<1998年6月9日 朝日新聞夕刊より>

滝沢 信彦さんと 読者が考える 輸血拒否

「エホバの証人」である患者の側が「拒否したにもかかわらず輸血をされた」 と訴えた事件で東京高裁は二月、病院側に損害賠償を命じました。約80通の 投稿がありましたが、信者自身からは数通だけで、判決への批判、教団への疑 問が大多数でした。「自己決定権」の実態を問う意見がとくに目立ちました。 米国での宗教関連事件の判例を研究している、北九州市立大学法学部の滝沢信 彦教授にも意見を伺いました。

■信仰は自由意思が前提

 東京高裁裁判の主な理由は、患者の治療に関する選択、すなわち自己決定権 の行使の機会が奪われてはならない、というものでした。救命・延命が最優先 の価値なのか、改めて問われることになりました。
 生命の尊重や救命という価値が軽視されてはなりませんが、自分なりの生き 方を選び、生きがいを貫こうとする人に、救命や延命の治療を押し付けること は条理に反します。個別の対応が求められるでしょう。
 しかし、麻酔科医の方の投書にもあるように、たとえ宗教的信念からであろ うと、時には死を選ぶことにもなる輸血拒否の場合は、医師、加害者、被扶養 者などの関係者の責任や負担を重くし、そうした人の利益を損なうことがない かも吟味される必要があるでしょう。
 そして、米国在住の医師がいわれるように、自己決定権の尊重には、その意 思決定がまぎれもなくその人自身のものだ、という前提条件があります。子供 に対する輸血を「エホバの証人」の親が拒否するケースでは、この点が問題に なります。親と子は別個の人格です。親の信条による決定を子供自身の決定と みなすことは許されません。
 十分な判断能力をもつ成人の場合にしても、その人の真に自由な選択である ことが当然の前提となります。信仰の実践は、自主・自発的なもの、内心の真 実の声に従うものでなければ、神に受け入れられるという確信も得られようは ずがない、と思えるのですが。
 宗教集団は本来、心の平安を求める人々の自由な結びつきであり、信仰の実 践については各信徒の自由な意思決定にまかせなければならないはずだ、とも 思うのです。
 信教の自由とは、なによりもまず個人の宗教上の自由のことです。少数者の 自由、異端の自由のことでもあります。しかし、こうした自由が、肝心の宗教 集団の内部でどれだけ尊重されているのか。その集団の生命力にもかかわる、 難しい、しかし、興味ある問題ですね。

たきざわ・のぶひこ 1937年東京生まれ。早大大学院政治学研究科修了。 憲法学専攻。著者に「国家と宗教の分離」、訳書にM・R・コンヴィッツ「信 教の自由と良心」など。

■周囲に多大な迷惑

 輸血にかかわりの深い麻酔科医として主張する。
 信教に限らず、自由は重要だが、それも他人に迷惑を及ばさず、他人の自由 を侵害しないことが基本条件だ。輸血拒否は他人に迷惑を及ぼす。まず「生命 を救いたい」は人間の普遍的な意欲である。医療担当者の場合、毎日の業務遂 行の意欲の源泉である。それを奪われれば、当の患者や同時に治療している別 の患者への意欲にまで影響が及ぶ。
 第二に、無理な医療の強要は社会負担をます。手術時間が延び、治療に余分 な費用を要する。通常の治療が行われば過失傷害ですむ交通事故の加害者が、 輸血拒否で過失致死の罪を負うことにもなりかねない。
努力するが、私は「どんな条件でも輸血しない」とは約束しない。

(東京都武蔵野市・諏訪邦夫・医師、大学教官・61歳)

■自己決定の中身が問題です

 私は、医師として米国の病院倫理委員会で輸血拒否問題を扱ってきた。今回 の高裁判決は「尊厳死の場合も含めて、患者に危害の及ぶ可能性のある医療決 定にもインフォームド・コンセントの原則が適用される」という、英米圏の判 例が日本にも導入された点で意義深い。
 だが、「エホバの証人」の輸血拒否にはより複雑な問題が絡んでいる、と英 米圏の医療倫理専門家は指摘する。マインドコントロールの問題だ。
 彼ら信者は、組織の方針の一部が自己の意思に反していても、完全服従が要求 されている。心理的圧力と情報統制で自己の意思表明を実質的に否定されてい る信者が輸血拒否の意思を表明する時、それが真の自己決定か、組織の方針を 守らざるを得ない状況でなされた決定か、医療関係者には難しい課題である。
 医学文献の報告では、教団や他の信者に秘密を守る条件で輸血を受け入れる 信者が多く存在することは知られている。これは信者の「自己決定」が、実は 組織に対する絶対服従であることを物語る。日本での裁判でも、信者のこのよ うな状況に対する考慮が払われる必要があるだろう。

(米国オレゴン州ポートランド市・村本治・医師・49歳)

■外部の情報十分与えよ

 私は五年間、「エホバの証人」の研究生でしたが、疑問を投げかけたとこ ろ、交わりを絶たれました。外からの情報はサタンのものとして、いっさい排 除されているのです。そこで、組織にお願いがあります。
 聖書が輸血拒否を教えているか、異論を唱える人とも広く討論する場を設け てください。本当に神の教えなら、すべての人が従う必要があるはずだからで す。
 個々の信者が正しい選択をできるよう、情報を偏りなく与えてください。聖 書を自分自身で研究できるよう、組織以外の書物や情報に触れる自由を保障し てください。かつては種痘や臓器移植も禁止し、その後に解除したことなど、 組織の歴史を覆うことなく明らかにしてください。
 また、輸血の罪を犯せば永遠に生きられない、という恐怖心を信者から取り 除いてください。

 (長野市・主婦・38歳)

■単なる「方針」では

 嫁が信者なので、その歴史を研究してみた。この宗教はかつて予防接種や臓 器移植も「聖書によって禁じられている」と信者に禁止していた。しかし、現在は 拒否していない。つまり、彼らの教義は「ものみの塔聖書冊子協会」という 教団の方針で変化しているのだ。「聖書が禁じているから」と信者は命懸けで 輸血を拒否するが、実はこのように変化する「方針」にすぎない。こうした教 義が過去に何度も変更されてきたことは有名である。
 今回の高裁判決の直後、同協会のA氏は新聞で「貯蔵を伴わない自己血輸血 や血漿分画製剤の使用を受け入れている」と述べた。もちろん、聖書は血をこ のように区別していない。気ままな方針を「聖書の教え」としている良い例 だ。  いったん入信すると「この方針には賛成できない」などと、自分の意思を表 明することは禁じられてしまう。自己決定の自由を奪われた信者に救命措置と してやむなく輸血した医師の努力を、患者の自己決定権の名の下に否定した判 決に疑問を感じる。

(埼玉県川越市・主婦・76歳)

■戒律変えてください

 ある人が、自分の信念から輸血を拒否するのなら、それはそれで尊重すべき だと思う。しかし、「エホバの証人」の場合はそうではない。彼らが拒否する のは、ニューヨークに住む十人から成る「統治体」といわれる組織のリーダー がその戒律を求めているからなのだ。もし、統治体がそれを解除するなら、世 界で五百万人、日本で二十二万人の信者たちは明日からでも輸血を受け入れ る。
 統治体は「動物の血を食べてはいけない」という聖書の言葉に基づいて輸血 を禁止している。無論、これを輸血禁止に結び付けるグループは、ほかにはい ない。それどころか、彼らがこの言葉を輸血に当てはめたのは1950年代に 入ってからで、それ以前は推薦さえしていたのだ。
 そこで、統治体にお願いしたい。すみやかに、この戒律を撤回していただき たい。これ以上の犠牲者を出してはいけない。そう決めさえすれば、悲劇は過 去のものになるのである。

(神奈川県相模原市・中沢啓介・牧師・56歳)

■私たちも命を大切にしています

 私たち「エホバの証人」は輸血を受け入れません。しかし、生命を大切に し、極めて尊重すべきものとして見なしています。だから、たばこも吸わず、 麻薬を用いず、堕胎も求めません。
 たしかに、子供の場合は感情の面で微妙になります。しかし、神を恐れる親 として自分の子供を深く愛しており、子供の世話をし、その永続的福祉のため に必要な判断を下すという、神から与えられた責任を自覚しています。徳性を 備えた人として成長するように助けることで、自分の子供に対し、また神に対 して大きな愛を示したい、と思います。聖書が血に関して述べる事柄を理解す るようになったとき、子供は親の決定を自ら支持するでしょう。
 私の場合は問題ありませんが、妻が「証人」で夫がそうでない場合は難しい 問題に直面します。しかし、大切な二人の子供です。夫婦でよく話し合い、決 定するでしょう。その決定について、他人は裁く立場にはいません。

(茨城県北相馬郡・主婦・49歳)

■無輸血手術成功に感謝

 一年半ほど前に十二指腸と胃の手術を受けました。担当医は「エホバの証 人」としての信念を尊重し、無輸血で手術をしてくれました。手術前に先生自 ら作成した「輸血をしない」旨を記した説明書を準備してくださり、安心して 手術に臨むことができました。
 私たちの輸血拒否は、治療拒否ではありません。輸血以外のほとんどの医療 を受け入れています。ですから、輸血拒否を生死の選択という観点でとらえて ほしいと願っています。私たちは命と健康を大切にしており、最善の治療を受 けたいと願っています。
 私の生き方を尊重してくれた医師は、その後の私の人生をサポートしてくれ た方といって過言ではありません。人の尊厳を重んじる高い倫理性を持つ、こ うした医師たちに心からの感謝をささげたいと思います。

(東京都世田谷区・津布久法幸・塾経営・43歳)

■自然治癒力が基本

 古代ギリシャの医聖ヒポクラテスは「自然は医なり。医は自然の僕なり」と いった。同感だ。自然治癒力こそ医の原点であり、すべての医療行為はそれを 発揮させるための補助にすぎない。私は「エホバの証人」でないが、自然がベ ストという発想からしても、感染性の危険などからしても、輸血はできるだけ 避けるべきだと考える。
 話し合いの余裕のない場合でも患者が明確に望むなら、絶対に輸血すべきで ない。意思を決定できない子供の場合も、親の考えを尊重すべきだ。輸血すな わち救命、などと容易に考えるべきではない。

(静岡県富士宮市・渡辺洋・針きゅう接骨師・47歳)

■命は自分だけのものか

 ノンフィクション作家「犠牲(サクリファイス)」(文芸春秋刊)という本 で「二人称の命」という概念を提唱した。自分の命を「一人称の命」と名付け るなら、自分と関係のない人々の命は「三人称の命」だ。そして、世の中に は、自分が愛する人々が存在する。心を込めて「あなた」「お前」と呼ぶ人の 命は、特別の価値を持つ「二人称の命」だ。
 その人が植物状態になろうとも、生きていてくれるだけで価値を感じる命が この世には存在する。つまり、命とは自分だけのものではない。本人が信条な どで価値を感じなくなった命であっても、彼を愛する人にとっては、ただ存在 するだけで大きな価値がある。人の命とは、本人の思惑を越えた、より大きな 価値を持つものだ。
 現代社会は個人の価値に重きを置き、自分にかかわるすべての事柄を自己決 定できるかのような風潮がある。しかし、たとえ自分には価値を失った命で も、それにも価値を見いだす愛が存在する。このような見地から、私は輸血拒 否を一種のエゴイズムと考える。

(富山県中新川郡・高木哲也・高校教員・42歳)


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