば、正しく血抜きしていない肉が入っている可能性は充分ありますが、パウロはそれでも構わないと言っているのです。ものみの塔にとって、このような明白な聖書の記述も、自分たちの教えと矛盾すると、決して素直に読みとることは出来ません。彼等にとっては、血の教えが絶対的な教えになっているが故に、この部分を素直に読んでも「こんな事はあり得ない」と結論し、無理に「血の教え」にあうようにねじ曲げて解釈しなければなりません。これは、ものみの塔の聖書解釈の典型的な型を示すよい例でしょう。詳しくは第二部を参照して下さい。

 更に、ものみの塔は様々な商品に血液やその成分が含まれているかを、細かく調べることをエホバの証人に要請しています。

他の商品についても、似たような手続きをとるのがよいでしょう。もしあなたがある商品に血液あるいは血液の成分が含まれると信じる理由がある場合には、それを売っている人に尋ねなさい。もしその人が知らなかったら、製造元に手紙を書きなさい。表示に血液成分が使われているかが示されていることもありますが、いつもそうであるとは限りません。(「ものみの塔」1961年11月1日669頁)

 また同じ読者からの質問では、魚や昆虫に関しても、食べる時は血を出す必要があると教えています。もしこれらの動物が小さくて注ぎ出すだけの血が無い場合には、無理に絞り出す必要はないが、これらの動物を切って血が見える場合には、除いてから食べなければならないと教えています。

ペットへの輸血、動物の飼料、肥料に含まれる血について

 1964年になると、ものみの塔協会は、「血の教え」は単に血を体に取り入れることを禁止しているだけでなく、更に、何らかの目的で血を利用することも禁じていると解釈を発展させ、再び「読者からの質問」の欄で、動物の血液で作った肥料を使うこと、血液が含まれる動物の餌を使用すること、そしてペットに輸血をすることが禁止されました。

クリスチャンが獣医に対し、ペットに輸血することを許すことは、聖書に違反することでしょうか。動物の餌はどうでしょうか。もし血液が入っていると信じる理由がある時に、それを使用することはかまわないでしょうか。また、血の含まれる肥料を使うことは許されますか。

‥‥クリスチャンが獣医に対し、ペットに輸血することを許すことは、聖書に違反することでしょうか。もちろん確実に、そのようなことをすることは聖書に違反することです。そして血液を輸血のために使うことは、それが動物であっても、不適当です。‥‥クリスチャンの親は、ペットは子供のものであり、バプテスマを受けていない子供が、自分勝手に獣医に輸血をすることを許すかも知れない、などと決して言い訳をしてはなりません。いいえ。バプテスマを受けた親が責任があるのです。なぜなら、その親がその子供に対する権威を持ち、従ってそのペットにも権威を持ち、すべての事をコントロールしなければなりません。これは親の神の前での義務です。

それでは動物の餌はどうでしょう。もし血液が入っていると信じる理由がある時に、それを使用することはかまわないでしょうか。クリスチャンに関する限り、この答は、すでに述べた理由に基づいて、否です。従って、もしクリスチャンがドッグフードやその他の動物の餌の容器に貼ってある表示に、血液成分が含まれることを見つけたら、その人が管理する動物に対して、その餌を与えることは良心的にできないでしょう。動物が血を食べることは許されるはずだ、という結論は出せません。なぜならこれは一つの動物が他の動物を殺して、自分でその殺した動物の血を食べていることではないのです。いいえ、ペットやその他の彼が管理する動物に血を食べさせるという、クリスチャン自身の直接の行為が問題なのです。‥‥

それでは、血の含まれる肥料についてはどうでしょう。神の血に関する掟に敬意を示す人はこれを使用しません。確かに、モーセの律法によれば、体から取り出された血液は地面に注ぎ出して、塵で覆わなければなりません(レビ記17:13,14)。しかし、その目的は、血が捨てられる時に何の有用な目的にも使われないということです。それが肥料として役に立つからという気持ちをもって、地面に撒かれたのではありません。従ってクリスチャンの農民は今日だれも、土壌を肥やすために血液を撒くことはできませんし、また売られている肥料で血液を含んだものを使うこともしません。そのような血液の使用の仕方は、神が自分の使用のために確保してあるものを、商業化することになるでしょう。これは神の言葉に対する違反です。‥‥

(「ものみの塔」1964年2月15日128頁)

 この新たな教義は、ペットへの輸血、血の入った餌を与えること、血の入った肥料を使うことを、「聖書に違反する」、あるいは「神の言葉に違反する」行為として規定しています。聖書にひたすら忠実に生きようと希望しているエホバの証人にとって、「聖書に違反する行為」とする、ものみの塔協会の規定が、どれだけ強い拘束力を持つかは想像に難くありません。どのエホバの証人も、どんなことがあっても、聖書に違反することだけはしたくないからです。

 しかし、聖書は野生の動物には血の入った肉を食べさせることを許しています。

野にある野獣に裂かれた肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えるべきである。(出エジプト22:31 −新世界訳)

 この犬のようにペットには、野生で元々肉食であり、エホバが血を食べるように創造した動物も含まれますが、そのことは考慮はされていません。(しかし、議論の観点を変えれば、同じように強い調子で、これらの動物に血を食べさせることを正当化する議論も展開できます。)

 これらの規定を破ってどれだけのエホバの証人が、審理委員会にかけられたり、なんらかの処罰を受けたかは分かりませんが、この規定は明らかに単なる忠告の域を超えた、強い力を持つものでした。

 この血の入った肥料の禁制は、その後、1981年10月15日の「ものみの塔」誌で、少し調子が和らいではいますが、繰り返し問題にされています。

血液検査について

 体から取り出された血液が、有用な目的に使われるのが、聖書に違反する行為であるのなら、もちろん献血は許されませんが、それでは、自分の血液を採血して病気の診断のための検査に提出することはどうなのでしょうか。

血液検査を受けることは間違っていますか。聖書の知識に基づいて、全部ではなくとも、大部分のエホバの証人はそのような検査を受けることに反対しません。体から取り出された少量の血液は、食べたり他の人に注入されるのではなく、ただ廃棄される前に検査されたり、テストを受けるだけだからです。(申命15:23)(「ものみの塔」1978年6月15日30頁)

 自分の血液を取り出して、重要な病気の診断に活用し、自分の健康に関する重要な情報を得ることは、血液が「有用な目的に使われる」ことにならないでしょうか。肥料に使われることは「有用な目的に使われる」ので許されないのであれば、どうして血液検査に使うことが同じ様に「聖書に違反する行為」ではないのでしょうか。それとも少量であるからよいのでしょうか。使徒の15章には血とならんで淫行を避けるように書いてあります。少量の血液が許されるのなら、少量の淫行も許されるのでしょうか。このような一貫性のない教えは、聖書の教えでしょうか、それとも人がその時その時のアイディアで作った、人間の教えでしょうか。

エホバの証人以外の人間への血の使用

 エホバの証人が、血液を商売で扱ったり、エホバの証人の医師が、エホバの証人以外の患者に輸血する行為は許されるのでしょうか。1951年の明文化された規則の設定以来、エホバの証人の実生活の上で、様々の予期しない状況が生まれ、それに対して、ものみの塔協会は、次々と肯定、否定の答を与えることにより、次々と「判例」を作り、それがまた次の問題を生むことになりました。次の1964年の「ものみの塔」誌の記事では、エホバの証人が血を含んだ商品を売ることは、「良心の問題」すなわち容認されることとされました。

‥‥ですから、クリスチャンが血の入った品、例えば血入りのソーセージのような品物を、それをよろこんでお金を出して買いたいという世の人に対して売ることによって処分することは、良心の問題です。(「ものみの塔」1964年11月15日681頁)

 この問題はその後、クリスチャン(エホバの証人)の良心が許さないことを、クリスチャン以外の人(エホバの証人以外の人)に行うことが許されるかどうかの教えと関係して、議論が展開されました。次の「王国宣教」の記事では、クリスチャン以外の人に血液を食べさせることと、たばこを売ることとを、比較しています。

ある人は、たばこを世の人に売ることに関して、申命記14:21の原則があてはまるかどうか、という問い合わせをしてきました。神は、血を注ぎだしていない肉が異邦人に売られて、食物にされることを認めました。そうすることは、必ず身体的危害が加わるわけではなく、そのような異邦人はすでに霊的にエホバの前に汚れていました。そのような肉を食べることによって、かれらには身体的にも霊的にも、何の違いも起こりませんでした。これに対して、たばこに関しては、これが食物でないこと、人の体にとって何の役にもたたないこと、そして絶対的に有害であることを、われわれは知っています。そうであるなら、どうして、われわれはこれを無視して、自分の個人的な利益を隣人への愛より優先させることができるでしょうか。(「王国宣教」1974年2月6頁)

 ここでは、たばこは害があるから、エホバの証人はこれを、世の人に売ってはならない、しかし血に関しては、たとえば血の入った商品は、それが害になるものではないから、これを売ることは構わない、という論理になります。しかしこの点でも、ものみの塔協会は揺れ動いています。この論理からいくと、身体的に害がなければ、エホバの証人の医師は、エホバの証人以外の患者に輸血しても構わないという、当然の論理の帰結になります。そこで、更に次ぎのような記事を出して、ものみの塔協会はこれを調整しています。

就職は、クリスチャンの良心を働かせる必要のある多くの問題を提起する領域です。ある種の仕事、たとえば偶像を作ったり、賭博の会社に勤めたり、偽の宗教団体の職員になったりすることは、明らかに聖書に反することです。クリスチャンはこれらを避けます。しかし、すべての仕事に関する事柄が、このように明確であるとは限りません。ある種の仕事は、いわば「灰色の領域」に入るでしょう。‥‥例えば血液に関係した仕事があります。‥‥一人のコロラド州のエホバの証人は、ある病院の主任検査技師として、体液や組織の様々な種類のテストを行っていました。彼がテストするはずの沢山の検査項目の中には、血液が含まれていました。ある時は単に、患者の血液を使って糖やコレステロールを測定するだけでした。しかし、ある時は輸血の準備のために血液をクロスマッチすることでした。彼はこれをしてよいでしょうか。このクリスチャンは、この事柄に関して慎重に考慮しました。クリスチャンが、全ての仕事が神の律法を破る目的に集中している、血液銀行だけに勤めることがよくないことはわかるでしょう。しかし、彼の状況はこれとは異なります。彼は多くの種類の検査をしていたのです。また、もしその人が決定に責任のある医師であるなら、クリスチャンの店の所有者が偶像やたばこを注文したり置いたりすることができないのと同じように、輸血を指示することもできないでしょう。しかし、この技師は、自分と血液の関係はただ、検査を行っているだけである、ということに気付きました。それはちょうど、看護婦が血液を採血したかも知れませんし、配達人はそれを検査室に届けたかも知れませんし、他の誰かは、医師の指示に基づいて輸血を施したり、薬を与えたかも知れないのと同じことでした。彼はそこで申命記14:21の原則を思い出しました。その本文によると、自然に死んだ動物の死体は、血を注ぎだしていない動物の肉に関して、律法の規制の下にいない外国人に対しては、売って処分することができました。そこでこの技師の良心はその時、血に関する神の律法に構わない患者に対する輸血のための検査を含めた、血液検査を行うことを許したのです。

(「ものみの塔」1975年4月1日215頁)

仕事に関して考慮すべき要素

クリスチャンがある仕事について決定を下さなければならないとき、まず考慮すべきなのは、自分が実際に何を行うことになるかということです。次の二つの点を考慮できるでしょう。その特定の仕事は聖書の中で非とされているか‥‥ 血液銀行や、専ら戦争用の武器を製造する工場の守衛や受付でさえ、神の言葉に反する仕事と直接的に結び付けられています。‥‥店を所有しているクリスチャンは、偶像や血の入ったソーセージを置いたり販売したりしません。そのような人は、他の幾千点もの商品と共にたばこや血入りのプリンなどを販売するスーパーマーケットの従業員と同じ立場にはありません。(「ものみの塔」1982年7月15日26頁)

 この二つの、より最近のものみの塔の記事を見ると、幾つかのことがわかります。これらの記事では、「クリスチャンの良心」という言葉が繰り返し使われ、多くの「灰色の領域」に関して、「良心の問題」として自分で決定することを奨励しているように見えますが、よく読んでみると、多くの事柄が、「灰色」ではなく、はっきり「黒」と指摘されています。たとえば、1964年の教えと異なり、エホバの証人の商店主は自分の扱う商品に、偶像や血の入ったものがないように注意しなければなりませんが、同じエホバの証人でも従業員は、他の沢山の商品の一部として、血の入った商品を扱うのなら構いません。またエホバの証人の検査技師や看護婦は輸血をする手助けをして構いませんが(良心の問題)、医師は、商店主の例と同じように、自分の責任でエホバの証人以外の患者に対してでも、輸血を決定して指示することは許されないとされています。

ヒルの使用について

 この「血の掟」は更に、奇想天外なアイディアにまで発展します。1982年6月の「ものみの塔」誌では、吸血動物であるヒルを医学治療の目的に使うことが許されるか、を論じ、「聖書に基づいて」これは許されないことと教えられています。その奇抜な議論をこの「読者からの質問」で見てみましょう。

クリスチャンが医学的な治療において、ヒルをつけて血液を吸収させることを許すことは間違っていますか。

血液を医学の目的で採血したり、捨てたりすることを許可することは、神の言葉に反することではないでしょう。しかしこれをヒルを使って行うことは、聖書が言っていることに反します。確かに、今日では一般には使われません。しかし特にヨーロッパでは、この使用に関する疑問は生じます。聖書が血に関して何と言っているかを見ることは、このような治療をどう評価するかに役立ちます。(「ものみの塔」1982年6月15日31頁)

 これに続いて、現代の医療でヒルが使われる状況を説明しています。これはこの「ものみの塔」の記事にも紹介されていますが、特に形成外科の小さな末端組織、例えば耳たぶとか指の先とかをつなげる手術にヒルが毛細血管の還流を維持するのに活躍しており、現在でも最も有効な治療の一つです。これに続いて、他の記事と同じく、ノアの契約とモーセの律法が繰り返されています。それに続いてこの記事はこう言っています。

しかし、確かにヒルは自然の状態では寄生的に血を食べて生きていますが、クリスチャンがヒルに血を吸わせることを許すことは適切ではありません。(箴言30:15)たとえそれが医学的理由で必要とされて、ヒルは使用後処分されるのであっても、ヒルを使うことは、これらの生き物に意図的に血液を食べさせることになります。それは、血が神聖であり、生命を象徴するから、体から取り出されたら処分されなければならないという、聖書の指示に反することになるのです。(同)

 興味あることは、この同じ記事の中で、再び血液を検査室に提出して血液検査を受けることは、「いったんテストが終われば血液は捨て去られるから」、「クリスチャンは良心的にこれを行うことができる」として、1978年の「ものみの塔」誌の立場を繰り返していることです。しかし、少し考えてみれば、ヒルも目的が済めばすぐにその血液と一緒に処分されるわけで、その処分前に「一時的」に目的にあったことに使われるわけです。血液検査もその結果によって、血を与えた人は莫大な利益を検査結果の形で得て、その後で血液が処分されるわけです。そこにどれだけ本質的な違いがあるのでしょう。この違いを作ったものみの塔の本当の理由(あるいは「本音」)は、血液検査が余りに日常的に広く行われているから、これを禁じることは、エホバの証人に更に大きな負担をかけるが、ヒルの使用は比較的稀であるので、これを禁じても大きな問題は起こらないという配慮があったのではないでしょうか。これが、本当に聖書の教えなのか、それとも人間が世間の雲行きを見計らって作った、人間の教えなのかを、読者の方はよく考えてみて下さい。

自己血輸血について

 1978年には、その頃普及しだし、輸血に伴う多くの危険を回避できる自己血輸血(あるいは自家輸血)が問題にされました。もし、輸血がものみの塔の主張するように、感染症を主とする危険を伴うものであるのなら、この新たな手法は歓迎されても良かったようですが、実際は、ものみの塔協会はこの比較的安全な輸血法も、真っ向から否定しました。

医師は、手術中に万が一輸血が必要になったときに使えるように、手術の前に患者が自分の血液を採血して貯蔵しておくことができると言いました。クリスチャンはこのような自分の血液の使い方をどのように見るべきでしょうか。

彼[クリスチャン]は、古代イスラエル人が、体から除かれた血は、それが神のものであり、地上の生き物の命を支える物ではないことを示すため、「地面に水のように注がなければならない」と教えられたこと、を指摘できます。(申命記12:24)そして彼は、クリスチャンが「血から避けていなさい」という、直接的な命令を指摘できます。この観点からすれば、どうして彼は自分の血液を血液銀行に集めておいて、後に自分自身や別の人に輸血できるでしょうか。

 しかし、これ以後、ものみの塔協会は、血の教えに関する限り、次々と例外と抜け道を作り、徐々にエホバの証人が、輸血を拒否しながらも現代医学の最大限の恩恵を受けられるように、規則を変えてきました。次にその歴史を見てみましょう。

例外と抜け道作りの歴史

 先に述べたように、1951年に輸血の禁止が明文化した後の歴史は、徐々に、しかし次々と、細かな規則を作り上げる一方、規則に例外と抜け道を作る歴史となっています。これは医療技術の進歩により、様々の血液成分を別々に使用できるようになったこと、そして、血液を使用する、様々な治療法や治療機器が進歩してきたことが影響しています。そしてそのような、細かな例外は、更に複雑になり、ほとんど一般のエホバの証人が理解できないような、現在の血の教えに発展しました。

血清の解禁

 この最初の例外作りは、一般的な輸血を禁止した1951年から7年しかたたない1958年に始まります。その年、9月の「ものみの塔」誌には、次のような「読者からの質問」が掲載され、ここでは血清の使用が先ず「各人で判断すること」として解禁されました。

ジフテリア抗毒素やガンマ・グロブリンの血液分画のような血清を、抗体によって病気に対する抵抗力をつける目的で、血流の中に注入することは、輸血によって血液や血漿を取り入れたり、血を飲んだりするのと同じと考えるべきですか。

いいえ、わたしたちは、確かに過去においてそのように取り扱いましたが、これらの二つのことを同じ範疇に入れる必要はないようです。聖書に血の禁制が述べられているのは、それを食物として取り入れることに関係している時で、従って禁止されているのは栄養物としてなのです。‥‥ 血液の中に、抗体を血清の形で注入したり、血液の一部を使ってそのような抗体を作ることは、口からでも輸血によってでも、血液を体の生命力を築くために栄養として取り入れることとは、同じではありません。神は人が自分の血液を予防接種や血清や血液の分画で汚すことは意図されませんでしたが、そうすることが、血を食物として使用する神のはっきりと述べられた禁止の中には含まれてはいないようです。したがって、そのようなタイプの医療をうけるかどうかは、各人の判断すべきことです。(「ものみの塔」1958年9月15日575頁)

 ここで見るように、ものみの塔協会は少しずつ抜け道を作る段階で、「栄養として」とか「生命力を築くため」という解釈を輸血禁止にあてはめ、従ってそれ以外の使用を許していこうという姿勢が見えます。この抜け道は、ものみの塔協会にとってはどうしても必要なものでした。というのも、1953年に予防接種が「良心の問題」とされて解禁されたことにより、血清成分を多く使っている予防接種と、血の教えとの関係を調整する必要があったからです。この二つの一方を否定し、他方を肯定するには、それなりの聖書的な「裏付け」が必要でした。ここに輸血禁止の理由の強調点が、「栄養として」とか「生命力を築くため」という側面に変わったのです。

 しかし、ここにはものみの塔協会が指摘しない皮肉な現実があります。現代の輸血は、大部分手術や外傷の急性の失血を一時的に補正するために使われ、昔のような栄養補給や「元気づけ」の目的で使われることは稀です。一方、免疫グロブリンの注入はまさしく体に抵抗力をつけるためであり、またものみの塔協会が、その後の「抜け道作り」で受けつけてよいとされた血清アルブミンは、今でも低蛋白症の「栄養付け」のために使われているのです。従って、ものみの塔協会はすでにこの時点で、重大な自己撞着に陥っていたのです。この輸血が「栄養として」行われる治療行為かどうかは、後で更に医学的な考察を加えます。

 1974年6月1日のものみの塔」誌は、血清療法の進歩を紹介した後、この血清療法が「良心の問題」であることを、再確認しています。

最初に述べたように、聖書が血について述べていることに充分な敬意を払うために、わたしたちは血のいかなる使用も、自然に存在する動物や人間の体の外では勧めません。わたしたちは血を輸血に使ったり、その一部を同じ様な目的で使うことは、聖書の「血を避けなさい」(使徒15:20)という命令に明らかに反すると信じます。それではわずかの血液成分を含み、感染に対する防御力を助けるために使われ、命を支えるという血が普通に行う機能をするためには使われていない、血清はどうでしょうか。わたしたちはこれについては、それぞれのクリスチャンの良心が決めることだと信じます。ある人はそのように血清を受けつけることは、命の神聖さと命の源である神への不敬にはならないし、血を体を養うために使うことに関する、神の明らかにされた意志を侮辱するものでもないと考えます。一方、別の人の良心は、そのような血清は全て拒否するかもしれません。それぞれの人は、自分の良心の決定の理由に関して、自分の審判人である神に答えられなければなりません。(「ものみの塔」1974年6月1日351頁)

 この記事のもう一つの重要な点は、ここで初めてRh不適合による新生児溶血性疾患の予防のための血清注射が、やはり「良心の問題」として解禁されたことでしょう。

体外循環装置の使用の解禁

 1963年9月1日の「ものみの塔」誌は、この雑誌には珍しく、教義に直接関係のない医学界のニュースを大々的に取り上げました。それはニューヨークのある病院で、初めて人工心肺を使った無輸血手術が成功した、というものでした。この例では、人工心肺を最初に満たすのに使われる血液銀行からの血液の代わりに、ブドウ糖液を使ったことでした。なぜ、ものみの塔協会がこの一つのニュースを大々的に取り上げたかは、想像に難くないでしょう。これが、エホバの証人が本格的な心臓手術を受けられるきっかけとなったのでした。しかし、それでは大量の自分の血液が体外の人工心肺の機械の中に出て行って、再び自分の体に戻って来るのは、自分の血液を輸血することと本質的には同じことである、という問題が出てきました。これは結局次のような例外を設けることで、解決されました。ここでもまた「新しい光」、あるいは新しい聖書の解釈が、世の動きに翻弄されるようにして作られた例が見られるのです。

それでは、人工心肺や透析(人工腎臓)機のような装置の場合はどうでしょう。クリスチャンはこれらを使って構いませんか。

クリスチャンのエホバの証人の中には、しっかりした良心に基づいて、そのような装置が、血液以外の液体、例えば乳糖リンゲル液などで最初に満たされていることを条件として、それらを使うことを許した人たちがいます。このような装置が働いているとき、患者の血液は血管から管を通して機械(その中で血液はポンプされ、酸素を与えられ、あるいは濾過される)の中を通り、再びその人の循環系に戻されます。機械は一時的に、通常患者の臓器で行われている機能を代行しているだけです。あるクリスチャンは、血液が継続的に流れていれば、その体外の循環は自分の循環系の延長とみなすことができると、良心をもって考えました。これらの人々は、これは体の中に埋め込まれて、血管の閉鎖した部分を迂回させるための管と同じことだと考えました。もちろん、それぞれのクリスチャンはこのような装置に何が関係しているのかを考慮すべきです。その人は、この血液が明らかに体を出たものであるから処分されなければならないと考えることも出来ますし、あるいは、本質的にはまだ自分の循環の一部であるとも考えられます。その上で、神の前に正しい良心を保つことができる自分の決定をすることができます。(ものみの塔」1978年6月15日30頁)

 ここに、エホバの証人は晴れて、ものみの塔協会からのひんしゅくを買うことなく、排斥処分を恐れることもなく、心臓手術や人工透析を受けられるようになりました。しかし、この同じ記事には、前にも触れたように、自分の血液を保存して置いて、手術時に輸血する自己血輸血は許されないことが確認されています。この時点において、ものみの塔の判断の重要な基準に、体外に出た血液が循環系の一部として「流れ続ける」ことが強調されるようになり、その後の例外作りの重大な基準となりました。すなわち、その後発表された、許される血液治療は大部分、この「自分の体の循環の一部と見なせる」ような多くの工夫が凝らされています。この点は、第三部の医学的考察の部分でも、紹介します。

血友病治療の凝固因子の解禁

 この同じ記事では、更に血清療法が良心の問題であることが繰り返し述べられていますが、ここで初めて血友病患者に対する血液凝固因子の使用がやはり「良心の問題」と変更されました。そのほんの三年前の「目ざめよ」誌では、「もちろん、真のクリスチャンは‥‥この危険な可能性のある治療法を使いません」と述べたばかりでした。

血液から取られたある種の凝固「因子」が、止めようのない出血を引き起こす血友病の治療に、現在では広く使われています。‥‥もちろん、真のクリスチャンは、聖書の「血を避けなさい」という命令を守ってこの危険な可能性のある治療法を使いません。(「目ざめよ」1975年2月22日30頁)

 ここにまた新たな抜け道が作られ、これにより、エホバの証人で血友病にかかっている患者にとっては、画期的な進歩がもたらされたのです。ほんの三年前までは聖書の命令に反することと教えられていた治療法が、今では「個人の良心の問題」になったのですから。

受け入れられる治療と受け入れられない治療 − JAMAを通しての発表

 血の教えに対し本格的に、また体系的にこの例外と抜け道を公表したのは1982年6月22日の「目ざめよ」誌でした。ものみの塔協会は、その前の年の1981年、複雑化するものみの塔協会の「血の教え」を医学界に整理した形で伝えるために、アメリカ医師会雑誌(JAMA-Journal of American Medical Association)に「エホバの証人 外科的/倫理的挑戦」という記事を投稿し、それが受領されて、特別記事の形で、1981年11月27日号2471頁に掲載されました。この記事は、ものみの塔協会世界本部の医療部門の主任であったラウエル・ディクソン医師と、研究部門のスモリー氏の共著の形で書かれており、翌年の「目ざめよ」誌に全文が転載されました。この記事は、それ以後、エホバの証人が血に関する治療方針の決定や、医療関係者がどのようにエホバの証人を治療すべきかの指針として、しばしば引用される重要な文書となったのです。

 次にこの歴史的な記事に何が書いてあるかを、系統的に要約してみましょう。先ずこの記事を読んで、すぐに気付くことは、筆者がエホバの証人でありながら、あたかも客観的にこの宗教を第三者の目から捉えて、その「筋にかなった」教えをいかにも客観性を保ちながら、医療界に紹介していることです。もちろん、JAMAの科学的、客観的記述を重視する編集姿勢に対応しなければ、記事は採用されないわけで、その点を充分に考慮しての書き方と思われます。

 このJAMAの記事で興味あることは、ものみの塔協会の医学の最高幹部が、許されない治療と、「個人の判断」で受けられる治療とを明白に定めて、医学界にJAMA(アメリカ医師会雑誌)という広範な読者を持つ雑誌を使って広報し、更に翌年、その全文を「目ざめよ」誌に転載し、エホバの証人の社会に浸透させたことでしょう。それと同時に、医学界の同情と自分たちの独自の判断を尊重することを懇願しています。

 これらの「個人の判断」で受けつけられる治療が、なぜ他の受けつけられない治療に比べて受けつけてよいのかは、この記事では一切明らかにされていません。これに関しては、その後のものみの塔協会の記事の中で少し触れられています。

希釈式自己輸血と手術中の血液回収の解禁

 1989年の「ものみの塔」誌3月1日号30頁では、上に述べた基本的な立場が繰り返される一方、実際に患者を治療する側の目から見ると、微妙ながらも再び「抜け道」作りの伏線がはられているのが見えます。この記事では、先ず自己血輸血が、「聖書は明らかに除外している」許されない治療であることを確認した後、体外循環装置(人工心肺、人工透析機など)を通して自己に戻って来る血液を、一定の条件下に受けつけてよいことが確認されています。

蓄えられた血液を前もってその装置に入れておくのでない限り、それは許されると考えたクリスチャンもいます。彼らはその外部の管を、人工器官に血液を通すための自分の循環系の延長とみなし、この閉鎖回路内の血液は依然として自分の一部であり、『注ぎ出す』必要はない、と考えました。(「ものみの塔」1989年3月1日30頁)

 これに続いて、興味ある新しい見方(「新しい光」)が紹介されています。

しかし、そのような自己血の流れが短時間止まる場合、例えば、医師が冠状動脈バイパスの移植が完全かどうかを調べる間、人工心肺装置を止める場合などはどうでしょうか。実際のところ、聖書が強調しているのは、血液が連続して流れているかどうか、という問題ではありません。別に手術の時でなくとも、人の心臓は短時間止まってから、再び動き出すことがあります。心停止中に、血液の流れが止まったからといって、それだけで循環系から血を抜いたり、血を処分したりする必要はありません。ですから、自分の血を何らかの外部装置を通して迂回させることを許可するかどうか決めなければならないクリスチャンが注意を集中すべきなのは、おもに血液の流れのわずかな中断が起きるかどうかではなく、迂回する血液が依然として自分の循環系の一部であると良心的に感じるかどうか、ということです。−ガラテア6:5(同)
 ここに書かれていることは、微妙ですが、外科的処置の上では大きな影響があります。それというのも、多くの血液を使った治療法に、「短時間」血液が患者の体外に出て、再び体内へ戻される方法があるからです。ここでは、体外に出た血液が自分の循環の一部であるという解釈が以前と同じように強調されていますが、その重点が継続的な流れから、単につながっていればよいという、より拡大的な解釈に変えられたのです。後に医学的な考察の部で紹介しますが、この新しい教えのおかげで、自分の血液は「短時間」体の外に出て、それが「自分の循環系の一部であると良心的に感じられる」限り、実際には輸血と大差がない治療が可能になったのです。実際、これに続く段落では希釈式自己輸血が、許される治療として取り上げられています。
誘導血液希釈についてはどうでしょうか。一部の医師は、手術中に患者の血液を薄めることには利点があると考えています。それで手術の始めに、患者の体外に設けた貯蔵用パッグに幾らかの血液を導き出し、代わりに無血性溶液[血液でない代用液]を注入します。後にその血液は再びパッグから患者の体内に流れるようにされます。クリスチャンは自分の血液を蓄えることをさせないのて、ある医師たちは、患者の循環系に常時つながっている一つの回路に装置を設けて、この方法を採用しました。これを受け入れたクリスチャンもいれば、拒絶したクリスチャンもいます。この場合もやはり、そのような血液希釈回路を迂回する血液を、人工心肺装置を流れる血液と同じようにみなすか、自分から離れた血液てあるから処分されるべきであるとみなすか、各個人が決定しなければなりません。(同)

 ここに見られるように、1982年の「目ざめよ」誌のディクソン医師の記事では許されなかった希釈式自己輸血(血液希釈)が、この7年後の「ものみの塔」誌の記事では、一定の条件の元では「各人が決定すべき事柄」として、必ずしも聖書に反する許されない事柄ではなくなったのです。ここにもまた新たな抜け道作りが見られるのです。この記事の最後の抜け道は、やはり1982年のディクソン医師の記事で、「体外循環が中断されない限り」という条件の元でしか許されなかった、手術中の血液の回収(intraoperative collection 出血採集)です。

自己血の使用に関する最後の例は、手術中に血液を回収して再使用することに関係しています。傷口から流れる血液を吸引し、ポンプて送って(凝血塊や不用物[組織片]を除くための)フィルターや(液体を除去するための)遠心分離機を通し、その後に患者の体内こ戻す装置が用いられています。そのようにして血液が回収される際に血液の流れがわずかでも中断するかどうか、その点を非常に心配するクリスチャンは少なくありません。しかし、すでに述ベたように、聖書的に一層心配すべきなのは、手術によって傷口に流れ出る血液はなおその人の一部かどうかということです。血が循環系から傷口に流れ出たという事実は、レビ記17章13節で述べられている血と同様、その血を注ぎ出すべきであるということを意味しているでしょうか。そう信じる人であれば、恐らくそのような血液回収を許可しないでしょう。しかし、別のクリスチャン(やはり、血液を体外に流れさせ、しばらく蓄え、後に体内に戻すようなことをしない人)は、手術箇所から回収したあとに再注入が続く回路であれば、訓練された自分の良心に反しない、と結論するかもしれません。(同)

 ここでの新たな拡大解釈に注目しましょう。ディクソン医師の記事では「体外循環が中断されない限り」受けつけられるとされたこの方法が、この1989年の記事では、「手術によって傷口に流れ出た血液はなおその人の一部」と感じられるかどうかという、極めて主観的でとりとめもない条件に変えられたのがわかります。さらに、これに続く節では、自己血を使った治療法に関する、要約の記述がみられます。

ご承知のとおり,自己血の関係した装置や技術の種類は増えています。一つ一つの違いについて論じることはできませんし,そうしようとは思いません。クリスチャンはこうした分野で問題に直面したなら,各自が医療関係者から詳しい情報を得たうえで,自分で決定する責任があります。(同)

 この記事のこの要約を見てわかるように、自己血を使った技術や機械の使用は、基本的には個人個人のエホバの証人の判断にまかされるようになりました。ここに、更なる大きな抜け道への準備ができあがりました。

なぜ「小さな」血液成分は許されるのか

 1982年のディクソン医師の記事では、なぜ血漿の使用が受けつけられず、血清蛋白や凝固因子の使用が受つけられるのかは説明されていませんでした。1990年6月1日の「ものみの塔」誌はこの点に触れています。

エホバの証人は、免疫グロブリンやアルブミンなど、血液分画の注射を受けますか。

受ける人もいます。それらの人は、聖書は血液から抽出された微小な分画もしくは成分の注射を受けることを明確に禁じていない、と考えています。‥‥

人間の血液は、暗色調の細胞成分と黄色調の液体(血漿、もしくは血清)に分離できます。細胞の部分(全量の45%)は一般に赤血球、白血球、および血小板とよばれるものから成っており、残りの55%は血漿です。血漿の90%は水で、そのほかに少量ながら多くのたんぱく質、ホルモン、塩類、酵素などが含まれています。今日、献血された血液の多くは、それらの主要成分に分離されます。ショック状態の治療のため、患者の血管に血漿(恐らく、FFPと略される新鮮凍結血漿)を注入することがあります。しかし、貧血症の患者には、濃厚赤血球を投与するかもしれません。つまり、貯蔵しておいた赤血球を液体の中に入れて注入するのです。血小板や白血球も注入されますが。赤血球の投与ほど頻繁には行いません。

聖書時代には、そのような血液成分を使う技術は知られていませんでした。神は、血を避けていなさいとお命じになっただけです。(使徒15:20、29)しかし、血液が全血かそれらの成分に分離されているかによって違いが生じる、と考えてよい理由があるでしょうか。ある人々は血を飲みましたが、クリスチャンは、たとえ死ぬことになろうとも血を飲むことを拒みました。だれかが、血を集め、それを分離させ、それからその血漿だけ、あるいは凝固した部分だけをソーセージに混ぜるなどして差し出したなら、それらのクリスチャンは違った反応を示しただろうなあとあなたは思いますか。そのようなことは全く考えられません。そのようなわけで、エホバの証人は、全血輸血や、同様の目的を達成するために用いられる、血液の主要成分(赤血球、白血球、血小板、あるいは血漿)の注入を受け入れません。‥‥(「ものみの塔」1990年6月1日30頁)

 先ずここで、はっきりと受けつけられない分画のリストが確認されています。それらは「主要成分」であるからという理由です。次に「良心に基づいて」「個人的に決定」してよい分画が挙げられています。

他方、献血者の血漿のごく微小な分画しか含まず、病気に対する防御機能を高めるために用いられる、免疫グロブリンのような血清(抗毒素)は、命を支える輸血と同じではない、と考えてきた人もいます。それで、そのよう人たちの良心は、免疫グロブリンやそれに類似した血液分画を取り入れることを禁じないかもしれません。(脚注:Rh免疫グロブリンはその一例です。医師は、妊婦とその胎児との間にRh因子の不適合があるとき、そのRh免疫グロブリンを勧めるかもしれません。もう一つの例は、血友病患者に投与される第VIII因子です。)彼らは、自分たちの決定はおもに、他人の血液から生成された注射薬に関連する何らかの健康上の危険を受け入れる気持ちがあるかどうかにかかっている、と結論するかもしれません。

 ここではグロブリンやその他の血清たんぱく質が良心的に受け入れられるのは、「血漿のごく微小な分画」であり、「命を支える輸血と同じではない」という理由が挙げられています。しかし、一体何が血液の中で「主要分画」で何が「微小分画」なのでしょうか。上に紹介したものみの塔の記事そのものが語っているように、「主要分画」である血漿の90パーセント以上は水です。その残りの10パーセント足らずがアルブミンとグロブリン(その主要なものは免疫グロブリン)、フィブリノーゲン、凝固因子、塩類、ホルモンなどです。言い換えれば、ものみの塔が、良心的に受けつけられるとした「微小分画」に水を加えると、受けつけられない主要成分になってしまうのです。これでは、まるで、エホバは水を取り入れることを禁止しているかのようです。

 1981年のJAMAに掲載された記事の著者で、ものみの塔協会の世界本部の医療部門の主任であったディクソン医師は、統治体の一員に個人的に次のように語ったと言われています。「血液成分をどうやって『大きい』、『小さい』と区別できるのかね。もし患者が自分の命を救うのにどうしてもその成分を必要としているのなら、それは彼にとって『大きい』成分ではないのかね」。(レイモンド・フランツ著『キリスト者の自由を求めて』1991年287頁)

 確かに何が主要成分で何が微小分画かは、ものみの塔協会の恣意的な定義によります。生物学的な重要性からいえば、それぞれの要素には全て生体に必要な機能があり、どれ一つ欠けても健康な生命を保つことはできません。量の多さから言えば、白血球、血小板などは、0.1パーセントくらいであり、到底「主要」とは言えません。一方、微小分画と言われているものも、それを取り出して、エホバの証人が使えるようにするには、大量の貯蔵血液を使用しなければなりません。たとえば、アルブミン50グラムの製剤を作るのに、最低一リットルの血液が必要です。また、ガンマグロブリンや凝固因子の製剤などは、その血液内の量が少ないだけ、より大量の血液を使用して作らなければなりません。例えば「ものみの塔」誌1985年6月15日号30頁が述べているように、それぞれの第VIII因子の製剤は2500人の献血者を必要としています。これだけの大量の血液を使用して、一人のエホバの証人の血友病の患者を治療するのに、これが「微小分画」だから許されると言えるでしょうか。実際は膨大な量の血液を、それもものみの塔が使用を禁止している、貯蔵された血液を、ある目的のために、使用しているのです。

 次に、別の観点から、「微小分画」を取り入れることが正当化できるという議論を繰り広げています。それは、母親から胎児に移動するという理由です。

妊婦の循環系と胎児の循環系とが別々になっているのは重要なことです。母と子の血液型は違う場合が多いからです。母親の血液は胎児の中へ流れ込みません。母親の血液の有形成分(細胞)も血漿自体も、胎盤という障壁を越えて胎児の血液の中へ入ることはありません。事実、もし何らかの損傷によって母親の血液と胎児の血液が混ざると、後に健康上の問題(Rh因子もしくはABO不適合)が生じかねません。しかし、血漿中のある種の物質は胎児の循環系に入ります。免疫グロブリンやアルブミンなどの血漿たんぱくは入るのでしょうか。確かに、入るものもあります。

 確かに、大きなたんぱく質や細胞成分は、胎盤を自由に通過しませんが、時には、妊娠の後期に少量の血液が胎児と母親との間で交換されることがあります。従って、これは全く起こり得ないことではありません。

血漿中の幾らかのたんぱく分画が別の人(胎児)の血液系の中へ現に自然に移動するということは、クリスチャンが免疫グロブリン、アルブミン、あるいは同様の血漿分画の注入を受け入れるかどうかを決める際に考慮できる、いま一つの要素となるかもしれません。正しい良心を抱いてそれができると考える人もいれば、できないと結論する人もいるでしょう。これは各自が神のみ前で個人的に決定しなければならない問題です。

(「ものみの塔」1990年6月1日30頁)

 もしある血液成分が、母親から子供に自然に移動することが、「注入を受け入れるかどうかを決める際に考慮できる」ことであるなら、母乳はどうでしょうか。母乳には、血液の約5倍から10倍の数の母親から由来する、大量の白血球が含まれています。乳児が自然に母親の乳を飲み、大量の別の人(母親)の白血球を「食べている」という事実は、同じ様に考慮されないのでしょうか。

エホバの証人の献血拒否の問題

 ここまで見てきたように、エホバの証人は実際、多くの血液製剤を受つけて、血液を体に取り入れています。1951年の輸血禁止の明文化のあと、40年以上にわたる歴史は、例外作りと抜け道作りの連続でした。その結果、今日のエホバの証人の多くの兄弟姉妹が、ある人は「自分の良心に反しない」と結論して、これらの治療を受けています。しかし、これらの兄弟姉妹は、本当にその良心が痛まないかどうかを、詳しく検討する必要があるでしょう。血友病の兄弟を助けるための凝固因子は、何千人というエホバの証人以外の献血者の血で作られていますが、エホバの証人は誰一人としてこの血友病の兄弟の治療に手を貸さないのです。Rh不適合を持ったエホバの証人の母親は、胎児赤芽球症を予防するために、Rhグロブリンの注射を受けますが、そのグロブリンを提供できる血液を持ったエホバの証人の姉妹は誰一人献血して、その姉妹を助けようとはしません。すべての製剤は、エホバの証人が「世の人」と軽蔑する、エホバの証人以外の人の献身的な奉仕によっているのです。このエホバの証人たちの態度は、エホバの証人全員が求めている「愛ある親切」と調和するものでしょうか。執筆委員会は、この点に内部改革の重点をおくべきであると考えます。

結語

 ここまで見てきたように、エホバの証人の血の教えは、その歴史の中で、細かい規則作りを行う一方で、それに負けないだけの例外と抜け道を作って来ました。このエホバの証人の血の教えに対する態度に関連して、興味あるごく最近の「ものみの塔」誌の記事を紹介しましょう。この引用箇所では、ユダヤ教の律法、特にパリサイ人の規則と抜け道を、クリスチャンの態度と比較して論じている所です。

今日の種々の法体系が例証するとおり、多くの場合、法律が増えれば人が見いだす抜け道も多くなります。イエスの時代、パリサイ人の設けた規則が多かったため、その抜け道を探すことや、愛のこもらない業をおざなりに行うこと、また内面の腐敗を隠すために外面を義で装うことが行われました。

 この本文には、次のような脚注がついており、正統派ユダヤ人の「抜け道」がどのようなものであるか、を例を挙げて紹介しています。

ユダヤ教が今日の形で存在しているおもな理由はパリサイ人にあります。ですから、ユダヤ教が、数多く加えられた安息日の制約に今なお抜け道を探すのも驚くには当たりません。例えば、安息日に正統派ユダヤ教の病院を訪れる人は、乗客がエレベーターのボタンを押すという罪深い“仕事”をしないですむようにエレベーターが自動的に各階で止まることに気付くでしょう。正統派ユダヤ教に属する医師の中には、数日で消えるインクで処方箋を書く人もいます。なぜでしょうか。ミシュナが、書くことを“仕事”の範疇に入れているものの、“書く”とは永続的な記号を残すことであると定義しているからです。(「ものみの塔」1996年9月1日17頁)

 読者の方は、これを読まれて何を感じるでしょうか。エホバの証人が手術に際して、血液の充満した輸血バッグの一方を自分の一つの静脈につなぎ、他方を血液吸引機につないで、「これは私の体の循環系の一部である」と言って体外に出ている血液を取り入れている姿と、すぐに消えるインクで書いて、「これは永続的な記号を残さないから仕事をしてない」という正統派のユダヤ人の姿と、何か共通点はないでしょうか。

 後の医学的検討の部分で、この点は詳しく検討する予定です。しかし、その前に、エホバの証人の臓器移植に関する歴史を考察し、それを踏まえて輸血の問題を更に深く考察していきます。


第五章:臓器移植に関する教えの歴史

第一部 エホバの証人の血の教えの歴史的発展とその現状

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